SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

勉強中の仏教思想、整理した概要をご紹介しています。

仏教思想概要2:アビダルマ(第5回・最終回)

2022-12-01 09:56:52 | 02仏教思想2

 仏教思想概要2:アビダルマの5回目です。第4回まででアビダルマ思想の概要を見てきました。今回は説一切有部の代表的な論書『俱舎論』の思想概要を取り上げ、「仏教思想概要2:アビダルマ」の最終回といたします。

 

3.『俱舎論』の概要

 アビダルマの体系の最後に、アビダルマの一典型としての『倶舎論』(世親著『アビダルマ・コーシャ』)について簡単に触れておきます。

3.1.『倶舎論』の役割

(1) ブッダの教えの要点

 ブッダの最初の説法のテーマは四諦(したい)、つまり(苦(く)・集(しゅう)・滅(めつ)・道(どう)でした。
 それは、「人生は苦である(苦諦)、苦の原因は煩悩である(集諦)、煩悩を滅すれば苦もまた滅する(滅諦)しかし、煩悩を滅すには正しい方法に従わねばならない(道諦)」ということです。

 ここで、正しい方法とは、「何より正しいものの見方(正見)を確立する必要がある。そしてそのためには、正しい意志(正思)と行為(正語・正業)にもとづく、正しい生活(正命)を確立することが必要であり、正しい生活の確立には、正しいしかたで努力し(正精進)、精神を集中し(正念)、精神の自在を得る(正定)ことが必要である。」ということです。

 究極としては、「苦」からの解放の3つの正しい方法として、特に・正見・正命・正定(禅定)を挙げることができ、これらは、それぞれ仏教修行道の眼目とされる「戒・定・慧」の三学に相当します。(正見=慧、正命=戒、正定=定)

(2) 四諦と『俱舎論』の関係

 三学(戒・定・慧)と三論(経・律・論)の対応(経:定、律:戒、論:慧)からも、論の一典型としての倶舎論が慧学に傾斜していることは明らかです。
 この著作は、八正道の正見に寄与するという形でみずから実践的な役割をにないながら、しかも同時に、仏教の実践的認識の構造を体系的に解明するという哲学的課題を追求しているのです。

 もう一度、ブッダの教えの要点を整理すると以下のようになります。

 人々を輪廻の苦海から救出すること。人々が輪廻の苦海に漂うのは「煩悩」のため
  ↓
 このため、まず煩悩をしずめることが第一
  ↓
 ここで、そのための最も優れた方法は→「択法(ちゃくほう)」(倶舎論の玄奘による漢訳:ダルマを正しく吟味弁別すること)にほかならないと倶舎論は説いているのです。
 もともと「アビダルマ」というのは、ダルマについての考察をさし。「択法」の指針を提供するためのものでした。すでにブッダ自身のことばにも示されていたわけですが、「処々に散説」されていたに過ぎないものを集大成したのが、『倶舎論』にほかならなかったのです。

3.2.『俱舎論』の構成

 『俱舎論』は九章(九品くほん)から構成されており、その任務は、四諦の構造を論理的に分析する点にあります。また、本著の中心テーマは「有漏と無漏の考察」にあります。
 これらの関係は以下のように整理できます。(下表18参照)

 なお、一章・二章(総説)は、独自の任務遂行の準備として、四諦の構造の論理的分析に必要なカテゴリーとしてのダルマの体系(五位七十五法)を明らかにしています。

3.3.倶舎論の中核

3.3.1.「有情の業」

 倶舎論の体系の中核をなすのは、「有情の業(うじょうのごう)」ということです。「有情」および「業」は以下のように説明できます。(下表19参照)

 つまり、「有情の業」を中核にすえるということは、生きものの行為を中核にすえることを意味します。
 倶舎論では、世界をこの生きものの行為の所産にほかならないとしているのです。
 例えば、第四章業品で「有情の業」(生きものの行為)が主題として扱われ、第三章世間品で、その行為の所産としての世界が主題として扱われています。
 世間品では、世界は「有情世間」(生きもののさまざまな生存様式)と「器世間(きせけん)」(生存の場)から成るとされています。
 さらに、「業品」では、有情世間と器世間にはそれぞれさまざまな相違があるが、それはただ有情の業の相違によって生じるとしています。

 以上の、世間(世界)を業の所産とみる考えは、業を「行(ぎょう)」と同意義とみなし、「有為(うい)」を行の所産とみる解釈とかみ合っています。なぜなら、『俱舎論』第一章界品によれば、四諦のうち滅諦を除く苦・集・道の三諦を「有為」、この三体から道を除いた苦・集の二諦を「有漏」と呼び、有漏は世間と同義と見られているからです。
(参考:四諦と有為・無為、有漏・無漏との関係 下表20)

