平らな深み、緩やかな時間

150. チック・コリア追悼、『絵画との契約 山田正亮再考』を読んで

ジャズ・ピアニストのチック・コリア(Chick Corea、1941 – 2021/2/9)が亡くなりました。癌により死去、79歳だったそうです。
私は熱心なジャズ・ファンではありませんし、チック・コリアのファンでもありませんが、中学生から高校生にかけて意識的に音楽を聴き始めた時に、チック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』というLPをよく聴きました。のちに同名のバンドを組んでいますので、チックにとっても意義深いレコードだったのだと思います。このレコードはジャズ・ファンならずとも有名で、カモメ(本当はカツオドリだそうです)のジャケットが印象的です。この頃のチックはフュージョンの先駆けとも言われましたが、軽さとともにしっかりとした歯ごたえのある音楽で、偶然ですけど良いレコードとめぐりあったな、と思います。チックがその前にマイルス・デイヴィスの『イン・ア・サイレント・ウェイ』、『ビッチェズ・ブリュー』などのアルバムに参加していたことを知ったのは、大学に入ってからでした。
チックの曲で一番有名なのは『スペイン』だと思います。リターン・トゥ・フォーエヴァーというバンド名義のオリジナルも素晴らしいのですが、アル・ジャロウがカバーした作品も名演だと思います。アルの話になってしまいますが、プロだから当たり前だとはいえ、出だしのアップテンポで歌われる部分の音程とリズムに寸分の狂いもなく、そのノリの素晴らしさに舌を巻きます。チックの話にもどると、彼の『フレンズ』というLPもよく聞きました。ジャズのスタンダードな編成の中で、さまざまなタイプの曲を演奏していますが、どれもメロディが親しみやすくて、そこにチックの個性を感じます。高校生の頃は、ジャズというジャンルに対し、憧れと怖さを抱いていましたが、その入り口がチックだったことは幸運でした。チックの広範な活動の中で、ほんの一部分を知っているだけですが、私にとって懐かしい音をいくつか紹介しますので、よかったら聴いてみてください。

『Spain』Chick Corea · Return To Forever
https://www.youtube.com/watch?v=sEhQTjgoTdU
『Spain(I Can Recall)』Al Jarreau
https://music.youtube.com/watch?v=IgXVp-MPbFg&list=PLh10YcUO7kPv6eI1chvFtXuDSR8R1VDlg
『Crystal Silence』Chick Corea & Gary Burton -
https://www.youtube.com/watch?v=VnlAPR_ixo4
『What Game Shall We Play Today? 』Chick Corea
https://www.youtube.com/watch?v=gps33Kn_DrM
『Light as a feather』Chick Corea & Return to Foreve
https://www.youtube.com/watch?v=6LYPsQHMipo&list=PLXr4jeeNom_eC5WgWR0MDJ335wWUSatw7&index=15


それから、ちょっとお得な情報です。
ぐうぜん、横浜美術館の展覧会図録を調べていたところ、素晴らしい展覧会図録(カタログ)が500円で入手できることがわかりました。古本ではありません、横浜美術館のミュージアム・ショップの「展覧会図録バックナンバーセール」というページを開けてみてください。
http://www.museumshop-yokohama.jp/shopbrand/backnumbersale2020/page1/recommend/
どれも数千円の価格だった図録が、500円で買えるのです。お薦めを拾ってみましょう

【図録】イサム・ノグチと長谷川三郎-変わるものと変わらざるもの(定価5,093円)
【図録】セザンヌ主義 父と呼ばれる画家への礼讃(定価2,500円)
【図録】近代彫刻―オブジェの時代展(定価2,300円)
【図録】イタリア彫刻の20世紀(定価2,200円)
【図録】セザンヌ展【1999年開催展覧会】(定価2,500円)

