SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

勉強中の仏教思想、整理した概要をご紹介しています。

(第3回)仏教思想概要1:「釈迦仏教」第3章(最終章)

2022-07-11 09:56:58 | 01仏教思想1

 仏教思想概要の第3回目のご紹介です。今日は前回の続きで、「釈迦仏教」の第3章として、「釈迦仏教の実践」のご紹介です。仏教思想概要1「釈迦仏教」の最終回です。

 

第3章釈迦仏教の実践

1.四諦とは

1.1.実践体系としての四諦

 「初転法輪(しょてんぼうりん)」と後代の仏教者たちが、いかめしい表現をもって語り継いできたブッダ・ゴータマの最初の説法の内容は、「四聖諦(ししょうたい)」すなわち「四つの聖なる命題」を骨子とするものでした。それは、略して「四諦(したい)」と呼ばれます。

 ゴータマがまだ正覚まもないころ、説法、伝道の課題としたのは「もしわたしがこの法を説いたとしても、人々はわたしの説くところを了解せず、わたしはただ疲労困憊するのみであろう」と考えたことでした。
 そこで、この問題を克服するための工夫として彼がしたのが、かの思想の体系を実践の体系に組み替えるということであったのです。
 一つの経(相応部経典、五六・三一「申恕(しんじょ)、ほか」)には、弟子の比丘たちとともにシンサバー(申恕)樹の林をそぞろ歩きするブッダ・ゴータマを描き、この時、彼は「比丘たちよ、わたしが証(さと)り知って、しかも汝らに説かないことはおおく、説いたことはすくない」と語っています。そしてその理由を以下のようにブッダは説いています。(下表14参照)
 
 ここには、「縁起」ということばは見えない。また「無常」も「無我」ということばも見えません。それは、前述のごとく、ブッダ・ゴータマの思想体系を実践の体系に組み替えるという彼の苦心の工夫によるものだったわけです。

 

1.2.四諦説法に至る道
(1)最初の説法

 一つの経(相応部経典、五六・一一「如来所説」ほか)によれば、最初の説法の内容は、「中道」についてであったということです。それは「二つの極端」すなわち快楽主義も、禁欲主義もとらないことを意味します。(ブッダ・ゴータマの説法内容:下表15参照)
 
 この前文のあと、四諦説法へと入っていったということですが、それにはひとつの現実的な理由があったのです。

(2)四諦説法は討論の場

  先に、「伝道・説法を決意したゴータマが、五比丘に会いに、250kmを遠しとせず彼らのいたバーラーナシー(波羅捺)に向かったということです。」と述べましたが、ここには現実的な理由があったのです。
 五比丘は、彼らもそれぞれ思想家であり、ゴータマが苦行を捨てたときに、彼のもとを去っていった人々でした。つまり、はじめからゴータマの前に跪いて、その教えを乞うた人々ではなかったのです。ゴータマの所説に耳をかすにおよんでも、その説くところに矛盾があればそれを批判してはばかるところなく、納得しがたいものがあればそれを反駁するに仮借するところがなかったと想像されます。
 ブッダ・ゴータマは、まず、かの「四つの命題」を語って彼らのまえにおいた。通例の説法と違い、彼らはそれをめぐって、いく日もいく日も、討議し、研究した。そしてやがて、五人の中の一人がそれを理解、ついには全員が理解する日がやってきたのです。

1.3.「四つの命題」の意義

 四諦の《諦》とは、一般的には、真実、真相、あるいは真理ということを意味します。また、「厳粛なる断言」を意味し、経典では「聖」の一字を冠して「聖諦(しょうたい)」と表現しています。
  しかし、それが、人生における最高の真相として仏教者の中に確立するのは後のことです。
 五人の比丘たちに四諦の説法(討議)を始めた段階では、まだ「命題」だったと言えます。
 そこで、「四つの命題」のそれぞれについて整理してみると以下のようになります。(表16)
 
 これら四つの命題の中でもっとも重要な役割を与えられているもの、それは「渇愛(かつあい)」と言えます。つまりここでは、欲望、それをいかに処理するかが中心課題となります。

 それでは、ブッダ・ゴータマはこの課題にどう対応したかを次に見ていきます。

2.ブッダの欲望論

2.1.「欲望」の意味と中道
(1)ブッダにおける「欲望」の意味

 一般的に、ブッダ・ゴータマの教えは欲望を捨てることを説くもの、仏教とは欲望を捨離せよと語るものと誤解されているようです。
 ブッダにおける「欲望」ということばは、全ての欲望を意味していません。ブッダは全ての欲望を捨てろとは言っていないのです。

