星稜とやって殆ど互角とは。
4対2で負けはしたが、いい試合だった。
ピッチャーの寺西君を除いて全員がピカピカの坊主頭になってたけど、あれはそういう決まりでもあるのかな。
県大会では長髪で勝ち上がったのだから、そのまんまやらせてやればいいのに。
田高生に坊主頭は似合わんよ。
学校紹介で「近所の高山寺の石段の走り込み・・」という練習映像が流されていたが、野球部が走り込みで街の中を横断して会津川を越えて高山寺まで行くとは思えんが。
昔は、ボート部は冬場は艇が出せないから、強化練習で毎日毎日高山寺までマラソンして石段上りをやっていたが、今は校舎が遠くに移転してしまっているから野球部が日々の練習で高山寺まで行くことはないだろう。
あれはそれなりに設えたやらせの映像なのかな。
お陰で、高山寺の石段の途中でみんなしてゲロを吐いたことなど思い出してしまった。
食った昼飯が無駄になって、それが悲しかった。
1人が吐くと、それに釣られて気持ちが悪くなって次々と吐き始める冬の風物詩、吐くまでやるかよという話、おまけに冬なのに足は裸足ときた、毎日裸足で走っていれば足の裏の皮は石のように硬くなるものだ。
真冬に素足で街中を走り回って平気でいられたのは、きっと何か熱い思いがあったからだろう。
我が母校の田辺高校が甲子園に登場するらしい。
これはまたどうしたことか。
田辺高校は地元では田高(でんこう)と呼ばれていたので、田辺高校と聞いてもどこか他所の高校のような感じがしてピンとこない。
私の頃の田高は、戦前の旧制田辺中学校(でんちゅう)の学舎をそのまま使っていて、板張りの兵学校の風情が残っていたから、明治大正期の気負った学びの雰囲気があった。
紀南の伝統校ではあったが、校舎だけではなく全ての設備が耐久限度を超えていてボロボロの状態であった。
校舎の外壁の板張りはあちこち剥がれ落ちて土壁が見えていたし、教室の漆喰壁も腰板の上は土壁が朽ちて隣の教室が見えていた。
木製窓のガラスには気泡のある明治期の板ガラスが割れずに残っていて、そこだけが少し歪んだ曇った光を投げかけていた。
校舎の壁に白ペンキで
『君はイタリア映画「自転車泥棒」を観たか』
と立看よろしく大書してある風情のある高校であった。
夜間高校が併設されていたから土方をして生活費を稼ぐ下宿生や、留年を繰り返して成人になったおっさん高校生などもいて楽しく賑やかであった。
そんな趣のある高校も卒業の年に現在の場所に移転して建て替えられた。
だから私はあの古き良き学舎の最後の卒業生ということになる。
私の頃の田高の運動部は、勝ち負けに拘らない(?)という妙な大らかさがあったように思う。
私のやっていたボート部も、戦前の「漕艇部」の部名を掲げていて、試合に勝つことよりも個人の心身の鍛錬に重きを置いていたように思える。
野球部も明治期に創設されていて、戦前はそれなりに強かったという事になってはいたが、何せ県内に野球部が旧制和歌山中学(現桐蔭高校)と旧制田辺中学しか無かった時代の話で、これはボートも同じで、私の頃も県内にはボート部が二校しかなかったから、桐蔭と県大会を戦い、勝てば優勝、負けても準優勝ということで、どちらもボート強豪校ということになっていた。
私の頃の野球部は、毎日懸命に練習はしていたが、大体は一回戦で敗退していた、選手や関係者は怒るだろうが田高生には一回戦で負けることが田高の誇り(?)というようなおかしな空気さえあったように思う。
地方の伝統校は人口が少ないので偏差値が都会校のように高くならないが、とびきりの奇人変人や超優秀な逸材が紛れ込んでいることが多い。 大体は周りと歩調が合わず退学になってしまうのだが、私の頃の田高にはそういう生徒が多くいたように思う。
時代は変わり、田高も普通の生徒の多い普通の高校になっているのかも知れんね。
能登半島の地震被害への自衛隊の救援の動きが緩慢で鈍いのはどうしたことだろう。
防衛予算倍増で絶好の見せ場、デモンストレーションのいい機会なのに予備隊派遣とはどうしたことか、精鋭本隊が任務から離れられない「特別」の警戒体制、配備に入ってるのだろうか。
官僚は金で動かせる便利な自民党議員が不要になっているようだし、水面下で何か大きな変化が起きているのかも知れんね。
台湾の総統選挙が今月だから、親中派が勝つ可能性が高いのかも知れない。
遅かれ早かれ台湾は中国に統合されることになると思うが、その時計が早く周り始めているのか。
我が国はいずれ破綻か戦争かの岐路に立つことになるだろうから、その選択の時計も早く進んでいるのかも知れないね。
数年後にダイハツが巡航ミサイルを造ってたりして・・