このうち、四冊目の『イタリア彫刻の20世紀』と最後の『セザンヌ展』は展覧会を見に行ったときに買いました。イタリアの現代彫刻がこのようにまとまって見られる日本語の図録は、たぶん他にありません。セザンヌ展のカタログも、セザンヌの画集を何冊か持っていますが、これは買っておいた方が良いだろう、と判断しました。どちらもよい内容です。
そして今回探していたのが一冊目の『イサム・ノグチと長谷川三郎-変わるものと変わらざるもの』です。あとで訳を話しますが、長谷川三郎(1906 – 1957)について調べていたところ、余りよい文献がなく、そういえば展覧会を見たなあ、と思い出したのです。そのときは値段が高かったので買わなかったのですが、今回は購入しました。資料性が高く、500円で新品ですから申し訳ないくらいです。ついでに、二冊目の『セザンヌ主義』もいっしょに購入しました。
三冊目の『近代彫刻』は現物を見ていませんが、彫刻やオブジェを集めた図録はそれほど多くないと思うので、彫刻を勉強したい方には500円なら損はないのではないか、と思いました。
そのほかも、とくに人気がなさそうな内容ではないのに、どうして安くなっているのだろう?と思いましたが、公共の美術館が売っているものなので問題ありません。私は今回、二冊買いましたが、手続きをした三日後ぐらいには、大きな段ボールで丁寧に梱包された品物が届きました。二冊購入すると、送料の方が本一冊分より高い(600円ぐらい)のがご愛敬でしょうか。

