SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

勉強中の仏教思想、整理した概要をご紹介しています。

仏教思想概要4:《唯識》(第4回)

2023-07-30 07:54:18 | 04仏教思想4

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 仏教思想概要4《唯識》の第4回目です。
 前回までで唯識思想の歴史と思想背景をみてきましたが、本日より「第2章 唯識思想の中核」として、唯識思想の本論に入り、今回は「実在論と唯識思想」について取り上げます。

 

第2章 唯識思想の中核

1.実在論と唯識思想

1.1. 外界実在論批判
 前項にて、唯識哲学における考察の主題が「アーラヤ識」と「三種の存在形態」であることを明らかにしましたが、アーラヤ識を論ずるに先立って、まず「外界実在論」に対する唯識派の批判について語る必要があります。
 唯識説とは、表象は潜在的な経験の余力(①アーラヤ識)が現勢的になったときにあらわれるのであって、外界の対象の認識によって形成されるのではない(②外界実在論批判)という説のこと。それは経験的認識が「業」であることを明らかにし、経験的認識の地平を超えた絶対知を見いだすべきことを強調する学説です。(下表13参照)


 ここでは、『唯識二十論』及び『認識と対象の考察』の二著の内容に沿いながら、以下、唯識派の認識論の性格を明らかにしていきます。

1.1.1. 四種の疑問と唯識哲学
 『唯識二十論』のはじめにヴァスバンドゥは、「勝利者の子(仏陀の弟子)たちよ、実に、この三界は心のみのものである」(『華厳経』十地品)を引用して、この世のすべてのものは、眼病者の幻覚にあらわれる網状の毛のように実在せず、ただ表象としてあるにすぎない、という唯識思想を闡明(せんめい)にしています。これに対して、反論者からの四種の疑問が提起されています。(表14)


 これらの疑問について、ヴァスバンドゥは各々答論していますが、まとめてみると以下の趣旨となります。
 「唯識哲学は経験的認識の夢からさめること、超世間的な知識を得ることを根本的な課題としている。経験的認識がすべての人に共通しているということは、その認識が正しいことを意味しない。過去世における同質の業により、みな同じ夢を見ているにすぎない。
 経験的認識の普遍的妥当性を根本的事実として、その成立根拠を問うことは唯識思想家たちの意図ではなかった」

1.1.2. 三種の外界実在論とヴァスバンドゥの批判
 ヴァスバンドゥは、『唯識二十論』で、認識の対象が外界に実在するとする学説を三種に分類し、それぞれについて以下のように批判しています。(表15)



 特に、「全体」を仮象とみなす経量部の理論批判が背景にあったとみられます。
 また、「実体は存在しない」とする原始仏教以来一貫した仏教の立場においても、以下のように説いています。
 「語の表わすものは実在ではなく、語は単に日常的慣行のためにつくられた記号である。「牛」とか「人間」とかいう語であらわすものは、諸要素が仮に集まったものにすぎず、そのもの自体としての存在性をもつものではない。人間存在を五種の物理的・心理的諸要素の集合体(五蘊)としてとらえ、それ以外に人間としての実体を認めない。諸要素の集合体は一瞬ごとにその様相を変えつつ、一つの流れを形成する。」と。
 以下、本論では、各学派の実在論が続きますが、概要では省略します。ご興味のある方は本文をお読みください。

1.1.3.経量部の立場とディグナーガの実在論批判
(1)経量部の立場
 経量部は、ヴァイシェーシカ学派や説一切有部の実在論と、唯識学派のそれとの中間的な立場をとっており、その説は以下のように整理できます。(表16)


 ディグナーガは『取因仮説論(しゅいんけせつろん)』にて経量部の3つの仮象の概念を取り上げて以下のように説明しています。(表17)

(2) ディグナーガの実在論批判
 ディグナーガもその論著『認識の対象の考察』で、外界実在論を、「認識の対象とする二条件」を挙げ批判しています。認識の対象は以下の二条件を満たすものでなければならないとしているのです。(二条件と有部、経量部説の評価・批判 下表18)

1.2. 表象主義的認識論

1.2.1.知識の内部にある二契機
(1)何が認識の対象か?-灯火の事例-
 ヴァスバンドゥ、ディグナーガによって、外界実在論はことごとく否認されました。それでは、何が認識の対象と認められるべきでしょうか。
 それは、知識の中にある形象にほかならない、という唯識説がここで示されます。ディグナーガは、『認識の対象の考察』で次のように説いています。
 「知識の内部に認識されるものの形があたかも外界のもののようにあらわれるが、その形が認識の対象である」と。
 認識の対象は外界にあるのではなく知識の内部にある形象であるということは、知識が知識自体を認識するということにほかならないのです。知識は自己認識を本質とするというのが、唯識派の基本学説の一つなのです。

