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仏教思想概要10:《親鸞》(第5回)

2024-04-27 09:03:19 | 10仏教思想10

(神代植物公園にて・江戸     4月19日)

 

 前回は、「第2章 親鸞の著作」「2.『教行信証』以外の親鸞の著作について」をみてみました。
 本日は、「第3章 親鸞の信仰・思想」「1.煩悩具足の凡夫」「2.信心ということ」を取り上げます。

 

第3章 親鸞の信仰・思想
 第1章の親鸞の経歴から、以下の示唆をしています。
「親鸞の信仰・思想を考えるとき、これら人生の経験を背景として、以下のようなキーワードを上げることができます。
 ① 師法然への傾倒
 ② 妻帯
 ③ 「悪人正機」
 ④ 主著「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」と。
 このうち、①と④はすでに取り上げています。残るキーワードの②と③はこの第3章の中で取り上げたいと思います。
 さて、1章、2章からも分かるように、親鸞の思想を語る時、彼にとって決して論理的な整合が究極の目的ではなかったし、あるいは合理的な追求が唯一の方法でもなかったのです。それらに代えて、彼がひたすら追求したものは、人間としての自己の真相とその救済であったし、その著作の色どるものは、抽象される論理の整合性ではなく、むしろ生ける人間のしとどにぬれる悲嘆と歓喜であったのです。
 ということで、これらの点を以下みていきたいと思います。

1.煩悩具足の凡夫

1.1. 煩悩ということ
 親鸞の思想を説いていくうえで、「煩悩」ということばほど重要な役割をになっていることばはありません。それを『歎異抄』にみることができます。(以下事例 表17)

 上記表の内容をよく吟味してみると、おおよそ、三つの観点から、この煩悩ということばが語られていることがわかります。

 第一:彌陀の本願のがわからの観点
    第一段、第三段、第九段の②
 第二:人間性に即しての観点
    第九段の①、③、④
 第三:人間性(人間くささ)による観点(煩悩というものはおぞましいもので、なげかわしい曲者であるが、そこにはふしぎな魅力があるということ)
    第九段の⑤

1.2. 煩悩具足の凡夫とは

1.2.1. 親鸞の思想における「煩悩具足の凡夫」の意義
 親鸞は「煩悩具足の凡夫」ということば、そのような人間性のうえに立ってその論理を展開しています。そのような人間性は「喜ぶべきことが喜べない」「いそぎ赴くべき浄土にいそがずして、いつまでも苦悩の旧里にとどまりたい」という矛盾を胎(はら)んでいるのです。
 本来論理はそのような矛盾を排除することを根本とするのですが、そのような人間性抜きでの論理など、彼にとってまったく意味がないものであったのです。なぜなら彼にとっては、そのような人間性を背負った人間の救いこそが、唯一の価値ある論題であったからです。

1.2.2. 「悪人正機」の理論
 以上から、親鸞の論理は、しばしば世の常識の論理から逆倒したものとなります。

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と親鸞は説きます。

 「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」と一般的には説きます。

 親鸞は説きます。「自力作善の人(いわゆる善人)は」「ひとへに他力にたのむところ」に欠けているから、それは「弥陀の本願にあらず」と。
 阿弥陀仏が「願をおこしたまふ本意」は、「煩悩具足のわれわれは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあわれみて」つまり「悪人成仏のため」であるから、「他力をたのみたてまつる悪人」こそが、だれよりもまず往生の正機であるとしなければならない」としているのです。

 このように、そこにはまことの人間臭い人間があり、煩悩にさいなまれた人間のすがたがあります。そして親鸞の思想とは、そのような人間を主役とする「ある人生」のストーリーに他ならないと言えます。
 親鸞は、『涅槃経』の「*アジャセ王の懺悔」を引用しています。この話はまさに「悪人正機」の趣旨に沿ったものです。ここで、親鸞は自らの息子の起こした事件(*善鸞事件)を頭に浮かべているとも考えられます。父に背き父を苦境におとしいれ、父のまいた信仰の種をも絶滅させようとした善鸞に懺悔せよと、説いているように感じます。同時に、息子をそうしたのは親鸞自身と、自らも懺悔しているのです。
 親鸞はまさに内省の人であったのです。次項目の肉食妻帯肯定の思想においても、親鸞は自己の心にある愛欲と名利(みょうり、またはめいり、名誉欲の意味)の心を悲しげに凝視しています。愛欲と名利は人間にとって業(ごう)のごときものである。業を否定しても不可能であり、業を受け入れつつ、彼は阿弥陀如来にそういう業深い自己の救済を願っているのです。
 「内省の人親鸞は、阿弥陀の本願に自らの救いを見つけ、歓喜したのです。」