それでは本題に入ります。今回は『絵画との契約 山田正亮再考』という本です。
画家、山田正亮(1929-2010)について、これまでもこのblogで三回ほど触れました(12、13、74)。何回も取り上げるほど素晴らしく、重要な画家なのか、と問われると、こたえはすこし微妙です。このblogをはじめたころに山田正亮について書いたのは、私が若い頃にどんどん有名になっていった現代絵画の山田正亮が、晩年に制作を止めたこともあって、亡くなった後にぱったりと忘れられていました。ちょっとそれはもったいないな、と思って、彼の絵を画廊に見に行っていたころを思い出しながら書いたのが、blog12,13(2013年)です。その山田正亮の大規模な回顧展『endless 山田正亮の絵画』が東京国立近代美術館で開かれたのが、2016年の年末から17年にかけてのことで、そのときに書いたのがblog74なのです。
そしてこの『絵画との契約 山田正亮再考』という本は、2016年の展覧会の直前に発行されたもので、東京国立近代美術館副館長(当時のデータ)の中林和雄(1961 - )と松浦寿夫(1954 - )、沢山遼(1982 - )、林道郎(1959 - )の共著となっています。この本の存在は当初から知っていたのですが、回顧展を見ただけでお腹いっぱいだったので、読まないままで現在まで来てしまいました。ですから、タイムリーな内容ではないのかもしれませんが、いま自分自身が個展に向けて絵画を制作していて、画家と絵画とのかかわりについて考えているうちに、読んでみたくなったのです。
この本のタイトルが「絵画との契約」となっているのは、山田正亮が自ら「絵画と契約した」と言ったことから来ていますが、彼は独特の絵画とのかかわり方をしていました。そして彼の事例は、良くも悪くも絵画や彫刻、その他あらゆる表現をする人、あるいは表現を鑑賞する人にとって、自分と芸術との距離の置き方を考えるうえで参考になるのではないか、と思います。
それでは、本の内容を見ていきましょう。
この本の目次を見ると、次のようになっています。
「山田正亮の仕事」 中林和雄+松浦寿夫
「二つのヴォリューム」 沢山遼+松浦寿夫+中林和雄
「ネガティヴ・スペースについて」 松浦寿夫+中林和雄
「その今日的可能性」 林道郎+松浦寿夫+中林和雄
「あとがき」 松浦寿夫
最後の「あとがき」をのぞくと、すべて2015年から2016年にかけて、東京の両国にあるART TRACE GALLERYで行われた勉強会の記録になっています。目次に名前が記載されている人たちが、その日の主なパネラーですが、名前がなくても会場で聴講していたケースもあるようです。私はずいぶん前になりますが、このギャラリーに行ったことがありますし、ギャラリーが発行している本も購入したことがありますが、勉強会に参加したことはありません。
その勉強会がどんなものかといえば、例えばはじめの「山田正亮の仕事」という回を読むと、山田の回顧展の主担当である中林和雄が山田の作品や資料について調べた話からはじまり、その内容にそって討議が進められます。そしてこの勉強会が、山田正亮についてある程度知った人たちの集まりであることから、話の内容が専門的なことに終始するのは当然のことです。
ところで、このblogを読んでいらっしゃる方の中には、山田正亮の作品をあまり知らない方もいらっしゃるでしょう。回顧展からもう五年も経っていますし、ある程度の年配の方でも、日本の現代絵画に興味がなければ、国立近代美術館までわざわざ足を運ぶこともなかったでしょう。そこで、いくつかの資料をここでお示しします。
まずは『endless 山田正亮の絵画』がどんな展覧会だったのか、美術館の過去のページを見てみましょう。
https://www.momat.go.jp/archives//am/exhibition/yamadamasaaki/index.htm
これでだいたいの説明は読み取れますが、肝心の作品の画像がありません。山田の作品がある程度まとまって見ることが出来る公的な機関のページは次の通りです。時代順に並んでいますから、上から順番に画像を大きくして見てください。
https://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=5114
実は、私が一番好きな山田正亮の作品は、この『Work E-250』の少し前の作品です。それは次のページでちょっと画像は不鮮明ですが見ることが出来ます。
http://color-museum.jp/exhibition/145
また『Work E-250』と同時期の作品が、次のページで見ることが出来ます。
https://jmapps.ne.jp/nerima_art/sakka_det.html?list_count=10&person_id=67
さらに、山田正亮の最晩年に制作した『COLOR』というシリーズは次の作品です。オークションの画像のようですから、いつまで見ることが出来るのかわかりませんが、とりあえず上げておきます。
https://www.est-ouest.co.jp/2012lot97.html
それから、中林和雄の山田正亮に関するエッセイと研究論文が、「東京国立近代美術館リポジトリ」から見ることが出来ます。『抽象と待機』と『山田正亮 life and work─制作ノートを中心に』が山田正亮に関する文章です。「pdfファイル」で開くことが出来ます。
https://momat.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=16&lang=japanese&creator=%E4%B8%AD%E6%9E%97+%E5%92%8C%E9%9B%84&page_id=13&block_id=55
このうちの『山田正亮 life and work─制作ノートを中心に』が、今回の話の基本となる内容です。よかったらダウンロードしてご一読ください。
また、山田正亮についてざっくりと知りたい場合は、「東京文化財研究所」のページを見てみましょう。
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28499.html
だいたい、ご覧になることが出来ましたか?(便利な時代になりましたね。)
念のため、「東京文化財研究所」の記事をもとに、簡単に山田正亮について紹介しておきます。
山田正亮は1929年生まれです。私の父より少し年下、母よりは少し上の世代ですから、十代の後半に終戦を迎えた戦争体験の世代ですね。それから東京都立工業高等専門学校を卒業後、デザインの仕事をしていたようです。絵の勉強は、長谷川三郎に師事したと言われています。これは個人的に教わっていたのか、それとも自分が師と仰いでいただけなのか・・・。この頃より主にデザインの仕事に従事しながら、日本アンデパンダン展、自由美術展などに出品しています。初期から1950年代にかけて静物画を中心に制作し、50年代中ごろに絵画の抽象化がすすめられ、1956年より「Work」のシリーズがはじまります。画面に規則的な矩形の色面が占める作品を経て、1960年頃にストライプに覆われた画面に到達します。これがミニマル・アート隆盛の時代のなかで注目を集めました。私の記憶では、フォーマリズム批評の藤枝晃雄(1936 -2018)が山田を高く評価していました。その影響は大きかったと思います。そして79年以降、毎年開催された個展(佐谷画廊)等において発表された作品がつねに注目されたのだそうです。私が彼の作品を見たのもこの頃でしたが、確かに展覧会は話題になっていました。この時期の山田の作品は、大画面のなかに引かれたグリッド(矩形の枠線)をベースにして、ときにそれに捕らわれることのない柔軟な線と鮮やかな色彩で画面を覆う、という実にスリリングな展開の絵画でした。ところが95年に、およそ40年間にわたってつづけられた「Work」のシリーズを終え、しばらく沈黙します。その後、2001年に「Color」の連作を発表、これは単一の色彩が画面を覆い、画面の端に表面下に塗られた別の色相をのぞかせる、というものでした。2005年に府中市美術館で『山田正亮の絵画 <静物>から―そしてへ』展を開催し、初期の静物画からストライプの絵画、さらに最新作として「Color」シリーズなど139点からなる個展を開催しました。その後は制作を止めたまま、2010年に亡くなってしまったのです。
山田が晩年に制作をやめてしまったことについて、評論家の峯村 敏明(1936 - )が興味深い評価をしていますので、そのことを後で少し取り上げましょう。くわしく知りたい方は、私のblog『12.山田正亮という画家について』をご覧ください。
さて、それでは本の内容に戻ります。
山田正亮は膨大な量の自作に関するノートを残していて、中林和雄の研究は、それをつぶさに分析するというものでした。例えば中林の論文、『山田正亮 life and work─制作ノートを中心に』には、次のような記述があります。

