SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

勉強中の仏教思想、整理した概要をご紹介しています。

仏教思想概要3:《中観》(第6回)

2023-05-27 08:10:31 | 03仏教思想3

「仏教思想概要3:《中観》」の第6回です。
 今回は、前回途中までご紹介した「中観派の批判哲学」の続きです。

 

 

2.2.5.主体とその作用の否定

(1)作用と主体・客体
 「ある作用」と「その主体」と「その対象(客体)」との三者の関係は『中論』で多く論じられています。
(例1)「過ぎ去るもの」「過ぎ去る作用」「過ぎ去られるもの」(前述)
(例2) 中論第十章第一、第二詩頌 「燃えるもの(火)」「燃やす作用」「燃やされるもの(薪)」(下表20参照)

 
 ここでナーガールジュナの論じ方を調べると、作用・主体・対象の関係の分析に2つの異なった方法がとられていることが知られます。
 ①作用と主体または作用と客体との関係の分析
  前述の「過ぎ去るもの」と「過ぎ去る運動」、「過ぎ去られるもの」と「過ぎ去る運動」の関係と同じ。
 ②主体と客体との関係

  ここでは、まず①作用と主体との関係をみてみます。

(2)眼と灯火の事例
ⅰ)眼の事例
 ナーガールジュナは、『中論』第三章「眼などの感官の考察」で次のように説いています。(下表21参照)


 いったい眼の本体というときに、その本体は眼の属性である見る作用をもっているのでしょうか。本体は恒常であり、したがって作用をもたないが、それが現象するときに作用と結びつくという考え方からすれば、眼は本体には見る作用はないと言えます。
 つまり、ナーガールジュナの考え方は、有部の主張する「本体」の概念を前提としたものなのです。
 「眼の本体といったときに、本体は眼の属性である見る作用をもっていない、本体は他に依存しない自立的な存在であるから。もし独立した本体であるなら、見る作用は自らを見ることになる。しかし、眼は眼自体を見ることは出来ない。」とナーガールジュナは、説いているのです。

ⅱ)灯火の事例-自己作用の否定-
 上表の第三詩頌の冒頭に「灯火の喩」とありますが、ナーガールジュナは、灯火についても取り上げています。
 『中論』第七章第九詩頌(下表22)にナーガールジュナの論理の核心がみられます。


 ここで、自己作用として「灯火が自身を照らす」とは、灯火自身の中に「光の部分」と「闇の部分」という「他の部分」がなくてはならないことになります。つまり、灯火がたがいに矛盾する「二つの本質」をもつことになり、本体の単一性に反することになるのです。
 本体が自己作用するというときには、本体が主体と客体に分裂しなくてはならない。必然的に本体に二つの本質があるという不合理がともなうことになるのです。
 ナーガールジュナは、本体を設定する立場では、ものの自己作用も対他作用もいずれもなりたたなくなるという矛盾を指摘しているのです。かれが、ほんとうに否定しているのは、本体の立場そのものにあるのです。

 

2.2.6. 主体と客体の関係の否定

 次に、主体と客体の関係の問題についてみてみましょう。ナーガールジュナは、主体と客体との関係を検討(有部の論理の否定)するために、二種類の論理を使用します。
 ①無限遡及の誤謬
 ②相互依存の誤謬
の二種です。これらの論理は、インド論理学一般でも論理的誤謬と考えられたものです。

 まず、①無限遡及の誤謬についてみてみます。

(1)無限遡及の誤謬
 説一切有部では刹那滅について以下のように説いています。(下表23参照)


 ここで、「生・住・異・滅という四つの想状も「心に相伴わないもの」(心不相応行)という範疇に含まれ、制約された存在であるから、それぞれ四つの相状をもつことになる。この二度目の相状もまた四つの相状をもつことになり、この関係は無限に続く。」という無限遡及の誤謬の批判を受けることになります。