*アジャセ王の懺悔:父である王を殺し、母を殺そうとしたアジャセ王が病に苦しみ、釈尊に懺悔、帰依したお話。

*善鸞事件とは:

・善鸞事件の概要と関連書簡
 事件は建長七年(1255)、親鸞の名代として京より関東に下った親鸞の三男慈信(じしん、善鸞)によって起こされた。
 彼は自身の関東における立場を目立たせるため、主に2つの「うそ」を念仏者(主に常陸の奥郡や鹿島方面の人々)に広めた。それは、「第十八願(念仏往生の願)はしぼめるはなだ」として念仏をすてることを勧めた。いまひとつは実母(恵信尼)を継母といつわり、その継母に「いひまどはされ」と言いふらした。

 親鸞は、後者は身内のことゆえどうでもよいが、前者はどうしてもゆるせず、善鸞に絶縁の手紙を送った。それが「慈信房義絶状(じしんぼうぎぜつじょう)」といわれるものである。
 また、親鸞は信頼する弟子性信房にはことの経緯を示した手紙を同時に書き送っている。

・「慈信房義絶状」について
 「古書書簡」第三書簡としてのみ集録。高田の顕智が嘉元三年(1305)七月、八十歳の頃に書写したもの。事件後四十九年後のことである。

1.2.3.肉食妻帯肯定の思想
 親鸞に妻が何人いたかはわかっていません。具体的にその人物がある程度特定できているのも越後流罪時の妻恵信尼ですが、その恵信尼は流罪前の妻と同じではなかったと考えられています。
 親鸞が肉食妻帯に踏み切った理由の一つに、彼の偽善を憎む精神があったと考えられます。最澄の『末法燈明記(まっぽうとうみょうき)』には、今は末法の時代、戒のない時代である。その戒のない時代に、持戒の人をさがすのは、虎を市でさがすほど困難なことである、と説かれています。親鸞はこの書をしばしば引用しており、これを信じたのです。
 親鸞は、彼の天台の師慈円について、天台座主を務めて持戒堅固の顔をしているが、恋歌の達人でもあって、そういった偽善が許せなかったということのようです。
 親鸞の立場からは、法然にも矛盾があったと言えます。法然は念仏を簡便にし、愚痴無智の凡夫にまで、知的道徳劣等者にまで浄土への道を開いたが、比類なき程の知恵・知識をもった持戒堅固な高僧であり、専修念仏への非難が起こったとき、七か条の起請文をつくり、弟子に署名させ持戒を求めているのです。親鸞にはこの法然の立場さえ偽善とうつったのです。

 肉食妻帯思想として、有名なのは、叡山から下りて、京都の六角堂での百日参籠時の聖徳太子の夢告の内容です。一つは法然のもとへ行けと命じていますが、いま一つは、以下の七言律詩です。

 行者宿報設女犯 我成玉女身被犯
 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽

 これは肉食妻帯の肯定であり、しかもこの思想の趣旨を宣説して一生群生(多くの衆生の意味)にきかしめよ、とさえ言っています。
 念仏の大行は善悪を超越している。この他力に自己をまかせる深い宗教的歓喜に比べれば、女を抱くか、抱かないかは、いったい如何ほどのことなのか。ここに自己の内面を覗く親鸞の姿を、あるいは人間というものの根源を覗いている人間の姿をみることができます。

 

2.信心ということ

2.1.信心と念仏

2.1.1. 本願念仏のおしえの骨格
 『歎異抄』の第一段は本願念仏のおしえの総論で、その骨子をなすものは本願の信(信心)と念仏の行の二つです。(以下原文)
 「彌陀の誓願不思議にたすけまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて」(信)「念仏まうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨(しょうじゅふしゃ)の利益(りやく)をあづけしめたまふなり」(行)
 ここでは、ただひたすら信じて、本願の名号をとなえるということのみあって、そのほかには、知恵も学問もいらぬ。善業も修行もいらぬ。悪業さえ恐れる必要はないと説いているのです。