特筆すべきは、制作中の作品を写したと思しい色鉛筆やインクなどによるかなり精巧なスケッチが、ノートの多くの紙面上でかなりの部分を占めていることである。このスケッチによってこれらのノートは詩画集の様な視覚的存在感をも獲得している。画家の筆跡は時に判読も難しく、さらに独特な言い回しにより文意は不明確な場合も少なくないが、これらのスケッチと並列ないし重層されることによりその一見晦渋な言葉は意外なほど具体的な像を結び始める。ノートは通読することによって画家の制作現場の切実な実状をかなりの程度追体験できる貴重な存在となっている。筆者は今回、これらのノートのかなりの部分に目を通す機会を得、本稿は基本的にその経験を基点に構想されたものである。
 もとより画家の言葉は示唆に富んでいる反面、そこに重きを置きすぎた場合、作品への判断に曇りを生じさせるという懸念もあろう。とりわけ「孤高の画家」といわれ、内的世界に閉塞しがちだったこの作家の場合、わたしたち第三者はそこに意識的でなければならないだろう。今後、記述の年代等についてのより精密な考証も望まれる。一方で、20歳そこそこの時から20年間にもわたって綴られた画家の格闘の記録として、これらのノートが重要であることはやはり疑い得ない。そこにいるのは、制作の場で絵画から開示される色と形の独自な秩序のあり方について、言葉のもどかしさに耐えつつも書きとめようとする画家である。それは、絵画と人生をリンクさせることのないフォーマリスト山田正亮という既存のイメージを一方で強めるのだが、他方では、その息を詰める様な記述の連なりからは、逆に絵画と人生は実は切り離しようがなく、フォーマリズムの深奥には結局人間が潜んでいるのだという当然の事実をも納得させる力がある。
(『山田正亮 life and work─制作ノートを中心に』中林和雄著)

これらのノートは『endless 山田正亮の絵画』展でも見ることが出来ました。
私はこのような緻密な自己分析ができない人間なので、客観的なことは言えませんが、「20歳そこそこの時から20年間にもわたって綴られた画家の格闘の記録として、これらのノートが重要であることはやはり疑い得ない」というのは、どうだろうかと思ってしまいます。中林自身が「画家の言葉は示唆に富んでいる反面、そこに重きを置きすぎた場合、作品への判断に曇りを生じさせる」と書いていますが、山田のこのノートにはかなりの自己演出があるのだろう、と私は思っています。それに彼の絵画は、比較的わかりやすいものですし、またそうでなければならない種類の作品なのです。つまり画面を見れば、表現者がだいたい何を考えているのか、何をしようとしているのかが伝わってくるのがフォーマリズムの絵画です。画面からくみ取れないような意志や感情は、もちろんフォーマリストの内面にもあったと思いますが、それを知ることにどれほどの意味があるのでしょうか。彼のノートを研究する前にそのことを問わなければならない、と私は思います。
それでは、なぜ山田正亮はこのような膨大なノートを残したのでしょうか、そしてなぜ彼は晩年に筆をおき、制作をしないままに亡くなったのでしょうか。これは私の勝手な思い込みですが、現代美術の作家には、どこかにマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887 - 1968)のような芸術家像へのあこがれがあるのではないでしょうか。知性的であり、皮肉屋であり、網膜的な(つまり目に見えるような)表現に対して懐疑的であり、デュシャンのように制作をやめた時期さえもが芸術的に意味がある、というような芸術家像です。山田正亮が晩年に制作を止めてしまったことに対し、「山田正亮という画家の中の芸術家のあり様に疑念を育てて、容易に消えない『うそ臭さ』の像を残すこととなった」と言ったのは、先ほど紹介した峯村敏明でした。そんなふうに計画的に作品を制作し、やるべきことをやり終えた、と制作をぱったりとやめることが、本当にできるのだろうか、というわけです。そのような芸術とのかかわりには「うそ臭さ」がある、というのが峯村の見解です。私は「うそ臭さ」というほど厳しく言うつもりはないものの、やはりそこには不自然さを感じます。
この本の中では、研究者の林道郎が同じような疑問を提示しています。
林は、モダニズム絵画がその原理として「目的論的に展開する歴史のことをスタンダードとして考える」ということ、そしてその目的というのが、「一枚一枚の(絵画の)制作のたびに」、「絵画とは何か」、あるいは「絵画を成立させる条件とは何か」を問うことなのだ、と確認したうえで、次のように言っています。