 ここで、道諦は無漏で有為という中間的な位置を占めています。それは、煩悩を離れているが、因果関係の上にあるとされ、因果関係の上にある有為であるかぎり、行ないし業の所産とみなされるということです。

3.3.2.「業」とは

 業については、先に広義の行為を意味するとして、①「思」(行為の準備段階としての意志の発動)、②「表業」(外に表れた行為)、③「無表業」(行為の残存効果)を挙げています。しかし、業品の冒頭部分では、業には「身業(しんごう)」・「語業(ごごう)」「意業(いごう)」の三業があり、意業は①の思の形のみとり、身業と語業は①の形は欠いて、②表業③無表業の二つの形をとるとしています。
 以上を図式化すると、以下(図6)のようになります。

 つまり、「思」から「思の所作」が生じ、思の所作では、「表業」から「無表業」が生じる。
思は「意業」であり、意業から「身業」・「語業」が生じる、ということです。
 さらに、これを「有情の業」の観点から見てみると、世間は業の所産であり、業においては、身業・語業は意業の所産である。なぜなら、意業は思であり、身業・語業は思の所産であるからです。

 つまり、「心から業が生じ、業から世間が生じる」、ということになります。

 

 以上、「仏教思想概要2:アビダルマ」完

 なお、元とした「仏教の思想2」では、この後、アビダルマ理論・詳論(各論)が続きます。「概要」という趣旨から、各論は省略しました。タイトルのみ以下に列記します。
 興味のある方は、本文を是非お読みください。

1.「物」とは

2.「心」とは

3.善と悪

4.「煩悩」とは

5.「道」について

6.「らかん」と「ほとけ」

 

 ということで、仏教思想概要2:アビダルマの最終回でした。如何でしたでしょうか?
 煩瑣哲学と言われるように、アーガマの理論的な分析という役割を担ったアビダルマは、詳細な分析がされており、理論に追いついていけない部分も多々ある気がします。ただ、この後の『中観』『唯識』さらに中国仏教、日本仏教と、あらゆる場面で、このアビダルマの仏教理論が登場してきます。用語だけでも、何となく理解しておくと参考になるかと思います。

 次回は「仏教思想概要3:中観(ちゅうがん)」です。『般若経』を基礎とした、インド大乗仏教の思想家「ナーガールジュナ(龍樹)」の「空の思想」を取り上げます。
 整理はスタートしたばかりで、いつご紹介できるかわかりませんが、楽しみにお待ちいただければ幸いです。

 

 

 


仏教思想概要2:アビダルマ(第3回)

2022-11-14 08:33:46 | 02仏教思想2

 仏教思想概要2:アビダルマの3回目です。前回までの2回で、アビダルマの世界、アビダルマ思想の背景を見てきましたが、今日からいよいよ本論のアビダルマ思想の概要を3回に分けて見ていきます。

 

 

第2章アビダルマの体系-アビダルマ思想の概要-

 

1.アビダルマの体系Ⅰ

1.1. アーガマの論理性「無常」「苦」「無我」と「縁起」の関係

 「すべては無常である」「苦である」「無我である」という主張は、アーガマ経典の中で、このように三つ並列にされて述べられていますが、また、「すべては無常である、無常なものは苦である。苦であるものは無我である」と、無常が苦・無我と根拠づける関係に述べられていることも多くみられます。
 そして、これらの根拠づけには、因果関係、つまり「縁起」の理論により明確な説明が可能となります。つまり以下のように整理できます。(下図3参照)

1.2.ダルマの理論

1.2.1.アビダルマの役割

 以上のように、アーガマの中で、苦・無我は無常に、無常は縁起に根拠づけられていると言えます。そして、その縁起―無常―無我の論理こそ、アビダルマ仏教が忠実にそれを解明しようと努めたところのものであるのです。

 業・輪廻の世界の現実から無漏のさとりの領域に進む仏教の実践システムは、無常、・苦・無我の教説の中に包含される、それを厳密に解き明かすことがアビダルマの任務であると、アビダルマ論師達は考えたのです。
 その中で、説一切有部アビダルマの場合は、「すべてがある」という主張を、一つの理論によって、精密な学説として展開し、このことの論証を成し遂げようと独特の対場をとったのです。この理論を「ダルマの理論」(帝政ロシア末期の東洋学者ローゼンベルク命名)と呼ぶこととします。

 

1.2.2.「ダルマの論理」とは

 それでは、「ダルマ」とは何か、さらに「ダルマの理論」とは何か、以下ⅰ)~ⅳ)と段階をおって説明します。

ⅰ)ダルマの一般的な意味=「法」と訳される
 広くインド思想一般では、法則、習慣などの多様な意味に用いられている。
 仏教語としては、特にほとけの教えた真理、あるいは、ほとけの教えそのものをさして呼ぶのが最も多い用例となっている。
 だが、それとは別に仏教語として独自な、そして重要な用例がもう一つあり、それは、広くもの、事物、存在も意味する場合である。

