SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

勉強中の仏教思想、整理した概要をご紹介しています。

仏教思想概要3:《中観》(第9回・最終回)

2023-06-18 08:04:42 | 03仏教思想3

 「仏教思想概要3:《中観》」の第9回です。そして最終回です。
 前回は、ナーガールジュナ以後の中観派として「後期中観派」、そのうちのシャーンタラクシタの思想について取り上げましたが、今回は、「後期中観派」の実践面と、ラトナーカラシャーンティ(ラトナーカラ)の思想について取り上げます。

 

3.2.3.後期中観派の実践大綱
 シャーンタラクシタが中観派と唯識派(瑜伽行派ゆがぎょうは)を総合した、ということは理論的な領域においてだけ果たされたわけではありません。むしろ実践面でそれはもっと完全に行われました。
 初期・中期の中観派も菩薩の十地(じゅうじ)というヨーガの方法を無視していたわけではありませんが、後期中観派において、十地をはじめとして、瑜伽行派が体系化し、実践してきたヨーガがほぼ全面的に受け入れられたのです。

 以下、後期中観派の実践の大綱(ヨーガの階梯)をカマラシーラの『修習次第(しゅじゅうしだい)』などによりながら順次みていきます。

(1)知恵の習得
 知恵は三種の方法によって得られます。(下表36参照)


(2) ヨーガの種類
 三種の知恵のうち修(ヨーガ)は次の三種があります。(下表37参照)


(3)止心の過程
 止心の過程は次の三工程に分類できます。(下表38参照)


(4) 「観(観察)」の段階
 「観(観察)」の段階は『入楞伽経(にゅうりょうがきょう)』の第十章第二五六~二五八詩頌の方法により行われます。(カマラシーラの解釈:下表39参照)

 三詩頌により、シャーンタラクシタの哲学の四つの階梯(第8回・図5参照)が修習されることになります。「①実存する物と心(有部・経量部)②形象ある心(有形唯識派)③形象ない心(無形唯識派)④空性(中観派)」という四つの瞑想の対象を直観するとともに、低い階梯の対象を批判して、高い段階に昇っていくことを意味します。

(5)十地
 双運(止観の統一の完成)後、瞑想者が仏の境地に至るまでに十二の段階があります。
「信解行地(しんげぎょうじ、予備段階)」→「十地(じゅうじ、菩薩の十地)」→「仏地(ぶつじ、仏の境涯)」(下表40参照)



3.2.4. ラトナーカラの思想-光り輝く心-
 後期中観派の主要思想家シャーンタラクシタの思想、カマラシーラを代表とした後期中観派の実践面、とみてきましたが、後期中観派の思想の最後に、シャーンタラクシタとともに後期中観派をけん引したラトナーカラ(ラトナーカラシャーンティ)の思想についてみてみたいと思います。

(1) ラトナーカラの略歴
 ラトナーカラの略歴を以下に示します。(表41参照)


(2)ラトナーカラの各会派批判
 ラトナーカラは他派及び自派のシャーンタラクシタなどの思想も批判し、自らの主張を論じています。(下表42参照)


*「照明」とは:ラトナーカラは世界のあらゆる現象はわれわれの認識の表象にすぎないが、この表象は青や赤という「形象」とそれを現象させる「照明」とからなりたっており、それらの形象は非実在であるが、照明は実在すると主張する。青の形象の認識は誤りとして赤の形象によって訂正されるが、認識の照明作用はつねに変らず自覚される。

(以上のまとめ)
 ラトナーカラは、心の本質を照明そのものとし、そこに唯識と中観の一致した真理を見つけました。『般若経』の「清く光り輝く心」にもう一度立ち帰って仏教哲学を統一しようとしたのです。

(3)ラトナーカラのヨーガの階梯
 ラトナーカラのヨーガの階梯は、カマラシーラの階梯と大体において同じですが一点で相違します。
それは、形象を離れた照明そのものとしての心が最高の段階を占め、それを越えた段階は設定されないとしているのです。
 学習(聞)と批判(思)を修習したのちに、瞑想(修)が行われるが、ラトナーカラはこれを四つの段階に分けています(それぞれの段階が止心・観察・両者の統一に分けられるのはカマラシーラと同じ)。止心においては瞑想の対象は直観されるが、理性的推究はそれに伴わない、観察においてはそれが伴う、としているのです。
(ラトナーカラの瞑想の四段階(下表43))