2.1.2. 信心と念仏について他の僧のことば
 信心と念仏について、親鸞以外の僧のことばをみてみると以下のとおりです。

 法然「ふかく本願をたのみ、一向に名号を唱べし」
 聖覚「専修(念仏)といふは、極楽をねがふこころをおこし、本願をたのむ信をおこすより、ただ念仏の一行につとめて、また余行をまじえざるなり」

 これらのことばはその大体において異なることはないのですが、微妙な差も感じます。それは後代の宗学のことばでいえば「念仏為先(ねんぶついせん)」か「信心為本(しんじんいほん)」かということであり、さらにそれを裏返していうと「一念往生」か「多念往生」かということでもあるのです。

2.1.3. 一念と多念
 一念と多念の問題に対する親鸞の立場は『一念多念文意』の中で示されています。
 この著作は隆寛の『一念多念分別事(いちねんたねんふんべつのこと)』の注釈書ですが、隆寛は自著の中で、法然ののこした本願念仏のおしえは、一念多念のいずれにも偏することなき念仏往生の道であることを説いている。つまり親鸞もその立場をとったのです。
(事例『一念多念文意』より 表18-1)


 この一念多念の問題を裏返してみると、それがそのまま信心と念仏の問題となりますが、このことについても、親鸞は、その両者を詮ずるところ一つのものであって、それをあえて別々のものと思い計らうことを極力いましめています。
(事例「信行一念章」にて覚信房よりの問いの答え 表18-2)


 以上、一念多念どちらにも偏するな、信と行は一体の立場をとった親鸞でしたが、本願念仏の教えについて、あるものはそれを念仏の方から掘りさげ考えてみる、またあるものは、それを信心のほうから吟味をふかめていく、この二つの行き方があります。親鸞が選んだ道はうたがいもなく、後者の行き方の、もっとも徹底した掘りさげであったといえます。

2.2. 信ずることのむつかしさ

2.2.1.虚仮不実のこのみ
 親鸞は信心を強調していますが、信ずるということは、言うはやすく、その実現は容易ではないのです。そのことの親鸞の自覚と省察について、自著に残しています。
(親鸞の自著にみる信心の難しさの二つの事例 表19)


 前半の①の句で、親鸞は八十六歳という年齢になってもなお、真実の心のありがたきことを嘆き、虚仮不実のわが身に涙をそそいでいるのです。
 後半の②の句は『無量寿経』の巻下に「若聞斯経、信楽受持、難中之難、無過此難」となるのを和らげ讃えたものにちがいありません。その意味は「いずれの経の説くところにしても、けっして難しくはないが、この経『無量寿経』の語る本願念仏のおしえを信じ楽(ねが)うことは、いずれにもましてむつかしい。難きがなかの難きであると説かれ、それに過ぎたる難きはなしと宣べられている。」と歌いあげられているのです。

2.2.2.信ずることのむつかしさの訳
 本願念仏のおしえを信ずることは、いずれの経の説くところより難しい理由には以下の二つをあげることができます。
(第一の理由)
 本願念仏の対機(教える相手)は誰よりも凡愚のやからであること。
 一代諸経の語るところの対機は、知恵や実践の力のある人を予想するものであった。一方本願念仏のおしえの対機とされる人々は、知恵や実践の力を思いすてた人々である。このことを法然は感銘ぶかいことばで「しかるにこのごろのわれわれは、知恵のまさこし(盲)ひ、行法のあしなへたるともがらなり」というのである。

(第二の理由)
 本願念仏のおしえを説いている『無量寿経』(特に第十八願の彌陀の本願)そのものの理解のむつかしさ。(以下、第十八願、彌陀の本願 表20-1)

 この本願の内容は、われわれ人間の知恵をもってしては、とうてい理解し納得し信ずることができがたいことです。このことは、著者が推測したことではなく、『無量寿経』そのものの「流通分(るずうぶん)」(表20-2)のなかでもその難しさを説いているのです。

 

 本日はここまでです。次回は3章の残り「3.「義なきを義とす」」「4.まとめ(個人のの感想)」を取り上げます。そして、次回が最終回です。

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要10:《親鸞》(第4回)