ⅱ)さらに、単なるもの、存在ではなく、寄り集まった存在を構成する「存在の要素」とも考えられた。

ⅲ)ダルマ理論の基本的考え方
 以上から、経験的世界の中にあるすべてのもの、存在、事物、現象は、複雑な因果関係による無数のダルマの離合集散によって、流動的に構成されると考えた。

ⅳ)説一切有部の「ダルマの理論」でのダルマの種類=75種
 この75種のダルマによって、すべての現象的存在は構成され、75種のダルマにのみ“実在性”を認め、それ以外の現象的存在そのものは、実在性を認めない、というのが説一切有部の立場である。

 

1.2.3. アーガマによる「無常・苦・無我」の説き方

 それでは、ここで、振り返ってアーガマでは、無常・苦・無我についてどう説いているのかをみてみたいと思います。

 無常・苦・無我のアーガマによる説き方は、種々ありますが、「五蘊(ごうん)」「十二処(じゅうにしょ)」「十八界(じゅうはつかい)」による説き方がアビダルマに発展する説き方といえます。
 「五蘊」「十二処」「十八界」(下表10参照)の意味は、いずれも存在の種類で、単純には、「すべて」を表すのに5種、12種、18種に分けて分析してみたと考えればよく、ここで重要なポイントは、これらの、いずれの存在においても、無常・苦・無我であると説いている点です。
 つまり、5種、12種、18種、それぞれの語の意味はあまり重要ではなく、アーガマが述べている本旨は、あらゆるものは無常であり、苦であり、無我であるということ以外にはないのです。

 

1.3.分析的思考の発展

1.3.1.アーガマの世界の分析的思考

 前述のように、アーガマの中では、人間の存在のすべてのものの、「無常」「苦」「無我」が説かれています。そのすべてのものは、「有為(うい)」であると同時に「有漏(うろ)」であるとしています。
(「有為」:すべてはさまざまな因果関係の上に造り上げられているということ、「有漏」:凡夫により欲望され執着されているもの)
 ↑
 これに対して、無常を無常と知り、有為を有為と知る時、それに対する欲望・執着が消滅し、静かな安らかな境地、「涅槃」に転換する、つまり「有為・有漏」→「無為・無漏」への転換が起こるとしています。
 この転換は、本来、内面的な転換であり、涅槃や無為・無漏の存在は無いはずですが、 アーガマでは、有為なもの(有為のダルマ)とは別に無為なもの(無為のダルマ)があると考え、有漏のダルマとは別に無漏のダルマがあると考える、「分析的思考」がすでに存在したのです。(有為と無為を合わせてすべてのダルマ、有漏・無漏を合わせてすべてのダルマと考えた。)

<アーガマにおける分析的思考の例>

ⅰ)「すべてのサンスカーラ(有為のこと)は無常である(諸行無常)」と云うのに対して、「すべてのダルマは無我である(諸法無我)」という。→「無我」は有為、無為すべてのダルマに妥当するが、「無常」は、有為にしかあたらないと区別する考え方がみられる

ⅱ)五蘊と五取蘊の区分:五蘊は有漏・無漏の両方を含み、五取蘊は有漏の五蘊のみを含むことを意味する

 

1.3.2.説一切有部のアビダルマの場合(1)-四諦との関係

 アーガマの中に見える分析的傾向は、説一切有部のアビダルマではいっそうはっきり現れてきます。以下は四諦との関係を図式化したものです。(下図4参照)

 ここで、平常的人間(業と煩悩の世界)の生からさとりの領域に進む「道」は有為でありながら無漏であるとしています。なぜなら、道はなおさとりには入っていないから有為であり、同時にそれは煩悩を離れるから無漏であるとしています。

 

1.3.3. 説一切有部のアビダルマの場合(2)-五蘊・十二処・十八界による分析

 次に、五蘊・十二処・十八界についてみてみます。アビダルマは、五蘊によって表される「すべて」と十二処・十八界によって表される「すべて」とのあいだにもはっきりとした区分を立てます。

 五蘊・十二処・十八界の関係を図式化すると以下のとおりとなります。(下図5参照)

 この図について、少し詳しく説明します。

①五蘊のどれにも無為なものは含まれないが、十二処・十八界の「法」には、無為のダルマも含まれる。
 五蘊の「すべて」は、無為を除いた「すべての有為」。十二処・十八界では、広く、有為・無為を合わせた「すべてのダルマ」

