SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

勉強中の仏教思想、整理した概要をご紹介しています。

仏教思想概要4:《唯識》(第7回・最終回)

2023-08-19 08:09:01 | 04仏教思想4

 

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 

 仏教思想概要4《唯識》の第7回目です。そして本日で最終回です。
 前回は、唯識の実践面を論理的にとらえる「三種の存在形態論」をみてみました。本日はいいよ輪廻するアーラヤ識からの離脱「根拠の転換」を取り上げます。

 

3.2. 根拠の転換と法界

3.2.1. 「三種の存在形態」における三種の関係
(1)三種の関係
 「三種の存在形態」における三種の関係を整理すると以下のように要約できます。(下表32)

(2)三種の関係の比喩
ⅰ) 『大乗アビダルマ経』「金を蔵する土」の比喩
 「金を蔵する土」とは、鉱山から採掘されたばかりの見たところ土塊のような金鉱のことです。これに対して三つの観点が成り立ちます。それは硬い物質、すなわち「地」の元素から成るものです。それは土塊とも、第三には金とも見られます。ただの土塊は焼錬すると、土はなくなって金が輝きだすのです。
 ここで、土塊であるときも、金になったときにも、それが「地」であることには変わりがないのです。「地」において、汚れた土塊から清浄な金への転換が、火による焼錬に通して行われるということを、この比喩は示しています。
 この比喩と三種の関係を図で示すと以下のようになります。(図3)

ⅱ) 『摂大乗論』「 蛇・縄・麻」の比喩
 この比喩は、四元素を縄の構成要素である麻に代置した蛇・縄・麻の比喩として、中国・日本の法相宗においてもよく用いられているものです。その比喩は図式的に示すと以下のようです。

《闇で見る蛇→実は縄だった→縄は麻(四元素)から成る
つまり、蛇:「仮構されたもの」、縄:「他に依存するもの」、麻:「完成されたもの」》

 この比喩は「金を蔵する土」の比喩が、「他に依存するもの」の上に仮構から完成への転換がされることを示したのとは異なって、むしろ三種の存在形態を段階的に説明しているようです。超世間的知識が「他に依存するもの」としての識を、縁起しているのみで自己存在性をもたないものとして否定するということを重点に置いている比喩です。

3.2.2. 超世間的な知識の発生
(1) アーラヤ識と輪廻(要約)
 アーラヤ識と輪廻の関係をもう一度整理してみましょう。それは以下のように要約できます。(下表33)

(2)超世間的知識の創出
 輪廻的存在からの超越はどうして可能か。夢から目覚めたときのように、自己も客体的存在も識が描き出した幻にすぎないと理解するのは、二元性を離れた超世間的知識であるが、その知識はどこから生じてくるのでしょうか。以下にまとめてみました。(下表34)


 瑜伽行はこの無漏の種子を熟成させます。教えを聞くことに続いて、「根源的思惟」があり、アーラヤ識を自己と思いこむ執拗な自我意識はそこにおいて崩壊し、真理の世界そのものが自己の本来の根拠と自覚されます。それは宗教的実践にたずさわる主体にとっては、根拠の転換であり、同時にそれは法界が衆生において現成(げんじょう)することにほかならないのです。

(3) 有漏の種子と無漏の種子
 無漏の種子が人間にとって本来あるものか、教えを聞くことで人間存在の根底に新たに発生するものかという問題が、唯識派内であったと『成唯識論(じょうゆいしきろん)』に記されています。このことについて考えてみましょう。

ⅰ) 無漏の種子の既存性
 瞬間ごとに現勢化する有漏の種子とともに、無漏の種子が人間存在の根底に本来そなわっているということは、みずから煩悩を超克しようとする主体としては肯定することができません。教えに随順しようとする意志は、教えを自らの所有にしようとする煩悩によって妨げられます。そして、この根深い煩悩の自覚は、自らを涅槃界に到達する可能性を全くもたない者とする絶望へと連なるのです。
 仏の教えすら思想の対象とされる限りは「仮構されたもの」です。その仮構を否定する能力は、アーラヤ識を根拠とする人間に内在するものではない。アーラヤ識自体が仮構の潜勢力を宿しているからです。

ⅱ) 根拠の転換の体験
 根拠の転換の体験によって、アーラヤ識を根拠として成り立っていた輪廻的存在としての自己は真に存在しなかったことが知られ、心は本来清浄であったことが理解されます。有漏の種子と無漏の種子とが無限の過去から共存していたのではなく、法界に融化して二元性を離れた超世間的知識を得ない限りは、自己は生来の凡夫なのであり、根拠の転換を体験したときには、自己は本来清浄なものとして自覚されるのです。

3.2.3.大乗仏教思想との関係とヴァスバンドゥ以後
(1)『華厳経』「如来蔵思想」と唯識
 唯識と「如来蔵思想」との関係は第1章でも取り上げましたが、根拠の転換によって現成する法界の描写において、唯識思想は、『華厳経』「如来蔵思想」と深い連関をもっていることが知られます。これら三者の思想がどのように唯識思想の「根拠の転換」へと繋がったかその系譜を簡単にみてみます。(下表35)

(2)『般若経』と唯識-「光り輝く心」
 仏教における智慧として四智(しち)(下表36参照)というものがあります。この四智は大乗仏教史上後期に展開された説(成立は『仏地経』から)で唯識派において特に取り上げられた思想です。


 ここにおいて、アーラヤ識が現勢的な識の根拠をなしていたように、仏智は「鏡のような知」を根拠にしているのです。それは最高の真実としての空・法性を知る「光り輝く心」なのです。
 つまり、唯識派では、『般若経』において強調された「光り輝く心」を心の本質と認めながら、輪廻的存在を見つめて、その根拠を追求しアーラヤ識の転換によって「清く輝く心」を自覚する道を明らかにしたのです。そして、その道が瑜伽行にほかならないのです。