2024-04-20 10:24:42 | 10仏教思想10

(神代植物公園にて・関山     4月19日)

 

 前回は、「第2章 親鸞の著作」「1.主著『教行信証』をみてみました。
 本日は、「2.『教行信証』以外の親鸞の著作について」を取り上げます。

 

2.『教行信証』以外の親鸞の著作について

 

2.1.『歎異抄』について

 親鸞の著作といえば、一般的にはまず『歎異抄(たんにしょう)』ということになります。『歎異抄』は親鸞の弟子唯円(第三祖覚如という説もある)が親鸞の説法を書きまとめ編集したもので、親鸞の死後起きた様々な異議を正して、親鸞の教団を親鸞の教義そのものに帰そうとする意図をもってつくられています。
 江戸期までは真宗の信者にも知られていなかった著作ですが、明治末期に清沢満之(明治期に活躍した真言宗大谷派の僧侶、哲学者)に取り上げられて以降日本人に知られるようになり、親鸞の著といえば、『歎異抄』となっているようです。
 ただ、本文でも解説の事例として『歎異抄』の親鸞の言葉が随所で紹介されますが、唯円という弟子のプリズムを通しているという点で欠点があり、主著『教行信証』や親鸞の晩年の著作に中心をおくべきとの立場をとっています。

2.2.親鸞の著作一覧(内容の概要)

 親鸞の著作は次の5つに分類できます。(1.文類(もんるい)、2.文意(もんい)、3.和讃(わさん)、4.抄録(しょうろく)、5.書簡)
 それぞれの内容を以下の一覧(表16)に整理してみました。

 親鸞の著作は『教行信証』が関東布教時代に書かれたのを除くと、いずれも京都隠棲後、しかも晩年にかけてまで書かれたものもあります。
 もはや引退のつもりで京都に帰った親鸞でしたが、結果として彼には90年という長い年月が必要だったようです。

 

 短めですが、本日はここまでです。
 次回から「第3章 親鸞の信仰・思想」に入り、「1.煩悩具足の凡夫」「2.信心ということ」を取り上げます。

 

 


仏教思想概要10:《親鸞》(第3回)

2024-04-13 09:27:40 | 10仏教思想10

 

(神代植物公園にて・大寒桜     3月15日)

 

 前回は、「第1章 親鸞の思想背景」「2.親鸞の信仰・思想の背景」をみてみました。
 本日は、「第2章 親鸞の著作」「1.主著『教行信証』について」を取り上げます。

 

第2章 親鸞の著作

1.主著『教行信証』について

1.1.主著『教行信証』とは

 後ほど少し詳しく説明しますが、『教行信証』は親鸞の諸著作の中で、「文類(もんるい)」という部類に属するもので、彼の思想を著したものです。その大半は、経典、論文、注釈書など主要な仏教関連著書からの抜粋で、そこに親鸞のわずかな見解が付加された構成になっています。
 その『教行信証』では前述の彼の立場を明確に記しています。つまり、大事なのは「信」(彼は「信楽(しんぎょう)という言葉でこれを表現しています)ということを、この書で語っているのです。

 『教行信証』の名は仏教の歴史観から来ています。仏教一般では「教:教えを説いた経典」と「行:それを行ずる人間」と「証:その救いの証拠」の三要素(教・行・証)が必要と言われています。そして、釈迦の死後この要素が次第に失われ、末法の時代になると「教」のみの時代になるとの説があります。そして、この末法の時代に今入っているとの自覚が、鎌倉時代の仏教界の共通認識であったわけです。
 このため、法然はこの末法の時代には、念仏往生の一門しか残らないと、その論拠として『選択本願念仏集(選択集)』を著したわけです。

 これに対して、親鸞は末法の時代には、末法の時代に即した「教・行・証」があると考え、さらに親鸞は、これに熱い信仰の「信」を加えて『教行信証』を著したのです。(なお、『教行信証』には「教・行・信・証」の4巻のほかにさらに2巻が加えられ6巻の構成となっています。)

(『教行信証』の製作概要(表8))

(『教行信証』の序 表9)

 

1.2.真実の教え『大無量寿経』(「教の巻」)

 『教行信証』の第一巻「教の巻」で親鸞は、彼の依拠する経典を『大無量寿経』(いわゆる「浄土三部経」(下表10)の一つ)としています。

(『教行信証』「教の巻」の冒頭の文と意味(下表11))


