(神代植物公園のアジサイ)
第3章 身延時代の日蓮、そして「まとめ」
1.身延時代
佐渡における日蓮の教説がほぼ完成した文永十年三月二十六日、突然の赦免の令が下り、日蓮は鎌倉に下り、この時、三度目の国諫(こっかん)と称するものを提出します。(下表11参照)
この国諫は、これまでに比べるとひどくあっさりしたものでした。聞き入れられないとわかると、さっさと鎌倉を去り、1か月半後身延へ向かい晩年をここ身延で過ごすことになります。
佐渡において教説を完成していた日蓮は、身延においてはその教説の布教に力を注ぎます。その方法は特に彼の弟子や保護者に多くの手紙を書くことだったのです。そして、その新しい思想の保護育成活動は成功し、多くの門下が育っていきます。そして日蓮の門下は、師日蓮同様、多くは戦闘的な布教者でもありました。
身延にとどまること9年、体のおとろえを感じた日蓮は弘安五年(1282)九月に身延を下山、故郷での保養に旅立ちます。しかし、九月十八日池上まで来て動けなくなり、十月十三日池上にて亡くなりました。
(日蓮の寂滅の様子 表12)
2.まとめ
熱情の人、日蓮、それは非常な自信家でもあり同時に内省の人、まさに多感な人でもあったわけです。それはおそらくは彼個人の性格でもあったのでしょうが、同時に、多くの思想家同様に彼の生い立ちが大いに関係していそうです。
平安、鎌倉仏教の開祖といわれる人たち、そのほとんどが身分の上下はあるもののいずれも、当時の支配階級に属する家系の出身でしたが、一人日蓮だけは千葉の漁師の息子という、自らも語っているように下賤の生まれでした。
このため、多くの開祖が自己実現のための出家の道を選んだのに比べ、日蓮は親の期待を一身に受けての「立身出世」の手段としての出家であったわけです。
そのことが、誰にも負けられない、特に恵まれた家のインテリには絶対負けたくないとの気負いが彼にあったとしても、当時の身分社会の中では当然の結果だったのではないかと思われます。叡山の大天才といわれた法然に対する異常なまでの対抗心は、もっとも具体的なそのことの現れと思われます。
その日蓮の熱情は、その弟子に、そして現代までも続いているように思われます。ということで、本文の著者の一人のことばをご紹介して、締めとしたいと思います。
『とにかく、この熱情の人は死んだ。この熱情の人が死んで、七百年になんなんとするが、まだその熱情は、世界に大きな波乱を投げようとしている。』
以上、「仏教思想概要12 《日蓮》」完
長らくお付き合いいただきありがとうございました。本日で、「仏教思想概要12 《日蓮》」の終わりです。
そして、当初予定したとおり、「仏教の思想」12巻を主体とした、「仏教思想概要」も本日で最終回となります。
一昨年の6月末からスタートして、2年強、長らくお付き合いいただきましたが、いかがでしたでしょうか。途中から覗いていただいた方も多いかと思います。引き続き、出来れば最後までお付き合いください。
なお、「仏教思想概要」は、本文の「仏教の思想」同様に「インド編」「中国編」「日本編」の各4巻をもととしているため、日本編は「空海」「親鸞」「道元」「日蓮」の4高祖に限られ、「最澄」と「法然」は含まれていません。
特に、最澄は空海とともに日本仏教の基礎を創造した高祖です。これから参考図書の検討も含めての整理開始となりますが、「仏教思想概要13《最澄》」が、ご紹介できればと思っています。可能なら「仏教思想概要14《法然》」も。
年齢的にももう頭が回らなくなってきています。いつになるか?完成するか?分かりませんが、期待せずに、気長にお待ちいただければ、幸いです。
では、新規UPはその時まで!
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