(3)ヴァスバンドゥ以後の唯識派の新たな視点
 ヴァスバンドゥ以後の唯識学派における認識論的考察の発展は、新たな視点を生んでいきました。     それは、①「知識は必ずその内部に対象の形象をもつ」という視点と②「対象の形象は仮構されたものである」という二つの視点です。この見解の相違はやがて、以下の二つの系統に分派することとなりました。
 ①前者「有形象唯識論」(代表:ディグナーガ、後に経量部と合流「経量瑜伽派」へ)、
 ②後者「無形象唯識論」(代表:スティラマティ、後に中観派と合流)

3.3.唯識の実践哲学(詳細略)
 本文は、三部構成で、二人の著者(仏教専門の学者と西洋哲学者)によって書かれています。以上の概要は主となる第一部(仏教専門の学者)をまとめたものです。第二部は二人の学者の対談、第三部は西洋哲学者が担当しています。
 その第三部では、「大乗の実践哲学」と題して実践面を中心に取り上げて深堀した内容となっています。詳細にわたる内容のため省略します。興味のある方は本文をお読みください。だた、修行の階梯をまとめた表を参考として最後にご紹介しておきます。

 『唯識二十論』の冒頭の文句は唯識思想の特質を表わしています。
 「大乗は、三界は唯識なりと安立す(説を立てる)。契経(仏説とされる経典)に三界は唯心なりと説くを以ってなり」と。
 ここでの経典とは『華厳経』のことで、文句の出所は十地品によります。したがって唯識と華厳経の十地との関係が深いことが分かります。
 また、『唯識三十頌』のダルマパーラによる注釈書『成唯識論』(じょうゆいしきろん)では、唯識思想における十地の位置づけをもっともよく示しており、全体は五部構成で、第五部の菩薩道の階梯としての「五位」の中に十地は位置づけられているのです。
 十地も五位もそれぞれ、修行の階梯を示すものですが、唯識思想の関連著書では、それぞれの修行の階梯を説いており、それらを整理すると以下のようになります。なお、下表には含まれていませんが、『解深密教』においては十一の階梯(十一地)を説いています。

(表37 十二住、七地・修行道の四段階、五位、十地の関係)

(表38『成唯識論』構成と五位)


(表39十地のあらまし)

 

 以上、仏教思想概要4:《唯識》 完

 

 ということで、「仏教思想概要4:《唯識》」が本日で最終回となりました。
 如何でしたでしょうか。「中観」の空思想を前提に、唯識思想は「ただ識のみある」、それは輪廻するアーラヤ識(潜在意識)の存在である。その輪廻からの離脱(超世間的知識を収得)にはヨーガの実践のあるのみ。そこから、瑜伽行派との別名がつけられたわけです。
 アビダルマ論者でもあったヴァスバンドゥを中心に形成された唯識思想、実践法についても論理的に展開されていて、これまで同様難解でした。
 本文の抜粋版ともいえる内容で、概要として成り立っているかは大変疑問です。より知識を深めていただく意味でも「仏教の思想」本文を読まれることをお勧めします。

 さて、「釈迦仏教」「アビダルマ」「中観」「唯識」と続いた仏教思想概要も、これでインド編が終了となりました。次回からは中国編がスタートします。


 中国では、インドで順次形成された仏教思想が、その形成順に関係なく、同時にもたらされることとなりました。したがって、それらをどのように理解し整理するかの作業がまず求められることとなりまました。
 その第一人者が「天台智顗」でした。智顗はその結果『法華経』が最高の教えであるとの考えに至り、「中国天台宗」を創始します。
 ということで、次回より「仏教思想概要5:《中国天台》」のご紹介となります。しばらくお待ちください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要4:《唯識》(第6回)

2023-08-12 07:57:28 | 04仏教思想4

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 仏教思想概要4《唯識》の第6回目です。
 前回より唯識思想の本論に入り、前回は「識の変化」についてみてみました。本日からは、アーラヤ識からの離脱、つまり唯識の実践面を論理的にとらえます。そして今回は「三種の存在形態論」を取り上げます。

 

3.輪廻的存在の超越―「唯識」の実践

3.1.三種の存在形態

3.1.1.三種の存在形態とは
(1)夢の意義とアーラヤ識
ⅰ)輪廻の世界の全貌を知る
 理論的、実践的知識により唯識を理解しても真に理解したことにはなりません。自己意識が否定され尽くして捉えるもの(自己)と捉えられるもの(客体)との二元性を離れた「超世間的知識」が得られたときにはじめて、アーラヤ識を根拠として成り立っていた輪廻の世界の全貌が明らかになるのです。
 これは夢の世界と似ています。これは瑜伽行の修習における世第一法の階位(表11参照)に至って達するものです。超世間的知識を得ることは輪廻的存在の地平を超越することにほかならないのです。超越を通して、輪廻的根拠としてのアーラヤ識は、夢の意識のようにたち消えていくあり方において自覚されるのです。

ⅱ)「存在の根拠の転換」の体験
 アーラヤ識を自己と思いこむ個体性の原理として自我意識が完全に消滅することは、瑜伽行者には個体としての死であると同時に、法界が彼において現成することを意味します。つまり「存在の根拠の転換」を体験することとなるのです。

(2) 「三種の存在形態」論
 根拠の転換の構造を示すのが「三種の存在形態」(三性)という学説です。(下表27参照)


 三種はいずれも「無本性」(本性をもたないもの)であり、別々に存在するものでなく(並列的に存在しない)、それぞれに対するわれわれのかかわり方に応じてあらわれるものです。
 以下、『般若経』や『解心密教』などに表れる「三種の存在形態」のあり方をみていきます。

(3)『般若経』における三種の存在形態
 三種の存在形態論は唯識派の創設したものではなく、元来は『般若経』に説かれた教えです。『般若経』における存在形態につき、ディグナーガは『般若経の要義』(『八千頌般若経』の綱要をまとめたもの)において以下のように説明しています。(下表28参照)

(4) 『解深密教』における三種の存在形態
ⅰ) 『解深密教』と唯識との関係
 『般若経』における三種の存在形態の教えを重視し、これをよりいっそう組織化して説いているのが『解深密教』です。
 『解深密教』の第三章から第六章でこれらのことが説かれており、唯識派の論書との関係を以下のように整理できます。(下表29参照)