 これは、中国浄土から源信、法然と続く浄土思想において、『観無量寿経』及び『阿弥陀経』を重視するこれまでの流れとは違った、親鸞の独自の考えで、しかも『観無量寿経』及び『阿弥陀経』の二経典は全く取り上げておらず、唯一の経典として『大無量寿経』を選んでいます。
 親鸞はその理由を、「阿弥陀仏が自らの身をもって証(あかし)をたれ、釈迦が勧めた経だから。そして、その教えの中心は、本願つまり阿弥陀四十八願の中の十八願『どんな悪い人間でも必ず、念仏さえ唱えれば、極楽浄土へ往生することができる』という願であるから。その念仏とは『ナムアミダブツ』の言葉である。」と、この「教の巻」で説いているのです。

 三部経のうち、『阿弥陀経』は極楽浄土世界そのものを、『観阿弥陀経』はその極楽浄土への行き方を示しており、まさに先の「念仏為本」か「信心為本」かといえば、前者の「念仏為本」をつまり「起行」の立場を示しており、中国浄土以来法然までは、その点に重点が置かれていたわけです。

 一方、親鸞は起行の結果得られる安心、ここでは「阿弥陀の本願」が大事だと説いているわけです。
 このことは、『教行信証』で親鸞が最も説きたかった「信の巻」でより明確となります。

 

1.3.口称念仏の保証、阿弥陀の十七願(「行の巻」)

 次の第二巻「行の巻」では、親鸞は、行はもっぱら「口称念仏」であると説きます。ここでも彼は『大無量寿経』、阿弥陀の十七願を取り上げます。「十七願:『たとひ、われ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、わが名を称せずば、正覚を取らじ。』(意味:たとえ私が仏になったとしても、 全ての仏達が「南無阿弥陀仏」と私をほめ称(とな)えなければ、私は仏にはなりません。)」この願の中に親鸞は口称念仏の保証を見出したのです。(「行の巻」の一文 下表12)


 前述のように、『教行信証』において大事なことは、その様式ではなく、要文の間にさし挟まれた親鸞自身の領解と讃嘆のことばにあります。その意味で、特に重要なものは「行巻」の末尾の百二十句にわたる韻文で、題して「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」といいます。
 かなりの長文ですが、ここに正信念仏偈の原文(漢文体)の書き下し文を注釈付きで示します。(表13)

 

1.4.信仰の歓喜(「信の巻」)

1.4.1.三心とは

 いよいよ第三巻の「信の巻」にて、親鸞の信仰の本質が明らかになります。「信の巻」の特徴は、「三心(さんじん)」という『教行信証』の中心思想で、自問自答の形式をとっています。

 この巻の中心思想三心は阿弥陀の十八願にあります。「十八願:『たとひ、われ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて(欲生)、乃至(ないし)十念せん。 もし生ぜずば、正覚を取らじ。ただ、五逆と誹謗正法とをば除く。』(意味:たとえ私が仏になるとしても、全ての人びとが心より争いも貧困も差別も無く、 他者と比べることのない浄土に生れたいと心より念(おもう)ってほしい。 もしその人びと浄土に生まれることがなければ、私はまことの仏にはなりません。 ただ、殺父・殺母・殺阿羅漢(阿羅漢=聖者を殺すこと)・出仏身血(仏の身を傷つけ血を流させること) ・破和合僧(仏弟子の集団を乱すこと)の罪を犯す者、真実の法である仏法をそしる者は除きます。)」

 ここで、至心(ししん)とは、阿弥陀の真実の心、信楽(しんぎょう)は 阿弥陀の救いのはたらきに全くの疑いをいだかないこと、そして欲生(よくしょう)は阿弥陀浄土へ生まれることがはっきりして、ホッとしている心といった意味合いになります。

1.4.2.「三心は一心に帰す」

 親鸞は心の主体の変化とともに、心の内容の変化を三心釈においても大切なものとしています。 
 深心を彼は信楽ととらえる。「深くといふは利他真実の心これなり」と。利他真実の心とは、それは信楽つまり信仰の楽しみである。親鸞は結局、三心を一心に帰せしめ、そしてその一心は「信楽の心」の一心である、と説いているのです。
 信仰は楽しいものだ。絶望の中に自分を救ってくれたあの光の強烈さはどうだ。それを親鸞は、無量光、無辺光、清浄光などと呼びます。その光に照らされた自分、それはまさに喜びそのものであり、楽しみそのものであると。(「三心は信楽の一心に帰する」を証明する親鸞の言葉(表14))