(灯火の事例)
 灯火は対象を照らすと同時に灯火自身を照らすことによって、対象が灯火によって照らし出されたことを明らかにする。
→対象が認識されるということは、われわれの知識の中に知識によって照らし出された対象と、その対象を照らし出す知識という「二つの契機」が同時にあることを意味する。

(2)ディグナーガの著書の事例
 ディグナーガは彼の著書『知識論集成』第一章(知覚章)において、知識内部の二つの契機について説いています。その一部を以下に示します。
①「きのう彼を見た」ということを想起する知識は、きのう生じた彼を対象とする知識を対象としている。知識の内部に二つの契機がないと、「彼」という知識と、「きのう彼を見た」という知識は区分されないことになる。
②想起は必ず過去に経験したものについておこる。過去に見たこともない動物を想起することはありえない。「きのう見た彼」を想起するだけでなく、「きのう彼を見たこと」も想起する。つまり想起するのは、「対象だけでなく」、「対象の知識」も想起する。このことは、対象の知識がきのう経験されたこと、換言すれば、「見られた対象」と「それを見るものとその内部に含む知識」がきのう発生したことを意味している。

1.2.2.ディグナーガの論理に対する二つの疑問
(1)知識の原因に対する疑問
 ディグナーガのあげた認識の対象の二条件は、①認識を生起させる原因であること、②表象と同一の形象をもつこと、でした。
 この二条件について、②の知識内部にある対象の形象はこれを満たすことは明らかだが、①については、知識と同時に発生するものがどうして知識の原因となりうるのかとの疑問が呈されたのでした。
 この①の疑問に対して、ディグナーガは以下の二つの答えをしています。(表19)

(2) 認識器官についての疑問
 もう一つの疑問は、外界に物質的存在がなければ、視覚器官も認識を生ずる作用をなしえないのではというもので、これに対して、ディグナーガは次のように答えています。
 「認識器官とはその本質は能力である。すなわちそれ自体は知覚しうるものではなく、その作用の結果である認識という事実から、それをひきおこす能力として推測される。その能力が、知識それ自体の中にあると想定すれば、外界の存在を要請する必要がないわけである。」と。

(3)二つの疑問のまとめ
 以上、提起された疑問に答えながらディグナーガは、知識の内部に、一方には対象の形象があり、一方にはそれを知る能力があることを論証しました。外界の対象は存在しなくとも、その両者の交互作用によって、無限の過去から知識は瞬間ごとに生滅しながら流れを形成している、というのがディグナーガの結論なのです。

1.2.3. 「識の変化」へ
(1)有形象知識論と無形象知識論
 知識はそれ自体の中に対象の形象をもつという見解は、「有形象知識論」と言われ、これは「無形象知識論」に対する呼称です。両者の説を整理すると以下のようになります。(表20)

 無形象知識論の弱点は、個々の知識の特殊性を説明しえない点にあります。対象の形象をもたない知識は、純然たる知る作用としてすべて同一であり、青の知覚・黄の知覚などの区分が出来ないことになります。

(2)「識の変化」の検討
 唯識哲学の主題は外界の対象がなくても認識が成り立つことを論証することにあったわけではありません。それは、「経験的認識の全体を夢として、その夢から覚醒する超世間的認識を得ること」が課せられた根本問題であったのです。この問題への立場で、唯識派は、「有形象唯識派」と「無形象唯識派」に分派したのです。(上表20参照)
 「識」を超える世界を見いだすためには、「識の変化」の概念の検討へと進む必要があります。(次項にて「識の変化」を取り上げます。)

 

 本日はここまでです。次回は「識の変化」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要4:《唯識》(第3回)

2023-07-22 08:38:37 | 04仏教思想4

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 仏教思想概要4《唯識》の第3回目です。
 前回は唯識思想の思想背景として「観念論の系譜」をみてみましたが、本日は唯識思想の元となったとも言える「瑜伽行(ゆがぎょう)」について取り上げます。

 