 三章アーラヤ識論は、実在が「仮構された存在形態」をとる根拠を明らかにし、六章止心・観察はその根拠の転換を可能にする方法。そして、四・五章三種の存在形態が「知られるべき事柄」のすべてを包括しているのです。

ⅱ) 三種の存地形態は「無本性」
 仏陀は五蘊・十二領域・十八要素をはじめ、さまざまな現象的存在があることを認めつつ教えを説いています。しかし他方では、すべての現象的存在は自己同一的な本性をもたず、発生もせず、本来寂静のものであるとも説いているのです。
 現象的存在はすべて「無本性」であるというこの教えにはいったいどのような隠れた意味があるのか。三種の「無本性」(下表30参照)を説くのはそのことを明らかにするためです。


 『解深密教』では上表を示したのちに以下のように説いています。
 「人々が三種の存在形態を、それぞれ別の存在性をもつものと考えるから、三種の「無本性」を説くのではなく、「他に依存するもの」「完成されたもの」の上に、仮構されたものとしての「本性」を付託するから、それで「無本性」を説くのである。」と。
 つまり、実在は本来「完成されたもの」であり、「他に依存するもの」としてあらわれているのもかかわらず、人々が壺とか布とかの「仮構されたもの」に執着するので、その執着を除くために、三種の無本性が明らかにされると説いているのです。
 三種の存在形態を知ることは、輪廻の鎖を断ち切り、涅槃を証得することにほかならない。それは瑜伽行の一環として理解されるべきものであるのです。
 以下、三種の存在形態について、やや詳しく見てみます。

3.1.2.仮構された存在形態
(1) 『唯識三十頌』(二十章)の説
 「仮構された存在形態」について、『唯識三十頌』では次のように説いています。
 「さまざまの思惟によってさまざまのものが思惟されるが、その思惟されたものは仮構された存在形態である。それは実在しない」と。
 人は通常、「壺」「布」などの語に対応したものが外界に存在し、それを知覚する器官として「眼」などがあると思っている。しかし、実際にあるのは、瞬間ごとにその内容を異にする知覚現象、すなわち現勢的な「識」のみであって、「壺」「布」も「眼」も、具体的事実としての知覚現象を分析する思惟によって抽出された要素であると説いているのです。

(2)『中辺分別論』(第三章)の説
 『中辺分別論』では、「世間人一般に認められた真理は、三種の存在形態という観点から見ると、すべて「仮構された存在形態」である。」と説いています。
 世間の常識では、物事は名称であらわされます。しかし、名称は事物に対応するのではなく、事物の知識を他人に伝達するために、古人が約束により定めたものにすぎないのです。
 常識や理論にもとづく世間の慣行は、実在をその「仮構された存在形態」においてとらえることで成り立っています。「仮構された存在形態」において実在をとらえるのは、「名称のとおり対象があるという執着」または「対象のとおりに名称があるという執着」にほかならないのです。

(3)『摂大乗論』(所知相分)の説
 「表象としてあらわれ、名称をあたえられるものが、そのまま外界に存在するものではない」ということを、『摂大乗論』は四種の理由をあげて論証しています。(下表31参照)

(4) まとめ
 以上、概念的に把握される「壺」や「布」などは「仮構された存在形態」であり、瞬間ごとの知覚表象であるのです。表象としてあらわれるのを概念化するのが「付記の思惟作用」であるのに対して、知覚表象がある事実をも認めないのが「否認の思惟作用」です。
 これらの思惟作用を離れることで「仮構された存在形態」を真に知ることができます。
 この思惟作用はアーラヤ識にたくわえられた潜勢から生ずるものです。この潜勢力を絶滅するときに、仮構を離れた唯識の世界を見ることができるのです。

3.1.3. 他に依存する存在形態
「他に依存する存在形態」については、『唯識三十頌』(二十一章ab)に次ぎのように説かれています。
「他に依存する存在形態は、縁によって生ずる構想作用である」と。
 構想作用は、現勢的な識と、その根底にある潜在意識とが、「構想作用」の概念によって包括されているということです。
 それが、「縁によって生ずる」ということは、潜在意識の中に置かれた種子から現勢的な種子が生じ、現勢的な識が潜在意識に影響を与え、相互の力によって瞬間ごとに内容の異なる識が生起してくることを意味します。すなわち、「他に依存する存在形態」とは、「識の変化」によって現出される世界であるということです。
 「他に依存する存在形態」は存在と非存在の両方の性格を持っています。縁によって生ぜられたという限りにおいては存在するものですが、それにもとづいて仮構された客体的存在はあるいは自己としては非存在なのです。
 例えば、夢の比喩、幻の比喩、蜃気楼や蚊飛症の比喩などがあげられます。

3.1.4. 完成された存在形態
(1)『唯識三十頌』の説
 「完成された存在形態」については、『唯識三十頌』の第二十一章、二十二章の二つの詩頌において説かれています。

ⅰ) 「二十一章cd」より
 「完成されたものとは、『他に依存する存在形態』が『仮構された存在形態』をつねにはなれていることである」
 この詩頌から、「完成された存在形態」とは以下のように理解できます。
「それは「他に依存する存地形態」と別のものでなく、また、全く同一のものでもない。「他に依存する存在形態」はつねに捉えるものと捉えられるもの、すなわち「自己」と「客体的存在」への執着の根拠となるが、それらは識を離れて独立に存在するものではない。思惟による分析によってそれらの要素を抽出する以前の識そのものを把握するためには、無始の時からの余習によっておこる二種の執着を否定しなくてはならない。この否定作用を行うのが思惟作用を離れた超世間的な知識であり、それにより「完成された存在形態」が知られる。」と。

 つまり、「完成された存在形態」はなんらかの形象をもってその知識の中にあらわれるものではないのです。その知識が知るのは、現象的存在がそれ自体として存在しないこと、すなわち「空」、あるいは現象的存在の本質としての「法性(ほっしょう)」であるのです。「完成された存在形態」とは空・法性にほかならないのです。それはまた、「真如」「涅槃」「法界」などの同意語であらわされます。