  ↓

 捨てるべきは「渇愛(かつあい)」(激しい欲望のはたらき、ブッダは「貪(とん)」と呼んだ)、つまり貪を滅すること(「離貪(りとん)」)と説いているのです。
 欲望におけるブッダの立場は、「無欲」で無く「少欲」、「滅尽」で無く「知足」でした。
 余すことなく「滅し、捨て、去り、脱す」べきは「渇愛」「貪欲」であったのです。

 

(2)「無記」と「中道」、「縁起」との関係

 以上のことをブッダは「無記(むき)」の立場と表現しています。無記の立場とは、欲望そのものをもって、直ちに、固定的に「良し」とも「悪し」とも裁断しない立場、つまり、二つの極端(禁欲主義、快楽主義)を去る=「中道」に立つことを意味します。これは、ブッダの実践体験から出たことだったのです。

 本来、ブッダは、伝道者として起こって以後は、あまりおおく理論的なことは語りませんでした。「中道」のような実践的な原理では、特に必要性が少なかったと思われます。
 そこで、「中道」の理論的基礎付けとなっているものと考えると、縁起の法こそ、ふさわしいものと言えます。
 縁起の法は、流動的な存在論であり、禁欲主義や快楽主義という固定的な立場を相容れない理論です。したがって、「中道」の立場も、その中間において固定的一点に止まるものではないのです。
 バランスのとれた欲望の処理のしかたが「中道」ということばで表現されており、バランスのとれた生き方が、もっともすぐれた正しい生き方と、ブッダにより説かれているのです。

 

2.2.「離貪」の方法

 それでは、渇愛を捨て、離貪するのはどうしたらいいのでしょうか。
 離貪の意味するところは、欲望そのものを圧殺するのではなく、炎のように燃える欲望のありようを厭(いと)い離れるようとすることです。しかも、単に離れるだけでなく「客観的立場」に立っていることです。

 一つの経(相応部経典、三五、二八、「燃焼」、ほか)によれば、ゴータマが最初の説法を終え、マガダ国に帰り、一千人の比丘とともにガヤーシーサ(象頭山)に登り、山頂で次のような説法を行ったと記されています。(「山上の説法」などと呼ばれる。下表17参照)
 
 これが、その後幾千回と繰り返されるゴーダマの説法の内容であり、彼の論理です。観察、厭嫌、離貪と、冷静なる理性の眼に導かれて、凡夫のありようとは全く異なったところに立っている=客観的立場に立つことの重要性を説いているのです。人は、「知恵をもってその根を断って」いるのです。

 人は、激情のとりこになっている時には、事の真相を見極めることはできない。事の真相は、静かに離れ去って観察する時、はじめて捕捉できるのです。理性の眼がかっと見開かれているからです。理性の眼の下において、「中」が「正」に結び付けられる。後代の仏教者はこれを「中は正なり」という命題をとって表現しています。「正」とは、すなわち「聖なる八支の道」(=「八正道」)のことです。

 

2.3.「八正道」とその条件
(1)「八正道」とは

 「八正道」とは、「中道」なる実践の原理にしたがって立てられた八つの実践の項目であって、ブッダ・ゴータマは、人間の生活の全分野にわたる正しい生き方を示そうとしたにちがいないのです。それら、八つの項目を整理すると以下のようになります。(表18-1)
 

(2)「八正道」の条件と意図

  それでは、「八正道」の「正しい生き方」の条件とはどんなものでしょうか。それを整理すると以下の三つの条件が仏教者たちより示されています。(表18-2)
 
 人間の中には、何か極端をよろこぶ傾向があるが、もっとも人間らしい好ましい人間の生き方を樹立することに措いて、ほかに仏教の目指すものはないのです。そこにはもはや、彼の心を掻き乱すして不安におとしいれる激情もなく、あるいは、彼の眼を覆う迷路に連れていく無知もないのです。そこには、平和と自由がある。これをブッダは《ニッパーナ》(涅槃)と呼びました。
 そのような人間の好ましい生き方、つまりはこれが「八正道」の意図するところ=「中道」の意味するところなのです。

 

3.「慈悲」への道

3.1. 「上求菩提」と「下化衆生」
(1)ブッダの道は「上求菩提」の傾向

 これまでの内容を振り返ってみると、そのすべてが、ブッダ・ゴータマの思惟するところであり、実践するところでした。さらに、その教示を受領し納得した弟子の比丘たちが、その正法(しょうぼう)に従って思惟し、その正道(しょうどう)にしたがって実践するところでした。