(2)相互依存の誤謬
  そこで、有部は、生を生ぜしめるものとして「生生(しょうしょう)」という相状をたて、生生は逆に生によって生ぜられるといって、無限遡及を断つ理論を主張しています。
 この理論を整理すると以下のようになります。(下表24参照)


 有部は無限遡及の批判をのがれるため生-生生の関係(相互依存の関係)をたてたのですが、これは、論理的には「循環論証」にほかならない誤謬であると、ナーガールジュナは批判しているのです。(下表25参照)


 相互依存は、AがBを生じ、BがAを生ずる、またはAがBを根拠づけ、BがAを根拠づける関係です。これは論理的には循環論証にほかならない誤謬であるのです。
 二つの論理的誤謬の指摘をナーガールジュナは「浄と不浄」「長と短」「父と子」「認識と対象」「原因と結果」などの対立概念の分析に適応しています。

 

2.2.7. ことばと対象の関係の否定
(1)「長と短」の事例
 ナーガールジュナが二つのものの関係を最終的に二つの対立概念の相互依存性に還元した理由は、それぞれの概念が自立的に存在する本体をもたないことを知らせるためでした。
(長短の例)
 本体とは、固定した意味を持った概念の外界における対応物です。「長と短」を例にとってみよう。
 長が短に依ってあり、短が長に依ってあれば、長も短も自立的な本体としてはないことになる。A&B=Aが長い、A&C=Cが長い、Aは長短二つの性質をもつ。Aは単一の長い、あるいは短い本体として存在しないのである。

(2)「空間」の例-定義の不可能性
 『中論』第五章もまたことばの問題を取り上げています。ここでは、空間の概念を取り上げています。空間は単に六大の範疇(生存のあり方を地・水・火・風・空・識の六つで説明するもの)の代表としてあげているものです。したがって、ナーガールジュナの議論は六大すべての概念に及ぶものです。
 ここで、空間はヴァイシェーシカ、ニヤーヤ学派の学説によると、単一・偏在、そして恒常な実体である、としています。有部の学説を整理すると以下のとおりです。(下表26参照)


 これに対して、ナーガールジュナは『中論』第五章第一~第三詩頌(下表27参照)は空間を例にとって定義の不可能性を説いています。

(3)ことばの本質
 「定義されていないものには定義はおこらず、定義されていないものにも定義はおこらない」ということは、ことばとその対象の関係を的確に表しています。
 このことを、ナーガールジュナは『中論』第五章第四、第五詩頌で以下のように説いています。(下表28参照)


 つまり、ナーガールジュナは「ことばは、その意味としての定義に厳密に一致するものはない。ことばが、それと一致するものならば、どうして同じことばを他のものに適用できるか?ことばとその対象との関係は同一でもなく別異でもない。とすれば、そのような矛盾をもつことばは対象と本体のない空なものである。」と説いているのです。

 

 今回はここまでです。次回は、ナーガールジュナの批判哲学のまとめと、彼の思想を宗教面から分析します。さらに、ナーガールジュナ以後の中観派として「中期中観派」をみてみます。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要3:《中観》(第5回)

2023-05-20 08:36:59 | 03仏教思想3

 「仏教思想概要3:《中観》」の第5回です。
 第3回より、主題である中観派の思想に入っています。前回は空理論としての「縁起」についてみてみました。今回は本論の中心となる「中観派の批判哲学」について取り上げます。かなり長くなりますが、お付き合いください。

 

2.2. 中観哲学の性格-批判の哲学

2.2.1.中観哲学の性格

 ナーガールジュナの主著『中論』『迴諍論(えじょうろん)』『広破論』は哲学体系理論ではなく、諸哲学体系を批判するための体系と呼べるものです。主に哲学体系の原理の批判、他学派のある教義を主題に選んでこれを批判しています。対象となる学派は「説一切有部、サーンキャ学派、ヴァイシェーシカ学派、ニヤーヤ学派」などです。