1.4.3.善導の三心と親鸞の三心

 親鸞は「信の巻」で、三心説を説き、そこから信仰の喜びを高らかに宣言しますが、その三心説は、もともと中国浄土宗の高僧善導が説いた説です。
 ただし、善導の三心説は『観無量寿経』をもととしたものであり、親鸞は『大無量寿経』の立場に立って「至心信楽欲生」と、解釈しなおしたのです。
 『観無量寿経』の三心は「一、至誠心(しじょうしん)、二、深心(じんしん)、三、廻向発願心(えこうはつがんしん)」で、この経では九品往生の思想を説きます。つまり人間の位によって九つの極楽往生の仕方があるとしています。極楽へ往生するには、まことの心、深い心、全ての善をささげてどうしても彼の国へ往生しようとする心が必要だというわけです。
(『観無量寿経』の三心(表15)

 善導は説きます。「外に賢善精進の相を現して、内に虚偽を懐くことを得ざれ」と。つまり「外に偉そうに装って、内に虚偽の心をいだいてはいけない」と倫理的要請をしているわけです。

 これに対して、親鸞は「外に賢善精進の相を現すことを得ざれ、内に虚偽を懐けばなり」と。つまり「外に偉そうな顔をするな、おまえの心は虚偽でいっぱいではないか」というわけです。純粋な心、そんなものは人間には不可能だ。人間の心は徹底的な虚偽の心、醜い心である。ただ、その仏の心のみが真実である、と説いているわけです。
 「廻向発願心」についても、親鸞はこう反論します。人間が善を積んで浄土に行くことはできない。人間の善はあまりに小さく、しかも浄土の喜びはあまりに大きいからだ。人が浄土に行くのではない。仏が人を浄土へ向けかえすのであると。

1.4.4.死後の浄土から生の浄土へ(「信の巻」まとめ)

 善導は、その倫理観とともに浄土を願生(がんじょう)する悲劇的な絶望者であった。彼を尊敬した法然もまた、人間の知恵のむなしさを知る絶望者であったのです。

 一方「信の巻」では、親鸞は歓喜を爆発させています。信仰する楽しさの手放しの賛美がそこにはあります。あそこに往生できるかは、もはや第二の問題であるかの感さえあります。これほどのこの世の歓喜、きっと歓喜そのものの世界に往生できるに違いないと。この境地そのものを親鸞は「等正覚(とうじょうがく、彌勒と等しい境地の意味)」と呼んでいます。

 善導も法然も、念仏による死後の極楽浄土の立場にたっていましたが、親鸞にとっては念仏なり、信仰は死に方ではなく、生き方だったのです。

 

1.5.曇鸞のユートピア思想(「証の巻」)

 「証の巻」は浄土へ必ず行くことができるという、浄土往生の保証です。極楽浄土の素晴らしさが『観無量寿経』や『阿弥陀経』にあります。しかし、親鸞は極楽は決してそういう美的な場所、享楽の場所ではない、むしろ実践の場所、衆生(しゅじょう)救済に励めとしています。(これを親鸞は「還相廻向(げんそうえこう)」という言葉で表しています。)

 そして、親鸞は「証の巻」を説く典拠として曇鸞(どんらん、中国浄土の開祖者)の『浄土論註󠄀』(世親作といわれる『浄土論』の注釈書)によっています。この著は夢のような浄土を否定して、より現実的なユートピアを著したもので、親鸞は曇鸞の理想主義に共感したものと思われます。
 なお、親鸞の名の「鸞」の字は、この曇鸞から取り、「親」の字は『浄土論』の著者世親(せしん、または「天親」ともいう、倶舎論や唯識思想を説いたインドの大仏教思想家)からとったと言われています。

 

1.6.二つの極楽浄土(「真仏土の巻」と「化身土の巻」)