 いわば、これを「一人の道」か「多人の道」かと問わば、ブッダの道は、「一人の道」に傾向するものといわねばなりません。
 このことを指して、後の仏教者が好んで用いた句に、「上求菩提(じょうぐぼだい)」(上は菩提を求む)という句があり、その例を『ダンマパダ』(法句経ほっくぎょう)の一偈にみることができます。(下表19参照)
 

(2)「下化衆生」への道

 一方、「上求菩提」に対する句として「下化衆生(げけしゅじょう)」という句があります。この句は、下は衆生を化すの道(「多人の道」)を表現しています。
 つまり、ブッダ・ゴータマの道は「上求菩提」(一人の道)であって、「下化衆生」(多人の道)ではなかったということでしょうか。

 そこで、ブッダが正覚し、伝道を始めた頃に遡って考えてみたいと思います。ブッダは、まず、バーラーナシー(波羅捺)の郊外のイシパタナ・ミガダーヤ(仙人住処・鹿野苑)において、最初の説法をこころみて成功し、やがて六十人の弟子を前に以下のように語ったといいます。(下表20参照)
 
 この「伝道宣言」により、「おおくの人々の利益と幸福のために」と語られ、ブッダ・ゴータマとその弟子たちの「上求菩提」のいとなみが、「下化衆生」の道へつらなるものとなったのです。二つの型(「上求菩提」「下化衆生」)の人間関係をもって、密接に人々と結びつけられてあることとなったのです。

 

3.2.「善友」と「慈悲」
(1)「善友」

 「サンガ」(僧伽(ぞうぎゃ):出家して比丘の生活に就いた者の集団)の特徴は、その構成員が、全て平等であることでした。階級もなく、統率する者もなく、また統率される者もなかったのです。それは、彼らの出自とは全く無関係でした。

 その意味では、ブッダも、サンガの一員にすぎないのです。この道は、ブッダによって悟られ、ブッダによって人々に説かれたものであり、その意味では仏教の教祖ですが、そのことのほかには、なにか精神的属性を有するとか、救済の権与をゆだねられているとか、彼のみが特別なものを握っているとかということはなかったのです。法の証知とその実践という一本の道をみなと一緒に歩いている一人にすぎないのです。

 このことは、一つの経(相応部経典、四五、二、「半」、他)において、ある時、随侍の比丘アーナンダ(阿難)が行った質問の事例に見ることができます。(下表21参照)
 
 以上の自覚のうえに行われた説法を「善友説法(ぜんうせっぽう)」と呼びます。

 善き友をもち、善き朋輩とともあることが、この道のすべてであるのです。

 「善き友」は原語では《カルヤーナミッタ》、中国訳では「善知識」または「善親友(ぜんしんぬ)」「勝友(しょうう)」)と呼ばれました。
 「善き友」(友情)というものは、彼らにとってまったく新しい徳目でした。その背景には、この時代のインドの社会事情を思い出さなければなりません。それは、古代都市の成立ということです。
 部族社会の血縁関係から、赤の他人同士が手を結ぶ社会に。血縁を越えた人間と人間とが相携えて生きてゆかねばならない社会の成立ということがあったのです。
 そして、ブッダ・ゴータマがその「サンガ」における人間関係の徳目として取り上げたのも、また、この新しい社会で強く求められる「友情」というものの、もっとも善美にして純粋なるものであったのです。

(2)「慈」ということば

 「サンガ」における人間関係が「友情」という徳目として取り上げられるなかで、ブッダとその弟子の比丘たちにとっては、もう一つ重大な人間関係がありました。
 それは、彼らと「生きとし生ける者」(世間一般の人々)との関係でした。それを一つの徳目をもって表現するなら「慈(じ)」ということになります。

 一つの経(『スッタニパータ』(経集)、一、八、「慈経」)によれば、ブッダは比丘たちに教えて、ひとり静処にあって修行する時は、以下(表22)のように章句を誦(しょう)するがよいと説いたということです。
 
 ここでは、「『よく教えの道理を会得したるものが、自由の境地をえてのちに為すべきこと』」は、ただ慈念をのみ修することがよい。生きとし生けるもののうえに、『幸あれ、平和あれ、安楽あれ』と念ずることである」と、説いているのです。
 この徳目をブッダは《メッター》ということばで表現しました。それを中国訳では「慈」としました。原語のメッターの意味を探ると、それは「友情」を意味する言葉=「善き友」でもあるのです。

(3)「慈」から「慈悲」へ

 人々は人間の歩みの中でさまざまな願いをもちます。所有であり、名声であり、権勢であり、幸福であり、平和であるわけです。そして最後なにものをもっても代えがたいわが生命に対する願いです。
 生きるということが、人間のもっとも基本的な願いであり、諸行無常のこの世では、結局においては、裏切られざるを得ないものです。これこそ、「人間の悲しい重荷」といえるものです。 