 ラトナーカラの特徴である瞑想の四段階の解釈は、『入楞伽経』の三詩頌の解釈の違いによるものです。
 つまり、「無顕現は照明そのものを越えるといわれるが、それは照明そのものを対象とすることを越え、それと一体になることである。」、と。「照明そのもののほかに、より高い立場で空があるわけではない。照明そのものと一体になった立場が唯識の真理の実在であり、中観の真理としての空性の知である。」、としているのです。

 

(4) ラトナーカラの思想のまとめ
 シャーンタラクシタは「最高の真実を心の形象や照明を越えた絶対の「空」」として表現しました。
 ラトナーカラは「最高の真実としての空が単なる無知とは異なるものであることを強調して、それを知の本質としての「光り輝く心」」と表現したのです。
 中観の空が、有に対する無、知に対する無知でないことははっきりしており、その点を強調する方法として、両者の違いがあるのであって、表現の違いにすぎず、最高の真実が、人がヨーガによって到達する究極の境涯であることには変わりがないのです。

 「仏教思想概要3 《中観》」完

 なお、本文は、三部構成で、二人の著者(仏教専門の学者と西洋哲学者)によって書かれています。概要は主となる第一部(仏教専門の学者)をまとめたものです。第二部は二人の学者の対談、第三部は西洋哲学者が担当しています。
 その第三部では、『中論』について取り上げて深堀した内容となっています。興味のある方は本文をお読みください。

 

 以上、長らくお付き合いありがとうございます。後期中観派では、唯識派と統合してしていきます。それは、特にヨーガという実践面で強く表れています。
 次回「仏教思想概要4」では、その《唯識》を取り上げます。しばらくお待ちください。


仏教思想概要3:《中観》(第8回)

2023-06-10 07:33:50 | 03仏教思想3

 「仏教思想概要3:《中観》」の第8回です。
 中観思想の本論の終盤に入っています。
 今回は、ナーガールジュナ以後の中観派として「後期中観派」、そのうちのシャーンタラクシタの思想について取り上げます。

 

3.2.後期中観派(瑜伽中観派)
 次に後期中観派の思想概要についてみてみます。後期中観派についてもすでに第1章でその概要を説明していますが、ここではその代表者でもあるシャーンタラクシタ、ラトナーカラシャーンティ(ラトナーカラ)の2人の思想を中心にみてみます。

3.2.1.インド仏教哲学の発展と二つの知識論
 シャーンタラクシタの思想をみる前に、当時の仏教哲学の状況をまずみてみます。

(1)インド仏教哲学の発展状況
 五世紀ごろ(世親の活躍時代)のインド仏教哲学及び以後の状況を整理してみると以下のようになります。(下図4参照)

(2)二つの知識論
 各学派の主張を整理してみると、小乗系(有部と経量部)と唯識系それぞれが知識論においては、二派(無形象知識論派と有形象知識論派)にわかれていることも分かります。(下表34参照)

3.2.2. シャーンタラクシタの批判哲学
(1)シャーンタラクシタの哲学体系分類
 シャーンタラクシタの批判哲学の説明に入る前に、彼の考える哲学体系をまずみてみると、次のように整理できます。(下図5参照)

(2)シャーンタラクシタの各会派批判
 上記体系を基に、シャーンタラクシタの各会派の批判・評価内容を整理すると、次のようになります。(下表35参照)


 シャーンタラクシタは、唯識を有部や経量部より高いもの、一般の理解においてはもっともすぐれたものと評価しました。
 中観と唯識を馬車の二つの手綱にたとえて、二学派の理論を習得してはじめて大乗仏教者いえるといっているのです。

 

 本日はここまでです。次回は「後期中観派」の実践面と、ラトナーカラシャーンティ(ラトナーカラ)の思想について取り上げます。そして、次回が最終回となります。

 

 

 


仏教思想概要3:《中観》(第7回)

2023-06-03 08:32:14 | 03仏教思想3

「仏教思想概要3:《中観》」の第7回です。
 中観思想の本論に入っています。
 前々回、前回と「中観派の批判哲学」をご紹介しました。今回は、空の理論のまとめと、ナーガールジュナの思想を宗教面から分析します。さらに、ナーガールジュナ以後の中観派として「中期中観派」をみてみます。

