仏教思想概要2:アビダルマの5回目です。第4回まででアビダルマ思想の概要を見てきました。今回は説一切有部の代表的な論書『俱舎論』の思想概要を取り上げ、「仏教思想概要2:アビダルマ」の最終回といたします。
3.『俱舎論』の概要
アビダルマの体系の最後に、アビダルマの一典型としての『倶舎論』(世親著『アビダルマ・コーシャ』)について簡単に触れておきます。
3.1.『倶舎論』の役割
(1) ブッダの教えの要点
ブッダの最初の説法のテーマは四諦(したい)、つまり(苦(く)・集(しゅう)・滅(めつ)・道(どう)でした。
それは、「人生は苦である(苦諦)、苦の原因は煩悩である(集諦)、煩悩を滅すれば苦もまた滅する(滅諦)しかし、煩悩を滅すには正しい方法に従わねばならない(道諦)」ということです。
ここで、正しい方法とは、「何より正しいものの見方(正見)を確立する必要がある。そしてそのためには、正しい意志(正思)と行為(正語・正業)にもとづく、正しい生活(正命)を確立することが必要であり、正しい生活の確立には、正しいしかたで努力し(正精進)、精神を集中し(正念)、精神の自在を得る(正定)ことが必要である。」ということです。
究極としては、「苦」からの解放の3つの正しい方法として、特に・正見・正命・正定(禅定)を挙げることができ、これらは、それぞれ仏教修行道の眼目とされる「戒・定・慧」の三学に相当します。(正見=慧、正命=戒、正定=定)
(2) 四諦と『俱舎論』の関係
三学(戒・定・慧)と三論(経・律・論)の対応(経:定、律:戒、論:慧)からも、論の一典型としての倶舎論が慧学に傾斜していることは明らかです。
この著作は、八正道の正見に寄与するという形でみずから実践的な役割をにないながら、しかも同時に、仏教の実践的認識の構造を体系的に解明するという哲学的課題を追求しているのです。
もう一度、ブッダの教えの要点を整理すると以下のようになります。
人々を輪廻の苦海から救出すること。人々が輪廻の苦海に漂うのは「煩悩」のため
↓
このため、まず煩悩をしずめることが第一
↓
ここで、そのための最も優れた方法は→「択法(ちゃくほう)」(倶舎論の玄奘による漢訳:ダルマを正しく吟味弁別すること)にほかならないと倶舎論は説いているのです。
もともと「アビダルマ」というのは、ダルマについての考察をさし。「択法」の指針を提供するためのものでした。すでにブッダ自身のことばにも示されていたわけですが、「処々に散説」されていたに過ぎないものを集大成したのが、『倶舎論』にほかならなかったのです。
3.2.『俱舎論』の構成
『俱舎論』は九章(九品くほん)から構成されており、その任務は、四諦の構造を論理的に分析する点にあります。また、本著の中心テーマは「有漏と無漏の考察」にあります。
これらの関係は以下のように整理できます。(下表18参照)
なお、一章・二章(総説)は、独自の任務遂行の準備として、四諦の構造の論理的分析に必要なカテゴリーとしてのダルマの体系(五位七十五法)を明らかにしています。
3.3.倶舎論の中核
3.3.1.「有情の業」
倶舎論の体系の中核をなすのは、「有情の業(うじょうのごう)」ということです。「有情」および「業」は以下のように説明できます。(下表19参照)
つまり、「有情の業」を中核にすえるということは、生きものの行為を中核にすえることを意味します。
倶舎論では、世界をこの生きものの行為の所産にほかならないとしているのです。
例えば、第四章業品で「有情の業」(生きものの行為)が主題として扱われ、第三章世間品で、その行為の所産としての世界が主題として扱われています。
世間品では、世界は「有情世間」(生きもののさまざまな生存様式)と「器世間(きせけん)」(生存の場)から成るとされています。
さらに、「業品」では、有情世間と器世間にはそれぞれさまざまな相違があるが、それはただ有情の業の相違によって生じるとしています。
以上の、世間(世界)を業の所産とみる考えは、業を「行(ぎょう)」と同意義とみなし、「有為(うい)」を行の所産とみる解釈とかみ合っています。なぜなら、『俱舎論』第一章界品によれば、四諦のうち滅諦を除く苦・集・道の三諦を「有為」、この三体から道を除いた苦・集の二諦を「有漏」と呼び、有漏は世間と同義と見られているからです。
(参考:四諦と有為・無為、有漏・無漏との関係 下表20)
ここで、道諦は無漏で有為という中間的な位置を占めています。それは、煩悩を離れているが、因果関係の上にあるとされ、因果関係の上にある有為であるかぎり、行ないし業の所産とみなされるということです。
3.3.2.「業」とは
業については、先に広義の行為を意味するとして、①「思」(行為の準備段階としての意志の発動)、②「表業」(外に表れた行為)、③「無表業」(行為の残存効果)を挙げています。しかし、業品の冒頭部分では、業には「身業(しんごう)」・「語業(ごごう)」「意業(いごう)」の三業があり、意業は①の思の形のみとり、身業と語業は①の形は欠いて、②表業③無表業の二つの形をとるとしています。
以上を図式化すると、以下(図6)のようになります。
つまり、「思」から「思の所作」が生じ、思の所作では、「表業」から「無表業」が生じる。
思は「意業」であり、意業から「身業」・「語業」が生じる、ということです。
さらに、これを「有情の業」の観点から見てみると、世間は業の所産であり、業においては、身業・語業は意業の所産である。なぜなら、意業は思であり、身業・語業は思の所産であるからです。
つまり、「心から業が生じ、業から世間が生じる」、ということになります。
以上、「仏教思想概要2:アビダルマ」完
なお、元とした「仏教の思想2」では、この後、アビダルマ理論・詳論(各論)が続きます。「概要」という趣旨から、各論は省略しました。タイトルのみ以下に列記します。
興味のある方は、本文を是非お読みください。
1.「物」とは
2.「心」とは
3.善と悪
4.「煩悩」とは
5.「道」について
6.「らかん」と「ほとけ」
ということで、仏教思想概要2:アビダルマの最終回でした。如何でしたでしょうか?
煩瑣哲学と言われるように、アーガマの理論的な分析という役割を担ったアビダルマは、詳細な分析がされており、理論に追いついていけない部分も多々ある気がします。ただ、この後の『中観』『唯識』さらに中国仏教、日本仏教と、あらゆる場面で、このアビダルマの仏教理論が登場してきます。用語だけでも、何となく理解しておくと参考になるかと思います。
次回は「仏教思想概要3:中観(ちゅうがん)」です。『般若経』を基礎とした、インド大乗仏教の思想家「ナーガールジュナ(龍樹)」の「空の思想」を取り上げます。
整理はスタートしたばかりで、いつご紹介できるかわかりませんが、楽しみにお待ちいただければ幸いです。