②五蘊の色(色蘊)は、広く物資的存在を意味するが、十二処、十八界の色は五根、五境に限定される

③十二処、十八界では「法」を狭義(「意」の対象=認識、判断、思考、記憶などのあらゆる思いの内容に限定)で用いている

④十二処、十八界では、受、想は行に含めて、狭義の「法」とした

⑤図中にも追記があるが、説一切有部アビダルマでは、色蘊の一部であってしかも法処の中に含まれるものがあるとしている。(「無表業(むひょうぎょう)」と呼ばれる。詳細後述)

 

1.3.4. 五位七十五法(説一切有部のアビダルマ)

 前述の有為・無為・有漏・無漏・五蘊・十二処・十八界という部類分けは、いずれもアーガマ以来のものですが、それにさらに説一切有部では独特の「五位」の範疇をアビダルマに加えます。

 これは蘊・処・界の部類分けの中で、行蘊や法処・法界の部分をいっそうこまかに観察した結果です。五蘊、十八界、五位、それとそれぞれに含まれるダルマの関係を一覧にすると下表11のように整理できます。

 この図表について、少し詳しく説明します。

①非常に広い意味に理解されている行蘊を二つに「心相応(しんそうおう)」(心作用)と「心不相応(しんふそうおう)」に大別する。
 「受蘊」と「想蘊」も心作用であるが、すでに蘊として立てられているので、「心相応」は、それらを除いた他のすべての心作用を意味する。「心不相応」は、物でも心でもなくて、それらのあいだの関係とか力というような特殊なものを意味し、有部独特の考え方の所産である。

②「心相応行」と「受蘊」「想蘊」を加えた心作用を十八界では「心所(しんじょ)」と呼ぶ。

③有部独特の五位は、五蘊の色蘊と、上記の心所、心不相応行、そして、心(しん)、無為を含む。

④五位のうち、「色」には11種、「心」には1種、「心所」には46種、「心不相応行」には14種、「無為」には3種を数える。合計75種のダルマを認める。つまり、五位七十五法である。

 

 本日はここまでです。次回はアブダルマの体系Ⅱを見てみます。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要2:アビダルマ(第2回)

2022-11-07 08:49:09 | 02仏教思想2

 仏教思想概要2の2回目です。

 前回は、主にアビダルマの発展の歴史を見てみました。今回はアブダルマの世界観を中心にご紹介します。

 

 

3.アビダルマの宇宙観

3.1.宇宙の創造者

 ここでの自然観、宇宙観は、アビダルマ仏教独特のものというより、むしろ仏教に取り入れられ、仏教思想に裏付けられた古代インドの一つの自然観・宇宙観とみるべきものです。

 はじめに、天地開闢(かいびゃく)のことからみてみます。『旧約聖書』でも『古事記』『日本書紀』でも、神による天地創造からスタートします。しかし、仏教においては、自然界の神などの絶対者、超越者といった造物主はいないのです。
 『倶舎論』によれば「サットヴァ・カルマン」によって生まれたとされます。
 サットヴァとは、「有情」または「衆生」つまり、この世に生命をもって存在するもの。カルマンとは、「業」つまり、行為、動作を意味します。つまりサットヴァ・カルマンとは、生命あるものの行為、生命体の生活行動となります。
 それでは、自然界はどのように創造されたのか。仏教では、自然界の前に生命体が存在し、生命体により自然界が生み出されると考えます。
 それでは、生命体はどう創造されたのかというと、広大な宇宙空間で、すでに存在する別の自然界があり、そこのサットヴァがカルマンの力で自然界を成立させるという考え方をとるのです。

 

3.2.宇宙の創造手順と消滅

 宇宙の形成は『俱舎論』によれば、次の手順に整理できます。

①はじまり:なんの存在もない広く虚しい空間に、サットヴァ・カルマンの力がはたらきだし、“微風”が吹き起ることから始まる。
②「大気の層」の生成:風が空間の中で密度を増し、円盤状の堅い「大気の層」を造り上げる。
③「水の層」の形成:大気の層の上に積層される。サットヴァ・カルマンのはたらきで、大気の層の中心部の上空に、雲が凝縮され、激しい雨となり積層される。しかも、サットヴァ・カルマンの風の力が周囲を垣根のように取り囲んで、水の層は左右に流れない。
④「黄金の層」の形成:水の層の上層七分の二はサットヴァ・カルマンの風の力で、黄金の層となる
⑤自然界の完成:黄金の層の表面が大地で、山や河が形成される。
⑥生物(「有情」(サットヴァ))の発生。
ⅰ)天の神々(天人、天女など)ⅱ)地表世界の人間・動物 ⅲ)地下の世界=地獄のサットヴァ
・宇宙の形成期間:二十アンタラ・カルパ(約三億二千万年)
 自然界の形成=1アンタラ・カルパ、生物界の形成=十九アンタラ・カルパ
・形成された世界の持続期間:二十アンタラ・カルパ
・世界破滅の期間:二十アンタラ・カルパ、その順序は、形成の順序とは逆で、地獄の生物の破滅からスタートし、虚しい空間に戻る
・虚しい空間の期間:二十アンタラ・カルパ
 ↓
 つまり、大自然の生滅のサイクルは、4×20アンタラ・カルパ=約十二億八千万年。これを「1マハー・カルパ」という
(仏教の宇宙のイメージ図1)
 