 

2.3.ナーガールジュナの論理形式-本体の論理と現象の論理-
 以上、『中論』を中心として、批判の哲学ともいえる中観哲学の性格をみてきましたが、最後に空の論理のまとめとして、ナーガールジュナの論理形式についてみてみます。
 ナーガールジュナの論理形式の特徴は、定言的論証(三段論法)は多用せず、仮言的推理(条件的論証)、ディレンマ、四句否定を武器としたことです。それは、自己の論理の主張より、他学派の理論の批判に専念したからです。

以下、四句否定から、その内容をみてみましょう。

2.3.1.四句否定
(1)四句否定の問題点と性格
 四句否定はナーガールジュナの創見ではなく、初期経典にも見られるもので、彼はその伝統を受け継いだだけのことです。例えば、『中論』(第二十五章第十七詩頌)の「世尊はその死後に、存在するとも、存在しないとも、その両者であるとも、両者でないとも、いうことはできない」という詩頌はブッダの教えとして伝わるものです。
 ここで、四句否定は、論理的には、第三句は矛盾の原理に反する、第四句は第三句に等しいという問題をもっています。(下表29参照)

 したがって四句否定を形式論理の中で理解することは困難です。むしろ、ある論議領域において成り立っている一つの命題を、それと異なった、より高次な論理領域から否定していく過程として、弁証法的性格をもっていると考えなくてはならないのです。

(2) 教育的段階としての四句
 四句否定の論理は、教育的な手法としても活用されています。(下表30参照)

(3)四句否定の意義
ⅰ)中観における四句否定の意味
 以上のように、「すべてのものは真実である」「いかなるものも真実でない」「あるものは真実であり、あるものは真実でない」「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」というものをはじめとする多種類の四句は、それぞれの問題に関するさまざまな人々の意見としてあるものです。四句の一々の見解はそれをもつ人の特定の理論的立場、特定の論議領域においてのみなりたち、いずれも一定の条件のもとでのみ肯定、否定されるものです。無条件に、絶対的な真であることはできないのです。
 このように、中観の真理では、四句のいずれも絶対的なものとしては否定するのが「四句否定」の意味であるのです。

ⅱ)最高の真実としての第四句が否定される理由
 第四句「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」は、最高の真実として中観の宗教的真理を示しているから、その点では否定されるべきものではありません。但し、第四句も第一、または第三句の成り立つ領域では否定されるべき性質をもつものです。つまり、中観の真理も一般的な論理領域では真であるとは限らないのです。
 例えば、『般若経』では、空を執着するものに対しては空をも空ずる必要があることが強調されます。
 つまり一般の理解(世俗)の世界と最高の真実(勝義)の世界を弁別し、二つの領域を一応異なったものと自覚する必要が生じるのです。

2.3.2.ディレンマの意味と名辞と実在の関係
 この後本文では、ナーガールジュナのディレンマの論理的手法、名辞(ことば)と実在の関係の論理的展開について詳細に説明しています。
 しかしいずれも、既述の「2.2.3. 原因と結果の否定(2)ディレンマ」及び「2.2.7. ことばと対象の関係の否定」の詳細説明となっています。このため、「概要」という趣旨からここでは省略します。ご興味のある方は是非本文をお読みください。
 ただ、本文最後に次の説明がありました。「ナーガールジュナの論理形式と本質は、彼を継いだ中観者たちによって必ずしも彼の意図どおりに正しく理解されなかった。」と。(詳細は後述)

 

2.4.ナーガールジュナの宗教
 ここでも、本文では空性(くうしょう)についての説明が続きますが、内容的には既述の空の論理に関する内容となっていますので、概要としては省略します。
 ここでは、「宗教」という視点で、ポイントとなるとと思われる部分を抜き書きしてご紹介しておきたいと思います

(1) アビダルマ仏教-区分された要素-の批判
 ナーガールジュナはアビダルマ仏教の区分された要素の世界を信じていません。区分されたもの、たとえば愛着がそれ自身で存在するならば、人がなくして愛着があることになります。
 ナーガールジュナは、『ラトナーヴァリー』第一章第四十、四十一詩頌(下表31)にて、次のように説いています。

