SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

勉強中の仏教思想、整理した概要をご紹介しています。

仏教思想概要5:《中国天台》(第5回・最終回)

2023-09-23 09:09:52 | 05仏教思想5

(紅葉と深大寺(調布市)本堂       2022年11月18日撮影)

 

 仏教思想概要5《中国天台》のご紹介の第5回目です。そして、本日で最終回です。
 前回までで、「第1章 中国天台思想の背景」、「第2章 天台智顗の仏教思想」とみてきましたが、
 今回は「第3章 智顗以降の展開」を取り上げ、仏教思想概要5《中国天台》のご紹介を終えたいと思います。

 

 

第3章 .智顗以降の展開

1.中国天台の展開

1.1.天台宗と華厳宗の対立

 既述の中国天台の系譜でも示したように、六祖妙楽湛然(みょうらくたんねん711-82)のころ、華厳宗と思想的に対立します。
 両者は、基本的には否定即肯定の「第三の絶対」に立ち、また両者とも「一即多・多即一」という点で思想的には共通の立場に立っていますが、以下(表32)の点では相違しています。


 一方、両者は対立しつつも相互の思想を取り入れて、それぞれの思想を発展させてもいます。(下表33参照)

1.2.山家派・山外派の論争

 天台宗の系譜でも簡単に説明しましたが、天台宗は、湛然以後百年余、唐末や五代の争乱、廃仏運動などで暗黒時代を迎えました。そして、十世紀の趙宋の代に入り、復興のきざしが見えます。しかし、その復興は天台と華厳の論争を天台内部に持ち込んだ、山家(さんげ)と山外(さんがい)、両派の争いでもあったのです。両者の主張の特徴を以下(表34)に示します。

2.日本における展開

2.1.最澄の生涯

 以上のように、中国天台は華厳との対立、内部分裂と展開しますが、その後山家派により明代まで本流としての布教が続いたことは中国天台の系譜で既述したとおりです。
 一方、上記の山家、山外両派の課題の中でも示したように、両者とも総合統一が課題であったために批判・対決の観念は消え失せるという問題を抱えることとなりました。そして、その問題解決は結局日本において果たされることになります。
 それには二つの理由が考えられます。一つは、仏教の諸経論が総決算の形で日本に入ってきたこと、いま一つは、平安末期の古今にまれな社会不安・動乱があげられます。
 日本に来て、真に強い批判精神と対決意識が実り、ひいては現実変革としての強力な生成も、日の目を見たのです。そして、これを実現したのは中国にて天台宗をはじめ仏教思想を学び持ち帰った最澄であり、その後継者達でした。(最澄の経歴を以下(表35)に示します。)


2.2.日本天台の進展と天台本覚思想の確立

 最澄における最大の課題は大乗戒壇の建立でした。当時、叡山で得度し、沙彌になっても、戒を受けて正式の僧になるには奈良におもむき戒壇をふむ必要があったのです。天台法華宗は公認されても、奈良仏教界の支配から脱するには叡山に独立戒壇を設ける必要があったのです。その戒壇の建立は最澄の死7日後に実現します。
 この結果、天台法華を中心として、華厳・密教・禅などの諸思想が統合され、叡山天台が最澄以降仏教ないし思想としては絶頂ともいうべき最後的段階まで発展(総合統一的仏教体系の確立)していきます。
 さらに、浄土教をも融合して「普遍・具体・生成」の真理の三要素を完全に近い形にまで結晶させていった、仏教思想の珠玉というべきものが成立します。→天台本覚思想の確立。

 

2.3.天台本覚思想の問題点と鎌倉新仏教の成立

 天台本覚思想の形成者たちは、真理の殿堂の奥深くにあって、もっぱら思索にふけった究理の徒であって、そのあまり絶対一元の境地にひたりきりとなり、現実に対して傍観的となるきらいがありました。生成の原理は十分とりいれながら、現実対決ないし改革という強力な生成の働きは出ないでしまったのです。
 時代背景として、平安末期の古今未曾有といわれるほどの社会動乱・不安は、この現実に目をそそぐとき、真理の殿堂奥深くあって絶対一元にふけることを不可能ならしめたのです。
 その結果、法然・親鸞・道元・日蓮など、叡山に学んだ代表的な僧が出現、天台法華を土台にまた批判材料として、現実社会を見据えた新たな思想を展開します。→鎌倉新仏教の成立
 これらの四人の代表者のうちその時代背景の違いもあり、法然と他の三人(親鸞・道元・日蓮)とは、思想的に明確な差がみられますが、それらをまとめてみると、(下表36)のようになります。