 『教行信証』では仏教一般の歴史観「教・行・証」に親鸞の独自思想「信」が加えられていますが、極楽浄土についても彼の独自思想が表れており、それは第5巻、第6巻に示されています。親鸞は極楽浄土を二つに分けます。

 一つは、真仏土:本当の極楽、第十八願にもとづく人間永遠不滅の喜びの世界

 一つは、化身仏土:『観無量寿経』『阿弥陀経』にもとづく仮の極楽浄土、辺地にあり十分な楽しみを得られない浄土

  ここには、親鸞の美的浄土に対する反発が見られます。源信以来の平安浄土仏教への反発があります。法然もそのような古代貴族文化の残滓(ざんし)を否定することはできなかったのです。
 法然の教えを「真宗」として信仰し続けた親鸞ですが、『観阿弥陀経』の否定は、法然をも辺地の仮の浄土に追いやって、彼は阿弥陀様とのみ会話しているように思われます。

 

 本日はここまでです。次回は「2.『教行信証』以外の親鸞の著作について」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要10:《親鸞》(第2回)

2024-04-06 09:23:06 | 10仏教思想10

 前回は、「第1章 親鸞の思想背景」「1.親鸞の略歴」をみてみました。
 本日は、「2.親鸞の信仰・思想の背景」を取り上げます。

 

2.親鸞の信仰・思想の背景

 以上、親鸞の生涯をみてみると、一家離散、出家、流罪・還俗、晩年には実の息子の裏切りと、波瀾をもって彩られ挫折と絶望、苦難の人生であったことが知られます。
 また、当時の僧の常識としては許されない妻帯の身での布教活動は決して容易なものではなかったと想像されます。
 親鸞の信仰・思想を考えるとき、これら人生の経験を背景として、以下のようなキーワードを上げることができます。

 ① 師法然への傾倒
 ② 妻帯
 ③ 「悪人正機」
 ④ 主著「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」

 以下、これらを念頭にして、特に第2章以降で、親鸞の信仰・思想を明らかにしていきたいと思います。ここでは、法然への傾倒をみてみます。

2.1.法然への傾倒

 親鸞は、京都六角堂での百日参籠の95日目に聖徳太子の夢告により、100日法然のもとに通い、私の学ぶべきものはこれしかないと確信し、法然のもとに入門します。そして、この確信は生涯変わらなかったと言われています。

 「たとえ地獄に落ちようと法然について行く」と。「浄土真宗」の「真宗」とはまさに法然の教えそのものを指しており、彼自身は新しい宗派を起こしたとは思っていませんでした。(浄土真宗の開祖は親鸞ということになっていますが、実質的な開祖は三祖覚如(かくにょ、親鸞のひ孫)と言われています。)(法然への傾倒事例:下表7)

 それほどまで法然に傾倒した親鸞ですが、それでは法然の浄土宗と親鸞の浄土真宗はまったく同じ教え・思想だったのでしょうか?法然の教えには、肉食妻帯を認め、「悪人正機」という思想があったのでしょうか?
 親鸞がどんなに傾倒し、まさに「真宗」と唱えたとしても、その主著「教行信証」などを検証する限り、彼の思想は師法然の思想とは違ったもの、極論すれば、それを否定するものであったともいえそうです。

2.2.法然までの浄土思想

 そこで、親鸞の信仰・思想を考える前に、法然を中心にそれまでの浄土思想の流れを簡単に整理してみます。

 インドの大乗仏教の教えの一つとしてスタートした浄土思想(阿弥陀信仰)は、中国において、曇鸞・道綽・善導の三人の高僧により成立・確立します。特に善導は「口称念仏(くしょうねんぶつ)」の実践により、阿弥陀仏のいる極楽浄土に行けると人々に広く流布します。
 こうした浄土思想・阿弥陀信仰は奈良時代に日本にもたらされますが、当初は鎮魂のための阿弥陀仏として信仰されます。特に聖徳太子一家暗殺による死霊への恐怖から逃れるために信仰されたものと思われます。そして、その鎮魂の役割が空海や最澄の祈祷仏教つまり密教に引き継がれると、阿弥陀信仰はこの世の苦しみや絶望から逃れるための夢の世界、西方浄土を求める信仰へと、その役割を変えていきます。