ⅱ) 「二十二章d」より
 「完成された存在形態が見られなければ、他に依存する存在形態は認識されない」
 この詩頌から、「完成された存在形態」とは以下のように理解できます。
 「「完成された存在形態」としての空や法性に人が目覚めたとき、彼には「他に依存する存在形態」が、すなわち万物はただ識のみであることがありのままに理解できる。(例:夢から目覚めたときに夢の内容は忘れ去られてしまうのではなく、ただ夢の中で見ただけで実在しないのだと知られること)」と。

(2)『中辺分別論』(第三章)の説
 『中辺分別論』では、真理の面から考察しており、「完成された存在形態」は究極的な真理に相当します。(なお、「仮構された存在形態」は一般的な真理が、「他に依存する存在形態」は対象がないのに対象があるかのようにはたらく構想作用が相当する)
 究極的な真理は「完成されたもの」と考えられ、以下の三種の語義解釈によって示されています

 ①「すぐれた知識(超世間的な知識)の対象」=法性、涅槃
 ②「最高の目的」=涅槃
 ③「すぐれた目的を有する(もの)」=涅槃に至る道

 これら三種の語義解釈は、「『般若経』における三種の存在形態」(既述3.1.1.(3)表28「四種清浄」参照)と同じ考えにもとづくものです。涅槃は不変異の「完成されたもの」であり、教えと道とは無倒錯(不変異と同意義)のそれなのです。

 

 本日はここまでです。次回は輪廻の鎖を断ち切る「根拠の転換」を取り上げます。そして、次回が最終回です。

 

 

 


仏教思想概要4:《唯識》(第5回)

2023-08-06 07:30:09 | 04仏教思想4

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 仏教思想概要4《唯識》の第5回目です。
 前回より唯識思想の本論に入り、最初に「実在論と唯識思想」についてみてみました。本日は前回の最後に課題とした「識の変化」を取り上げます。

 

2.識の変化

2.1. 「識の変化」の概念形成
2.1.1.識の変化の意義
『唯識三十頌』の冒頭でヴァスバンドゥは次のように説いています。「実に、さまざまな転義的に自己や客体的存在をあらわす表現が世に行われているが、その表現は『識の変化』にもとづくところとしている」と。
 つまり、「人格的実体(自己(アートマン)、生命(ジーヴァ)、生きもの(ジャントウ)、人間(マヌジャ)など)や客体的存在(壺、布など、仏教における蘊、処、界やヴァイシェーシカ学派の実体、属性、運動など)は実在していない。人格的実体は、実は、生じた瞬間に滅する識が次々に継起して形成する「識の流れ」である。そして、客体的存在も、識の内部にある表象にすぎない。識が瞬間ごとに表象をもつものとして発生することが「識の変化」である。」としているのです。
『唯識三十頌』でヴァスバンドゥは「変化は三種である」としています。(表21)


 変化とは、以上の三種の「識」そのものであるのです。識は実体ではなく認識機能そのものですから、識が機能することが「変化」という作用名詞であらわされているのです。つまり、「識の変化」は、識が識として機能することと理解できます。「識」がその様相を変えるということを意味しているわけではないのです。

2.1.2. 「識の変化」の定義
(1) サーンキャ学派における変化
 識が機能することが、なぜ「変化」と言われるのかをここで検討してみます。「変化」とは元来サーンキャ学派を特徴づける概念です。彼らは、現象的存在はすべてその質量因の中に潜在的に存在しているという学説をたてました。
 つまり、「原因の中に存在していないものが、結果として生じてくることはない。したがって、原因と結果は等質的であり、原因が変化したものが結果である。共通性をもった現象的存在はすべて同一の原因の変化によって生じた結果である。すべての現象的存在は三要素(純質(サットヴァ)・激質(ラジヤス)・翳質(えいしつ、タマス))から構成され、変化とは質量因が本質的に同一を保ちながら、あらわれ方(構成要素の排列のし方)を異にすること。」としているのです。

(2)唯識派の定義
 サーンキャ学派の変化の概念を「識」にそのまま適用できません。
 唯識派では「「識の変化」とは、識という基体がその本質を失うことなしに様相を変えることではなく、「識の流れ」において、その瞬間の識が直前の識とは別のものとして発生することを意味する。」としています。
 ここで、瞬間ごとに生ずる識を内容的に決定する要因はといえば、それは、「アーラヤ識」の存在です。アーラヤ識の潜在意識(善・悪・無記の性質をもった現勢的な認識機能の根底にあるもの)の中に瞬間ごとの識を決定する潜勢がたくわえられているのです。アーラヤ識の中に自己及び客体的存在を主観的に構成する潜勢力があるのです。

2.1.3.「識の変化」説の成立の経緯
 それでは、以下で「識の変化」説がどのように成立したかの経緯をみてみたいと思います。

(1)経量部の「随眠」説
 アーラヤ識説形成に深い関連をもっているのは、経量部の「随眠(ずいみん)」の解釈です。
 随眠とは、表面にあらわれた煩悩に対して、いまだ表面化しない煩悩、すなわち心内にひそむ悪への傾向を意味します。そして、それが現勢化することが、「纏綿(てんめん)」という術語であらわされています。
 これに対して、有部は、現在の心の性質を決定する要因を「結合」と「分離」という術語で表しています。
 「結合」:現在の心の性質を決定する要因として、心に伴わない存在要素(心不相応行法)、それは瞬間ごとに人間存在を構成しては過去の領域に去っていく多数の存在要素の流れの中で、特定の要素を現在の瞬間に集めるはたらきをする。
 「分離」:「結合」に対して、特定の存在要素が現在に生起するのを妨げるはたらきをする。(「結合」「分離」の事例)
 煩悩を伴った心の直後に善心が生ずるのは、善の心作用を集める「結合」のはたらきによる。それと同時に、煩悩の心作用が現在に生起するのを妨げる「分離」が作用する。