たしかに、その問い(「絵画とは何か」)の反復が漸次的に抽象へと向かうように見え、総体として線的な歴史を出現させる結果になったのかもしれないですけれども、その線的な歴史というものは、事後的な観察者の視点からまとめられた物語にすぎない。
そのつどの、たとえばキュビスムでもいいですし、たとえばモンドリアンでもいいけれど、そのつどの時点では、どの画家も絵画の破壊と再生の上で綱渡りをしているわけで、あらかじめ与えられた目的を知ったうえで、現在地をそれに至る通過点として位置付ける、ということではなかったはずです。
山田さんの仕事には、そういう意味で、確かに両義的なところがあるかもしれません。峯村さんが「計画経済的」という言葉で厳しく山田さんの仕事を批判されていますけども、その背後にある感覚というのは、山田さんがあらかじめ目的地をなんとなく知っていて、それに向かって自分の仕事の経路を周到に作り上げていた、という疑念ですね。
(『絵画との契約 山田正亮再考』「その今日的可能性」林道郎)

わかりやすくまとめてみましょう。
モダニズムの絵画というのは、具体的なものを描いた絵画から抽象的な絵画へと変貌していきました。例えばモンドリアン(Piet Mondrian、1872 - 1944)は一本の木を描きながら、やがてその幹や枝が一定のリズムの曲線になり、色彩も抑制された抽象的な絵画になる過程を作品群として残しています。なぜ画家はそのようなことをしたのかと言えば、アメリカの評論家グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)が言ったように、絵画は平面上の表現であるから、その特色である平坦な平面に近い線や面に還元されていくのだ、ということなのです。しかし、そこに至る筋道は一直線の「線的な歴史」のように見えるけれども、「そのつどの時点では、どの画家も絵画の破壊と再生の上で綱渡りをしているわけで、あらかじめ与えられた目的を知ったうえで、現在地をそれに至る通過点として位置付ける、ということではなかったはず」だというのが、林の言いたいことなのです。
ところが山田正亮の仕事は、社会主義国家の「計画経済」のような明快な過程を示そうとします。それが「事後的な観察者の視点からまとめられた物語」のように見えてしまう・・・、つまり「自分の仕事の経路を周到に作り上げていた」のではないか、と林は疑っているのです。
確かに、山田の仕事にはそういう疑わしい面があると思います。とくに私がそれを感じるのが、初期の静物画が線的な単純な形になり、やがてそれが横向きのストライプの画面になるところです。ストライプの絵画『Work C』と呼ばれるシリーズは山田の評価を高めた作品群ですが、私にはそれ以前の絵画からストライプ絵画に至る必然性がよくわかりません。そしてそれ以降も、山田の作品の変化はわかるようでわからない、つぶさに見ていくと理詰めでは語ることのできない飛躍があるのです。それを林は次のように言っています。

フランク・ステラなんかも同じ問題に突き当たっているように見えるわけですが、グリーンバーグ的な還元の物語を意図的につきつめ、平面と枠に還元した(そしてその還元によって反絵画的な物体との臨界面を露出させることになった)。だが、その還元がなされたあとの継続と反復の困難について、グリーンバーグ的なモデルは何も語ってくれない。むしろモダニズムの本質はそこにあるのかもしれないのに、語ってくれない(あるいは本質だからこそ語りえない)ということになる。
もうすこし即物的に言うと、「絵画とは何か」という原理的な問いへの最終的な回答は、平面という唯物的な条件として前面化される。しかし、それは絵画成立のための必要条件であって、それだけでは十分とはいえない。その問いにどうやって答えるか、という事なんですよね。その問いに答えるために次から次へと実践が繰りかえされる。山田という画家は、その問いに答えるためのサムシング・エルス、つまり絵画を成り立たせるためのサムシング・エルスを求めて作り続けたというふうにも言える。多くのモダニズム的な思考を持った画家たちは、同型の問題を抱えていたはずですが、彼らはその問いに対してそれぞれ違った回答を見つけ出していく。50年代から60年代以降の展開の多くはそういう観点から見ていくことができるんだと思います。
(『絵画との契約 山田正亮再考』「その今日的可能性」林道郎)