2.2.瑜伽行

2.2.1.ヨーガの成立・発展と瑜伽行派との関係
(1)ヨーガの成立と古典ヨーガ
 唯識学派は「瑜伽行派(ゆがぎょうは)」とも呼ばれます。つまりヨーガの実践(瑜伽行)がこの学派の性格を特徴づける名称となっているのです。
 ヨーガとはインドの古くから行われていた精神統一のための実修法で、その成立は紀元前三~四世紀に成立したウパニシャッドからとなります。(『カタ・ウパニシャッド』『シュヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド』『マハーバーラタ』などにみられます。)
 ヨーガには厳しい苦行を強調するものもあらわれますが、正統派は「古典ヨーガ」と呼ばれ、パタンジャリを始祖とするサーンキャ哲学と密接に結び付いたヨーガで、五世紀ごろ『ヨーガ・スートラ』が編纂されました。
 『ヨーガ・スートラ』の主題は「心のはたらきを滅すること」で、「八種の実修法」(表8)が認められます。

(2)古典ヨーガと仏教の止観との関係
 ヨーガの行法は仏教にも古くから取り入れられており、原始仏教時代からの「戒(かい)」・「定(じょう)」・「慧(え)」(仏教の三学)が比丘の修めるべき要諦とされていました。八種の実践法とは上表8のように結びつきます。
 ここで止心と観察(*)とは、仏教の修道においてつねに重要視され、三学の定と慧にあたります。この止心と観察が「ヨーガ」という語であらわされているのが、瑜伽行派の論書の中に認められます。『大乗荘厳経論(だいじょうしょうごんきょうろん)』や『解深密教(げじんみっきょう)』(六章「分別瑜伽品(ぶんげつゆがほん)」)などが相当します。瑜伽行派とは止観の実修を重んじる学派と理解してよいのです。

*止心:外界の対象に向かう感官を制御して心のはたらきを静める。
 観察:静まった心に対象の映像をありありと映し出す。

(3) ヨーガの階梯
 瑜伽行派の名称の由来を止観の重視に求めることは、止観は仏教のどの枝派でも重視するため無理があります。ただ、唯識派が止観の実修を骨格とする菩薩の修道の体系のことを「ヨーガの階梯」と呼んでいることには注目に値します。「ヨーガの階梯」という語は、『大乗荘厳経論』の「真理(ダルマ)の探究」章(漢訳:「述求品(じゅつくぼん)」)にみられます。(表9)

 ヨーガの階梯は、止観とも結びついており、また、大乗の菩薩の修習の階梯(「五位」)にあたります。同様の階梯は、倶舎論(賢聖品)の修習の階梯にもみられます(但し、倶舎論では最終段階を「阿羅漢」としている)。

2.2.2.瑜伽行派の成立
(1) 瑜伽師と瑜伽行派の形成
 『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』や『倶舎論』に「瑜伽師」と称せられる人々が登場します。彼らは、アビダルマの煩瑣哲学とは別に実践的関心を強くいだき、修道を明らかにすることに専心した比丘たちでした。
 また、煩瑣哲学とは関係なく、もっぱら修習の要諦のみを説いた『達磨多羅禅経(だるまたらぜんきょう)』や『修行道地経(しゅぎょうどうじきょう)』などがアビダルマ時代に存在していました。これら二経の原名は「瑜伽行地」であり、またマイトレーヤの『瑜伽師地論』も同じ原名の著作です。そのことから、唯識思想が瑜伽師系の人々によって形成されたと推察されます。
 特に『華厳経』の「三界は心のあらわれである」という思想を体験的に理解した人々により、唯識観という観法が生み出され、それが理論化されたのが唯識説であったと考えられます。
 『瑜伽師地論』は、修習の十七階位(十七地)を説く論書で、「菩薩地」(漢訳:『菩薩地持経』『菩薩善戒経』)はその中でも特に重要部分です。『瑜伽師地論』にも煩瑣な法門の分類なども多く見られますが、それらは実践体系の中に組み込まれ、哲学と実践はこの書において相即(事物の働きが自在に助け合い融け合っていること)しているといえます。

・『瑜伽師地論』の修習の階梯(表10)

 唯識学派が瑜伽行派と称せられるのは、このような修習の階梯を踏んで、実修と相即させつつ哲学的考察を深めていくことを、その特色としたからと思われます。

(2) 根源的思惟の階梯
 先述の「ヨーガの階梯」(表9)は、唯識体系における哲学と実践の相即を端的に示しています。 「唯識とは、ただ表象あるのみで、外界のものは存在しない」という論理は、ヨーガの階梯の五位の「加行道(けぎょうどう)」すなわち「根源的思惟」の階梯(ヨーガの階梯2.「安置」、大乗の加行道の階梯)で理解されます。
 ヨーガの階梯1.「容器」の教えは、仏が体得した言語で表現しえない真理を指示する「標識」にすぎないものです。その真理を理解するためには仏の体験を追体験する必要があり、この追体験に至る過程が「根源的思惟の階梯」です。

