SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

仏教思想概要4:《唯識》(第6回)

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 仏教思想概要4《唯識》の第6回目です。
 前回より唯識思想の本論に入り、前回は「識の変化」についてみてみました。本日からは、アーラヤ識からの離脱、つまり唯識の実践面を論理的にとらえます。そして今回は「三種の存在形態論」を取り上げます。

 

3.輪廻的存在の超越―「唯識」の実践

3.1.三種の存在形態

3.1.1.三種の存在形態とは
(1)夢の意義とアーラヤ識
ⅰ)輪廻の世界の全貌を知る
 理論的、実践的知識により唯識を理解しても真に理解したことにはなりません。自己意識が否定され尽くして捉えるもの(自己)と捉えられるもの(客体)との二元性を離れた「超世間的知識」が得られたときにはじめて、アーラヤ識を根拠として成り立っていた輪廻の世界の全貌が明らかになるのです。
 これは夢の世界と似ています。これは瑜伽行の修習における世第一法の階位(表11参照)に至って達するものです。超世間的知識を得ることは輪廻的存在の地平を超越することにほかならないのです。超越を通して、輪廻的根拠としてのアーラヤ識は、夢の意識のようにたち消えていくあり方において自覚されるのです。

ⅱ)「存在の根拠の転換」の体験
 アーラヤ識を自己と思いこむ個体性の原理として自我意識が完全に消滅することは、瑜伽行者には個体としての死であると同時に、法界が彼において現成することを意味します。つまり「存在の根拠の転換」を体験することとなるのです。

(2) 「三種の存在形態」論
 根拠の転換の構造を示すのが「三種の存在形態」(三性)という学説です。(下表27参照)


 三種はいずれも「無本性」(本性をもたないもの)であり、別々に存在するものでなく(並列的に存在しない)、それぞれに対するわれわれのかかわり方に応じてあらわれるものです。
 以下、『般若経』や『解心密教』などに表れる「三種の存在形態」のあり方をみていきます。

(3)『般若経』における三種の存在形態
 三種の存在形態論は唯識派の創設したものではなく、元来は『般若経』に説かれた教えです。『般若経』における存在形態につき、ディグナーガは『般若経の要義』(『八千頌般若経』の綱要をまとめたもの)において以下のように説明しています。(下表28参照)

(4) 『解深密教』における三種の存在形態
ⅰ) 『解深密教』と唯識との関係
 『般若経』における三種の存在形態の教えを重視し、これをよりいっそう組織化して説いているのが『解深密教』です。
 『解深密教』の第三章から第六章でこれらのことが説かれており、唯識派の論書との関係を以下のように整理できます。(下表29参照)


 三章アーラヤ識論は、実在が「仮構された存在形態」をとる根拠を明らかにし、六章止心・観察はその根拠の転換を可能にする方法。そして、四・五章三種の存在形態が「知られるべき事柄」のすべてを包括しているのです。

ⅱ) 三種の存地形態は「無本性」
 仏陀は五蘊・十二領域・十八要素をはじめ、さまざまな現象的存在があることを認めつつ教えを説いています。しかし他方では、すべての現象的存在は自己同一的な本性をもたず、発生もせず、本来寂静のものであるとも説いているのです。
 現象的存在はすべて「無本性」であるというこの教えにはいったいどのような隠れた意味があるのか。三種の「無本性」(下表30参照)を説くのはそのことを明らかにするためです。


 『解深密教』では上表を示したのちに以下のように説いています。
 「人々が三種の存在形態を、それぞれ別の存在性をもつものと考えるから、三種の「無本性」を説くのではなく、「他に依存するもの」「完成されたもの」の上に、仮構されたものとしての「本性」を付託するから、それで「無本性」を説くのである。」と。
 つまり、実在は本来「完成されたもの」であり、「他に依存するもの」としてあらわれているのもかかわらず、人々が壺とか布とかの「仮構されたもの」に執着するので、その執着を除くために、三種の無本性が明らかにされると説いているのです。
 三種の存在形態を知ることは、輪廻の鎖を断ち切り、涅槃を証得することにほかならない。それは瑜伽行の一環として理解されるべきものであるのです。
 以下、三種の存在形態について、やや詳しく見てみます。

3.1.2.仮構された存在形態
(1) 『唯識三十頌』(二十章)の説
 「仮構された存在形態」について、『唯識三十頌』では次のように説いています。
 「さまざまの思惟によってさまざまのものが思惟されるが、その思惟されたものは仮構された存在形態である。それは実在しない」と。
 人は通常、「壺」「布」などの語に対応したものが外界に存在し、それを知覚する器官として「眼」などがあると思っている。しかし、実際にあるのは、瞬間ごとにその内容を異にする知覚現象、すなわち現勢的な「識」のみであって、「壺」「布」も「眼」も、具体的事実としての知覚現象を分析する思惟によって抽出された要素であると説いているのです。