 天台法華あるいは仏教思想が歴史形成の原動力となり、現実改革・理想実現の積極的な生成力動を発動した好例を、鎌倉新仏教に見出すことが出来ます。

 

 以上、仏教思想概要5《中国天台》完

 

 長らくのお付き合いいただきありがとうございました。仏教思想概要の中国編の最初、「中国天台」をみてきました。いかがでしたでしょうか。
 インドで生成された仏教の諸思想を整理し、価値判断をした結果『法華経』を第一とした天台智顗は、中国的思考も加えて独自に天台思想を創始しました。
 その思想は、中国的な現実を重視した、仏の本性として悪ありという「性悪説(しょうあくせつ)」をもうちだされた、絶対的絶対、一即多・多即一、一念三千の総合統一的、全体的世界観であったと言えます。

 そして、この絶対観は次回に取り上げる「中国華厳」へも、思想的な対立はありつつも受け継がれていきます。
 ということで、次回からは「仏教思想概要6《中国華厳》」のご紹介となります。しばらくお待ちください。

 

 

 

 

 


 

 

 


仏教思想概要5:《中国天台》(第4回)

2023-09-16 08:16:36 | 05仏教思想5

(深大寺(調布市)・五大尊池と釈迦堂  2021年7月13日撮影)

 

 

 仏教思想概要5《中国天台》のご紹介の第4回目です。
 前々回から第2章の「天台智顗の仏教思想」と、本論に入り、前回は「2.天台思想の世界観」をみてみました。
 今回は「3.天台思想の展開」を取り上げます。

 

 

3.天台思想の展開

3.1.天台の絶対観

3.1.1.一般の絶対と仏経・『法華経』の絶対観
 人はすべてなんらかの形で「絶対」を求め、それをささえとして生きています。一般的な絶対は、相対的な現実と対立したかなたに、その存在は設定され、人間にたいして神を絶対者として立てたり、此岸(しがん)に対して彼岸に絶対界をたてたりするのがその例です(霊魂不滅説の霊魂や、バラモン教のアートマン)。
 これに対してシャカの説く絶対は、現実にあるものでもなく、現実と対立・隔絶してあるものでもない、超越の超越、絶対の絶対としています。これは「空」「空性」また「虚空(まったく無限定という意味)」につながります。
 『法華経』では、積極的表現として、真の絶対的真理をいいあらわしたものとして「一乗妙法」、真の絶対的世界をあらわしたものとしては「諸法実相」と称しています。

 以上をもととして、天台智顗は以下の三種の絶対を説きました。

3.1.2.天台智顗の絶対観-三種の絶対
 智顗は、『法華経』の「妙法」の解釈をとおして真の絶対の明確な論理づけを行い、「妙」は「絶」であり、「妙法」は絶対の真理である、と説きました。
 また、妙に「相待妙(そうだいみょう)」(相対的絶対)と「絶待妙(ぜっだいみょう)」の二種類があり、後者を真の絶対と説いたのです。さらに、「絶待妙」を二つに分け、三種の絶対により、真の絶対を説明しています。(下表23参照)





3.2.天台法華の実践論-『摩訶止観』

3.2.1.三種の止観-円頓止観
 天台智顗の実践論は「止観」の二字に要約されます。止観は大別して三種たてられ、これは天台智顗が師の南岳慧思から伝授されたとされています。(表24)


 『次第禅門』は、金陵の瓦官寺で講義したものを、大荘厳寺の法慎(ほっしん)が筆記したもの。『摩訶止観』と同様10章からなり、章名、構成もほぼ同じですが、禅が主軸となった初期の著作。坐禅の方法に詳しく、禅宗坐禅儀のもととなった『小止観』はこの『次第禅門』を要約したものとされています。
 智顗は彼の実践論の主著である『摩訶止観』(智顗の講義を二祖灌頂が筆録)において、その主論である「円頓止観(えんどんしかん)」について説いています。

3.2.2.『摩訶止観』の構成と内容
 『摩訶止観』は十巻十章より構成されます。以下(図2)はその構成概要です。

 さらに、その構成詳細とその内容は以下(表25)のとおりです。



3.2.3.相待止観と絶待止観-円頓止観
 『摩訶止観』の大半は、第七章の「正修」(止観の実践法)に割かれていますが、思想的な論点は第二章の「釈名」にあります。ここでは、前述の天台智顗の絶対観をあてはめて、止観には相待止観と絶待止観の二つがあり、絶待止観こそがまさに「円頓止観」であると説かれています。(下表26参照)