・根源的思惟の階梯(表11)

 ここで、「随法行」は先述のヨーガの階梯の第3から5の階梯にあたり、この「随法行」こそが、仏の体験の追体験であり、その修習を通じて菩薩はみずから仏であることを証するのです。

(3) 唯識思想と瑜伽行
 以上で、唯識思想は止観の修習を骨格とする「瑜伽行」と密接に結びついていることが明らかにとなりました。止観は瑜伽行派の体系における五位と関連し内容的に深められていますが、五位を説いていない『解深密教』においても、止観はいくつかの段階に分けられています。(詳細は省略)
 ここで止観の対象とされるのは、真理の世界から流れ出た教えで、具体的には十二分教(無常・苦とか、縁起とか、五蘊・十二領域・十八要素)のことです。さらに、大乗仏教では、「七種真如(しちしゅしんにょ)」(ことばで表現できない空の真理をあらわしたもの)も教えの内容とされています。
 唯識学派はこれらすべてを、瑜伽行に即した独自の観点から次の基本教理にまとめました。それが「アーラヤ識」と「三種の存在形態」です。
 以上は以下のように整理することができます。(下表12参照)

 つまり、唯識思想体系の理解そのものが、「ヨーガの階梯」の修習、すなわち「瑜伽行」であるのです。

 

 本日はここまでです。次回より「第2章 唯識思想の中核」として、唯識思想の本論に入り、次回は「実在論と唯識思想」について取り上げます。


仏教思想概要4:《唯識》(第2回)

2023-07-15 08:36:26 | 04仏教思想4

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 仏教思想概要4《唯識》の第2回目です。
 前回は唯識思想発展の歴史をみてみましたが、本日は、唯識思想の思想背景として「観念論の系譜」を取り上げます。

2.唯識思想の思想背景

2.1.観念論の系譜
2.1.1.唯識とは
 唯識の語源は、「vijiñapti(知る)-matra(だだ…のみ)」で、表象のみで外界に存在物はないということを意味します。
 では、表象はどうしてあらわれるか、を説明するものが「識の変化」の学説です。(詳細後述)
 ここで、「識」(広義の識)とは、狭義の識(「六識」)と「意」および「心」から構成されると唯識学派では説いています。(下表5参照)

 つまり、「識の変化」とは、潜在意識が現勢化し、現勢的な識がその余力を潜在意識として残すことを意味します。
 唯識学派の識論の特色とは、認識機能を単にその現勢的なあり方においてのみとらえるのではなく、機能の根底に自我意識や潜在意識があることを認めて、それらをも「識」と呼ぶところにあります。また、「表象」とは、「識」が自らの作用を知らしめる標識を意味しているのです。
 アビダルマ論者たちは、考察の範囲を人間存在をこえて人間のかかわる世界にまで及ぼし究極の存在要素(ダルマ)を五種に分類しました。これら五種につき、唯識では下表6のように論理立てているのです。

 つまり、唯識では(1)~(5)すべての存在要素を心(=識)が統合するとしているのです。このことは、あらゆるものは心が生み出したものであるという大乗仏教における「観念論の哲学」と性格づけることができます。
 もっとも、この観念論的傾向は、インド思想史のうえで古くにたどることができる哲学思想です。そこで、以下、インド思想史における観念論の系譜を簡単にたどってみたいと思います。

2.1.2.インド思想史における観念論の系譜
 観念論の系譜を下表7のように整理してみました。



2.1.3. 唯識思想と最高実在
(1) 最高実在としての「心の本性」-如来蔵思想-
 以上、インド思想史における観念論の系譜をみてきましたが、最後に唯識思想と強く結びついている「如来蔵思想」についてみてみます。
 上表の大衆部の教理である「心は本来清く輝いている」ということは、『般若経』その他の大乗経典でしばしば説かれていますが、「心の本性」として強調するのは、如来蔵思想の系譜に属する『究竟一乗宝性論(くきょういちじょうほうしょうろん)』(略して『宝性論』)に見られます。
 如来蔵とは、如来の胎児の意味し、如来蔵思想とは、『華厳経』の「如来の出現(*1)」の思想を継承・発展させたものと推定されます。