このblogで何回も繰り返して問い返してきたことですが、モダニズムの絵画は平面性へと向かう中で、ミニマルな表現へと至った後にどこにも出口がなくなってしまいました。そこから先のことは「グリーンバーグ的なモデルは何も語ってくれない」という事態に陥ります。ものごとを還元し、単純化しながらつきつめていく、ということが「モダニズムの本質」だとするならば、そこからさきは「本質だからこそ語りえない」というか、むしろ語る必要もないことになってしまいます。モダニズムは必要最小限のことについては原理的に語ることが可能ですが、芸術表現として必要最小限では十分ではない、という欲求に対して、それでは何を加えるべきなのか、「サムシング・エルス」はいったい何なのか、ということについて本質的に語り得ない思想なのです。この問題は山田正亮の絵画だけのものではなくて「モダニズム的な思考を持った画家たちは、同型の問題を抱えていたはず」だと林は言っています。
例えば、ここで名前が出てきたフランク・ステラ(Frank Stella, 1936 - )の場合は、どうでしょうか。少し前にblog『143.『ワーキング・スペース』フランク・ステラについて』で話題にしたところですが、ステラのミニマル・アート以降の動向について、林の説明を書き留めておきましょう。

たとえばステラの場合は、唯物論的な規定を強調し、色面そのものを物体的なユニットにして、それを物体として組み合わせることを始めるわけですが、むしろその編集の虚の空間に「絵画空間」を作り上げていくというふうに展開していく。実体的な還元を経由して、それをレリーフ化し、ずらして重ね合わせることによって、唯物的な存在性を確保しながらそれに還元されないフェノメナルな「空間」を生産するという解決に向かった。
(『絵画との契約 山田正亮再考』「その今日的可能性」林道郎)

ちなみに「フェノメナル」とは「phenomenal;自然現象の、(思考・直観によらず五感で)認知できる、驚くべき、異常な、驚異的な」という意味です。この林の言葉を実感していただくには、次の川村記念美術館のホームページ上のステラの作品を、上から下に見比べてみてください。絵画的な正面性と立体的な物質性が共存するような、そんな不思議な空間が徐々に出来上がっていくことがわかります。
https://kawamura-museum.dic.co.jp/art/collection/#collection09
ステラに加えて、林はやはりミニマル・アートの作家、桑山忠明(1932 - )を事例としてあげていますが、長くなるのでここでは立ち入りません。桑山はステラとは違った方法で「空間」を生産する解決を選んだのだ、とだけ言っておきましょう。
それに対して、山田正亮はどうであったのか、林はこう書いています。

山田さんはそれに比べると、頑なと言っていいほどに、ある意味「伝統的」と言ってもいいですが、フレームに囲まれた一平面として自立しうる絵画のイメージを守り続けた、と言っていい。その条件のもとでサムシング・エルスの顕現を求めつづけたように見えます。
そのことに関わって、ひとつ、山田さん自身の言葉を引用してみます。『ART TRACE PRESS』の二号にも引かれていますが、読んでみます。

単一性を目指しながら、単一的なものでない全面的な絵画というものを成立させようというわけですね。スレスレのところでそれはオブジェになる。あるいは物体性を帯びるということで、事物だけの強さになってしまうわけです。そうなってくると、絵画が平面でなければならない理由が消えていくわけですね。
(『ART TRACE PRESS』二号70頁)

ここで言われているのは、絵画は絵画としての同一性を求めながら、それがあまりにも単一的で全的なものへと還元されてしまうと、「物体性」を帯びて、「事物だけ」の強さになってしまうということです。そうなると、絵画が平面でなきゃならない理由がない。つまり、事物の強さであれば、平面であっても三次元的な立体であっても等価ですから、わざわざ平面という形式を選ぶ必要がない。そういう強さを求めているのではないと。だから、山田さんは絵画を事物に転落させてはいけないという態度を保持し続ける。
この問題は、さっきのグリーンバーグの話と似ています。グリーンバーグは、絵画は平面と枠だけで成立するけれど、必ずしもそれはいい絵画じゃないと言っている。そして同時に、ミニマリズム的な事物への還元を避けるために、絵画は絵画独自の視覚的イリュージョンをもとめなきゃいけないとも言ったわけです。だけれども、その視覚的イリュージョンの構造については、個々の画家の具体的な例示を待つほかない、ということになっていく。
(『絵画との契約 山田正亮再考』「その今日的可能性」林道郎)

