大弁は吶なるがごとし~~清静は天下の正たりという言葉がある。
知る人ぞ知る、老子の言葉である。
清澄な静けさを守ることこそが世の首長の立場であるという事を解いた言葉である。
訥弁は雄弁に勝ると解することが出来よう。
饒舌がなぜ不味いのか、過去の摂政たちの例はいくらでもある。
まくしたてる割には説得力がない、学生時代は弁論部にいたというから、まくしたてるの得意だろうが、
肝心の頭がついていかないから、人の心に響くものが全くと言っていいほどなかった。
言葉がただ頭の上を素通りしていくだけで、誰も耳にする者はいない。
発言には実行が前提されているという至極簡単なことが、わからないから迂闊な発言などできないのだという事がわからない。
饒舌になればなるほど、主張がくるくると変わって、挙句の果ては失言騒動で追いまくられた阿呆な宰相もいた。
現代では責任を果たすとか、日本を前へ、などと何の意味もない愚にもつかない言葉を並べて得意がってるものもいる。
日本の宰相になぜこのような阿呆が権力を持つのか、これは偏に国民の人を見る目がないことによるのだろう。
ただ、参政権の行使だと、その結果を考えることもなく一山幾等のドングリの中から、適当に投票するからの結果であろう。
現代の日本の政治機構、議院内閣制は形だけで、完全な独裁政治になっていることすらわからない民衆が多い。
議院内閣制の重要な機能が全く作動していない事すら気付いていない、違憲機能を担う最高裁判事の任用についてさえ、
独裁されているのは、違憲立法審査権をさえ無能化する兆しさえ呈している。
憲法を勝手な解釈で憲法違反を逃れようとする態度さえ見える。
恐ろしい国になったものである。
唐の太宗李世民の言行録を編纂したといわれる貞観政要にこんな言葉がある。
君は舟なり、人は水なり
二つの意味があると思う。
ダメな指揮官は平気で部下を殺す、それに対して優れて指揮官は部下を大事にし何とか助けようとする。
わが国にそのような指揮官や宰相が過って居ただろうかと、歴史を通して振り返ってみた。
中には優れたこれ以上ないという指揮官も散見できるがしかし、ほとんどは己さえよければの指揮官がはるかに多い。
この貞観政要の真意はトップの地位は人民の出方一つでたちまちひっくり返ってしまう、という事である。
そうならないように宰相たるもの普段から人民民衆をいたわらなければならないというにある。
己中心、国民無視ではいずれそうなる。
今のコロナの猛威の中、国民に一家たった二枚のマスクを配布するなどと大見得を切ったが、いまだに放置されたまま無しのつぶてである。
マスク一つにしてもこのざまでは日本の将来は見えているようである。
それに引き換え、己らは一日何枚使うかわからぬほどふんだんに使い捨てているのだろう。
国民は罹患しても己らが助かればなどは、部下を犠牲にするダメ指揮官の典型ではないか。
己さえよければの考えが浮かんだとき、宰相の資格は喪失したというべき。
金で釣れば国民は動くと思ったか、金のなる木などあるわけもない、結局は将来の国民にその尻を押し付ける、大盤振る舞いなど有難迷惑。
諸外国の数倍にも及ぶ企業、法人などへの大盤振る舞い、
将来の国民が負担する金であってみればいくらでも出せる、国民の苦悩などわかるわけもない。
戦時中の大本営発表を思いおこさせる。
ダメ指揮官に率いられた日本という国はどうなるのだろうか。
75年前の結果を見るようだ。
日本の政治の典型は政治屋の失敗のしりぬぐいはすべて国民に押し付けられてた。
七十数年前ではあっても、優れた指揮官であってみれば、己の責任を感じて、割腹し自裁している名将も数多くいた。
その最後の言葉は国民の事を思う気持ちが切々と述べられている。
特攻で死んでいった若者たちも、将来の日本を懸念しつつ散っていった。
己よければ国民はどうでもいいでは、宰相は務まらない。
将来の国民をくるしめる大盤振る舞いの金配りはただ無能者の思いつくただ一つの事、
いくら金を出しても国民に負担させればそれでいいという安易な考え。
未練たらしく権力にしがみ付いて、民をくるしめるのが宰相の仕事ではあるまい。
どうやって責任を果たし、どうやって日本を前へ進める、空念仏はお断りである。
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