 上図2は、ナーガールジュナの批判の対象となった主題と思惟方法の類型を整理したものです。

 以下、この思惟の類型の批判を、主として『中論』の中から選んだ主題を例にとりながら逐次紹介していきます。これらの論理の基礎に横たわるものはナーガールジュナの本体の批判であり、また彼のことばの哲学です。

2.2.2.本体の否定

(1) 本体と現象
 『中論』の第十五章冒頭(第一、第二詩頌)でナーガールジュナは、次のように説いています。(下表11参照)

 ナーガールジュナの批判の視点は、他学派の(有部やヴァイシェーシカ学派など)の思惟方法に対して向けられています。
 ここで他学派の思惟方法とは、ある存在を「本体」と「現象」の二つの概念に分ける方法のことをさし示しています。
(例:「火」の存在)
・有部の主張:火の本体は過去にも未来にも変わらず存在する。その本体が燃える作用をもって現象しているのが現在である。
・ナーガールジュナの批判:「火の現象・作用」は多くの原因によって生じた複合的なものであり、刻々と変化しやがて滅する流動的なものである。それに対立したものとしての「火の本体」は、変化せず、単一であり、過去・現在・未来の三時にわたって恒存するものとなる。この火の本体は「燃える作用」という火の特性と矛盾する。燃えない火であり、事実として存在しない火である。

(2) 自己同一性と変異性
 ナーガールジュナは『中論』第十五章第八、第九詩頌(下表12参照)で、自己同一性と変異性について説いています。

 ナーガールジュナの視点では「人間の概念的思惟に本来的な誤謬がある。」としています。
 つまり、「もし本体というものに第一義的な存在を与えると、ものの変化が説明できなくなる。なによりも無常を特徴としている事実の世界は無視されてしまう。」としているのです。
(例)
「変化する火という事実を理解するとき、それを変化しない本体と比較しなくてはならない。変化を理解するために自己同一性を設定するが、それは変化と矛盾する。火を理解しようとして、(変化する)火の事実を否定してしまう。」

 

2.2.3. 原因と結果の否定

『中論』では「因果関係の否定」は第一章と第二十章で詳述しています。
 ここで、因果の分析の仕方の主なものには以下の二つがあげられます。
①「原因と結果との間には同一性も別異性もない」という形での因果関係の否定
 ここで、結果にとって原因は自己と同一なものか、別異のものかを考察するとき、この二つの選択肢だけを考えてそのいずれをも否定すればディレンマとなる。
②四句否定(しくひてい):①に対して、選択肢を原因は結果の自体・他体・その両者・両者のいずれでもない、という四つにふやしてそのすべてを否定する場合

 次に②四句否定について詳述します。

(1)四句否定
『中論』第一章、第一詩頌により、ナーガールジュナは以下(下表13)のように説いています。


 四句否定は、前述のように原因を自体(A)、他体(B)、その両者(C)、両者のいずれでもないもの(D)という四つに分けて、そのすべてを否定するものです。
 つぼに例にとってみると以下のように説明できます。
(A)つぼからつぼが生ずることになり不合理
   →サーンキャ学派の自因説の否定
(B)つぼは粘土からでなく、糸からからでも無関係なものから生ずることになる
   →ヴァイシェーシカ学派の他因説の否定
(C)(A)(B)の組合せ→否定
(D)自でも他でもないものから生じる、つまり、非存在から、また偶然に生ずることになり非合理的

 

(2)ディレンマ
 ナーガールジュナは、因果関係の否定の方法として、四句否定より前述①のディレンマをより多く用いています。
 それは、同一性と別異性を「本質」の問題としてのみ考え、四句否定の(C)(D)のような特称的な場合を除いてしまう場合に成立します。それを『中論』第十八章第十詩頌、第二十章第十九、二十詩頌(下表14)にみることができます。