*1:釈迦が最高の真理を悟って仏・如来となることを意味すると同時に、その本質である「法身(ほっしん*2)」がさまざまの化身の姿でこの世にあらわれ、身・語・意のはたらきを示現することを意味する。

*2:衆生の一人一人に如来の本質、つまり「仏性」が宿っている(如来蔵)という思想の展開する、衆生と如来の共通する本質を「真如」の語で表わし、衆生の本質は「汚れを伴う真如」、如来の本質は「汚れのない真如」といい、真如そのものは不変異の実在であるとした。このことは、あらゆる現象的存在(法)の本質という意味で「法性」あるいは「法界」とよばれる。)人間存在を構成する一切を「不浄・苦・無我・無常」であると観ずる原始仏教の立場から「浄・楽・我・常」は四種の謬見(びゅうけん)とされた。対して、「光り輝く心」そのものは、つまりは如来の法身は謬見とならず、法身は清浄であり、歓喜であり、不変の本質を持ち、永遠であるとした。

(2) 唯識体系と最高実在
 前述のごとく、唯識思想は如来蔵思想と密接に関連しています。その体系にあっては、真如は不変異の最高実在であり、「法界」・「法身」などの語で表現されます。
 但し、「心の本性」とはあまり表現されません。それは、心は「アーラヤ識」としてとらえられるからです。アーラヤ識は長期の修習でアーラヤ識の流れが絶たれるに至ったとき、真如・法界が現成するのです。
 このように衆生に内在しながら本質的には煩悩の汚れから離脱している不変異の最高の真実に関する思弁は、唯識哲学の主要な一部門をなしています。
 また、唯識は「般若思想」や「中観仏教」の「空」の思想とも関連しており、現象的存在の空を高次の実在として積極的に定立したのが、法界・法身であるのです。
 さらに、唯識はアビダルマの心の分析もうけついでいます。
 ↓
 以上の統合に唯識の課題があったのです。

(3) 非実在の仮構
 『中辺分別論』(表1参照)の冒頭で煩悩の根拠としての「非実在の仮構」が主題的に考察されます。
 空の哲学はあらゆる現象的存在が実在性をもたないことを明らかにしました。しかし、人は空を自覚せず「非実在の仮構」が人間実在の基底をなしているのです。これこそが潜在意識としての「アーラヤ識」であるのです。
 心を如来蔵思想ではすべての衆生に内在する「光り輝く心」と解釈するのに対して、唯識では輪廻の基礎をなす「アーラヤ識」と解釈しています。その転換により最高実在が顕現するとしているのです。煩悩は偶発的なものでなく、根深くその根拠を持っている。この煩悩の根拠を追求することが唯識哲学の出発点となるのです。

 

 本日はここまでです。次回は唯識思想の元となったとも言える「瑜伽行(ゆがぎょう)」について取り上げます。
 しばらくお待ちください。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要4:《唯識》(第1回)

2023-07-08 08:06:40 | 04仏教思想4

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 

 仏教思想概要4《唯識》のご紹介の第1回目です。
 すでにご紹介のように、このブログは、「仏教の思想」(全12巻)を中心として、仏教思想の概要を整理してご紹介しています。12巻は、インド編、中国編、日本編の各々4巻から構成されています。
 ということで、釈迦仏教、アビダルマ、中観と終わって、概要4《唯識》はインド編の最後となります。
 インド編は、全12巻のシリーズ全体の位置づけでは、「仏教思想の基礎」といえる部分になるかと思います。インド編4巻はそれぞれ独自の特徴的な思想背景を持っていますが、概要4《唯識》は最後に登場した仏教思想・哲学ということもあって、これまでの思想を統括するという性格も持っているかと思います。

 これまでもかなり難解でしたが、今回もかなり難解です。ただ、批判哲学の性格の強い前回概要3《中観》に比べると、理論が順次展開されており、じっくり読んでいただくとやや理解しやすいかな、とも思います。どうぞ、最後までお付き合いください。

 それでは、前置きが長くなりましたので、本日分スタートしたいと思います。本日は、唯識思想発展の歴史をみていきます。

 

第1章 唯識思想の歴史と思想背景

 