(2)経量部の種子説から『俱舎論』へ
 経量部は有部説に反対し、「種子(しゅじ)」説をたてます。
 経量部は、有部説の現在の心の性質を決定する要因として「結合」「分離」が要請されるとすれば、さらに「結合」「分離」作用を促す別の要因が必要となり、無限遡及に陥るとしたのです。経量部では、それらに代わるものとして、善や煩悩の心作用が現在に生起してくる原因を説明するために「種子」説をたてたのです。
 種子とは:すでに過去の領域へと去った心が、個体を構成する存在要素の中にのこした余習であり、時が至れば種子から芽が生ずるように現勢的になる可能性をもった潜勢力である。種子には三種類ある。「善心の種子」「悪心の種子」「無記の心の種子」、悪心の種子を「随眠」と呼ぶ。(有部では随眠は煩悩の一種とみなしている)

(3)『倶舎論』から唯識説へ
 ヴァスバンドゥは『倶舎論』において経量部の「種子」説を認めています。
 ヴァスバンドゥは、『倶舎論』において以下のように種子説を展開しています。
 種子を、結果の発生に対して直接的に、あるいは間接的に能力をもつ名色(みょうしき、心的・物的要素の集まり)と定義して、その能力が現実あらわれるのは、個体を形成する存在要素の流れの特殊な変化(相続転変差別)によるとしています。
 ヴァスバンドゥの種子説と唯識説の「識の変化」の概念には、明らかな関連性が認められます。個体を形成するのは、因果関係によって瞬間ごとに継起する多数の存在要素と『倶舎論』では説いていますが、唯識説では、すべての存在要素は識の中に収めとられるから、種子が現勢化するのは「識の流れの特殊な変化」によることになるとしているのです。

(4)『成業論』の異熟識
 ヴァスバンドゥは『成業論(じょうごうろん)』において、「異熟識」説を展開し、「アーラヤ識」説につなげました。
 経量部内において、個体を構成する存在要素の流れの中に置かれている種子を現勢化するまで保持していくのは「心」か「認識器官」か、という論争が起こります。ここで、「心」であることを説明するために、ヴァスバンドゥが認めた「通常の心の根底にあるいまだ現勢化しない心の種子を保持する識の存在」を「異熟識」としたのです。
 つまり、無想定(むそうじょう)・滅尽定(めつじんじょう)とよばれる瞑想に入ったときには、心の流れはいったん停止して無心の状態になるが、その瞑想を中止すれば、心は再び生じてくる。この無心の状態の間も異熟識は存在し、種子を保持しつつ流れを形成しているからと説いたのです。
 瞬間ごとに継起する心が異熟識から生ずるとする『成業論』の思想を徹底させれば、心の認識機能は外界の対象をまつことなく、全く自発的なものであることになります。そこから「唯識」であって外界の対象は存在しないという思想が生まれるのは自然な流れであるのです。

 以上、ヴァスバンドゥの著書と思想展開を整理すると以下のようになります。(表22)

2.2. 煩悩・業・輪廻

2.2.1.三種の識の特性
「識の変化」とは、アーラヤ識・自我意識・六識が機能することであり、これら三種の識の特性は以下のように整理できます。(表23)


2.2.2.潜在意識と現勢的な識
(1)ヴァスバンドゥ以前での「識の変化」
 「識の変化」という用語は使われていないが、三種の識はアサンガの『摂大乗論』に説かれています。またマイトレーヤの『中辺分別論』『大乗荘厳経論』には三種の識の名称はないが、「非実在の仮構」(既述第1章2.1.3.(3)参照)という概念はそれらの機能を総括しており、潜在意識と現勢的な識の区分は設けられています。

(2) 原因としての変化と結果としての変化
 唯識説における「識の変化」は、種子の厳正化と同時に、識が種子を生ずることを含めた概念です。スティラマティは『唯識三十頌注解』において、「識の変化」を「原因としての変化」と「結果としての変化」に区分して説明しています。(表24)


 異熟・等流の潜在力とは、異熟果・等流果を生ずべき潜勢力ということです。異熟果は原因とは種類の異なる結果、等流果は原因と同種類の結果のことです。
 現勢的な識とその余習との関係をスティラマティは次のように説明しています。
「善・悪の現勢的な六識はアーラヤ識の中に異熟の潜在力と等流の潜在力を置く。無記の六識及び汚れたナマスは等流の潜在力のみ置く。」と。
 このことから、「原因としての変化」は、六識(善・悪・無記)・自我意識(無記)がアーラヤ識の中に、同類の結果を生ずる潜勢力を置き、その潜勢力が成長することを意味します。
(現勢化した識(六識及び自我意識)は善・無記であっても有漏(煩悩をもつもの)であり、生ずると同時にその余習が潜在意識の流れの中にとどめられ未来に同類の識を生起させる。)

 「結果としての変化」の①は後述します。②は、アーラヤ識の流れの中で成長した潜勢力が、その力の頂点に達したときに、識の流れに変化がおこって、それぞれの潜勢力に応じた六識・自我意識が生ずることを意味します。
 現勢化した六識と自我意識とは、機能すると同時にその余習をアーラヤ識の中に置く。こうしてアーラヤ識と七種の識とは、交互に因となり果となる関係をなすことになるのです。

(3)「結果としての変化の①」について-業の世界
ⅰ) 「結果としての変化の①」について
 アーラヤ識と現勢的な識との相互因果の関係によって、煩悩の世界が描きだされます。
 ある瞬間に生起する識は、六識(五識と意識)と自我意識とのコンプレックスです。その識は道徳的には善・悪・無記のいずれかですが、悪である場合はもちろん、善あるいは無記である場合も二元性を離れた超世間的知識を持っていないかぎり、有漏(煩悩をもつもの)です。
 この煩悩の世界は、現在の生存が終わるとともに消え去るものではありません。アーラヤ識の流れは次の生存においても絶えることなく、そこに再び煩悩の世界を現出させるのです。このことが、先述で保留した「結果としての変化の①」のことを説明するものです。