(2) 迷悟一如
 ナーガールジュナは、『中論』第二十二章第十六、十五、十九・二十詩頌(下表32)にて、如来と輪廻について次のように説いています。

 

3.ナーガールジュナ以降の中観派

3.1.中期中観派
 ナーガールジュナ以降の中観派の動向については、すでに第1章にて説明しています。ここでは、その思想概要についてご紹介をしていきます。

3.1.1. 帰謬論証派と自立論証派
 第1章でも説明したように、中期中観派は帰謬論証派と自立論証派に分かれますが、その二つの論証方式は次のようです。(下表33参照)

 帰謬論証は当初は正式な論理法とは認められていなかったが、八世紀以後の後期の仏教論理学では、定言法と並んで、推理としての位置を確立していきました。
 インド論理学の領域では、定言論証と帰謬論証との関係は次のようになります。(下図3参照)

3.1.2.『中論』解釈の諸問題
 ナーガールジュナの論理は、ニヤーヤ学派やディグナーガの論理学のようにインド論理学の主流とは異質的なものでした。このため、中観派は他派との論争のため、ナーガールジュナのディレンマや四句否定をインド論理学の形式で表現する必要があったのです。
 しかし、帰謬論証派も自立論証派も中論の論理的証明に成功しませんでした。
 このため、帰謬法の支持者だったチャンドラキールティは、帰謬ということばを論理の超越という意味にとって、中観の論理的証明そのものを放棄し、その非論理性ないし超論理性を主張することで、中観を主体の問題、実存の思想ととらえようとしました。しかし、それにも成功しているとはいえないものでした。
 つまりは、中観につては、これを「弁証法」として理解すべきですが、これまでのインドや中国の仏教者がこれに成功したとはいえません。現代の課題といえる問題点です。
 なお、本文では、帰謬法の推進者ブッダ・パーリタ、定言法の推進者パヴィヤ、それぞれの主張と問題点が記述されていますが、ここでは省略しています。興味のある方は本文をご確認ください。

 

 今日はここまでです。次回は後期中観派を取り上げます。少しお待ちください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要3:《中観》(第6回)

2023-05-27 08:10:31 | 03仏教思想3

「仏教思想概要3:《中観》」の第6回です。
 今回は、前回途中までご紹介した「中観派の批判哲学」の続きです。

 

 

2.2.5.主体とその作用の否定

(1)作用と主体・客体
 「ある作用」と「その主体」と「その対象(客体)」との三者の関係は『中論』で多く論じられています。
(例1)「過ぎ去るもの」「過ぎ去る作用」「過ぎ去られるもの」(前述)
(例2) 中論第十章第一、第二詩頌 「燃えるもの(火)」「燃やす作用」「燃やされるもの(薪)」(下表20参照)

 
 ここでナーガールジュナの論じ方を調べると、作用・主体・対象の関係の分析に2つの異なった方法がとられていることが知られます。
 ①作用と主体または作用と客体との関係の分析
  前述の「過ぎ去るもの」と「過ぎ去る運動」、「過ぎ去られるもの」と「過ぎ去る運動」の関係と同じ。
 ②主体と客体との関係

  ここでは、まず①作用と主体との関係をみてみます。

(2)眼と灯火の事例
ⅰ)眼の事例
 ナーガールジュナは、『中論』第三章「眼などの感官の考察」で次のように説いています。(下表21参照)


 いったい眼の本体というときに、その本体は眼の属性である見る作用をもっているのでしょうか。本体は恒常であり、したがって作用をもたないが、それが現象するときに作用と結びつくという考え方からすれば、眼は本体には見る作用はないと言えます。
 つまり、ナーガールジュナの考え方は、有部の主張する「本体」の概念を前提としたものなのです。
 「眼の本体といったときに、本体は眼の属性である見る作用をもっていない、本体は他に依存しない自立的な存在であるから。もし独立した本体であるなら、見る作用は自らを見ることになる。しかし、眼は眼自体を見ることは出来ない。」とナーガールジュナは、説いているのです。

ⅱ)灯火の事例-自己作用の否定-
 上表の第三詩頌の冒頭に「灯火の喩」とありますが、ナーガールジュナは、灯火についても取り上げています。
 『中論』第七章第九詩頌(下表22)にナーガールジュナの論理の核心がみられます。