 ナーガールジュナの因果に関するディレンマを整理すると以下のようになります。
(前提条件)
 原因・結果というものを本体としての存在と仮定すると、それは単一、独立、恒常的な本体であることになる
 ↓
 その結果、原因と結果との関係は同一か、別異かの二つの選択肢しかない(合成体とか本質の一部とかは成立しない)
 ↓
 その結果、原因は結果と同一の本体か、結果と異なった本体かのいずれかしかもちえないが、いずれも場合も因果関係を説明出来ない
(なぜなら)原因が同一と別異の複数の本体をもつことは不可能である。なぜなら、本体は単一であるという前提にそむくうえ、本質の世界において矛盾した二性質の同一物における共存を許す誤りになるからである。
 ↓
(結論)
 原因にしろ、結果にしろ、それは本体の空なものである。

 同一性と別異性のディレンマは、ナーガールジュナの論理の最も基本的なものであり、因果の問題に限定されないものです。


(3)別視点による因果の分析
 ナーガールジュナはディレンマによる論理だけでなく、別視点からの因果の分析をしています。
①因果を移行の問題としてとらえ、同一性と別異性、時間の差異による批判
 『中論』第二十章第七-九詩頌にて、ナーガールジュナは、次のように説いています。
(下表15参照)

②因果を主体と作用として考える場合=本質的にはことばの問題
 ナーガールジュナは、このことを『中論』第一章第四詩頌の後半で、諸原因は作用をもったものでもなく、作用をもたないものでもない、というかたちで吟味しています。このさいには原因を、原因の生ずる作用の主体とみなしているわけです。
 この作用とその主体の関係はナーガールジュナにとって本質的にはことばの問題であるのです。
 例えば、見る作用をもっているものが眼である場合に、眠っている眼はどうして眼と言えるのか、という問題になるからです。
 このことばの問題は、原因と結果についても言えます。
(『中論』第一章第五詩頌 下表16参照)


 眼によって、視覚が生ずるから眼が原因と言われる。それならば視覚が生じないかぎりは、眼は原因というわけにはいかないはずである、というわけです。
 すべてのものはことばの対象であるから、必ずことばとの関係においてみることができるのです。ナーガールジュナにとってことばは虚構であるから、すべてのことばはことばの対象としての本体をもたない空なものであるのです。

 

2.2.4. 運動と変化の否定

 因果関係をあるものの一つの状態から他の状態への変化、または時間という場における移行とみるならば、それはものの空間における位置の移動としての運動と同じように考えることができます。
 『中論』では運動の問題は第二章で考察されています。(下表17参照)


 チャンドラキールティは第一詩頌をゼノン的逆説で理解していますが、第三詩頌~第五詩頌は、この問題を少し異なった視点からナーガールジュナが分析していることを示しています。
(参考:ゼノンの逆説 下表18参照)
 ナーガールジュナは、運動という位置の移動の可能性に対してではなく、「過ぎ去られるもの」と「過ぎ去る運動」という二つの概念の関係を問題にしているのです。
「過ぎ去られるもの」と「過ぎ去る運動」との関係は、第六詩頌以下で、「行くもの」と「行く運動」との関係に移されて論じられています。(下表19参照)


 ナーガールジュナは、「運動」を問題にしているときにも、「ある作用とその主体との関係」を、「同一性と別異のディレンマ」に追い込んでいくのです。
 そこで、次項では、この「原因という作用の主体と結果を生ぜしめるという作用との関係」について、もう少し本質的に分析してみます。

 

 かなり長くなりました。まだ「中観思想の批判哲学」の途中ですが、続きは次回としたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要3:《中観》(第4回)

2023-05-13 10:13:27 | 03仏教思想3

 「仏教思想概要3:《中観》」の第4回です。
 前回から、第2章の中観派の思想に入り、中観派の創始者であるナーガールジュナの思想をみてみました。今回から「空の理論」に入り、今回は『中論』における「縁起」を取り上げます。

 