 異熟果を生ずることが出来る原因(異熟因)は、有漏の善・悪の現象的存在のみです。(無記、及び無漏(煩悩がない)存在は果実を実らせることはできない。)したがって、「結果としての変化の①」の場合、異熟果の潜勢力をアーラヤ識の流れの中に置くことが出来るのは、現勢的な善・悪の六識のみです。
 富貴の家に生まれたり、天上界に生まれたりするなどの好ましい結果を招くのは、善業すなわち善い六識であり、地獄・餓鬼などの好ましくない境遇は、悪業すなわち悪い六識の招く結果です。

ⅱ)業とは
 現在の生存は過去世における業(ごう)の異熟果です。三界(欲界・色界・無色界)のいずれに生まれるか、地獄・餓鬼・畜生・人間・天人のいずれの境遇に生まれるかなどを決定する要因はすべて過去の業に求められます。
 業は現勢的な識のはたらきであり、潜勢力もアーラヤ識の中に置くが、同時に一生の間の業が未来の生存を規定するとも考えられます。業は以下に区分されます。
「引業(いんごう)」:次の一生をけん引する特定の業(例:「布施」の結果、富貴の家に生まれる、その場合の「布施」)
「満業(まんごう)」:一生の間の諸条件を満たすはたらきをする業(例:「布施」以外のさまざまな業、結果として容貌、健康、寿命などが決まる)

2.2.3.輪廻
(1)輪廻と「唯識」
 『大乗アビダルマ経』の詩節に、「無始の時からの要素が、一切の現象的存在のよりどころである。それがあるので一切の境遇があり、また涅槃の証得もある」と述べられていますが、この「無始の時からの要素」こそ、アーラヤ識にほかならないのです。
 識には以下二つの潜勢力があります。(表25)


 以上の二つで煩悩と業と後の世への出生の連鎖、つまり輪廻が無始の時から続けられているのです。

 「アーラヤ識は現在における煩悩の根拠であると同時に輪廻的存在の根拠である。ただし、「非実在の仮構」としてのアーラヤ識であり、過去・現在・未来の三世にわたって描き出される世界はただの表象にすぎない。」これこそが「唯識」という語の意味なのです。

(2)『中辺分別論』にみられる「非実在の仮構」の例
 『中辺分別論』の第一章には、「非実在の仮構」がさまざまな観点から考察されていますが、汚れという観点から見られる「非実在の仮構」が「十二支縁起」(下表26参照)であって、それは過去・現在・未来にわたる二重の煩悩-業-生(出生と生存)の関係を明らかにするものです。

2.2.4.実践への導き
 唯識思想は、既述のように、『般若経』や中観派の空の思想を前提に形成されました。その空の思想は、有部のアビダルマの「存在の分析」の批判を通して展開されました。
 つまり、アビダルマ・中観・唯識の思想展開をみてみると以下のように整理できます。

 アビダルマ:客観主義的な「存在分析」
  ↓ 批判として
 中観:自己も客体的存在も本来空である
  ↓ 自己と客体的存在への執着による煩悩世界の現出
 唯識:煩悩を断とうとする瑜伽行の実践

 唯識において、現勢的な識とアーラヤ識との交互因果の関係と次の生におけるアーラヤ識の発生についての理論的説明は、アビダルマのような客観的立場からの考察ではなく、実践的関心がその理論背景をなしているのです。

 

 本日はここまでです。次回は輪廻的存在を如何に超越するか、「唯識の実践」について取り上げます。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要4:《唯識》(第4回)

2023-07-30 07:54:18 | 04仏教思想4

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 仏教思想概要4《唯識》の第4回目です。
 前回までで唯識思想の歴史と思想背景をみてきましたが、本日より「第2章 唯識思想の中核」として、唯識思想の本論に入り、今回は「実在論と唯識思想」について取り上げます。

 

第2章 唯識思想の中核

1.実在論と唯識思想

1.1. 外界実在論批判
 前項にて、唯識哲学における考察の主題が「アーラヤ識」と「三種の存在形態」であることを明らかにしましたが、アーラヤ識を論ずるに先立って、まず「外界実在論」に対する唯識派の批判について語る必要があります。
 唯識説とは、表象は潜在的な経験の余力(①アーラヤ識)が現勢的になったときにあらわれるのであって、外界の対象の認識によって形成されるのではない(②外界実在論批判)という説のこと。それは経験的認識が「業」であることを明らかにし、経験的認識の地平を超えた絶対知を見いだすべきことを強調する学説です。(下表13参照)


 ここでは、『唯識二十論』及び『認識と対象の考察』の二著の内容に沿いながら、以下、唯識派の認識論の性格を明らかにしていきます。

1.1.1. 四種の疑問と唯識哲学
 『唯識二十論』のはじめにヴァスバンドゥは、「勝利者の子(仏陀の弟子)たちよ、実に、この三界は心のみのものである」(『華厳経』十地品)を引用して、この世のすべてのものは、眼病者の幻覚にあらわれる網状の毛のように実在せず、ただ表象としてあるにすぎない、という唯識思想を闡明(せんめい)にしています。これに対して、反論者からの四種の疑問が提起されています。(表14)


 これらの疑問について、ヴァスバンドゥは各々答論していますが、まとめてみると以下の趣旨となります。
 「唯識哲学は経験的認識の夢からさめること、超世間的な知識を得ることを根本的な課題としている。経験的認識がすべての人に共通しているということは、その認識が正しいことを意味しない。過去世における同質の業により、みな同じ夢を見ているにすぎない。
 経験的認識の普遍的妥当性を根本的事実として、その成立根拠を問うことは唯識思想家たちの意図ではなかった」

1.1.2. 三種の外界実在論とヴァスバンドゥの批判
 ヴァスバンドゥは、『唯識二十論』で、認識の対象が外界に実在するとする学説を三種に分類し、それぞれについて以下のように批判しています。(表15)



 特に、「全体」を仮象とみなす経量部の理論批判が背景にあったとみられます。
 また、「実体は存在しない」とする原始仏教以来一貫した仏教の立場においても、以下のように説いています。
 「語の表わすものは実在ではなく、語は単に日常的慣行のためにつくられた記号である。「牛」とか「人間」とかいう語であらわすものは、諸要素が仮に集まったものにすぎず、そのもの自体としての存在性をもつものではない。人間存在を五種の物理的・心理的諸要素の集合体(五蘊)としてとらえ、それ以外に人間としての実体を認めない。諸要素の集合体は一瞬ごとにその様相を変えつつ、一つの流れを形成する。」と。
 以下、本論では、各学派の実在論が続きますが、概要では省略します。ご興味のある方は本文をお読みください。