 ここで、自己作用として「灯火が自身を照らす」とは、灯火自身の中に「光の部分」と「闇の部分」という「他の部分」がなくてはならないことになります。つまり、灯火がたがいに矛盾する「二つの本質」をもつことになり、本体の単一性に反することになるのです。
 本体が自己作用するというときには、本体が主体と客体に分裂しなくてはならない。必然的に本体に二つの本質があるという不合理がともなうことになるのです。
 ナーガールジュナは、本体を設定する立場では、ものの自己作用も対他作用もいずれもなりたたなくなるという矛盾を指摘しているのです。かれが、ほんとうに否定しているのは、本体の立場そのものにあるのです。

 

2.2.6. 主体と客体の関係の否定

 次に、主体と客体の関係の問題についてみてみましょう。ナーガールジュナは、主体と客体との関係を検討(有部の論理の否定)するために、二種類の論理を使用します。
 ①無限遡及の誤謬
 ②相互依存の誤謬
の二種です。これらの論理は、インド論理学一般でも論理的誤謬と考えられたものです。

 まず、①無限遡及の誤謬についてみてみます。

(1)無限遡及の誤謬
 説一切有部では刹那滅について以下のように説いています。(下表23参照)


 ここで、「生・住・異・滅という四つの想状も「心に相伴わないもの」(心不相応行)という範疇に含まれ、制約された存在であるから、それぞれ四つの相状をもつことになる。この二度目の相状もまた四つの相状をもつことになり、この関係は無限に続く。」という無限遡及の誤謬の批判を受けることになります。

(2)相互依存の誤謬
  そこで、有部は、生を生ぜしめるものとして「生生(しょうしょう)」という相状をたて、生生は逆に生によって生ぜられるといって、無限遡及を断つ理論を主張しています。
 この理論を整理すると以下のようになります。(下表24参照)


 有部は無限遡及の批判をのがれるため生-生生の関係(相互依存の関係)をたてたのですが、これは、論理的には「循環論証」にほかならない誤謬であると、ナーガールジュナは批判しているのです。(下表25参照)


 相互依存は、AがBを生じ、BがAを生ずる、またはAがBを根拠づけ、BがAを根拠づける関係です。これは論理的には循環論証にほかならない誤謬であるのです。
 二つの論理的誤謬の指摘をナーガールジュナは「浄と不浄」「長と短」「父と子」「認識と対象」「原因と結果」などの対立概念の分析に適応しています。

 

2.2.7. ことばと対象の関係の否定
(1)「長と短」の事例
 ナーガールジュナが二つのものの関係を最終的に二つの対立概念の相互依存性に還元した理由は、それぞれの概念が自立的に存在する本体をもたないことを知らせるためでした。
(長短の例)
 本体とは、固定した意味を持った概念の外界における対応物です。「長と短」を例にとってみよう。
 長が短に依ってあり、短が長に依ってあれば、長も短も自立的な本体としてはないことになる。A&B=Aが長い、A&C=Cが長い、Aは長短二つの性質をもつ。Aは単一の長い、あるいは短い本体として存在しないのである。

(2)「空間」の例-定義の不可能性
 『中論』第五章もまたことばの問題を取り上げています。ここでは、空間の概念を取り上げています。空間は単に六大の範疇(生存のあり方を地・水・火・風・空・識の六つで説明するもの)の代表としてあげているものです。したがって、ナーガールジュナの議論は六大すべての概念に及ぶものです。
 ここで、空間はヴァイシェーシカ、ニヤーヤ学派の学説によると、単一・偏在、そして恒常な実体である、としています。有部の学説を整理すると以下のとおりです。(下表26参照)


 これに対して、ナーガールジュナは『中論』第五章第一~第三詩頌(下表27参照)は空間を例にとって定義の不可能性を説いています。

(3)ことばの本質
 「定義されていないものには定義はおこらず、定義されていないものにも定義はおこらない」ということは、ことばとその対象の関係を的確に表しています。
 このことを、ナーガールジュナは『中論』第五章第四、第五詩頌で以下のように説いています。(下表28参照)


 つまり、ナーガールジュナは「ことばは、その意味としての定義に厳密に一致するものはない。ことばが、それと一致するものならば、どうして同じことばを他のものに適用できるか?ことばとその対象との関係は同一でもなく別異でもない。とすれば、そのような矛盾をもつことばは対象と本体のない空なものである。」と説いているのです。