2.空の論理

2.1.『中論』の本質-縁起

2.1.1. 『中論』礼拝の詩頌

 『中論』のまっさきに以下の詩頌が掲げられています。
 「滅しもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数でもなく、来たりもせず、去りもしない依存性(縁起)は、ことばの虚構を超越し、至福なるものであるとブッダは説いた。其の説法者の中の最上なる人を私は礼拝(らいはい)する。」と。
 つまり、一でもなく多でもない依存性がブッダの教えの本質であり、『中論』はその教えを継承するものだ、とナーガールジュナはこれで表明しているのです。
 ここで依存性とした言葉は、「原語:pratîtya-samutpãda、漢訳:縁起」のことで、一般的にいって、ものが必ず原因によって生起(しょうき)することを意味します。つまり「因果関係」のことです。
 但し、ここでの因果関係は、時間を異にして存在する二つのものの間に生ずる関係だけを意味しません。つまりは、関係一般と考える方が比較的は正しいのです。仏教で考える因果は、われわれが考える因果よりも広い概念であるのです。
 (参照表9:仏教思想2アビダルマ、六因、四縁 )

2.1.2. 中観派の縁起解釈

 『中論』注釈者たちが、批判の対象とし、また自説としてあげる「縁起」の語義解釈の主なものには以下の三種の説があります。(下表10参照)

 中観派は、有部の恒常的な本体が刹那滅的なものとして現象することを認めません。また、縁起を時間の過程における生起という、狭い意味の因果関係に限ることを避けようとしました。
 つまり、中観派の縁起解釈は以下のように整理できます。

①説一切有部の立場への批判
 (有部の説:「ほんらいは恒常的な本体である多くの実在要素が同時に共同して現象し、そこに現在一瞬しか持続しない経験的なものがあらわれることが縁起である」)
 ここで、中観派は、本体が現象することの解釈を批判しました。

②縁起を狭い意味の因果関係に限定せず、「論理的な相対関係」も含むものと理解し、「これを縁するもの」と表現したのです。
 ↓
 つまり、本体を固執する立場での因果関係も論理関係も成立しない。関係一般というものは、同一とか別異とかの本体をもたないものの間にしか成立しないとし、バヴィアは般若灯論で、ただ「縁起」といわず、「生じもせず、滅しもしない、などという特徴によって限定された縁起」という説明をしているのです。

 

 本日は短めですが、ここまでとします。次回は本論の中心となる「中観派の批判哲学」について取り上げます。次回はかなり長くなります。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要3:《中観》(第3回)

2023-05-06 07:52:05 | 03仏教思想3

 「仏教思想概要3:《中観》」の第3回です。
 前回の第2回までで、第1章として、中観派の発展の歴史、続いて中観思想の基となった『般若経』を取り上げました。
 今回からいよいよ第2章の中観派の思想そのものについて触れていきます。今回は、中観派の創始者であるナーガールジュナの思想をみてみます。

 

第2章 「中観派」の思想

1.ナーガールジュナの思想

1.1.ナーガールジュナの思想の基本的立場

1.1.1.『中論』における「最高の真実」とは

 ナーガールジュナの主著『中論』とは一言でいえば、『般若経』の神秘家が見出した最高の真実の上に立って、区別の哲学を批判する書物と言えます。
 その『中論』において、ナーガールジュナの考える最高の真実とは何か?は、第十八章の詩頌の中にみられます。
 この章は自我の考察から始まっていますが、空の問題・ものの本性の問題・真実の定義・縁起の問題・真理の永遠性などに議論は展開していて、中観哲学の基本的立場をよく反映しています。
 ナーガールジュナはこの章で、『般若経』の三つの三昧(さんまい:空・無相むそう・無願むがん)を念頭に置きながら、瞑想により得られる神秘的直観の世界の真実を記述しようとしたと思われます。

 

1.1.2. 自我の否定

ナーガールジュナは、『中論』十八章の最初の四つの詩頌で、自我について説いています。
(下表6参照)