 

3.3.大地の世界=スメール世界

 大地(黄金層の表面)の世界は、スメール山(音写で、「須弥(しゅみ)」、訳して「妙高山(みょうこうさん)」)を中心とした下図のような構成となっています。これが、一つの自然界の単位で、仮にスメール世界と呼びます。(下図2参照)

(上から見た平面図)
 

(縦に切った断面図)
 

・小千世界:千のスメール世界
・二千世界(中千世界):1000個の小千世界
・三千世界(三千大千世界):1000個の二千世界=十億個のスメール世界=宇宙の総体
 各スメール世界は十二億八千万年周期で、生滅を繰り返している。1年ごとで1個のスメール世界が生滅していることになる

 

4.アビダルマの人間観

 以上、アビダルマの宇宙観を見てみましたが、アビダルマ哲学の主要な関心は、宇宙や自然界それ自体にあるのではなく、その中に生まれ死ぬいのちある者、すなわち有情(うじょう、サットヴァ)の上にあるのです。
 ここでは、アビダルマの示す有情一般の外面的、「生物的」なあり方を、さらにはその内面的、「精神的」あり方を見ていくことにしたいと思います。

4.1. 有情の外面的あり方-三界・五趣・四生

 アビダルマに説かれている有情の外面的なあり方は、ほぼ「三界(さんがい)」「五趣(ごしゅ)」「四生(ししょう)」に集約されると言えます。

 三界とは、以下(表8)のように「欲望」「物質」の存在状態を区分した世界です。

 ここで、当然ながら、欲界よりも色界、色界よりも無色界のほうが、よりいっそうすぐれた存在のしかたであり、その場所(地下、地表、天界)も上下関係があります。
 それぞれの場所には、それぞれの生活があり、これを「五趣(ごしゅ)」(地獄、餓鬼、畜生、人間、天)と呼びます。五趣は、時に「阿修羅(あしゅら)」を加えて「六趣」または「六道」と数えられます。

 有情は、五趣(あるいは六趣)のいずれかに属して生きています。やがて死ねば、このいずれかに生まれます。地獄から天へ、天から地獄へということもあり、天の神々もその寿命は永遠ではなく、五(六)趣のどれからどれへと生死の輪は廻ってやまないのです。

 そこで、「四生」とは、このように有情が輪廻していろいろな境涯に生まれ出る、その生まれ方の種類を分けたものです。
 ①胎生(たいしょう)
 ②卵生(らんしょう)
 ③湿生(しっしょう):湿気から生まれる意味(ウジ虫、ボウフラのように)
 ④化生(けしょう):忽然と生まれること

 以上、「三界」「五趣(六趣、六道)」「四生」の関係を整理すると以下のとおりです。
(下表9参照)

 

4.2. 有情の内面的あり方-その1「業」の理論

 それでは、外面的あり方である有情の輪廻的存在の生ずるもとは、何であるのかと言えば、アビダルマ論師たちは、明言します。それは「有情の行為(カルマン=「業(ごう)」)のいかんによる」、いわゆる「因果応報」であると。

 ただし、アビダルマ的には、因果応報とは呼ばず、以下のように呼びます。
「善因楽果(ぜんいんらくか)」:善の行為が原因で、その者にとって、好ましい安楽な結果が生ずること
「悪因苦果(あくいんくか)」:悪の行為が原因で、その者にとって、好ましからぬ結果が生ずること

 また、注意が必要なのは、「業論」は「宿命論」とは違う、ということです。
 その論拠は、以下のように整理できます。

①過去の業が現在の境遇を決定しているのと同様に、現在の業は将来の境遇を決定する。
 →業論を宿命論とみるか、逆に、明るい未来の開拓に向かわせる論拠としての、道徳的勇気の源泉とみるかは、全くその人による。
②業が有情のあり方の全てを決定するものではない。業とその結果の関係は、無数の多様な因果関係の一部分にすぎないから。
→業の報いは一面において拒否できないが、それが人生の全面、全生涯を決定的に支配しない