 すでに、ふかく自己の深きところに沈潜しきった仏教者たちは、この人間の悲しみをよく知っていたのです。そこで「慈」に「悲」の一字を加えて「慈悲」という句をなすに至ったのです。

 そこには、わが人間存在の真相を洞見して、そのうえにしとどに涙を注ぎえたものが、はじめて生きとし生ける者のうえに涙することができるという消息が読みとられねばならないのです。

 

以上

 

 ということで、仏教思想概要1「釈迦仏教」の最終章でした。
 いかがでしたでしょうか 
 ブッダの教えは口伝として継承されます。この釈迦仏教もアーガマ(『阿含(あごん)』または『阿含経』)といわれる、ブッダの弟子たちの残したブッダの口伝の記録をもととしています。ブッダの教えが比較的忠実に継承されたものとなっているようです。

 仏教思想概要2のテーマは「アビダルマ」です。アビダルマとは、釈迦の死後300年ほど経たのちに、当時のインドの仏教学者が、釈迦の教えつまりはアーガマを理論的に分析し、仏教思想の体系化を図ったものです。
 現在概要整理をスタートさせていますが、「煩瑣哲学」と呼ばれるほど、詳細な理論分析がされた内容となっています。「概要」というくくり方で整理が可能か、苦戦中です。
 ということで、いつご紹介できるかわかりませんが、しばらくお待ちいただいたと思います。

 仏教思想概要1「釈迦仏教」にお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


(第2回)仏教思想概要1:「釈迦仏教」第2章

2022-07-04 09:46:10 | 01仏教思想1

 仏教思想概要の第2回目のご紹介です。今日は前回の続きで、釈迦仏教の第2章です。釈迦仏教の思想内容が対象です。

 

第2章 釈迦仏教の思想体系

1.正覚への道と初転法輪

1.1.正覚への道

 ブッダ・ゴータマには二つの顔があります。その一つの顔は、思想家もしくは哲人としての面影を宿したそれであり、もう一つは、宗教者すなわちこの新しい道の説法者もしくは伝道者としての顔といえます。
 まず、ゴータマはこの二つの顔のうち思想家としての道を進みます。

 ゴータマの生地は、カピラヴァッツ(迦昆羅衛)(現在のネパール・タライ地方あたり)サーキャ(釈迦)族(小規模な部族)でした。
 かれは、二十九歳で沙門となり、マガダ国、ラージャガハにて道を求めます。
 7年に及ぶ求道、課題解決への専念の結果、ついにラージャガハの南西ウルヴェラー村のネランジャヤラー河のほとりのピッパラ樹(以降、菩提樹と呼ばれる)の下で、大いなる解決に到達することを得たのです(=「大覚成就(だいかくじょうじゅ)」)。以降、「ブッダ」(覚者)の称にふさわしいものゆえ、≪ブッダ・ゴータマ≫と称せられることとなりました。

1.2.初転法輪
(1) 「正覚者の孤独」ということ

 一つの経によれば、正覚したゴータマは、思いもかけぬ不思議な叙述をしているのです。(下表3-1参照)
 

 ここでは、この新しい思想をいだいたただ一人でいることが、なんとなく不安であると言っているようです。誰ぞ尊敬すべき思想家があるなら弟子になりたいと言っているようです。
 ゴータマの得た大覚成就は人間としての最高の喜びに値する、彼のほかに誰一人としていない彼のオリジナリティーに属するものです。しかし、ひるがえってみるに、この新しい考え方をいだいて、この世にただ一人でいることは、心細いのです。

 そのとき、ゴータマの心中にひらめいた思いを、先の経では次のように記しています。(下表3-2参照)
 

 すると、この時、梵天が天界に下ってゴータマの前に現れ。合掌礼拝して次のように申したと先の経には記されています。(下表3-3参照)
 

(2)何故法を説くか

 上述の結果、ブッダ・ゴータマが「正覚者の孤独」を克服する道として、彼の前に新しい課題が置かれました。それは説法であり、伝道であったのです。しかし、その課題解決は決して容易なことではなかったのです。
 ここでゴータマは躊躇の態度を示します。それは、「何故法を説くのか?」という自己への疑問です。(参照下表3-4)
 
 同経典では、この課題解決への思いが、さらなる自己疑問を呼びます。(参照下表3-5)
 