 この四つの詩頌によって、徹底的に自我意識を離れ、解脱の主体すら存在しないと説いています。人の執着の根源(自我への執着)を断つ、無執着の境地を説いているのです。つまり三つの三昧のうち「無願三昧」に言及しているのです。

(参考)仏教の四種の執着(表7)

 我語取(自我への執着)が基本で、これが断てれば、他の三取の執着も断つことが出来る。

 

1.1.3. 中観哲学独自の存在論

 『中論』の最初の四詩頌において、無願三昧に言及しているのに対して、第五詩頌以下で、空・無想の三昧について言及しています。
 宗教的な無執着の境地というものが、ただ宗教者の心理的状態というものにとどまらず、その存在論的な直観、認識論的な立場にもとづいているということを、ナーガールジュナは次に示そうとしているのです。
 徹底的に自我意識を離れ、解脱の主体すらも存在しないといいきるためには、そこに中観哲学独自の存在論がなければならないからです。
 それは、中論第十八章、第五、七、九詩頌に見ることができます。(下表8参照)

 古代インドの哲学者たちの思想は、知的活動、心情的活動、意志的活動を別なものと考える現代のわれわれとは違う考え方をしていたのです。
 つまり、知的活動(思惟)の結果、心情的な煩悩や意志的な行為が生じると考えたのです。

 

1.1.4. 分別から神秘的直観の世界へ

 ナーガールジュナは、「思惟」(原語:ヴィカルパ、漢訳:分別)は「ことばの虚構」(虚構:原語:プラパンチャ、現代語訳:言語的多元性)で起るとしています。
 人間の思惟は、実在とは無関係な虚構にすぎない「ことば」にもとづいているとしているのです。
 ナーガールジュナは、ことばを本質とした認識過程を倒錯だと考え次のように説いています。
→「思惟・判断から直観の世界へ→その結果、ことばを離れた実在に逢着(ほうちゃく)する=空の世界である。→空性はことばを離れた直観の世界の本質である。」と。

 

1.1.5. 合理主義と神秘主義の一体化

(1)インドの宗教や哲学における合理主義と神秘主義の関係

 『般若経』やナーガールジュナの瞑想の世界を神秘的直観と呼んできました。しかし、合理主義と対立する意味での神秘主義も、神秘主義的な要素をまったく含まないような合理主義も古代インドの哲学や宗教の中には存在しなかったのです。それは、インドの宗教や哲学が原則的には、人間の救済の原理を情緒的なものではなく、知識に置いていたということにもとづいています。
 神秘的な瞑想のめざすところは、人間を救済しうる「知識」であったし、合理的な知識が人間を救済するためには、神秘的な体験を必要としたのです。

 

(2)ナーガールジュナの思想展開

 ナーガールジュナはむしろ合理的な思惟を批判していった極限において、その合理性の根源に横たわっている非合理性、無知に気づく事で空の世界に入っていったのです。
 人間の無知を自覚させ、合理的な思惟の非合理性をあらわにする意味で、空性の知は神秘的であるのです。
 このような神秘性と合理性の転換が、「不二・一体の思想」に導いていくこととなりました。神秘的な直観の世界はそれ自体言葉や思惟の多元性を越えた全一なるもの、分けられないものであるとともに、それと対立している合理性の世界の根源にあるものであり、それと区分されないものであるのです。

 

 本日はここまでです。次回は、「空の理論」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要3:《中観》(第2回)

2023-05-01 08:32:36 | 03仏教思想3

 「仏教思想概要3:《中観》」の第2回です。
 第1回では、中観派の発展の歴史をまずみてみましたが、第2回の今日は、中観思想の基となった『般若経』を取り上げます。

 