とても興味深い話です。
具体的な絵のイメージがわかない人は、冒頭で見ていただいた山田正亮の画像のページの『Work D.87』から『Work E-250』に画像を飛ばしながら見てください。
https://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=5114
先ほどのステラの作品の変化と違うのは、山田が絵画の平面性にこだわった点です。さらに「事物」としての表現の強さ、つまり絵具の物質性についても抑制的であった、というところが山田正亮の絵画の特徴です。山田は『Work E』のシリーズにおいて、絵画の中のグリッド、つまり矩形の枠を壊していきましたが、それを完全になくしてしまうことはありませんでした。私はそれが山田の絵画の限界であったと同時に、彼のスリリングな絵画の展開を支えたものだと思います。そのことを林は明快に解説しています。

Eのシリーズになると、フレームに色が塗られたり、画面全体がペインタリーな色彩の重なりによって成り立つようになるので、絵画的な空間性が増して、枠そのものも、奥行きの揺れ動きの中にのみ込まれるような感じになるわけですけど、それに歯止めをかけるように十字形のパターンが現れて、画面のあちこちに平面を強調するような役割を果します。これは、枠が塗られて物理的な支持体としての存在性が曖昧にされたことを補完するために画面全体に十字形が使われているというような見方も可能ですね。
その十字形が、隙間から指をつっ込んでみたいような、ある種の触覚性みたいなものを感じさせるところも、気になりますね。いずれにしても、物理的な平坦性と、絵画的な平面性が、Eにおいては、しばしば分裂的と言っていい様相をはらんでいるように見えるし、逆にそれが、豊かな複数の平面性と見ることもできるわけです。
(『絵画との契約 山田正亮再考』「その今日的可能性」林道郎)

さて、このように山田の絵画が「画面全体がペインタリーな色彩の重なりによって成り立つようになる」のです。ストライプの絵画から矩形のグリッド絵画に変わり、やがてそのフレームが打ち崩されていく、という変化は一見すると秩序だった、漸次的な変化のように見えますが、私はその変化のひとつひとつに大きな飛躍があったと思います。このEシリーズが描かれた当時は、ポストモダニズム的な表現主義絵画が流行してきていて、山田のこの変化もその動きに同調するように見えました。しかし山田の絵画は、それらの動きとは一線を画したものだったのです。そのうえで私は、この時期の山田にはその変貌のひとつひとつに表現の飛躍があったと思うのですが、その飛躍には説得力があったと思います。そのことに関連して、林は次のように言っています。

内的必然性というのは、あくまでも「絵画」の内的必然性であって、それは、むしろ外部的なものからの働きかけ、作り手という主体にとっても観者にとっても外部的なものであって、予想できない何かがそこに働きかけとして到来してしまう感覚。それは事後的に承認できるようなものが内的必然性なのではないかと。そういう感覚が、20世紀の絵画をずーっと支えてきたんだろうなと思います。それは絵画の起源を問うという態度と密接に結びついていて、その内的必然性の感覚があるかどうかというのは、神秘主義的な言い方になりますけど、絵を見て判断をくだすときに、重要なメルクマールになり得る。
では、その感覚が、山田さんの仕事に一貫してあるかどうかというと、ここは人によって判断が変わるところかと思いますけど、僕自身は、ストライプから、D、Eぐらいまでが、見ててそういう感じを受け取れるかな、と。ただEの後半くらいからは次第に薄まってくる、といのが僕の個人的な感覚なんですね。
(『絵画との契約 山田正亮再考』「その今日的可能性」林道郎)

