続・タグさんの風雪

あっこんなところに・・
という感じであちこちに生存の痕跡を残そうという儚い試みです。

仕事

2010-05-31 20:38:41 | 日記

色々調べているのだが、やはり職安を通じての仕事探しは難しいようだ。



募集の多いガードマンのような警備、巡回管理系は高齢者も雇い入れているようだが、身元照会は殆どのところで実施している。



出資法違反とかの刑事罰の警察データとの照会は大手企業で常勤社員の採用時しかやらないらしいが、ブラックの照会はどこでも普通にやっているということだ。



他人資産の中に入ったり、そこの鍵を保管したりする仕事だから当然と言えば当然だ。



登録住所地と現住所は同一区内だから、履歴書の記載を登録住所地にしてしまえば乗り切れるが、そういうことより単身で就業ブランクのある場合は収監されていた可能性もあるから、相当に警戒心を抱かせてしまうようだ。



背広にネクタイの正社員雇用は、今の私では100%駄目だ。



そういう難しいところを上から順番に当たっても徒労の積み重ねで終わる気がする。だから履歴書すら出さないような下から当たるやり方に変えてしまおうと思っている。



就職難で人が溢れている状況だから、私の現況では正攻法では無理という認識から出発すべきなのだろう。



アルバイト、パートの職安以外の求人媒体は殆どが履歴書持参か送付となっているが、前職のない身分では履歴書が形式的な場合でも選ぶ側は忌避すべき応募者として取り扱うだろう。



新卒の例でいうなら、三流大学で二年ほど留年していて、学生運動で逮捕歴があって、他の学生とは違う妙な違和感を与えてしまう奴と同じようなものだ。



新卒は新卒でも並ぶ列が違うということだ。



当時世間を知っている利口な奴らは学歴を高卒にして、浪人していたと偽装して工場の臨時雇用に潜り込んだものだ。



学歴を高卒にして、職歴も平凡なものに粉飾?し、住所も何もかも全部嘘で固めた履歴書にして、バレて元々でパートの皿洗いや軽作業に潜り込むというやり方の方が効率的なのかも知れない。



時間と労力を浪費するロスを考えたら、それが理にかなった一番現実的なやり方ということになる。



この部屋を借りるときも源泉徴収票と申告書写しを偽造してやっと借りられたのだから、アンフェアだが仕方がない。



永くて一年、短くて一月の仕事でいいのだから、そんなところだろう。



さあ、履歴書を書こう、いや創ろう。






























生きる

2010-05-31 04:22:21 | 日記

大阪の友人に梅田のビアガーデンで食事をご馳走になっている時、東京の友人から今5万円送金したとの連絡があった。



二人の友人はリッチな成功者などではない(これからは分からないが少なくとも今は)、どちらかと言えば(大変失礼だが)貧しい方の部類に入る。



私には来月の家賃やガス料金、携帯料金、その他支払いが目白押しなのだが、そのまま払ってしまうのが惜しいようなお金だ。



今、私はこの二人の私に対する想い(好意ともいう)によってかろうじて生命を維持している。社会人として必用な空間や生物として必要な食物は彼らの好意によって得られたものだ。  



この好意はどんなことがあっても二人に返していかなければならない。



だからそのためにこれから何をすべきかと考えています。       



1人は昔色々と助けて貰ったからというようなことを言っているが、その言葉は私の胸には残らない。私にはどうでもいいことなのです。



昔助けたという意味では、そういうことになる人は他にも大勢いる。1000万円以上のお金を個人的に援助したままそのまま疎遠になっている人が何人もいる。そういうお金が今送られてきても今の私を奮い立たせる力には成り得ない。生活するための資金には成り得ても生きていく目的とは成り得ない。



私は、私に必要なものは、これからの自分自身を支えていくことになる「正当な動機」なのだと自覚しています。



勝手な思い込みでもいいのです。それが正当の範囲にある限りは大きな力に成り得るのです。



個人がただ生きようと思うことにより発揮される能力などたかが知れています。日々起きる障害に屈して段々と苦しくなってきます。



「何の為に」と自分に問い返した時に即答できる正当な「何か」を手に入れることが大事だと、自分の60年の人生を振り返ってみて気が付いたのです。



大金儲けにも、夢の実現にも、生ける屍のような人生を送らないためにも、人には自分で見つけた正当な動機が必要なのです。



他人の動機に便乗して「あの人についていく」とか「あの人に託す」という便法もありますが、所詮は借り物、誰もがいつの日か自分自身の動機と向き合わねばならぬ時が訪れるでしょう。