 智顗は円頓止観について以下(表27)のように説いています。書き下しの文語和訳でかなり難解ですが参考に付記しておきます。


 なお、智顗は、「絶待止観において、悪もまた止観の対象である。貪欲即是道などと説いている。しかし、貪欲・煩悩のおこるまま、よしとするのではない。そのように受けとって欲望をほしいままにする者は、仏法を滅ぼすものである。」と強くいましめています。

3.2.4.十乗・十境(十乗観法)と不説
 止観の実践法は『摩訶止観』の第七章で詳しく述べられています。そこでは、止観行の観察の対象として「十境」を立て、観察の方法として「十乗」という. 十種の観法が述べられております(これを一般的に「十乗観法」と呼ぶ)。
 解説は、まず十境から説明をはじめ、その後、十境のそれぞれに十乗をあてはめて説明しています。(下表28参照)(十乗観法の詳細は後述します。)


 十境のうち、増上慢、二乗、菩薩については不説となっています。
 『摩訶止観』は智顗の人間として人生を生きていく方途を示したもので、日常生活におこる身近な問題を中心として展開されており、このため、後部は不説としたものと思われます。

3.2.5.「止」の実践法-四種三昧
 話が前後しますが、『摩訶止観』第一章・第二項「修大行」では「止」の実践法である「四種三昧」が説かれています。
 三昧とは、サマディの音写語で、定とか、等持と訳され、心の散乱をおさえて、一所に安定させることを意味します。
 伝教大師最澄の例では、叡山の学生教育に際して、「法華コース(止観)」と「密教コース(遮那業)」を設けましたが、前者は四種三昧(下表29)を実習の中心としました。




 中でも「常行三昧」は 後世の浄土信仰に大きな影響を与えました。中国の南岳や五台山に常行三昧堂が建立され、日本においては慈覚大師円仁が帰朝後叡山に常行三昧堂を建立したのに始まり、日蓮も初期の絶対的一元論(仏凡一体・娑婆即浄土)から晩年には、釈迦浄土(霊山浄土)を彼岸に対置し、それに生まれゆくことを説く(相対的二元論へ)に至っています。
 智顗自身も、臨終に際しては西方浄土の彌陀を念じたとのことが伝記に見えます。

3.2.6.十乗観法の内容
 前後しましたが、ここで十乗観法(十境・十乗)の内容を説明しておきます。
 前述のように、止観の実践法は『摩訶止観』の第七章で詳しく述べられています。そこでは、止観行の観察の対象として「十境」を立て、観察の方法として「十乗」という. 十種の観法が述べられております(これを一般的に「十乗観法」と呼ぶ)。
 十境及び十乗の説明を以下(表30、31)に示します。

3.2.7.止観のまとめ
 最後に本文では「止観の真の成就」として、以下のようにまとめています。
 「十境十乗のもとに真理の体得ないし実践(観法)がなされていくが、そこで体得され実践される真理内容は、「空・仮・中」の三諦に尽きる。
 その三諦を即空即仮即中と総合的、一体的に体得・実践するのが、止観の究極なるものである。すなわちこれが「円頓止観」であり、「一心三観」である。
 そうして即空即仮即中から、空が必要な時には空が、仮が必要な時には仮が、中が必要な時には中が、時と場合に応じて自在に、また十全に発揮されるようになれば、ここに止観が、真に成就したことになるのである。」と。

 

 本日はここまでです。次回は「第3章 智顗以降の展開」を取り上げます。そして次回が最終回の予定です。

 なお、冒頭の写真は、調布市にある深大寺境内の五大尊池と奥に釈迦堂が写っています。
 釈迦堂には、国宝の銅造釈迦如来像(白鳳仏)が安置されていて、拝観できます。

 

 

 

 


仏教思想概要5:《中国天台》(第3回)

2023-09-09 10:03:28 | 05仏教思想5

(深大寺(調布市)・山門  2021年7月13日撮影)

 

 仏教思想概要5《中国天台》のご紹介の第3回目です。
 前回から第2章の「天台智顗の仏教思想」と、本論に入り、前回は「1.天台思想の真理」をみてみました。
 今回は「2.天台思想の世界観」を取り上げます。

 

2.天台思想の世界観

2.1.十如是と智顗による三転読

2.1.1.十如是とは
 天台法華の真理観から、もろもろの存在のありかたが規定され、また全体的な世界観が形成されてきます。十如是(じゅうにょぜ)は、存在のありかたを10のカテゴリーであらわしたものです。
 鳩摩羅什訳による『法華経』「方便品」第二には以下のように整理されています。(表16)