 その甘美でロマンチックな幻想の世界、西方浄土を描いたのは、平安期の天台宗の僧、源信(げんしん、恵心僧都942-1017)でした。彼は、天台流の止観(心を静めて、仏世界を頭に描く)の手法で阿弥陀浄土の世界を想像する行を説きます。しかし、その止観の行は必ずしも一般的には容易な手法ではありませんでした。また、そのロマンチックで幻想的な世界は、現実の苦難な世界に生きる一般の人々には、そこまでの余裕を持てる世界でもありませんでした。
 人々が源信の阿弥陀世界に不満を持っていた時期に登場したのが法然(1133-1212)でした。法然は説きます。「口でナムアミダブツと唱えればよい、誰でも極楽に行ける」と。
 叡山に学んだ法然は、「知恵第一」とのうわさをとる大秀才として有名でした。時は混乱の時代、末法の時代、もはや今の時代には「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」しかないと人々に説きます。大秀才法然のこの教えに人々は狂喜し、法然は生き仏と崇められます。

 法然は善導(中国禅の高僧)一辺倒だったと言われています。善導の著『観経疏(かんぎょうしょ、『仏説観阿弥陀経』の注釈書)の「口称念仏(くしょうねんぶつ)」の勧めから、やがて法然独自の「専修念仏」の思想を導き出します。この時期は、彼が主著『選択集(せんじゃくしゅう)』を書いた時期(66才頃)で、念仏仏教に対する旧仏教派の批判が激しくなっていた時代でした。同時に、この時期に親鸞は法然の弟子になっています。つまり、当然ながら法然は新しい思想を導き出した先生、親鸞はその生徒という関係に両者は立つことになります。そしてその立場の違いが、生徒としての親鸞に先生である法然とは違った考えをもたらすことになります。

2.3.信仰の人親鸞

 一般的に親鸞は法然の思想を引き継ぎ、さらにそれを発展させたととらえられているようですが、どうやらそれは間違えで、親鸞は法然の教えから、信仰の喜びを知り、法然とは違う思想をもった、と言えそうです。

 鎌倉仏教の代表者、法然、道元、日蓮はいずれも理論家であり思想家であったようですが、親鸞はこれらの思想家とは違っていたようです。たんなる凡人ではなかったことは間違いなく、大変な勉強家であったことは確かですが、思想家というより仏教の実践者、信仰者、つまりは人間親鸞としての面が強かった、そんな人だったようです。「真宗」を法然の教えそのものという意味で使った親鸞、彼はひたすらまさに法然の教えを信仰し続けた人であったようです。
 苦難の人生が親鸞に信仰の人生へと進めさせたのかもしれません。本著ではこのことははっきり書かれていませんが、私個人では、彼が妻帯していたことに対するうしろめたさ、人間的弱さを持っていたことも背景にあるような気がします。有名な『歎異抄(たんにしょう』には親鸞の人間臭さが随所に登場します。日本人の心に刺さる書として人気で、有名な学者、著作家に取り上げられているところです。

2.4.「念仏為本」と「信心為本」

 前述の「第1章2.2.法然までの浄土思想」の末尾で少し触れましたが、法然と親鸞の教えの違いには、それぞれの立場の違いがあったということがまず挙げられます。

 法然は自らが考えた他力の教え(「専修念仏})であって、先生の立場、親鸞はその他力の教えを受領する生徒の立場にありました。法然は「安心起行(あんじんきぎょう)」ということを説きます。「ひたすら念仏を唱えていれば(つまり起行のこと)、自然に心がそちら、つまりは安心の世界(極楽浄土)に向いてくる」と。つまり、法然の立場ではまずは起行、念仏を唱えることが大事なのです。一方、親鸞は教えを受け取る立場ですから、もっぱら念仏を唱えることが大事だが、その結果「安心」が得られるのだから、真の目的は「安心」を得ること、つまりはこちらの方がより大事だと受け取ることとなったと思われます。

 これは後に登場した用語ですが、「念仏為本(ねんぶついほん)」と「信心為本(しんじんいほん)」という言葉があります。簡単に言えば、念仏も信心も大事だが、どちらかといえば、前者は念仏がより大事、後者は信心がより大事ということです。つまりは親鸞の立場では一番大事なのは「信」(「信心為本」)ということになります。

 

 少し短めですが本日はここまでです。次回は、「第2章 親鸞の著作」「1.主著『教行信証』について」を取り上げます。