社会規範として標準化されている形式(例えば結婚するとか子を産み育てていくとか)に沿って生きるというのもあるでしょう。それで心の平安が永続的に得られるのであればそれはそれでいいのですが、男女の別や各人の素養を飲み込んで、万人に保証を与えるようなものではないという気がします。



私はそういうものを一旦清算して、それでもなお生きようとしているわけですから、私には私自身の動機の再構築という意図があります。



それが単なる一方的な自我の実現に過ぎないのかどうかは、「正当」という言葉が担保することになりますから、自ずと証明されていくと考えています。



この世間に己を晒す仕組みのブログに意味づけをするとすれば、私自身の正当な動機を再構築するためのアンテナショップということになるのかも知れません。





































実のところはもう一つの深遠なる目的も秘めているのですが、それはまた別の機会にしたいと思います。



  






履歴書でい

2010-05-30 04:48:11 | 日記

履歴書が送り返されてきた。



HPの管理とかいう例の職種のやつだ。



受け取った人もさぞや驚いたろうな。



平均年齢30歳の会社に定年年齢の爺いが応募してきたのだ。しかもIT系の職種だ。



おまけに履歴書が手書きと来たもんだ。



貼ってある写真は免許証用の残りだからやたらと小さい。



そこにダメ押しの髭面だ。



怖いもの見たさで興味を持ってくれないかと期待したがダメであった。



まともな会社だ。



多分私でも同じ判断をすると思う。



IT系なんだから普通履歴書はPC印刷だろ。



そう思って探して見たらありました。



「しごとナビ」という求人会社が無料で履歴書作成ツールを提供しておりました。



写真も取り込めるというので早速携帯で撮って刷り込んでしまいました。



あとはセブンイレブンで出力です。



履歴書を買いに遠くまで歩いたのがまるで馬鹿みたいです。



こんなでIT系はないよね。



やっぱり皿洗いとか荷物運びの方がいいのかもね。



ところが職歴を入力していて気になり始めたことがある。



やっぱり金融系の元社長も大いにマズイよね。



職歴の事業区分の欄なんかが記入式ではなく選択式なのだ。



手書きだと適当に造語して誤魔化せるが、選択だとズバリ金融業となって、次の小区分が銀行、証券、消費者金融、その他、となっている。



「その他」で聞いたことのない金融会社では、怪しさに満ち満ちているではないか。



住所地に住民登録してないし。



免許書の住所はそのどちらでもないし。



こんなで仕事に就くことができるのかな。



どんな仕事もこなしていく自信はあるが、採用されないことには始まらないのだ。












消費税なんて

2010-05-29 19:36:38 | 日記

国の借金が膨大で財政が逼迫しているから、もはや増税は避けられないという認識が世論になりつつある。



国の借金の殆どは国債を発行して、税収以上に国家予算を計上してきたことにより形成されてきたものだ。
国債の殆どは国内の金融機関が引き受けている。
これは日本国が日本国民から金を借りているということだ。



企業の会計に近いところで仕事を続けてきた私には合点のいかないことがある。
国の財政が赤字という状態は税収以上に支払いを行ってきたということはわかるが、その金が消えてしまったわけではない。
その金は国の貿易収支が赤字で海外に流れてしまわない限り、何かの形で国内に貯えられていなければならない。
道路や建物に公共投資という形で使われた金は、ゼネコンや資材会社に支払われ、取引先やそこの従業員に給料や報酬の形で支払われている。
要するに世間に出回ったということだ。
北新地のクラブの売り上げやコンビニの売り上げにも流れているはずだ。
殆どの国民が多い少ないはあっても、何らかの形で国が大盤振る舞いしたこのお金の恩恵を受けてきたことになる。
で、この借金をどうにかしなければと考える時、普通に考えて今迄の国の借金は国の徴税が少な過ぎた結果なのだから、どこかに溜まっているこのお金を回収するための新たな徴税をして穴埋めするのが当たり前だと思うのだがおかしいだろうか。
これを消費税や今後の所得税を増やすことで補おうということに合点がいかない。
どこかの商店の親父が夜レジを閉めたらどうも売上金が少ない、誰かにつり銭を多く渡したか、代金を貰い忘れたようだ。だからと言ってその親父が翌朝の客の釣銭を少なくしたり、高い値段で売ろうとしたら客は皆おかしいと文句を言うと思う。
回収する相手が違うからだ。
私にはそれと同じことを国がやろうとしていて、国民の側も何となく仕方ないかと容認しようとしているように感じるのだ。
昨日の不足金は昨日の客から回収すべきだと普通に思うのだが、これを税でやろうとするのなら、貯えられている資産に対する課税を強化するのが当たり前ということになる。
世間に出回ったお金は大勢の人々の手に渡り、最終的には預金や不動産や株式となって、世間に所謂勝ち組の資産となって貯えられているからだ。
要するに資産課税で尻拭いをしなければならないと思うのだ。
それをこれからの所得や消費で徴収しようというのは、筋が違うというより詐欺のようなやり方だと思う。
ましてや消費から徴収というのは一見平等に見えるが、所得の低い者ほど税率が高いという、とんでもない矛盾を孕んでいる。
資産家、金持ちが消費税増税も仕方が無いと嘯くのは、自分達に有利だからだろうが、資産の無い貧乏人までもが同調しようとしているのは情けないことだと感じる。
オレオレ詐欺にいとも容易く騙される国民だから、国や官僚が国民を手玉にとることは簡単にできてしまうのだろうが、そういうやり方でいくら辻褄を合わせても、一時凌ぎにすぎないから、数年もすれば元の木阿弥になってしまうだろ
う。
政治の動きの中にも根本のところに手を入れて変えようとする力は感じられない。
どうも日本人というのはやり方を変更することができないようだ。
だから私は日本社会は間違いなく終戦の焼け野原のようになってしまうと思っている。