 原典や他の訳本では五個ないし、そのくりかえしになっており、表現もあいまいですが、十如是は、それまでに立てられていた事物の存在・性起(しょうき)についてのカテゴリーを鳩摩羅什が集めて、補整し、整合したものと考えられます。
 10個のすべてに「是(かく)の如き」の訳語が冠されているところから「十如是」と呼ばれ、この十如是が本末一貫した法として、もろもろの事物にそなわり、それぞれをささえる規範となっている。逆にいえば、もろもろの事物ないし、それをささえる規範(諸法)の具体的なあり方を示しています。つまりは「諸法実相」ということです。

 

2.1.2.智顗による三転読
 智顗は、十如是を空・仮・中という真理のあり方についての三つのカテゴリー(三諦)にあてはめて、転読しました。これを「三転読(さんてんどく)」といいます。
(『法華玄義』巻第二上による「如是相」と「本末究竟等」の場合 表17)



 つまり「究竟等」とは、空・仮・中の三法が即空即仮即中として円融具足されていること、空がいわれる時は一空一切空として空が十全に発揮されること、仮・中もまたそうであること、究極的にはここまでこなければならないことが説かれています。

2.2.十界互具

2.2.1.十界と大乗仏教における人間存在
 大乗仏教になると、もろもろの存在を価値的に10の階層に配列づけるようになります。これを十界(じっかい)といいます。(十界の構造 表18)

(補足説明)
 六界(地獄~天上)までは大乗仏教以前に成立し、残りの四界は大乗仏教により成立しました。『法華経』では、六界を三界と別称し、「三界火宅(さんがいかたく)」とも称しました。また、六界(三界)は迷いの世界で、迷いがその間を流転することから、「六道輪廻(ろくどうりんね)」などといわれます。 

 この十界における人間存在のあり方を、大乗仏教では次のようにとらえました。「人間は善悪・苦楽、あるいは無と一切との中間者である。人間存在の悪なる面を段階的に極限までひきのばすと、阿修羅から地獄までの系列が立てられ、善なる面をひきのばせば、天上から仏までの系列が立てられる。
 逆にいえば、極悪の地獄から極善の仏界まで伸張された十界は、人間存在に求心的に集約されるといえる。人間は地獄と仏の両面、善と悪の両面がある厄介な存在といえる。」と。

2.2.2.他宗教の人間観(例)
 仏教の人間観に対して、例えばキリスト教では、人間の二重性を多く霊と肉(体)の葛藤という形でえがきます。その結果、イエスに従って、肉を捨て、霊によって歩み、霊によって生きること、それが信仰であり、そこに救いが訪れるという善行主義を唱えました。
 また、ジャイナ教では、霊と肉、善と悪を峻別し、一方をとり、他方を捨てることで、救いを見いだそうとした、霊欲二元論に立ち、悪の根源は肉体の欲望に在るとし、断食などをして、徹底的に肉体の力や欲望をおさえつける方法、タパス(tapas)を奨励した苦行主義を唱えました。

2.2.3.仏教における人間観-二元峻別的考え方への反論-
 他宗派の人間観に対して仏教は次のようにその問題点をとられます。「霊と肉、善と悪の二元峻別に立って唱道された善行主義ないし苦行主義は、人間から救いの可能性を取り上げ、絶望の淵に落とし込む結果となる。これらの主義は逆に、反動・反逆の現象を誘発することにもなる。悪行主義や快楽主義がそれである。 その原因は、霊と肉、善と悪との架け橋を取り外して、両者を断絶せしめたことにある。」と。
 仏教では、二元峻別を捨て、次のように説いています。「善と悪、精神(心)と肉体(色)とは本来、個別的な実体を有して存在するのではなく、ともに空であり、その意味では両者は不二である(「善悪不二、色心不二、物心一如」)。現実の相下においては、善と悪、精神と肉体とは相対立する二として存在するが、永遠の相下においては、両者は対立をこえた不二として存在する。」と。