 

 今回はここまでです。次回は、ナーガールジュナの批判哲学のまとめと、彼の思想を宗教面から分析します。さらに、ナーガールジュナ以後の中観派として「中期中観派」をみてみます。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要3:《中観》(第5回)

2023-05-20 08:36:59 | 03仏教思想3

 「仏教思想概要3:《中観》」の第5回です。
 第3回より、主題である中観派の思想に入っています。前回は空理論としての「縁起」についてみてみました。今回は本論の中心となる「中観派の批判哲学」について取り上げます。かなり長くなりますが、お付き合いください。

 

2.2. 中観哲学の性格-批判の哲学

2.2.1.中観哲学の性格

 ナーガールジュナの主著『中論』『迴諍論(えじょうろん)』『広破論』は哲学体系理論ではなく、諸哲学体系を批判するための体系と呼べるものです。主に哲学体系の原理の批判、他学派のある教義を主題に選んでこれを批判しています。対象となる学派は「説一切有部、サーンキャ学派、ヴァイシェーシカ学派、ニヤーヤ学派」などです。

 上図2は、ナーガールジュナの批判の対象となった主題と思惟方法の類型を整理したものです。

 以下、この思惟の類型の批判を、主として『中論』の中から選んだ主題を例にとりながら逐次紹介していきます。これらの論理の基礎に横たわるものはナーガールジュナの本体の批判であり、また彼のことばの哲学です。

2.2.2.本体の否定

(1) 本体と現象
 『中論』の第十五章冒頭(第一、第二詩頌)でナーガールジュナは、次のように説いています。(下表11参照)

 ナーガールジュナの批判の視点は、他学派の(有部やヴァイシェーシカ学派など)の思惟方法に対して向けられています。
 ここで他学派の思惟方法とは、ある存在を「本体」と「現象」の二つの概念に分ける方法のことをさし示しています。
(例:「火」の存在)
・有部の主張:火の本体は過去にも未来にも変わらず存在する。その本体が燃える作用をもって現象しているのが現在である。
・ナーガールジュナの批判:「火の現象・作用」は多くの原因によって生じた複合的なものであり、刻々と変化しやがて滅する流動的なものである。それに対立したものとしての「火の本体」は、変化せず、単一であり、過去・現在・未来の三時にわたって恒存するものとなる。この火の本体は「燃える作用」という火の特性と矛盾する。燃えない火であり、事実として存在しない火である。

(2) 自己同一性と変異性
 ナーガールジュナは『中論』第十五章第八、第九詩頌(下表12参照)で、自己同一性と変異性について説いています。

 ナーガールジュナの視点では「人間の概念的思惟に本来的な誤謬がある。」としています。
 つまり、「もし本体というものに第一義的な存在を与えると、ものの変化が説明できなくなる。なによりも無常を特徴としている事実の世界は無視されてしまう。」としているのです。
(例)
「変化する火という事実を理解するとき、それを変化しない本体と比較しなくてはならない。変化を理解するために自己同一性を設定するが、それは変化と矛盾する。火を理解しようとして、(変化する)火の事実を否定してしまう。」

 

2.2.3. 原因と結果の否定

『中論』では「因果関係の否定」は第一章と第二十章で詳述しています。
 ここで、因果の分析の仕方の主なものには以下の二つがあげられます。
①「原因と結果との間には同一性も別異性もない」という形での因果関係の否定
 ここで、結果にとって原因は自己と同一なものか、別異のものかを考察するとき、この二つの選択肢だけを考えてそのいずれをも否定すればディレンマとなる。
②四句否定(しくひてい):①に対して、選択肢を原因は結果の自体・他体・その両者・両者のいずれでもない、という四つにふやしてそのすべてを否定する場合

 次に②四句否定について詳述します。

(1)四句否定
『中論』第一章、第一詩頌により、ナーガールジュナは以下(下表13)のように説いています。


 四句否定は、前述のように原因を自体(A)、他体(B)、その両者(C)、両者のいずれでもないもの(D)という四つに分けて、そのすべてを否定するものです。
 つぼに例にとってみると以下のように説明できます。
(A)つぼからつぼが生ずることになり不合理
   →サーンキャ学派の自因説の否定
(B)つぼは粘土からでなく、糸からからでも無関係なものから生ずることになる
   →ヴァイシェーシカ学派の他因説の否定
(C)(A)(B)の組合せ→否定
(D)自でも他でもないものから生じる、つまり、非存在から、また偶然に生ずることになり非合理的