1.1.3.経量部の立場とディグナーガの実在論批判
(1)経量部の立場
 経量部は、ヴァイシェーシカ学派や説一切有部の実在論と、唯識学派のそれとの中間的な立場をとっており、その説は以下のように整理できます。(表16)


 ディグナーガは『取因仮説論(しゅいんけせつろん)』にて経量部の3つの仮象の概念を取り上げて以下のように説明しています。(表17)

(2) ディグナーガの実在論批判
 ディグナーガもその論著『認識の対象の考察』で、外界実在論を、「認識の対象とする二条件」を挙げ批判しています。認識の対象は以下の二条件を満たすものでなければならないとしているのです。(二条件と有部、経量部説の評価・批判 下表18)

1.2. 表象主義的認識論

1.2.1.知識の内部にある二契機
(1)何が認識の対象か?-灯火の事例-
 ヴァスバンドゥ、ディグナーガによって、外界実在論はことごとく否認されました。それでは、何が認識の対象と認められるべきでしょうか。
 それは、知識の中にある形象にほかならない、という唯識説がここで示されます。ディグナーガは、『認識の対象の考察』で次のように説いています。
 「知識の内部に認識されるものの形があたかも外界のもののようにあらわれるが、その形が認識の対象である」と。
 認識の対象は外界にあるのではなく知識の内部にある形象であるということは、知識が知識自体を認識するということにほかならないのです。知識は自己認識を本質とするというのが、唯識派の基本学説の一つなのです。

(灯火の事例)
 灯火は対象を照らすと同時に灯火自身を照らすことによって、対象が灯火によって照らし出されたことを明らかにする。
→対象が認識されるということは、われわれの知識の中に知識によって照らし出された対象と、その対象を照らし出す知識という「二つの契機」が同時にあることを意味する。

(2)ディグナーガの著書の事例
 ディグナーガは彼の著書『知識論集成』第一章(知覚章)において、知識内部の二つの契機について説いています。その一部を以下に示します。
①「きのう彼を見た」ということを想起する知識は、きのう生じた彼を対象とする知識を対象としている。知識の内部に二つの契機がないと、「彼」という知識と、「きのう彼を見た」という知識は区分されないことになる。
②想起は必ず過去に経験したものについておこる。過去に見たこともない動物を想起することはありえない。「きのう見た彼」を想起するだけでなく、「きのう彼を見たこと」も想起する。つまり想起するのは、「対象だけでなく」、「対象の知識」も想起する。このことは、対象の知識がきのう経験されたこと、換言すれば、「見られた対象」と「それを見るものとその内部に含む知識」がきのう発生したことを意味している。

1.2.2.ディグナーガの論理に対する二つの疑問
(1)知識の原因に対する疑問
 ディグナーガのあげた認識の対象の二条件は、①認識を生起させる原因であること、②表象と同一の形象をもつこと、でした。
 この二条件について、②の知識内部にある対象の形象はこれを満たすことは明らかだが、①については、知識と同時に発生するものがどうして知識の原因となりうるのかとの疑問が呈されたのでした。
 この①の疑問に対して、ディグナーガは以下の二つの答えをしています。(表19)

(2) 認識器官についての疑問
 もう一つの疑問は、外界に物質的存在がなければ、視覚器官も認識を生ずる作用をなしえないのではというもので、これに対して、ディグナーガは次のように答えています。
 「認識器官とはその本質は能力である。すなわちそれ自体は知覚しうるものではなく、その作用の結果である認識という事実から、それをひきおこす能力として推測される。その能力が、知識それ自体の中にあると想定すれば、外界の存在を要請する必要がないわけである。」と。

(3)二つの疑問のまとめ
 以上、提起された疑問に答えながらディグナーガは、知識の内部に、一方には対象の形象があり、一方にはそれを知る能力があることを論証しました。外界の対象は存在しなくとも、その両者の交互作用によって、無限の過去から知識は瞬間ごとに生滅しながら流れを形成している、というのがディグナーガの結論なのです。

1.2.3. 「識の変化」へ
(1)有形象知識論と無形象知識論
 知識はそれ自体の中に対象の形象をもつという見解は、「有形象知識論」と言われ、これは「無形象知識論」に対する呼称です。両者の説を整理すると以下のようになります。(表20)

 無形象知識論の弱点は、個々の知識の特殊性を説明しえない点にあります。対象の形象をもたない知識は、純然たる知る作用としてすべて同一であり、青の知覚・黄の知覚などの区分が出来ないことになります。

(2)「識の変化」の検討
 唯識哲学の主題は外界の対象がなくても認識が成り立つことを論証することにあったわけではありません。それは、「経験的認識の全体を夢として、その夢から覚醒する超世間的認識を得ること」が課せられた根本問題であったのです。この問題への立場で、唯識派は、「有形象唯識派」と「無形象唯識派」に分派したのです。(上表20参照)
 「識」を超える世界を見いだすためには、「識の変化」の概念の検討へと進む必要があります。(次項にて「識の変化」を取り上げます。)

 

 本日はここまでです。次回は「識の変化」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要4:《唯識》(第3回)

2023-07-22 08:38:37 | 04仏教思想4

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 仏教思想概要4《唯識》の第3回目です。
 前回は唯識思想の思想背景として「観念論の系譜」をみてみましたが、本日は唯識思想の元となったとも言える「瑜伽行(ゆがぎょう)」について取り上げます。

 