 ここにはやはり躊躇が見られます。(なお、この経では悪魔説話の形式(*)で語られています。)
 この躊躇に対して、この経では突如として梵天が現れ、ゴータマに法を説かんことを勧めるのです。この勧請は三度繰り返されます。(ここでは、梵天説話の形式(*)でみることができます。)

 その結果、ゴータマはこう考えます。「人々の中には、塵垢(じんく)におおわれることの多い者もあるが、また少ない者もある。鈍根の者もあるが、また利根の者もある。教えがたき者もあるが、また教えやすい者もある。」と。
 彼は、世の人々の種々の相を観察し、そのような人々の姿を見、そして、黙止に傾いていた彼の心は、しだいに反対に傾き、やがて説法の決意はついに成ったのです。
 先の経ではそのことを次の偈(げ)をもって表白しています。参照下表3-6)
 

 これを聞いて梵天は、ゴータマが説法を決意したことを知り、直ちに去ったというとこです。

*悪魔説話と梵天説話:説法、伝道という新しい課題に対する2つの立場を示す。前者は、悟りの内容の理解の困難さに対する躊躇、後者は、梵天による説法の勧め

(3)初転法輪と2つの課題

 ブッダ・ゴータマの伝道、説法の決意はついになり、以来彼の志向は一変します。もっぱら真理追求者だった彼は、以後、追求して得た真理をひっさげて人々の中に入り、彼らをして真理を知り、真理によって実践する者たらしめることにその生涯の努力を傾けることになります。

 この最初の発動を、後代の仏教者たちは「初転法輪(しょてんぼうりん)」と呼んで、師の生涯における四大事の一つに数えています。
 この初転法輪に際して、ゴータマの前に二つの課題が提示されます。その一つは、説法の内容であり、いま一つは、説法の対象者でした。

 はじめての説法の内容は「四つの聖諦(しょうたい)」でした。これは正覚の思想内容の「縁起の法」とは一見すると相異なるものです。これは、樹下にあったゴータマが、周到に組かえを行い、はじめての説法のために体系づけたと考えられます。
 第二の課題である対象者については、いくつかの経典にくわしく記されていますが、結局、彼のかつての友人だった沙門たちに落ち着きます。経の言葉では選ばれた沙門たちを「五比丘(ごびく)」と呼びます。
 五比丘はかつてゴータマが苦行に専念していたころの援助者で、苦行の放棄とともにゴータマのもとを去っていった人々です。ゴータマは五比丘に会いに、250kmを遠しとせず彼らのいたバーラーナシー(波羅捺)に向かったということです。

 

2.縁起とは

2.1.正覚の真相―諸法実相-

 ゴータマのヒッパラ樹(菩提樹)下での大覚成就、つまりは「さとり」は、彼の生涯における決定的瞬間であったのです。しかし、いかにして成就されたか、いかなる思想内容であったかは、初期の経典でそれを語るものは非常に少ない。わずかに、正覚の真相をうかがう手掛かりを『ウナーダ(自説経1.1)』の一偈(いちげ)(下表4)にみることができます、

 この偈で特に注目すべきは第2句の「かの万法のあらわれるとき」で、これを直訳すると「げに諸法の現れるとき」といった意味になると思われます。ここには、仏教における「真理」の考え方がすばりと語られています。
 ここでの真理は、ギリシャの思想家たちの「覆われてあらざる存在の真相」こそ真理であるする立場に近いものがあります。しかし、重要な一点で異なるところがあります。それは、覆われているのは、認識の対象側のことではなく、認識する主体の側の問題であるとするのが、仏教の立場だということです。
 ゴータマが菩提樹のもとに端座したとき、もろもろの存在が露々としてその真相を彼の前に現した。それが諸法実相(しょほうじっそう)と称されるところのものです。

 

2.2.「縁起」の意義と法則性
(1)「縁起」ということばの意義

 ブッダ・ゴータマの「さとり」(=正覚)の内容は、「縁起」と表現されました。
 縁起とは、《縁りて》+《起ること》つまり何らかの条件があって生起することを意味します。現代用語では「条件的生起」と表現できます。
 ここで縁起が真理として成立するには、「普遍的妥当性」を有する法則として確立する必要があります。
 そこで後の仏教者達がブッダ・ゴータマの「さとり」に対する表現として、用いた次の用語がその妥当性を唱っています。

《阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)》

中国の経典翻訳者たちこれを《無上正遍知(むじょうしょうへんち)》または、《無上等正覚(むじょうとうしょうがく)》と訳しました。
 つまり、《阿耨多羅》(=《無上》)は、最高にして、無制約という意味であり、《三藐三菩提》(=《正遍知》又は《等正覚》)は、普遍的に妥当する知を意味しているからです。

 