 さらに、業に対するもう一つの批判的見解として、仏教の無我説と業論の矛盾に対するものがあります。
 当然、仏教では「我」という輪廻の主体を認めていません。したがって、輪廻を認めるはずもありません。この点では、アビダルマも全く同じ立場に立ちます。
 善行が行われたときは、好ましい報いが必然に得られなければならない。悪行が行われたときは、好ましからぬ報いが必然に得られなければならない。アーガマに言われるように、「何人も他人に向かってその善悪を判断しえない」し、全知の神というようなものがどこかにいて人の善悪を審判してくれるわけでもないからです。

 アビダルマでいう輪廻の世界は、人間の平常的生の世界=道徳的な善悪の世界であって、このことは、業・輪廻の世界を究極のあるべき様相とは考えないし、輪廻の主体を認めるものでもないのです。→道徳律への畏敬であるといえます。
 功徳を積んで天などの好ましい境遇に生まれても、それは依然として輪廻の世界の中の話で、輪廻を越えた解脱の世界に出ることでは無いのです。

4.3. 有情の内面的あり方-その2「煩悩」の世界

 業が輪廻的生存を結果するときは、必ず煩悩を伴うといいます。
 「煩悩」とは、「心を煩わすもの、心を悩ますもの」、「心のけがれ、よごれ」、「人間の心がもつ悪いはたらき」のことです。さらに、アビダルマ的には、「悪い」作用に限らず、善くも悪くもない「中性」の心作用(中性であるが、正しい知恵の起こるのを妨げる)もあるとし、ただ、「善い」心作用である場合はないとしています。

 ところが、業が輪廻的な結果を起こすのは、「善い業」の場合もあります。それは、善因楽果もあるからです。では何故、「必ず煩悩を伴うのか」ということになります。
 その答えは、「有漏」という考え方によるのです。
 「有漏」とは、原語(サ・アースラヴァ:煩悩の意味)、「六根から漏れ出る」=「煩悩をもつもの」を意味します。
 凡夫の世界では、すべての存在が「煩悩の対象(厳密にいえば煩悩である「*心作用」とあい伴う「*心」)となり、あるいは煩悩をあい伴う」のであり、つまり有漏であるわけです。(*「心作用」「心」については詳細後述)
 さらに、ほとけそれ自体をを対象とした場合も人は煩悩を伴います。(但し、ほとけ自体は、さとりの領域に属するものであって「有漏」では無い=「無漏」です。)
 したがって、厳密には、「有漏」とは、それらが煩悩の対象となり、あるいは煩悩をあい伴うと同時に、煩悩がそれらの上に力を持ち、それらをけがす様なものであると定義できます(煩悩がほとけの上に力をもちけがすことはないから)。
 つまり、業・輪廻の世界に属する限りにおいては、全ての存在は、「善い」ものも、「中性」のものも、「悪い」ものも、そのような意味で有漏であるわけです。
 したがって、アビダルマ的に表現した平常の人間の生の世界では、「有漏」、「凡夫の世界」、「三界の輪廻的存在」「苦」は同意義であり、善悪の世界であり、迷いの世界であるわけです。

 しかし、迷いの世界は人間のあるべきすがたではありません。アビダルマにおいても、この迷いの世界から超出し、究極の真実のさとりの領域に至るべきことを説いています。但し、説一切有部アビダルマの場合、それを説き明かす基礎に独特の理論をもっています。

 そこで、次章以降でその理論の綱格(主要な論点といった意味合い?)に触れてみたいと思います。

 

 今日はここまでです。次回からいよいよアビダルマの本論・思想概要に入ります。3回ほどに分けてご紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要2:アビダルマ(第1回)

2022-10-31 08:56:04 | 02仏教思想2

 前回の仏教思想概要1「釈迦仏教」から4か月ほどが経っていました。やっと、仏教思想概要2「アビダルマ」のご紹介です。
 前回の最後にもご紹介したように、『アビダルマとは、釈迦の死後300年ほど経たのちに、当時のインドの仏教学者が、釈迦の教えつまりはアーガマを理論的に分析し、仏教思想の体系化を図ったものです。その内容は「煩瑣哲学」と呼ばれるほど、詳細な理論分析がされた内容となっています。』ということで、もう何度も読んでいるのですが、最初から理解しながらの整理となり、長い時間がかかってしまいました。

 前置きが少し長くなりましたが、今日から5回程度に分けて、仏教思想概要2「アビダルマ」をご紹介していきたいと思います。どうぞ、お付き合いください。

 