2.2.瑜伽行

2.2.1.ヨーガの成立・発展と瑜伽行派との関係
(1)ヨーガの成立と古典ヨーガ
 唯識学派は「瑜伽行派(ゆがぎょうは)」とも呼ばれます。つまりヨーガの実践(瑜伽行)がこの学派の性格を特徴づける名称となっているのです。
 ヨーガとはインドの古くから行われていた精神統一のための実修法で、その成立は紀元前三~四世紀に成立したウパニシャッドからとなります。(『カタ・ウパニシャッド』『シュヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド』『マハーバーラタ』などにみられます。)
 ヨーガには厳しい苦行を強調するものもあらわれますが、正統派は「古典ヨーガ」と呼ばれ、パタンジャリを始祖とするサーンキャ哲学と密接に結び付いたヨーガで、五世紀ごろ『ヨーガ・スートラ』が編纂されました。
 『ヨーガ・スートラ』の主題は「心のはたらきを滅すること」で、「八種の実修法」(表8)が認められます。

(2)古典ヨーガと仏教の止観との関係
 ヨーガの行法は仏教にも古くから取り入れられており、原始仏教時代からの「戒(かい)」・「定(じょう)」・「慧(え)」(仏教の三学)が比丘の修めるべき要諦とされていました。八種の実践法とは上表8のように結びつきます。
 ここで止心と観察(*)とは、仏教の修道においてつねに重要視され、三学の定と慧にあたります。この止心と観察が「ヨーガ」という語であらわされているのが、瑜伽行派の論書の中に認められます。『大乗荘厳経論(だいじょうしょうごんきょうろん)』や『解深密教(げじんみっきょう)』(六章「分別瑜伽品(ぶんげつゆがほん)」)などが相当します。瑜伽行派とは止観の実修を重んじる学派と理解してよいのです。

*止心:外界の対象に向かう感官を制御して心のはたらきを静める。
 観察:静まった心に対象の映像をありありと映し出す。

(3) ヨーガの階梯
 瑜伽行派の名称の由来を止観の重視に求めることは、止観は仏教のどの枝派でも重視するため無理があります。ただ、唯識派が止観の実修を骨格とする菩薩の修道の体系のことを「ヨーガの階梯」と呼んでいることには注目に値します。「ヨーガの階梯」という語は、『大乗荘厳経論』の「真理(ダルマ)の探究」章(漢訳:「述求品(じゅつくぼん)」)にみられます。(表9)

 ヨーガの階梯は、止観とも結びついており、また、大乗の菩薩の修習の階梯(「五位」)にあたります。同様の階梯は、倶舎論(賢聖品)の修習の階梯にもみられます(但し、倶舎論では最終段階を「阿羅漢」としている)。

2.2.2.瑜伽行派の成立
(1) 瑜伽師と瑜伽行派の形成
 『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』や『倶舎論』に「瑜伽師」と称せられる人々が登場します。彼らは、アビダルマの煩瑣哲学とは別に実践的関心を強くいだき、修道を明らかにすることに専心した比丘たちでした。
 また、煩瑣哲学とは関係なく、もっぱら修習の要諦のみを説いた『達磨多羅禅経(だるまたらぜんきょう)』や『修行道地経(しゅぎょうどうじきょう)』などがアビダルマ時代に存在していました。これら二経の原名は「瑜伽行地」であり、またマイトレーヤの『瑜伽師地論』も同じ原名の著作です。そのことから、唯識思想が瑜伽師系の人々によって形成されたと推察されます。
 特に『華厳経』の「三界は心のあらわれである」という思想を体験的に理解した人々により、唯識観という観法が生み出され、それが理論化されたのが唯識説であったと考えられます。
 『瑜伽師地論』は、修習の十七階位(十七地)を説く論書で、「菩薩地」(漢訳:『菩薩地持経』『菩薩善戒経』)はその中でも特に重要部分です。『瑜伽師地論』にも煩瑣な法門の分類なども多く見られますが、それらは実践体系の中に組み込まれ、哲学と実践はこの書において相即(事物の働きが自在に助け合い融け合っていること)しているといえます。

・『瑜伽師地論』の修習の階梯(表10)

 唯識学派が瑜伽行派と称せられるのは、このような修習の階梯を踏んで、実修と相即させつつ哲学的考察を深めていくことを、その特色としたからと思われます。

(2) 根源的思惟の階梯
 先述の「ヨーガの階梯」(表9)は、唯識体系における哲学と実践の相即を端的に示しています。 「唯識とは、ただ表象あるのみで、外界のものは存在しない」という論理は、ヨーガの階梯の五位の「加行道(けぎょうどう)」すなわち「根源的思惟」の階梯(ヨーガの階梯2.「安置」、大乗の加行道の階梯)で理解されます。
 ヨーガの階梯1.「容器」の教えは、仏が体得した言語で表現しえない真理を指示する「標識」にすぎないものです。その真理を理解するためには仏の体験を追体験する必要があり、この追体験に至る過程が「根源的思惟の階梯」です。

・根源的思惟の階梯(表11)

 ここで、「随法行」は先述のヨーガの階梯の第3から5の階梯にあたり、この「随法行」こそが、仏の体験の追体験であり、その修習を通じて菩薩はみずから仏であることを証するのです。

(3) 唯識思想と瑜伽行
 以上で、唯識思想は止観の修習を骨格とする「瑜伽行」と密接に結びついていることが明らかにとなりました。止観は瑜伽行派の体系における五位と関連し内容的に深められていますが、五位を説いていない『解深密教』においても、止観はいくつかの段階に分けられています。(詳細は省略)
 ここで止観の対象とされるのは、真理の世界から流れ出た教えで、具体的には十二分教(無常・苦とか、縁起とか、五蘊・十二領域・十八要素)のことです。さらに、大乗仏教では、「七種真如(しちしゅしんにょ)」(ことばで表現できない空の真理をあらわしたもの)も教えの内容とされています。
 唯識学派はこれらすべてを、瑜伽行に即した独自の観点から次の基本教理にまとめました。それが「アーラヤ識」と「三種の存在形態」です。
 以上は以下のように整理することができます。(下表12参照)

 つまり、唯識思想体系の理解そのものが、「ヨーガの階梯」の修習、すなわち「瑜伽行」であるのです。

 

 本日はここまでです。次回より「第2章 唯識思想の中核」として、唯識思想の本論に入り、次回は「実在論と唯識思想」について取り上げます。