2.『般若経』の成立

2.1.「菩薩」の登場

 ナーガールジュナには大乗経典にあらわれる菩薩と同じ性格が与えられていました。
 伝記にあらわれたナーガールジュナは劇的な、波瀾にとんだ生涯を送った人でした。激しい気性、さかんな批判精神、そして東奔西走する英雄的行動。こうした生き方は、シャカムニ・ブッダやその保守的な弟子たちの、平和、理知、冷静、円満といったことばで形容される生活とはかなり違ったものでした。
 しかし、こうした劇的な英雄がインド社会に新しい仏教者として登場するのは、ナーガールジュナに始まるわけではありません。『般若経』その他の大乗仏典にあらわれる菩薩たちには、同じような性格が与えられていました。大乗仏教は僧院の宗教(=小乗仏教)に対立する社会人の宗教であり、菩薩は社会人を代表する英雄でした。

 

2.2.「菩薩」登場の背景

2.2.1.原始仏教教団の分裂

 ブッダの死後教団の統一規制を図ったのは、マハーカーシャパ(大迦葉だいかしよう)を中心とする保守派(=上座部、主に出家仏教者)でした。
 彼ら出家信者は、王家や在家信者からの保護により、遊行生活から僧院への定住化とその生活スタイルは変化していきます。その結果の問題点として次のような点があげられます。
 ↓
・ブッダの神格化により、修行者の目標の変化→アルハト(阿羅漢)になること
・出家者にのみ可能な「修行」によりアルハトに到達→在家信者の締め出し
 ↓
 この結果、大衆部(主に、在家一般信者)は、上座部より独立し、彼らと対立することとなりました。(ブッダ死後100-200年ごろ)

 

2.2.2.大衆部の仏教

 大衆部は教義面では、「空の観念」「ことばへの不信」「シャカムニを法身の化身と考える『仏身論』に発展」など大乗仏教への道を準備しました。

・時期:西暦一世紀ごろ、『般若経』の編纂が盛んになる
・大乗の菩薩=『般若経』にあらわれた英雄

 大乗の菩薩は、迷い悩む衆生を導くため、自分の涅槃を断念して衆生とともに、この世の苦難の道を歩むのです。僧院の出家者である「声聞(しょうもん、ブッダの教えを聞く弟子)」、社会を離れて犀のようにひとりきりで瞑想して悟る「独覚(どくかく)」たちとはまったく種類を異にしていたのです。

 

2.3.『般若経』思想の社会性

2.3.1.八正道から六波羅密へ

 初期仏教や僧院仏教の修道の規範に「八正道(はっしょうどう)」というものがあります。これに対して、大乗菩薩の徳目としては六種のパーラミター(「六波羅蜜(ろっぱらみつ)」)が説かれています。両者は下図1のように整理できます。

 六波羅密のうち前の五つは、完全な知恵(智慧)によって裏付けられています。完全な知恵とは「空の知恵」、つまりすべてのものには本質はないという知恵のことです。(ここでは、徳が徳自身を否定するというようなはたらきと理解しておけばよいのです。「空」についは詳細後述)
 六種のパーラミターは修道の徳目であると同時に、社会的徳目でもあります。しかし、社会的な徳目が自分を否定することで社会的でなくなります。
 さらに、瞑想という宗教的修道も涅槃のためでなく完全なる慈善のため、つまり、ついには宗教性が否定され、社会性にもどるのです。

 

2.3.2.不二ということ

 六種のパーラミターは以下の二つの性格にまとめられます。

 ①その社会性ということ
 ②社会的なものと宗教的なものとの(俗なるものと聖なるもの)とが一体であること

 この二つの性格は、大乗の菩薩、あるいは大乗仏教一般を特徴づけています。
 ここで、第2の特色、聖俗一体をということを考えてみると、社会的・世俗的なものがそのままで宗教的価値をもってくるわけではありません。社会的・世俗的なものがみずからを越え出てそれ以上のものになるためには、「空の原理」がはたらいているのです。
(聖俗一体の事例 下表4参照)