仏教思想概要2:アビダルマ

第1章 アビダルマの世界

1.アビダルマの意義

1.1.アビダルマとは

 アビダルマ(阿毘達磨あびだつま)とは、シャカムニ・ブッダの教えを、ブッダの没三百~九百年ごろの学僧たちが研究し、解明し、組織づけて、一つの思想体系にまとめあげた知的努力を意味します。
『阿含(あごん)』(または『阿含経』)名で知られる学習、研究文献の総称で、厳密にはアビダルマ・シャートラ(「阿毘達磨論」または「阿毘達磨論書」)と呼ぶべきもので、本来多くのアビダルマが存在します。
 『阿含』とは、ブッダ生前の教説をその弟子達の合議のうえでまとめた伝承(­=「アーガマ」)の漢訳です。アーガマはブッダの教えた真理にほかならないが、その真理を、ブッダ自身「ダルマ(法)」」という語で呼んだのです。「アビダルマ(対法)」とは元来「ダルマに対する〔学習、研究〕を意味します。

1.2.代表的なアビダルマ学派

 アーガマ以後、仏教僧団は当初の統一を失い、前三~一世紀の間に多くの部派・学派に分裂したのち、多くのアビダルマ論書が編纂され、その中で、もっとも有力な学派が、説一切有部(せついっさいうぶ、または「有部」)学派(原語:サルヴァースティ・ヴァーディン学派)でした。

 そののちに、およそ五世紀のころ、有部の業績を継承し、その上にさらに新しい進展を加え、アビダルマ論書のひとつの完成態というべきものを示したのが「ヴァスバンドゥ」(漢訳「世親(せしん)」(または「天親(てんじん)」))(著書:『アビダルマ・コーシャ』(漢訳『阿毘達磨倶舎』(略して『倶舎論(くしゃろん)』)でした。

 但し、倶舎論は有部論書を継承発展させたものですが、有部と対立した「経量部(きょうりゅうぶ)」学派に通ずるものもあるのです。
 また、世親はのちに大乗仏教の哲学者、いわゆる瑜伽唯識学説の唱道者としてより名高く、仏教史上の最も偉大な学者、思想家の一人です。

1.3.アビダルマの長所と欠点

 アビダルマは、非体系的なアーガマ(ブッダの言行録で対話調のため)から、仏教の基礎的な観念を引き出し、組み立てたもので、壮大な思想的建築物に仕上げたのは、アビダルマ論師の功績であったのです。彼らの仕事がなかったら、のちの中観説、瑜伽唯識説などの大乗仏教哲学の出現のしかたも、よほど違ったものになっていたと考えられます。
 一方で、「煩瑣哲学(はんさてつがく)」と評され、複雑な教義学が盛られており、伝統的、保守的、分析的、形式的過ぎ、思想の清新さ、溌溂さに欠けるという欠点ももっています。

 

2.アビダルマ発展の歴史と倶舎論

2.1.アビダルマの成立過程

2.1.1.アビダルマの展開過程

 アビダルマ展開の過程については、一般におおよそ以下の三つの段階が考えられています。

① アーガマ経典自体に見られる「アビダルマ的傾向」の段階
  →アーガマ自体にすでに教説を整理組織したり解釈や注釈を与えたりする内容が見られる。この傾向はさらに二つに大別される

  ⅰ)分析的傾向
  ⅱ)総合的傾向 イ)「法数」によるまとめ:数に関係ある教説を数ごとにまとめる
          ロ)「相応」によるまとめ:教説の主題のよる類別配列

② ①の傾向が発展して、アビダルマとよばれる別種の文献が独立して発展していく段階

③ アーガマの単なる内容の解釈、整理の止まらず、その基礎の上に壮大な教義体系を                  打ち立てる段階
  ↓
 ・その結果、「三蔵(さんぞう)」と呼ばれる仏教文献の三つの形式の成立

  ⅰ)経(きょう):アーガマ(スートラ)
  ⅱ)律(りつ):ヴィナヤ(アーガマ同様古い聖典:僧の修道生活の規定や行事を定める)
  ⅲ)論(ろん):アビダルマ

 

2.1.2.説一切有部の分立と有部論書の発展

 原始仏教僧団の分裂の経緯はあまり明らかではありませんが、僧団の中の保守派・伝統尊重派である「上座部」と革新派・自由思想派である「大衆部」の2派に最初は大きく分裂したと思われます。その後、それぞれが、次々と細かく分裂していったに違いありません。
 説一切有部が上座部に属していたことは明らかですが、分裂の詳細な経緯は不明です。

 仏教勢力の進展につれて、僧団の用語にも変遷があります。ブッダ時代は主にマガダの地方語が、その後部派の分裂によって、部派ごとの種々の用語が採用されます。
 説一切有部の場合はサンスクリット語が取り入れられ、アビダルマ論書などにも用いられたとみられます。インドの正統的文化語というべきサンスクリット語の採用が有部の存在を重からしめた一因と考えられます。