2.2.4.天台智顗の「十界互具」説
 智顗は以上の大乗仏教の人間観をもとに、彼独自の人間観「十界互具(じっかいごぐ)説」を以下のように説きます。
「十界において、善悪・色心の相対は天上界までであって、声聞からは善悪・色心の不二が志向されていく、さらに、本来、究極の相からすれば、十界全体が善悪・色心不二である。
 仏界は現実相としては究極の世界と考えられるが、本来は善悪二元対立をこえた善悪不二・一如をもって究極とする。同様に地獄も現実相は極悪だが、本来は善悪不二・一如に包まれたものである。
 このことは、十界すべてにあてはまる。つまり十界は、現実相としては10の異なる階層をなしているが、本来は善悪不二を共通背景として、相即・円融するものである。したがって、めざされるべきは、善ないし精神の一辺ではなく、善と悪、精神と肉体との統一である。両者は断絶して相容れないものではなく、相通ずるものということから、悪に即して善あり、善に即して悪あり、肉体に即して精神あり、精神に即して肉体ありといえる。

 地獄に仏界あり、仏界に地獄あり、十界それぞれに十界が備わっているということになる。(「十界互具」)」と。

2.3.対立の統一と性悪説

2.3.1.対立の統一としての人間存在
 以上から、仏教では「悪をなくして善の一辺になったときに、肉体を捨てて精神(霊)の一元になったところに、救いが達成され、永遠の生命がみいだされるものではない。善と悪の相克、精神と肉体との相関の当処に、救いは光り輝き、生命は脈打つのである。一口でいえば、対立の統一(「不二而二(ふににに)・而二不二」)である。」ということが明らかになってきます。

2.3.2.善と悪の相即-性悪説
 さらに、智顗はこの善悪の不二・空という仏教の根本的考え方を踏まえつつ、その積極的表現化につとめました。
《善悪相資説》(『法華玄義』第五より 表19)


 これらの善悪相即論が十界互具説に結び付けられて、ここに仏の本性として悪ありという「性悪説(しょうあくせつ)」がうちだされました。この説は、後世まで大きな影響を与えました。

2.4.一念三千論

2.4.1.一念三千論とは
 天台智顗の十界互具説や性悪説などの背景をなすものは、智顗の総合統一的、全体的世界観であり、それが結実したものが、いわゆる「一念三千(いちねんさんぜん)」論といわれるものです。
 智顗は、『摩訶止観』(巻第五上より)にて、以下のように説いています。(表20)


 以下、ここでの「三千世間」と「一念」について順次説明し、一念三千論についての内容分析してみます。

2.4.2.三千世間と一念

「三千」とは、極大の全体宇宙のあり方を表出したもので、以下のような計算法によるものです。(表21)


 一方、「一念」とは、 極小、極微の世界をさしたもので、必ずしも心に限定されないが、存在に対する主体的把握の尊重から、一念とか一心ということばで表現したものです。

2.4.3.一念三千論のまとめ
 「一念三千」とは、以上の一念と三千が相即していることを表わしたものです。一念は三千に遍満し、三千は一念に凝集され、このように一念のミクロと三千のマクロが相即・相関しつつ、宇宙の全体世界が構成されるということで、これが天台の一念三千論の帰結です。
 智顗は、一念と三千の相即のしかたについて、『摩訶止観』(巻第五上より)にて以下のように説いています。(口語訳の解説 表22)

 

 本日はここまでです。次回は「3.天台思想の展開」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要5:《中国天台》(第2回)

2023-09-02 10:02:47 | 05仏教思想5

(深大寺(調布市)・元三大師堂(がんざんだいしどう)  2021年7月13日撮影)

 

 仏教思想概要5《中国天台》のご紹介の第2回目です。
 前回は「第1章 中国天台思想の背景」をみてみました。今回から第2章の「天台智顗の仏教思想」と、本論に入ります。
 そして、今回はその最初ととして、「天台思想の真理」を取り上げます。

 

第2章 天台智顗の仏教思想

1.天台思想の真理

1.1.大乗仏教思想と天台智顗の空観

1.1.1.大乗仏教の「空」とは

 大乗仏教の空とは、もろもろの存在があい関係しあって変動しているという事実に立脚しています。一口に言って「縁起」ということ。縁起ということは、いかなる存在も独立・固定の実体(我)を有しないということです。つまり無我である。ここから空という観念が生まれたのです。
 空とは、有にしろ、無にしろ、一切の固定観の否定を意味します。非有非無(ひうひむ)・不生不滅(ふしょうふめつ)と称されるゆえんです。
 永遠に実在している(有・生)という考え方をこえるとともに、実在しない(無・滅)という考え方をこえたところに、空ということがいわれるのです。
 空なる真理を少し積極的に表現すれば、無限にして絶対の真理ということになるでしょう。
 精神とか肉体というものは限定的・対立的なものによってではなく、そのような限定・対立をこえたもの(空)によってささえられているからです。この限定・対立をこえたものを少し積極的に表現すれば、無限・絶対なるものということになります。仏教では、これを「虚空(こくう、アーカーシャ)と表現します。