(2)『中辺分別論』(第三章)の説
 『中辺分別論』では、「世間人一般に認められた真理は、三種の存在形態という観点から見ると、すべて「仮構された存在形態」である。」と説いています。
 世間の常識では、物事は名称であらわされます。しかし、名称は事物に対応するのではなく、事物の知識を他人に伝達するために、古人が約束により定めたものにすぎないのです。
 常識や理論にもとづく世間の慣行は、実在をその「仮構された存在形態」においてとらえることで成り立っています。「仮構された存在形態」において実在をとらえるのは、「名称のとおり対象があるという執着」または「対象のとおりに名称があるという執着」にほかならないのです。

(3)『摂大乗論』(所知相分)の説
 「表象としてあらわれ、名称をあたえられるものが、そのまま外界に存在するものではない」ということを、『摂大乗論』は四種の理由をあげて論証しています。(下表31参照)

(4) まとめ
 以上、概念的に把握される「壺」や「布」などは「仮構された存在形態」であり、瞬間ごとの知覚表象であるのです。表象としてあらわれるのを概念化するのが「付記の思惟作用」であるのに対して、知覚表象がある事実をも認めないのが「否認の思惟作用」です。
 これらの思惟作用を離れることで「仮構された存在形態」を真に知ることができます。
 この思惟作用はアーラヤ識にたくわえられた潜勢から生ずるものです。この潜勢力を絶滅するときに、仮構を離れた唯識の世界を見ることができるのです。

3.1.3. 他に依存する存在形態
「他に依存する存在形態」については、『唯識三十頌』(二十一章ab)に次ぎのように説かれています。
「他に依存する存在形態は、縁によって生ずる構想作用である」と。
 構想作用は、現勢的な識と、その根底にある潜在意識とが、「構想作用」の概念によって包括されているということです。
 それが、「縁によって生ずる」ということは、潜在意識の中に置かれた種子から現勢的な種子が生じ、現勢的な識が潜在意識に影響を与え、相互の力によって瞬間ごとに内容の異なる識が生起してくることを意味します。すなわち、「他に依存する存在形態」とは、「識の変化」によって現出される世界であるということです。
 「他に依存する存在形態」は存在と非存在の両方の性格を持っています。縁によって生ぜられたという限りにおいては存在するものですが、それにもとづいて仮構された客体的存在はあるいは自己としては非存在なのです。
 例えば、夢の比喩、幻の比喩、蜃気楼や蚊飛症の比喩などがあげられます。

3.1.4. 完成された存在形態
(1)『唯識三十頌』の説
 「完成された存在形態」については、『唯識三十頌』の第二十一章、二十二章の二つの詩頌において説かれています。

ⅰ) 「二十一章cd」より
 「完成されたものとは、『他に依存する存在形態』が『仮構された存在形態』をつねにはなれていることである」
 この詩頌から、「完成された存在形態」とは以下のように理解できます。
「それは「他に依存する存地形態」と別のものでなく、また、全く同一のものでもない。「他に依存する存在形態」はつねに捉えるものと捉えられるもの、すなわち「自己」と「客体的存在」への執着の根拠となるが、それらは識を離れて独立に存在するものではない。思惟による分析によってそれらの要素を抽出する以前の識そのものを把握するためには、無始の時からの余習によっておこる二種の執着を否定しなくてはならない。この否定作用を行うのが思惟作用を離れた超世間的な知識であり、それにより「完成された存在形態」が知られる。」と。

 つまり、「完成された存在形態」はなんらかの形象をもってその知識の中にあらわれるものではないのです。その知識が知るのは、現象的存在がそれ自体として存在しないこと、すなわち「空」、あるいは現象的存在の本質としての「法性(ほっしょう)」であるのです。「完成された存在形態」とは空・法性にほかならないのです。それはまた、「真如」「涅槃」「法界」などの同意語であらわされます。

ⅱ) 「二十二章d」より
 「完成された存在形態が見られなければ、他に依存する存在形態は認識されない」
 この詩頌から、「完成された存在形態」とは以下のように理解できます。
 「「完成された存在形態」としての空や法性に人が目覚めたとき、彼には「他に依存する存在形態」が、すなわち万物はただ識のみであることがありのままに理解できる。(例:夢から目覚めたときに夢の内容は忘れ去られてしまうのではなく、ただ夢の中で見ただけで実在しないのだと知られること)」と。

(2)『中辺分別論』(第三章)の説
 『中辺分別論』では、真理の面から考察しており、「完成された存在形態」は究極的な真理に相当します。(なお、「仮構された存在形態」は一般的な真理が、「他に依存する存在形態」は対象がないのに対象があるかのようにはたらく構想作用が相当する)
 究極的な真理は「完成されたもの」と考えられ、以下の三種の語義解釈によって示されています

 ①「すぐれた知識(超世間的な知識)の対象」=法性、涅槃
 ②「最高の目的」=涅槃
 ③「すぐれた目的を有する(もの)」=涅槃に至る道

 これら三種の語義解釈は、「『般若経』における三種の存在形態」(既述3.1.1.(3)表28「四種清浄」参照)と同じ考えにもとづくものです。涅槃は不変異の「完成されたもの」であり、教えと道とは無倒錯(不変異と同意義)のそれなのです。

 

 本日はここまでです。次回は輪廻の鎖を断ち切る「根拠の転換」を取り上げます。そして、次回が最終回です。

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