(2)ブッダの「法」における3つの用法

 ブッダは、縁起と呼ばれる正覚の内容が普遍的妥当性を有する法則であることの必要性を認識しており、そのためこれを《法》という言葉で語っています。
 ここにおいて、ブッダの法はいささか多義的であって、そこには三つの重要な用法があります。
(下表5参照)
 
 これら三者は不可分の関係にあり、そこに仏教思想の特徴が見られるといえます。

 

2.2.正覚の法則性の公式

(1)二つの公式

 ブッダの正覚の内容が法則性のものであるとするならば、それを個々の事物あるいは人生の経験にあてて吟味し、検討しようとするためには、その法則性を一つの公式まで整理しておかねばなりません。
 その公式は、いろいろな経典によって二つの部分からなるものであったことが知られています。(下表6参照)
 

(2)二つの公式と十二支縁起

 古来から今日まで仏教者たちが縁起の法を語るとき、まず第一に取り上げられ、熱心に論ぜられるのはいわゆる「十二支の縁起(下表7参照)」と称せられるものです。

 ブッダ・ゴータマが樹下でまず把握したものは「縁起の法」でした。それが正覚の内容です。それは、樹下においてさらに「縁起の公式」まで整えられます。それがさらに、人間の有限性にまとう不安にあてはめて考えられた結果として引き出されたものが、十二支の縁起の順逆の二つの系列なのです。
 しかし、樹下においてゴータマが考えたものは、十二支というような複雑なものではなく、もっと簡単な、かつ明確なものであったに違いなく、そのことをいくつかの古い経典で知ることができます。(下表7参照)
 

 十二支の縁起は、縁起の系列の中でその最も詳細なものにすぎず、その骨格をなすのは、無知もしくは無明、老死もしくは苦を両端とし、それをつらねるに愛と取(著(じゃく))の中項をもってするものであったのです。かつゴータマがその後の長い伝道、説法においてもたえず活用したのもまたそれであったのです。

  *無明:無常、無我といった真理を知らないこと=無知

 

2.3.縁起の法の基本的性格

 一つの経(相応部経典「縁」など)は、あるとき、ブッダ・ゴータマが、サーヴァッティー(舎衛城)の郊外の、ジェータヴァナ(祇陀林)の精舎にあって、比丘たちのために縁起の法を語ったことを記しています。ゴーダマが縁起の法の本質を真正面から取り上げることはきわめて稀なことでした。
 ここでもまた、その法を説明するために取り上げられている命題は、「生があるから老死がある」など、縁起の法を人間存在のうえにあてて導き出された命題であったのです。つまり、ゴータマによって悟られた法は、本来、人間存在を含めた一切の存在の法則性としての法であったのです。(「存在論」といえるもの)

 ブッダは比丘たちに対して、縁起の法なるものの性格について、以下のきわめて重要な三つことを語っています。(下表8参照)
 

(参考) 哲学における「存在論」の三つの型(下表9)
 

 

3.「無常」と「無我」

3.1. 「無常」と「無我」の意義
(1)「無常」と「無我」の登場

 ブッダによる、初転法輪(最初の説法)の内容はいわゆる「四諦(したい)説法」と称せられるものでした。「無常」「無我」の二つの教えが説かれたのは、初転法輪後の五比丘の受戒のあとに、説かれたものでした。(相応部経典、22.59「五群比丘」、他)
 その目的は、人間存在の真相をはっきり把握しておくことが、この道の実践上不可欠のためであったのです。

(2)五蘊による人間存在の分析

 ブッダは、人間存在の分析を五つの要素(漢訳で五蘊(ごうん)、肉体的要素:色(物質)、精神的要素:受(感覚)、想(表象)、行(意志)、識(意識))に分けて行いました。
 これらの五つの要素について「常」なるものかを一つ一つ吟味していったのです。
(例:下表10、「色」について)
 
 同じ問答が他の四要素についても繰り返され、その結果《無常》《無我》の二つの術語が打ち出されたものと思われます。

3.2.ブッダにおいての「無常」位置づけ
(1)「無常」は人間存在に即して語られた

 ブッダは、世界は常住か「無常」(「常」なるものでないという意味)問いに対する答えを拒否したということです。それは、断定が出来ないからだったと思われます。
 ブッダは、人間存在にぴったり焦点を当てた時のみに「無常」について説いているのです。
 先の五蘊についてと同じような問答が、六処(六根(眼、耳、鼻、舌、身、意、の六つの感覚)と六境(色、声、香、味、触、法、の外なる六つの対象))についても行われています。そして全てが「無常」と説いているのです。

