続・タグさんの風雪

あっこんなところに・・
という感じであちこちに生存の痕跡を残そうという儚い試みです。

2021/05/30

2021-05-30 18:39:29 | 日記
久しぶりに映画を見てきました。
というのは嘘です。
なんとこれは集団接種センターの待合の風景です。
ご覧の通りガラガラでした。
自衛隊の人が平服で走り回っているのを見てしまいました。
医官が医者のような白衣でワクチンを注射してくれました。
なぜでしょうね、文民統制を意識してわざとそうしてるのですかね。
自衛官が公務で平服を着用してたらむしろおかしいでしょ。
自衛隊色を出さないようにうまく民間を真似てましたが、自衛官にそんなことをさせてはいけない。
嫌なものを見てしまった。





ワクチンのこと

2021-05-17 21:09:17 | 日記
大阪市から「ワクチン接種券」というものが届いた。
タイトルは「新型コロナウイルスワクチン接種のお知らせ」とある。
「接種費用は無料です」という文章が、封筒の表や書面にクドクドと何か所にも書いてある。
やっとではなく、ついに来たかという感じだ。
だが既に答えは出してある。
実は私の血液は成分構成が人とは違う。
血小板の数が健常者の数倍もある。
健常者30万に対して私の血小板は80万から90万もある。
しかし数値は数値に過ぎない、特段の症状がない限り疾病ということにはならない。
だから血小板過多症という疾病はない。
血小板は身体の別の機能を補完するための特別の役割を負った血液細胞だ。
主なものに血小板同士が結合して損傷を受けた器官や体表皮の出血を止めるというのがある。
「かさぶた」は血小板から分泌されるフィプリンという物質が赤血球などを絡めとって固まったものだ。
身体のどこかに出血があれば血小板は一定数を保つため自動的に増産され一時的に血小板数が
増加することはあるようだが、ズーッと多いままというのは体のどこかに腫瘍のようなものがあって、
微量出血が続いているか、血小板を製造する器官である「骨髄」に異常があって暴走しているかだ。
骨髄に腫瘍があれば「本態性血小板血症」という扱いになり、これは立派な「癌」ということになる。
血小板が多いということだけでは何ということもないが、血小板は固まり易い性質があるので
血管に血栓が出来やすいという体質をもたらしてしまう。
心筋梗塞、脳血栓、肺血栓が起きやすくなる。
コロナウイルスが感染者を重篤化させる原因もこの肺血栓にある。
肺の血管が詰まって酸素の吸収が出来なくなり、重症者はエクモという体外心肺装置により血中に酸素を
供給して延命処置をおこなっている。
もともと血栓の出来やすい体質の者がコロナウイルスに感染してしまったらどうなるのかという
正確なデータはないようだ。
だが基礎疾患を持つ者が多く重篤化していることからも、血小板過多を楽観視することはできない。
ワクチンと血液成分の構成との関係に至ってはまだ何も分かってはいない。
これは医師にも直接確認してみたが「何とも言えない」ということだ。
ワクチンにもリスクは存在している。
医師は、人により立場や状態が異なるから「各人で決めるしかない」とも。
職業人としてよく考えている答えだ。
人類初のmRNAワクチンのリスクなどまだ何も分かってはいない。
それしかないから認可されているに過ぎない。
科学と政治は存立基盤が異なる、個人の選択肢も同様だ。
どうするか、何を選択するかは個人の決め事であり、科学的正否とは別次元の問題だ。
どういう結果になったとしても、救いになるのは「自分で決めた」という主体性なのだろう。
自衛隊がワクチンを打ってくれるというのも心地よい。
5月27日で予約を取った。







薫風良薬

2021-05-04 18:40:25 | 日記
それにしても現金は使わなくなってしまった。
散髪用に現金を準備して出掛けたが、五人待ちと聞いて早々に諦めた。
そういえば世間は祝日だ。
ボーッと生きてても、そうじゃない人々と行動が重なることもある。
重なれば身を引く、競っても意味がない。
それが高齢者の分別、世間があっての生活というもの。
みんな頑張って働けよとエールを送りたいが、言わぬが花だろう。
用意した小銭をチャラチャラさせて歩いていたら、子供の頃に戻ったような気持ちになる。
いつも半ズボンのポケットに肥後守と小銭を入れて商店街を走り回っていた。
その浮ついた気分で自動販売機に目が行った。
これで散髪用の現金の一部がドデカミンに化けてしまった。
大正橋の際の低地には小さな公園がありそこには古臭い藤棚がある。
以前は灰皿があって通りすがりの勤め人や近隣の高齢者の喫煙場所になっていた。
公園が禁煙のようになってからは、集う人もいなくなってしまった。
いつもタバコを買った後はそこで一服しながら誰彼なく話し掛けるのが好きだった。
あの高齢者達はどこに行ってしまった、みんな死んだのか。
久しぶりに藤棚の柵に腰を下ろして一休みしてみた。
公園の奥の方から犬を連れた、いや犬に引かれた婆さんが歩いてくる。
眩しい陽だまりの中に遊具が間抜けに鎮座している。
近付く婆さんに会釈してみたらどう反応するのだろうか。
結果はどうでもいい。
不確実性を遊ぶ気持ちの余裕が世間との隔絶を昇華させてくれる。
元手の掛からないサプリメントのようなものだ。