日本は戦争が当たり前だった時代のやり方をいつまでも変えられずにやり続けて、負け戦が明らかになってもやめることができなかった。



人類は常に成長し時代は少しずつ変化していくものなのだ。



いま世界は資本主義的価値観の弊害に気付き、次の時代の指針を求めて手探りを始めている。



日本を筆頭に韓国、台湾は今も先人の築いた理念に従ってGDPだの貿易収支だのとやっている。



これが皆旧日本領というのが面白いところだ。



気が付いたら全てが時代遅れになっていたとならなければいいのだが。


















鳩山的存在の価値

2010-05-29 00:32:09 | 日記

鳩山首相への批判が轟々と湧いている。



批判している側と批判されている側を冷静に観察してみると実に面白いことが見えてくる。



私達が歴史の分岐点にいるような気さえしてくる。



従来の政治家の類型に嵌らない形でも、自分の価値観で総裁としてあり続ける鳩山氏には、頼りないとか理解できないとかの揶揄に近い批判の底が見えているだろう。



今日の報道の中心はiPad賞賛と鳩山批判だ。このおかしな両極現象に違和感を抱く日本人はどれくらいいるのかと考えてしまう。



iPadがこれからの社会にどれほどの影響を与えるかに気付いているメディアは殆どない、にも関らず負の影響を受ける出版、印刷業界の声は取り上げられることはない。製品だから許せても人は許せないのだろうか。



傲慢な日本人の日常感覚が透けて見えるようで気恥ずかしくなる。



鳩山氏を過去の物差しで計って葬り去ってしまうかどうかは、日本の将来を占う上で大変重要なことになると思う。



大衆はいつの時代も傲慢で怠惰で盲目だ。



見えていることなど無きに等しい。



知っていることは経験してきたことばかりだ。



経験のない新しい機器に興味や期待を抱いても、今までに無い新しい人間には関心を持たないというのでは少し知恵が足りない。



鑑識眼が養われていないのではなく、未分化なのであろう。



こういう新しいタイプの人間が出てきて指揮権を持つことを嫌がる人々も多い、彼がもたらすものの価値を認めたくないという人々だ。今まで積み上げたものを失いたくないという思いが新しいものを排斥しようという動きになる。



それに扇動された大衆が世論を形成することになる。



標準化とはこういう弊害を生み出すから、実は怖い危険な側面を持つものなのだ。



世界が変わり始めているのに、そのことに気付いてない日本人が多過ぎるような気がする。



いま国家という最大単位の集合体が会社再生法の適用に向かっている。この問題の本質は世界という経済集合体を支えてきた資本主義経済が急速に終焉をむかえようとしているところにある。



取り残された人間の価値観だけが、かろうじて世界の秩序を維持しているに過ぎないのだ。



日本の国民だけが先鋭化を続けていけるわけがない。



今までのやり方に誤りがあったということは、そのやり方を支えてきた価値観に誤りがあったということなのだ。



そういう予感のようなものに引きずられて、我々は新しい人を首領に据えたのではないのだろうか。



それを旧い物差しで計るというのは、自己否定と同じではないか・・