1.1.2.天台智顗の空観

  智顗は、『四教義(しきょうぎ)』にて、空・仮・中の「三締・三観(さんたい・さんがん)」と、蔵・通・別・円の「四教」をあげていますが、これは天台法華思想の根底・起点が「空」の観念であることを示しています。
 また、『法華玄義』にて、「絶を論ずるは、有門に約して明すなり。是の絶をも亦絶するは、空門に約して絶を明かすなり」として、真の絶対(絶対の絶対)は空に根ざすものと説いています。
(参考:小乗仏教における空の理解の誤りと真の空の理解(表6))


 以下、空・仮・中の「三締・三観」、蔵・通・別・円の「四教」をとりあげ、天台智顗の空観を明らかにしていきます。

 

1.2.「空・仮・中」(三諦)と「三観」

1.2.1.従仮入空と従空入仮

 智顗は、『摩訶止観』(巻第三上)にて、AB二相(現物の諸事物における自他・男女・親子・老若・生死・善悪・美醜・貧富等々の二相)の関係(相依・相関の縁起関係=仮)について説いています。(表7)

1.2.2.中道第一主義

 智顗は、結果として、従仮入空にとどまらず、従空入仮になずまず、両観双存・双用(すいゆう)でなくてはならいないということ。つまりは、空と仮のいずれにもかたよらず、常に空仮相即の「中」を保持しなければならないということ。空に陥り現実活動の意欲を失ってもいけないが、仮にあって空を忘れてもいけないということを説いています。
 つまり、「双遮双照(そうしゃそうしょう)」がこの中道第一主義にあたるとも説いています。
 遮双照とは、「双遮」と「双照」の両者を合わせたものであり、類似の言葉が種々あるが、簡単に「対揚(たいよう)」などとも呼びます。(下表8参照)

1.2.3.智顗の止観・三観と三止

 前述の従仮入空・従空入仮・中道第一主義は「三観」について述べられたものです。智顗はこれを止にも適用して、以下のように説いています。(表9参照)


 三止三観は、空・仮・中の真理の三様(三諦)を体験・実践の面からいいあらわしたもの。また、便宜上、段階を追って説かれているが、本来は同時(不次第)のものです。
 この三止三観を同時的・一体的につかむことを「円頓(えんどん)止観」、ないし「一心三観」といいます。(三止三観に関する『摩訶止観』巻第五の上の論 表10参照)


 なお、「止観」とは、仏教真理習得のための実践法・修行法のことで、「止」と「観」の複合語です。(下表11)

1.3.全体システム-五時八教(智顗の教相判釈)

 中国には、インドで成立した仏教思想が経典として伝来してきたが、それは経典の成立年代・順序とは関係なく同時に入ってきました。このため、中国ではこれらの経典を整理し、内容の優劣をつける必要が生じたのです。この作業を教相判釈と呼びます。
 天台智顗は、この教相判釈の権威者であり、仏教の諸経教をシャカの説法の次第、順序にことよせて、五段階に配列しました。これを「五時」と言います。
 さらに智顗は、八教(化法四教+化儀四教)という仏教思想の分類法を考案し、五時と融合した「五時八教」と一般的によばれる仏教真理の全体システムを確立しました。

1.3.1.八教とは

 智顗の八教は、前述の空・仮・中の基本カテゴリーを根幹として、仏教の諸思想を分類した「化法四教(けほうしきょう)」と、説法の方法・形式上の分類をした「化儀四教(けぎしきょう)」を合わせたもので、このうち化法四教と、化儀四教のうちの秘密教は智顗の独創によるものです。(表12)

1.3.2.化法四教-蔵・通・別・円-

 智顗は化法四教にて、空・仮・中の基本カテゴリーを根幹として、仏教の諸思想を「蔵(ぞう)・通(つう)・別(べつ)・円(えん)」の4つに分類、真理の深さに応じてランク付けしました。その分類内容を整理すると以下のようになります。(表13)


1.3.3.五時と八教の融合

 智顗は彼の教相判釈として、経典の成立順を五時(『華厳経』・『阿含経』・『方等経』・『般若経』・『法華経』)にて解釈しました。さらに、これと八教を融合させました。(下表14参照)


 五時に沿って、八教との融合内容を以下に説明します。(表15)



 