 般若経の逆説があります。菩薩は菩薩でない、だから菩薩といわれる、と。そしてこの逆説はすべてのものについてくりかえされます。
 『般若経』には空・無区分という言葉を言い換えて、平等・不二(一体性)という言葉も頻出します。「ものが区分されず、本質的に空であれば、すべてのものは空であることにおいてみな等しく、一体である。世間的なもの、俗なるもの、また、出世間的・聖なるものも、相互に区分されず、等しいもの、一体のものとなる。」そこでは、社会的な行為がそのまま宗教的な行為になってくるのです。

 

2.4.『般若経』の神秘性

(1)三種の瞑想と「最高の真実」
 『般若経』の菩薩の物語は、出家教団の利己的なおごりを批判しています。それは無執着(むしゅうじゃく)ということを在家仏教者の倫理的・宗教的な態度として、大乗仏教の旗印として掲げているのです。そして無執着の基礎付けとして空の思想を展開しました。
 ここで、ものごとにとらわれない、という菩薩の心構えは、ものは本体をもたない、空である、という認識まで昇華させるところには哲学があります。
『般若経』は、菩薩の劇的な活躍の舞台であっただけではなく、神秘主義的な哲学者の舞台でもあったのです。
 仏教の初期の段階から、出家僧の中には、アビダルマの体系を組織した合理主義者とともに、これに反発し、仏教の真意は、深い瞑想によってのみ得られるものだという人々もいたにちがいない。このいわば神秘家の一群が般若経典の制作者の重要な一部をしていたのです。
 初期の般若経典では、瞑想は以下の三種に区分されていました。(下表5参照)

 瞑想は神秘家たちにとって、真実探求のただ一つの真実の方法でした。「ほんとうに存在するものは何か。ある対象に注意を集中して瞑想していると、その名前、そのかたちは消えてしまう。思惟すべきもの、表現すべきもの、知覚すべきものはすべて消え失せて最後に残った「最高の真実」、それは生じもせず、滅しもせず、来たらず去らず、作られたものでなく変化もしない。いかなる形でも現象せず、時間的にも、空間的にも無限・無辺である。それはすべての限定を離れ、静寂であり、孤独であり、静寂である。」と。それは、神秘的な直観の世界(原語を否定し、思惟を超越した純粋に直観の世界)であったのです。

(2)ことばへの不信
 『般若経』の神秘家たちは、また人間のことばを信用していませんでした。
 「アビダルマの区分はことばの世界にのみあり、実在するものにあるのではない。人間がことばによって考え、区分したイメージを実在するものそれ自体の本体としてもっているものではない。→それが、ものが空であり、無相であることの意味である」と。

(3)積極的表現としての「最高の真実」
 『般若経』の「最高の真実」は、「しるしがなく、願わるべきものなく、生ぜず、滅せず、云々」という空性の否定的な表現が用いられる例が多くみられます。一方で、「本来完全に清浄である」とか「心は本来清く輝いている」という積極的な表現にも注目すべきです。このような表現は、後期中観派、唯識派の重要な観念として継承されていきます。(詳細は後述)

 

3.アビダルマの世界―有部の「永遠なる本体」

 アビダルマの代表的な部派である有部(説一切有部)は、永遠なる本体の存在を主張します。それは、過去・現在・未来を通じて永遠にある(三世実有)の世界であり、思惟の世界を本体として、事実の世界を現象と考える世界です。(思惟は永遠である)
 これに対して、経量部、中観派、唯識派などは、直観だけを事実の世界として認め、思惟の世界は人間の構想としてのみ認め、永遠の本体を否定しています。
(アビダルマについては、「仏教思想概要2・アビダルマ」で詳しく取り上げていますので、ここでは、詳細は省略します。)

 

 本日はここまでとします。以上で、第1章が終わりとなります。ここまでは、中観派の思想内容の背景をみてきました。次回からいよいよ中観派の思想そのものについて触れていきます。しばらくお待ちください。