 ここで、説一切有部のアビダルマ論書の発展を見てみると、以下のように三期に整理できます。
(下表1参照)

 以上ですが、有部の学説には、アビダルマ学派の中ではかなり特異なものの考え方があると思われます。すなわちそれは「説【一切有】部」という名称に示される基本的な考え方です。この考え方は、上記の発展段階の中のきわめて初期の段階からすでに成立していたと考えられます。この考え方は、論書(1)『サーギーティ・パリャーヤ』の中にすらすでに見られます。
 とすると、長い説一切有部の歴史は、全体から見れば、特異な思想の展開の歴史というより、むしろその思想の組織化・体系化の歴史というほうが適切ではないかと思われます。

 続いて、世親及び倶舎論についてその内容をみてみたいと思います。が、その前に、仏教思想の成立の背景となった、インド思想と仏教の関係をアビダルマを中心としてみてみたいと思います。

2.2.インド思想とアビダルマ

2.2,1.インド思想史におけるアビダルマ的傾向

 明確な事はわからないが、クシャーナ王朝時代(紀元前二世紀初頭)インド思想界全般に、教義や学説の組織化が始まり、「アビダルマ的傾向」が見られました。(下表2事例参照)

 アビダルマ的傾向とは、さまざまな概念を分類・整理したり、個々の概念の意味内容を詳細に吟味したり、そして自然現象や心理現象を子細に観察し、こまかく分析して、煩瑣な教義体系をつくっていくという傾向のことをさします。

2.2.2.研究者と布教者の存在

 インド思想界において、当時、学問を専業とするバラモンとは別に叙事詩やプラーナ(ヒンドゥー経の神話・伝説の文献)のもととなる様な物語を民衆に伝える吟遊詩人が存在しました。

吟遊詩人の話が集約されて叙事詩(マハーバーラタなど)やプラーナが成立しましたが、仏教でも研究者(アビダルマ論者)とは別に布教者がいたと考えられます。彼らに対して、アビダルマ論者は僧院(ヴィハーラ(精舎)やグハー(窟院)など)に定住したと考えられます。

2.2.3.正統派インド思想との論争

 アビダルマの煩瑣なまでの理論化には、仏教以外のインド思想との対決ということがあったと考えられます。
 アビダルマのかなに論ぜられている問題で、他の学派と共通する論点の事例を挙げてみると、以下のようにものがあります。(下表3参照)

 これらの論争交渉の時期は?と考えると、マハーヴィーバーシャー『阿毘達磨大毘婆沙論』(「表1参照)あたりから他学派との論争、影響がみられます。

 インド正統思想とアビダルマでは相互に影響を与えています。アビダルマ研究には、インド正統思想の研究が必要で、欧米では広く行われています。
 アビダルマがインド正統思想に影響した例としては、『ヨーガ・スートラ』の「現在の一刹那と過去・未来の関係」などがあり、これは有部の諸学説に基づくものと考えられます。

 

2.3.世親と倶舎論

2.3.1.世親伝

 インド仏教の歴史については、めざましく研究がすすんでいるが、不明確な事項もはなはだ多いといえます。史上の人物の個々の伝記などは、むしろ、ほとんどわかっていないと言ったほうがよいと言えます。
 シャカムニ・ブッダについても同様で、世親についても同じ状況です。
 そういった条件下で、知りうる世親の伝記資料などを整理してみると、以下のようになります。
(下表4参照)

 

2.3.2.世親の業績

 世親の生存年代は、四世紀説と五世紀説があるが、現在では五世紀説が有力となっています。また、新古二世親説(1951年、オーストリア、E・フラウワルナーが唱えた、世親2人説)があります。それは、アサンガの弟としての瑜伽唯識説論者(320-380)と倶舎論の著者(400-480)の2人とする説です。
 二人説は独創的な考え方ですが、『倶舎論』→『カルマ・シッディ』→唯識の諸論書という筋書きの上に見いだされる思想の論理的展開から、一人の世親の上にそのような思想の幅広い展開を見出すことは正当なことと思われます。
 その上で、世親の業績を整理すると次のようになります。(下表5参照)

 

2.4.倶舎論以後

 『倶舎論』以後現れた説一切有部の論書としては、今日、三つあります。(下表6参照)いずれも、『倶舎論』を批判し、説一切有部正統派の学説を主張しています。

 これらの批判的な論書の存在にもかかわらず、『倶舎論』は、説一切有部の教義学書として、また広く仏教教義の基礎学として、その後の長い仏教史を通じて、その名声をほしいままにしたと言えます。(『俱舎論』の注釈書や影響:下表7参照)


 

 

 本日はここまでとします。主にアビダルマの発展の歴史を見てみました。次回はアブダルマの世界観を中心にご紹介します。