 本日はここまでです。次回は「2.天台思想の世界観」を取り上げます。

 なお、冒頭の写真は調布市にある深大寺境内の元三大師堂です。元三大師は天台宗の第18代座主良源 (りょうげん、  912年- 985年)の通称で、慈恵大師とも呼ばれています。比叡山の中興の祖と言われ、おみくじの考案者とも言われています。
 堂内には秘仏となっている「元三大師座像」が安置されています。高さ2mの座像で、僧の座像としては日本最大級と言われています。25年ごとに御開帳されていて、次回は2034年の予定です。
 なお、令和3年に205年ぶりに、堂外に外出され、東京国立博物館で一般公開されました。私もこの時拝観しています。

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要5:《中国天台》(第1回)

2023-08-26 08:13:45 | 05仏教思想5

(深大寺(調布市)      2021年7月13日撮影)

 

 仏教思想概要5《中国天台》のご紹介の第1回目です。
 すでにご紹介のように、このブログは、「仏教の思想」(全12巻)を中心として、仏教思想の概要を整理してご紹介しています。12巻は、インド編、中国編、日本編の各々4巻から構成されています。
 ということで、「釈迦仏教」、「アビダルマ」、「中観」、「唯識」のインド編が前回で終わり、今回より中国編4巻(天台、華厳、禅、浄土)がスタート、その最初が「中国天台」です。

 前回の最後にお話ししたように、「釈迦仏教」「アビダルマ」「中観」「唯識」とインドにおいて展開された仏教思想ですが、中国では、これら順次形成された仏教思想が、その形成順に関係なく、同時にもたらされることとなりました。したがって、それらを理解しどのように整理するかの作業がまず求められることとなりまました。
 その第一人者が「天台智顗」でした。智顗はその結果『法華経』が最高の教えであるとの考えに至り、「中国天台宗」を創始しました。

 仏教思想概要5はこの天台智顗の思想を中心にご紹介となります。全3章にまとめましたが、5回程度に分けてご紹介したいと思います。
 今回は「第1章 中国天台思想の背景」を取り上げます。

 

第1章 中国天台思想の背景

1.天台智顗の経歴と中国天台宗の系譜

1.1.天台智顗の経歴

 中国天台宗の思想をみていくにあたり、まずは天台宗の実質的開祖者である天台智顗の経歴と中国天台宗の系譜をみてみたいと思います。

 天台智顗は、538年荊州(けいしゅう湖南省)華容の生まれ、俗姓・陳氏 南朝の名門南朝の梁(502-57)の時代に生まれ、陳(557-89)、隋(589-618)にかけて生涯を送った人です。没は597年、60歳でした。(下表1参照)







 

1.2.中国天台宗の系譜

 中国天台宗の系譜を下図1に示します。



 中国天台宗は、天台智顗がその思想を確立した実質的な開祖者ですが、智顗の師南岳慧思(えし515-77)のそのまた師である慧文(えもん、生没年不詳、北斎時代の人)を開祖とする考え方もあります。さらに、『法華経』のもととなった「空思想」を確立したインドの思想家龍樹(二世紀)を開祖者とする考え方もあります。このため、龍樹、慧文、智顗の何れを開祖にするかにより、何代目の継承者とするかの数え方も変わっています。
 なお、龍樹の著作の漢訳者でインドよりの帰化僧鳩摩羅什も慧文、智顗の思想に大きな影響を与えたと言われています。

 智顗が確立した『法華経』を最高の経典とする天台思想は、二祖の灌頂(かんじょう561-632)に引き継がれますが、次第に衰退(第一期中国天台宗衰退期)します。その後六祖湛然(たんねん711-82))の時に復興し、この頃より華厳宗との対立が顕著となります。
 湛然の後七祖道邃(どうすい、生没年不詳) 、行満(ぎょうまん、生没年不詳))らが引き継ぎます。両名より日本天台の開祖最澄は天台教学を学びます。しかし、その後の100年間は第二期の天台宗衰退期となります。

 100年後再び天台宗は復興しますが、宗派内に華厳思想の影響を受けた一派「山外派(さんがいは)」が台頭します。このため、天台宗は本来の天台宗に復帰すべきとする一派「山家派(さんげは)」との間で対立、分裂します。
 分裂後の天台宗は、山家派に中興の祖といわれた四明知礼(しめいちれい960-1028))が出るなど、その後も天台宗本家として引き継がれていきます。一方、山外派はやがて衰退し消滅します。

 

