(巾着田の曼珠沙華 9月25日撮影)
仏教思想概要6《中国華厳》の第4回目のご紹介です。
前回は、「第2章 『華厳経』の意味と構成・主な教え」のうち「3.「十地品」、「入法界品」の概要と意義」をみてみました。今回は「性起」を取り上げます。
4.性起とは
『華厳経』三四品の中で重要な品名のうち「十地品」「入法界品」についてみてきました。最後に『華厳経』の中心思想ともいえる「性起品」の「性起(しょうき)」についてみたいと思います。
4.1. 性起の意味
4.1.1.性起の意義
「性起説」は華厳の宗教的生命の分野を説明するもので、天台宗の「性具説」に対するものです。「起」は華厳を、「具」は天台を表わします。
・性とは:どんな人間にも本質的にそなわっている心性(しんしょう)・仏性(ぶっしょう)のこと
・起とは:「顕現(けんげん)」「挙起」「発起(ほっき)」の意味であり、仏性の現起すること
4.1.2.二祖智儼の説
智儼は、『華厳経捜玄記(そうげんき)』にて、「性とは体なり、起とは心地に現存するのみ」と定義しました。
如来が衆生個々の心地に現在していることを言っています。「長い間かかって修行し、ついに清らかなるほとけの心になる、ということではない。「起」といっても、本来そなわっている仏性が起こるというのではなく、起はすなわち不起なのである。不起そのもの自体、その根本においてみるのが性起なのである。」としています。
4.1.3.三祖法蔵の説
法蔵は、『探玄記』にて、「不改を性と名づけ、顕用を起と称する。すなわちブッダの性起である。また真理を如と名づけ、性と名づけ、顕用を起と名づけ、来と名づける。それは如来を性起とすることである」と述べています。
「不改」を性と名づけるのは、人間の本性が清浄で真実で、善そのものであり、しかも変化することがない、人間の本性の不変性を不改といい、性という。それを歴史的な人物としてもっとも典型的に具現したものがブッダであるから、如来もまた性起であるといわれる、というわけです。
4.2. 性起と縁起、性起の発展
4.2.1.性起と縁起の関係
性起と縁起は一つのものの見方の相違にすぎない。両者の関係は以下のように整理できます。(下表17参照)
4.2.2.性起唯浄とは
「性起唯浄」とは、人間の有るべき相(すがた)は善性(ぜんじょう)であり、本来的自己は清浄であることを表わした華厳のことばのことです。
縁起は浄縁起と染縁起(ぜんえんぎ)の二面より成立し、善にも悪にも向うが、性起は絶対善の世界でなければならない。華厳においては無尽縁起の実相が善であり、無尽縁起はほとけのいのちの顕現、すなわち性起というわけです。
性起には人間のあるべき相、本来的自己の相であるから、「性起唯浄」は真の自己を知ることだといえ、真の善はまさにここにあるのです。
では、真の自己とは何か?それは、ほとけのいのちであり、宇宙の生命です。真の自己を知ることによって、真の善と合致できるのです。
4.2.3.性起の発展
性起の発展は『華厳経』の次の言葉によります。
「一切衆生悉(ことごと)く皆如来の智慧徳相(とくそう)を具有す、ただ妄想執着(もうぞうしゅうじゃく)あるが故に証得せず」
これは衆生は本来からいえば、如来の相をそなえていること、本来的自己はすなわちほとけのいのちだということを表わしています。われわれ衆生の現実の心にほとけが存在している(赤肉(しゃくにく)団上に結跏趺坐(けっかふざ)している)ことが性起であるのです。
われわれの悪業や煩悩や無明などすべてが「性起」であり、それは実体をもつものではなく、ほとけの世界からみれば、それらは非存在となる。現実に悩む心のなかにも、ほとけの光明が貫徹しているのです。
4.2.4.性起と無心
華厳の第二祖智儼は曇遷の『亡是非論』を全面的に引用して、是非の対立をなくすため「無心」を強調しました。
人間の本来的自己とは本来なにもないということにつきる。だから性起という華厳の思想を実践的に展開させれば「無心」となってゆくのです。→実践仏教としての中国禅と哲学仏教としての華厳の接点がここに生じることになります。(詳細後述)
本日は短めでしたが「性起」についてみてみました。次回から「第3章 中国華厳宗と他思想との関係」に入ります。
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