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仏教思想概要4:《唯識》(第2回)

2023-07-15 08:36:26 | 04仏教思想4

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 仏教思想概要4《唯識》の第2回目です。
 前回は唯識思想発展の歴史をみてみましたが、本日は、唯識思想の思想背景として「観念論の系譜」を取り上げます。

2.唯識思想の思想背景

2.1.観念論の系譜
2.1.1.唯識とは
 唯識の語源は、「vijiñapti(知る)-matra(だだ…のみ)」で、表象のみで外界に存在物はないということを意味します。
 では、表象はどうしてあらわれるか、を説明するものが「識の変化」の学説です。(詳細後述)
 ここで、「識」(広義の識)とは、狭義の識(「六識」)と「意」および「心」から構成されると唯識学派では説いています。(下表5参照)

 つまり、「識の変化」とは、潜在意識が現勢化し、現勢的な識がその余力を潜在意識として残すことを意味します。
 唯識学派の識論の特色とは、認識機能を単にその現勢的なあり方においてのみとらえるのではなく、機能の根底に自我意識や潜在意識があることを認めて、それらをも「識」と呼ぶところにあります。また、「表象」とは、「識」が自らの作用を知らしめる標識を意味しているのです。
 アビダルマ論者たちは、考察の範囲を人間存在をこえて人間のかかわる世界にまで及ぼし究極の存在要素(ダルマ)を五種に分類しました。これら五種につき、唯識では下表6のように論理立てているのです。

 つまり、唯識では(1)~(5)すべての存在要素を心(=識)が統合するとしているのです。このことは、あらゆるものは心が生み出したものであるという大乗仏教における「観念論の哲学」と性格づけることができます。
 もっとも、この観念論的傾向は、インド思想史のうえで古くにたどることができる哲学思想です。そこで、以下、インド思想史における観念論の系譜を簡単にたどってみたいと思います。

2.1.2.インド思想史における観念論の系譜
 観念論の系譜を下表7のように整理してみました。



2.1.3. 唯識思想と最高実在
(1) 最高実在としての「心の本性」-如来蔵思想-
 以上、インド思想史における観念論の系譜をみてきましたが、最後に唯識思想と強く結びついている「如来蔵思想」についてみてみます。
 上表の大衆部の教理である「心は本来清く輝いている」ということは、『般若経』その他の大乗経典でしばしば説かれていますが、「心の本性」として強調するのは、如来蔵思想の系譜に属する『究竟一乗宝性論(くきょういちじょうほうしょうろん)』(略して『宝性論』)に見られます。
 如来蔵とは、如来の胎児の意味し、如来蔵思想とは、『華厳経』の「如来の出現(*1)」の思想を継承・発展させたものと推定されます。

*1:釈迦が最高の真理を悟って仏・如来となることを意味すると同時に、その本質である「法身(ほっしん*2)」がさまざまの化身の姿でこの世にあらわれ、身・語・意のはたらきを示現することを意味する。

*2:衆生の一人一人に如来の本質、つまり「仏性」が宿っている(如来蔵)という思想の展開する、衆生と如来の共通する本質を「真如」の語で表わし、衆生の本質は「汚れを伴う真如」、如来の本質は「汚れのない真如」といい、真如そのものは不変異の実在であるとした。このことは、あらゆる現象的存在(法)の本質という意味で「法性」あるいは「法界」とよばれる。)人間存在を構成する一切を「不浄・苦・無我・無常」であると観ずる原始仏教の立場から「浄・楽・我・常」は四種の謬見(びゅうけん)とされた。対して、「光り輝く心」そのものは、つまりは如来の法身は謬見とならず、法身は清浄であり、歓喜であり、不変の本質を持ち、永遠であるとした。

(2) 唯識体系と最高実在
 前述のごとく、唯識思想は如来蔵思想と密接に関連しています。その体系にあっては、真如は不変異の最高実在であり、「法界」・「法身」などの語で表現されます。
 但し、「心の本性」とはあまり表現されません。それは、心は「アーラヤ識」としてとらえられるからです。アーラヤ識は長期の修習でアーラヤ識の流れが絶たれるに至ったとき、真如・法界が現成するのです。
 このように衆生に内在しながら本質的には煩悩の汚れから離脱している不変異の最高の真実に関する思弁は、唯識哲学の主要な一部門をなしています。
 また、唯識は「般若思想」や「中観仏教」の「空」の思想とも関連しており、現象的存在の空を高次の実在として積極的に定立したのが、法界・法身であるのです。
 さらに、唯識はアビダルマの心の分析もうけついでいます。
 ↓
 以上の統合に唯識の課題があったのです。

(3) 非実在の仮構
 『中辺分別論』(表1参照)の冒頭で煩悩の根拠としての「非実在の仮構」が主題的に考察されます。
 空の哲学はあらゆる現象的存在が実在性をもたないことを明らかにしました。しかし、人は空を自覚せず「非実在の仮構」が人間実在の基底をなしているのです。これこそが潜在意識としての「アーラヤ識」であるのです。
 心を如来蔵思想ではすべての衆生に内在する「光り輝く心」と解釈するのに対して、唯識では輪廻の基礎をなす「アーラヤ識」と解釈しています。その転換により最高実在が顕現するとしているのです。煩悩は偶発的なものでなく、根深くその根拠を持っている。この煩悩の根拠を追求することが唯識哲学の出発点となるのです。

 

 本日はここまでです。次回は唯識思想の元となったとも言える「瑜伽行(ゆがぎょう)」について取り上げます。
 しばらくお待ちください。

 

 

 

 

 

 



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