(2)「諸行無常」の意義

 前述のように、「無常」という語彙は、人間存在にぴたりと焦点があてられた時、はじめてブッダ・ゴータマによって用いられるものとしなければならないものです。このことは、初期の仏教者たちによっても、はっきりと把握されていたと思われます。
 その証拠との一つは、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」という有名な一句です。
 ここで「行」とは、「有為法(ういほう)」と解釈され、それは、単なる自然世界の出来事ではなく、人間の意志、感情、いとなみにかかわるものを意味しています。

 つまり、ブッダが「無常」といい、「苦」といい、「無我」と言っているのは、そのような有為の世界についてのことなのです。
 このことから、「人は「縁起」の世界に住みながら、「常」に変化しないことを望む→(ゆえに)「無常」を説く。「楽」のみ欲する→(ゆえに)「苦」を説く。「我」(=移ろうことなき自己の所有と存在)に執するが故に→(すなわち)「無我」を説く。」のです。

 一つのきわめて短い経(相応部経典、一、二、「歓喜園(かんぎおん)」、他)は、神話的構成の中に、以下の二つの偈を対置しています。(下表11参照)
 

 つまり、古き宗教者は「変易することのない、快楽の世界を死後に約束する」のです。
 これに対して、新しい思想家のブッダは「生滅をもってその性となすゆえなり」の世界にあって、人はむしろ、かかる生滅で裏切られるのであるから、自己の確立することが必要と説いたのです。
 そして、そのためには、そこにもう一つの「無我」を登場させなければならないのです。

 

3.3.「無我」の意義
(1)「縁起」「無常」「無我」の関係

 「無我」について考えるとき、まず「縁起」ならびに「無常」と「無我」の関係を明らかにしておく必要があります。ゴータマが菩提樹の下で正覚したのは「縁起」にほかならないのですが、その縁起の法を離れて、別に「無常」あるいは「無我」という原理があるわけではありません。「無常」あるいは「無我」という語彙が新たに生まれたのには、観点が違ってきたということなのです。その点を整理すると以下のようになります。(下表12参照)
 

(2)自己否定を意味しない「無我」

 一般的に「因縁」という言葉が、特に日本の仏教者によってもっとも誤った解釈をされた語彙として存在します。「我を抑える」とか、「我をなくする」とか解釈する者もある語彙であるのです。しかし、「無我」という言葉は、本来、自我そのものを否定するような意味は全くないのです。つまり、ブッダは自我を圧殺せよとか、自己を忘却せよとは説いていないのです。

 仏教は本来、人間形成、自己確立を説く宗教であり、一つの例としてブッダは、死に際して「自帰依(じきえ)」「法帰依(ほうきえ)」を教えています。

「自帰依」:自分を拠所(よりどころ)とすること(拠所を島を意味する《洲(す)》表現する)

「法帰依」:縁起の法を拠所とすること

 つまり「無我」で否定しているのは、主体としての自己そのものではなく、「自我に関する固定的な観念(その時代の常識、思想の世界を支配していた)」の否定のことなのです。

 「無我」に関して、ブッダは以下の三点について否定しています。(下表13参照)
 

 以上をまとめると、以下のように整理できます。

 縁起の法則より、

  ↓

 無常の命題(のちの「諸行無常」)が打ち出され、

  ↓

 また、無我の命題(のちの「諸法無我」)が導き出された。

 

 本日はここまでです。次週は「釈迦仏教」の第3章として、「釈迦仏教の実践」のご紹介です。
 仏教思想概要1「釈迦仏教」については次回が最終回です。1週間ほどお待ちください。

 

 

 

 

 

 

 

 


(第1回)仏教思想概要1:「釈迦仏教」第1章

2022-06-27 10:58:01 | 01仏教思想1

 「仏教」とは、文字どおり、「仏」の「教え」による宗教・思想ということですが、なぜ「釈迦教」ではないのでしょうか?
 仏教の創出者はインドのお釈迦様です。それなら、キリスト教と同じように、釈迦教で良いはずですが、なぜか「仏教」と呼ばれています。
 どうやら、仏の教えと釈迦の教えは同じではないようです。「仏教」を勉強するということは、つまりは、この違いを、さらには「仏」とは何かを勉強することのようです。
 学校でも歴史の授業で、小乗仏教と大乗仏教というのを学びました。多くの経典が編纂されたように、多くの仏が存在するようです。

 ということで、第1巻ではお釈迦様の教え、つまりは「釈迦仏教」を学びます。「はじめに」でもお話したようにこのブログは、「仏教の思想」(全12巻)の内容の要素を私なりに抽出して整理したものです。各巻のタイトルついても、本のタイトルを必ずしもそのまま採用していません。私なりに理解して、できるだけ直接的な意味合いのタイトルにしていますので、ご承知おきください。