1.唯識思想発展の歴史

1.1.唯識思想発展の系譜
 唯識思想発展の個々の内容の説明の前に、発展の系譜を下図1のように整理してみました。

 以下、個々の思想内容について順次説明します。

1.2.唯識の思想家たち
1.2.1.『解深密教』とは
(1)執着の種子―アーラヤ識-
 『解深密教』は、如来蔵思想を盛った『如来蔵経』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』などとともに、いわゆる中期大乗経典の一つとして、紀元後200~400年ごろにあらわれたと想定されています。
 如来蔵思想系の経典が、心を衆生に及んでいる仏として、衆生のもつ煩悩によって汚染されていても本来清浄なものとして解明するのに対して、衆生の心をより現実的なすがたにおいてとらえていています。
 衆生の心は、五蘊・十二領域・十八要素などと総括されるさまざまな現象的存在や、四念住(しねんじゅう)・四正断(ししょうだん)、ないし八正道などが、本来空であることを悟らずに、つねにそれらに執着するように傾向づけられている。この執着の種子(しゅじ)としてのアーダーナ識、またはアーラヤ識(阿頼耶識あらやしき)があり、その識があるゆえに衆生は輪廻すると説いているのです。

 

(2) 「三種の存在形態」論
 『解深密教』の「解深密」とは、いまだ明らかにされていない仏説の「秘密の意味」を「解き明かす」ことを意味しています。『般若経』の教説に「秘密の意味」がありますが、それはこれまで解明されていない。『解深密教』はその意味を解き明かすことを目的としているとしているのです。
 そのために説かれたのが「三種の存在形態」論で、実在は三種の存在形態をもってあらわれるが、それら三種はいずれも固定的な本性をもたない空である、ということが仏説の意味であるとしているのです。(「三種の存在形態」論については詳細を後述します。)
 三種の存在形態は衆生の心のあり方にかかわるため、『解深密教』は心の本質を考察して、先述のアーラヤ識説を立てました。このアーラヤ識説と「三種の存在形態」論とは唯識思想の骨格をなしているのです。

 

1.2.2.マイトレーヤ
(1)マイトレーヤの著作
 マイトレーヤの主な著作を下表1に示します。

(2) マイトレーヤは史的人物か
(ⅰ)アサンガの伝記にみるマイトレーヤ
 パラマールタ(真諦しんだい)の『婆藪槃豆法師伝(ばすばんずほっしでん)』にヴァスバンドゥの伝記とともに、兄アサンガの伝記も語られています。(パルマールタ:546年中国に渡る。倶舎論などの唯識、如来蔵思想の翻訳を行ったインド僧)また、玄奘の『大唐西域記』にも簡単な記述があります。
 いずれも、天(兜率天とそつてん)にも昇ってマイトレーヤ菩薩から『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』その他を教授され、その教理を人々のために解説したということが伝えられています。

(ⅱ)本書での見解
 マイトレーヤは実在の人物とする説とマイトレーヤの著作はアサンガによるものとする説があります。
 しかし、アサンガの著作との比較において、アサンガ説は取りづらく、アサンガが参考とした著書があったと考えられます。仮にその参考にした著者をマイトレーヤとするので良いと考えられます。

1.2.3.アサンガ、ヴァスバンドゥ、それ以後
(1)アサンガの著作
 アサンガにおいては、彼の伝記にて一部先述しましたが、活動の地については、プルシャプラとアヨーディヤー二つの伝記では一致していません。また、チベット伝では「マダカ国」としています。彼の著書を整理すると下表2のようになります。

(2)ヴァスバンドゥについて
 ヴァスバンドゥの業績については、「仏教思想概要2:アビダルマ」においてすでに説明していますが、ここで再度下表3にて示します。

 ヴァスバンドゥは、グプタ王朝下の安定した社会における古典文化黄金期(AD四~五世紀)、大乗仏教を精緻な学問体系として整えた学僧です。
 彼の唯識思想の発展史上の大きな功績として「識の変化」の概念形成があげられます。
「変化」はサーンキャ学説を特徴づける術後であり、ヴァスバンドゥの最初の著作が、サーンキャ学派のヴィンディアヴァーシンを論破するために著した『七十真実論』であることは興味深い事実です。
 ヴァスバンドゥの「変化」の概念形成過程は、彼の著作の変遷に見ることができます。(下表4参照)

(3)ヴァスバンドゥ以後の唯識
 ヴァスバンドゥ以後の唯識については以下の図2のように整理できます。

 

 本日はここまでです。次回は唯識思想の思想背景として「観念論の系譜」を取り上げます。しばらくお待ちください。