2.『法華経』の意義と構成

2.1.『法華経』の意義

2.1.1.題目『妙法蓮華経』とは

  『法華経』は『妙法蓮華経』を省略して称したものです。この題目の漢訳は、竺法護(*1じくほうご231-308?)が「正法華経」(286年訳)と訳した「正法」を鳩摩羅什が「妙法」(406年訳)と訳しなおしたものです。(*2参考:Wikipediaより)
*1竺法護:西晋時代に活躍した西域僧(インド北方の月氏国の出身)で、鳩摩羅什以前に多くの漢訳経典にたずさわった代表的な訳経僧。
*2『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(梵: सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma Puṇḍarīka Sūtra「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意の漢訳での総称であり、梵語(サンスクリット)原題の意味は、「サッ」(sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」だけが省略されて、例えば鳩摩羅什訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である。「法華経」が「妙法蓮華経」の略称として用いられる場合が多い。

2.1.2.「妙法」とは

  「妙法」は竺法護が訳したように「正しい法」、つまり一般的な仏教用語では「正法」と同意義ということになります。正法は仏教の最高の真理のことをさして使いますが、智顗は、この最高の真理(ここでは「妙法」)について、『法華玄義』(*1)にて以下のように説明しています。
 「妙を喚(よ)んで絶と為す。絶は是れ妙の異名(いみょう)なり」「妙は不可思議と名づく。麁(そ:相対なるもの)に因って名づくて妙と為すにあらず」(以上、巻第二上より)
 以上の意味は以下のとおりです。(下表2)

*1『法華玄義』:智顗は591年玉泉寺において、『法華経』にもとづく哲理と実践を講義し、講義結果は灌頂が筆録した。講義内容のうち哲理(仏教真理)は『法華玄義』としてまとめられた。なお、実践は『摩訶止観』にまとめられた。

2.1.3.蓮華とは

 智顗は『法華玄義』巻第七下にて、「法華の法門は清浄にして、因果微妙(みみょう)なれば、この法門を名づけて蓮華と為す」としています。
 これは、『法華経』の一般的な解釈と中国独特の現実重視の考えたかを融合したものです。

①前半の「法華の法門は清浄にして」について
 『法華経』「従地涌出品(じゅうちゆじゅつぼん)」第十四(第十五)よりの「蓮華が泥沼の中でしか生育せず、しかも泥沼に染まらず、清浄な花を咲かせるごとく、菩薩もまた泥沼の現実におりたちて、そこに真理の花を咲かせるということ」に基づいています。

②後半の「、因果微妙(みみょう)なれば、・・・」について
 道生の『妙法蓮華経疏』や、光宅寺法雲の『法華経義記』にて「蓮華は花と実を俱有するとし、そこから、因あれば果あることを例えたもの。(「妙因妙果の法」)」とみなしたことに準じています。因果は現実存在をささえる法則で、それをとりあげたところには、中国一般における現実具体の尊重という思惟傾向がみられるといえそうです。

 

2.2.『法華経』の構成

 智顗は『法華文句(ほっけもんぐ)』にて、『法華経』を以下(表3)の構成と解釈し示しました。





『法華経』は、もとは27章でしたが、天台智顗あたりから、「堤婆達多品(だいばだったほん)」が「見宝塔品(けんぽうとうほん)」(第十一)の次に加わり、現在の28章となったということです。(「勧持品(かんじほん)」(第十二)以下は1章づつ下がることになった)

 道正が因果の二部門に分けて解釈し、智顗もこれに習い、前半(迹門(しゃくもん):「一乗妙法」「二乗作仏」)と後半(本門(ほんもん):「久遠実成」「久遠本仏」)に大きく分けました。智顗は果門の本門を重視しています。(下表4参照)


 近世では、成立年代から3つ区分する見方もあり、内容的にも三要素に分割できます。(下表5参照)


 また、28章全体が経典の三分(序分、正分、流通分)構成となっており、迹門、本門それぞれも三分に分かれる構成となっています。

 

 本日はここまでです。次回は、「第2章 天台智顗の仏教思想、1.天台思想の真理」を取り上げます。

 なお、冒頭の写真は、東京都調布市にある「深大寺(じんだいじ)」です。
 深大寺は天台宗(別格本山)のお寺ということで掲載しました。都内では浅草寺に次ぐ古刹です。
 日本の天台宗は、系譜にもあるように最澄が中国に渡海して創始しましたが、同時に密教も学びます。
 その後特に第三代座主「円仁」(慈覚大師)の時に本格的に密教を取り入れ、いわゆる「台密」と言われる密教化が行われます。また、禅、律、その後さらには浄土も取り入れ、比叡山を中心に総合仏教学派となっていきます。
 これらの点は第3章で取り上げます。しばらくお待ちください。