 「釈迦仏教」は3章に分けて整理しました。今日はその第1章をご紹介します。

 

仏教思想概要1:釈迦仏教

 

第1章 釈迦仏教の背景

1.インドにおける古代都市の成立

1.1.ブッダの活動舞台

 サーキャ(釈迦)族よりいでし聖者、すなわちブッダ・ゴータマ(本名:ゴータマ・シダッタ)が誕生した紀元前400年代、中インド・ガンジス川中流からそのいくつかの支流の地域に古代都市が形成されます。その中で以下の都市が思想活動の中心舞台となりました。

・チャンパー(瞻波)

・ラージャガハ(王舎城)

・サーヴァッティー(舎衛城)

・サーケータ(沙計多)

・コンサービー(驕賞弥)

・パーラーナシー(波羅捺)など

 

1.2.古代都市と精舎

 ブッダの活動舞台の古代都市には、郊外に「精舎*」が作られます。

*精舎:ブッダとその弟子の修行者の為の、住居、休息所、修行の施設

(代表的な精舎 表1)
 

2.王と長者の役割

2.1.王国と共和制の衰退

 古代都市は、インド的ポリスと呼ぶことが可能なものであったが、それらの新しい舞台において、もっとも重要な役割を演じたのが、王と長者であったのです。
 仏教文献のなかには、「十六大国」という言葉が見えます。これらは大国とは言えない部族いった意味合いで、ブッダ・ゴータマの時代には、弱小部族は次第に征服され、中インドの5つの大国が成立していました。

  • コーサラ-都城:サーヴァッティー(舎衛城)
  • マガダ-都城:ラージャガハ(王舎城)
  • ヴァッジー-都城:ヴェーサーリー(昆舎離)・・・共和制
  • ヴァンサー-都城:コンサービー(驕賞弥)
  • アヴァンティ-都城:ウッジェーニー(烏惹儞)

 五大国のうちヴァッジーだけが共和制で、部族社会としての共和政は次第に絶対君主制に移行することとなりました。

 

2.2.古代貿易をになう大商人

 古代都市(ナガラ)すなわちインド的ポリスにおける重要な存在は、長者たちであったのです。王が政治の中心であったのに対して、国と国を股にかけ活躍する経済(=古代貿易)の中心的存在、それが長者であったのです。
 彼らは、ギルドの親分でもあったのと同時に、精舎の設置・維持に王とともに支援をしたのです。
 さらに、古代貿易の道は同時に仏教伝道の道ともなったのです。

 

3.新しい思想家たちの生まれいで-六師外道-

 紀元前1000年以上前にインド領域にたどり着いた、インド・アーリヤン民族(5つの部族)は古代都市の出現・成立とともに、その部族社会は崩壊し新しい市民社会が出現してきました。
 この市民社会の出現は、新しい思想のいとなみを現すこととなり、その代表的な存在を「六師外道」と総称します。
 ここにおいて六師外道は、ブラーマニズム(婆羅門教)の3つの柱(*)の否定を共通の立場としていました。
 ブッダ・ゴータマもこれら新しい思想家の一人であったのです。

*ヴェーダ(吠陀)の権威、祭祀の至上性、ブラフマン(婆羅門)社会制度

(六師外道の思想の素描 表2)
 

 これらの新しい思想家たちに共通する思想として、以下があげられます。

①現実所与の対象そのものが思想の出発点であり、そのよりどころであった。
 ブラーマニズム(婆羅門教)の三つの柱(ヴェーダの権威、祭祀の至上性、ブラフマン的社会制度)の否定
②個人格を中心として学派が形成されたこと。それ以前は、ヴェーダやブラーフマナ(梵書)など部族共同体の中から成立したもの。

 

 本日はここまでです。次回は「第2章 釈迦仏教の思想体系」についてです。1週間ほどお待ちください。

 なお、基本となるテキスト「仏教の思想」(全12巻)について、簡単にご紹介しておきます。
 12巻は、インド編、中国編、日本編の各4巻の構成となっています。各巻は2名の方により執筆されており、3部構成で、第1部は仏教の専門の先生が各巻の内容に沿って解説をしています。第3部は仏教というより哲学の専門家が、その立場で内容沿ったポイントを解説しています。第2部はこの2人による対談となっています。
 1949年の出版で、単行本として発行されましたが、現在は文庫化されており、電子ブックもあります。
 ご興味のある方が、さほど高価でもありませんので、是非原本を読まれることをお勧めします。