 

(2)ディレンマ
 ナーガールジュナは、因果関係の否定の方法として、四句否定より前述①のディレンマをより多く用いています。
 それは、同一性と別異性を「本質」の問題としてのみ考え、四句否定の(C)(D)のような特称的な場合を除いてしまう場合に成立します。それを『中論』第十八章第十詩頌、第二十章第十九、二十詩頌(下表14)にみることができます。


 ナーガールジュナの因果に関するディレンマを整理すると以下のようになります。
(前提条件)
 原因・結果というものを本体としての存在と仮定すると、それは単一、独立、恒常的な本体であることになる
 ↓
 その結果、原因と結果との関係は同一か、別異かの二つの選択肢しかない(合成体とか本質の一部とかは成立しない)
 ↓
 その結果、原因は結果と同一の本体か、結果と異なった本体かのいずれかしかもちえないが、いずれも場合も因果関係を説明出来ない
(なぜなら)原因が同一と別異の複数の本体をもつことは不可能である。なぜなら、本体は単一であるという前提にそむくうえ、本質の世界において矛盾した二性質の同一物における共存を許す誤りになるからである。
 ↓
(結論)
 原因にしろ、結果にしろ、それは本体の空なものである。

 同一性と別異性のディレンマは、ナーガールジュナの論理の最も基本的なものであり、因果の問題に限定されないものです。


(3)別視点による因果の分析
 ナーガールジュナはディレンマによる論理だけでなく、別視点からの因果の分析をしています。
①因果を移行の問題としてとらえ、同一性と別異性、時間の差異による批判
 『中論』第二十章第七-九詩頌にて、ナーガールジュナは、次のように説いています。
(下表15参照)

②因果を主体と作用として考える場合=本質的にはことばの問題
 ナーガールジュナは、このことを『中論』第一章第四詩頌の後半で、諸原因は作用をもったものでもなく、作用をもたないものでもない、というかたちで吟味しています。このさいには原因を、原因の生ずる作用の主体とみなしているわけです。
 この作用とその主体の関係はナーガールジュナにとって本質的にはことばの問題であるのです。
 例えば、見る作用をもっているものが眼である場合に、眠っている眼はどうして眼と言えるのか、という問題になるからです。
 このことばの問題は、原因と結果についても言えます。
(『中論』第一章第五詩頌 下表16参照)


 眼によって、視覚が生ずるから眼が原因と言われる。それならば視覚が生じないかぎりは、眼は原因というわけにはいかないはずである、というわけです。
 すべてのものはことばの対象であるから、必ずことばとの関係においてみることができるのです。ナーガールジュナにとってことばは虚構であるから、すべてのことばはことばの対象としての本体をもたない空なものであるのです。

 

2.2.4. 運動と変化の否定

 因果関係をあるものの一つの状態から他の状態への変化、または時間という場における移行とみるならば、それはものの空間における位置の移動としての運動と同じように考えることができます。
 『中論』では運動の問題は第二章で考察されています。(下表17参照)


 チャンドラキールティは第一詩頌をゼノン的逆説で理解していますが、第三詩頌~第五詩頌は、この問題を少し異なった視点からナーガールジュナが分析していることを示しています。
(参考:ゼノンの逆説 下表18参照)
 ナーガールジュナは、運動という位置の移動の可能性に対してではなく、「過ぎ去られるもの」と「過ぎ去る運動」という二つの概念の関係を問題にしているのです。
「過ぎ去られるもの」と「過ぎ去る運動」との関係は、第六詩頌以下で、「行くもの」と「行く運動」との関係に移されて論じられています。(下表19参照)


 ナーガールジュナは、「運動」を問題にしているときにも、「ある作用とその主体との関係」を、「同一性と別異のディレンマ」に追い込んでいくのです。
 そこで、次項では、この「原因という作用の主体と結果を生ぜしめるという作用との関係」について、もう少し本質的に分析してみます。

 

 かなり長くなりました。まだ「中観思想の批判哲学」の途中ですが、続きは次回としたいと思います。