林は「内的必然性」というのは、「事後的に承認できる」ものであって、そのさなかにあっては「予想できない何かが働きかけとして到来」したのだろう、と言っています。私にはこのことがとてもよくわかります。「外部的なもの」の到来をキャッチできるのは才能がある人だけだと思いますが、私にはその才能がまったく欠如しているのです。それだけにかえって、そのことがよくわかる気がするのです。
そしてその「外部的なもの」の働きかけは、才能のある人に対してシャワーのように絶えず降り注ぐものかといえば、そうでもないようです。私が山田の絵画に注目していた時期、つまりEシリーズを制作していた時期には、確かに山田にそれが到来していたのだろうと思います。私の見立てで山田正亮に「外部的なもの」が到来した時期は、林が言っている「ストライプから、D、Eぐらいまで」という時期よりもさらに短く、Eの始まりのごく短期間だったと思います。
彼はその時期に「外部的なもの」をキャッチすることが出来ましたが、残念ながらそれを継続することは出来ませんでした。それは努力によってどうすることもできないものです。ましてや自己ノートをいくら綴っても、補えるものではありません。こんなことを書いたからといって、私は山田正亮という画家を貶めるつもりは毛頭ありません。むしろ短期間にしろ、その素晴らしい絵画をこの世界に現出させたということが、現在の絵画の状況においては素晴らしいことなのです。それはいくら強調しても、し過ぎることはないと思います。1980年代の山田の絵画は、世界的に見ても注目すべき成果であったと私は思います。
このように、芸術と表現者の関係というのは、表現者の努力のいかんにかかわらず(とはいえ、努力していなければ飛躍のチャンスをのがしてしまうのでしょうが)、あるタイミングで「外部的なもの」が到来し、そのことによって飛躍がもたらされるのだと思います。それを神がかりなものだと言うつもりはありませんが、例えばアスリートがその日の体調や精神状態、アスリートを取り巻く環境などがうまく一致して、ひとつ上の段階へとステップアップするような、そんなことと似ているのかもしれません。そしてそのことは、芸術作品を感受する批評家や鑑賞者の内面において、ある日急に生じる変化、ひらめきのようなものも同様なのかもしれません。それを無理やりに自分で制御したり、整理して見せたりすると、自己演出に陥ってしまうのではないか、と私は思います。このように、自分の活動を知的に把握したいという欲求を、私は先ほどデュシャン的な芸術家像へのあこがれではないか、と書きましたが、中林はこの本の最後のところで次のような興味深い分析をしています。

まあ、山田さんが契約っていう言葉をノートに書いたのは50年前半ごろです。背景としては、戻りますけど、戦争経験、空襲で周りで人が死んだみたいなことを踏まえて、それから自分も結核で死にかかって、という中で、生死の問題と戦後の空白の中で頼れるものとして、非常に頼ったというか、かけたという意味での契約というのが出てきますね。体が弱っているときに、「弱っても死ぬことはない。絵画との契約がある」、といういい方をするんですね。だから、わりとそういうニュアンスからでてきた、とういのがあります。
大西巨人の『神聖喜劇』というのがありますが、あの主人公は戦争に行くときに、自分から行くんですが、「わたしがなすべき仕事があるんだったら、戦争に行っても死なないはずだ」、と言って行くんです。ちょっと似ているなと思っています。

私は恥ずかしながら、大西巨人(1916 - 2014)の小説を読んでいません。『神聖喜劇』はよく話題になる小説ですね、長編小説を読む時間がなかなか取れないのですが、どこかで読まないといけません。
それはともかく、絵画との関係を「契約」としてとらえ、真摯にその「契約」を履行していく、という考え方は、山田にとって必要なものだったのでしょう。そのことに功罪はあると思いますし、峯村が指摘した「うそ臭さ」もその「契約」という考え方から生じているのかもしれません。
山田の晩年の『COLOR』のシリーズは、ミニマルな色面による絵画から脱するにあたって山田がやり残したことを、絵画との「契約」にそって履行しようとしたのではないか、というふうに私には読み取れます。それは色面を制御するグリットを侵食することでミニマルな色面から脱するのでなくて、色面の背後に別な空間を意識させることで、最小限の絵画のイリュージョンを確保する、というアイデアです。このことを思い立ったからには、それまでの自分の仕事との整合性はともかくとして、実行に移さなくてはならない、そしてその実行によって、自分の絵画との「契約」は完遂される、と山田は考えたのではないか、と思います。しかし、それまでの山田の絵画が観念的な思い付きと実践との葛藤の中で表現されていたのに比べ、このシリーズはアイデアがそのまま実行されてしまった、という感じがしてしまいます。林も話の最後で、この連作のことを「どういうふうに捉えていいのか、ぼく自身は未だにちょっとわからない感じがあります」と言っていますが、それもわかる気がします。
この山田のアイデアは、たぶん山口長男(1902 – 1983)によって、ずっと実践されていたのではないか、と思います。山口はミニマル・アートとはまったく異なる独自の文脈でモダニズムの絵画と取り組んできたのですが、その山口が自分の作品をぎりぎりのところで絵画として踏みとどまるために実践したことが、画面の一部分を別な色で塗り残したり、絵の具のマチエールを際立たせることで絵画的な痕跡を残したりすることでした。山口の身体的とも言えるような繰り返しの営為は、山田の『COLOR』シリーズよりもずっと力強く、見ごたえのある絵画を生み出しています。
https://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=5013

だいぶ長くなってしまいましたが、山田正亮の作品の変遷、作品の評価、そして表現との向き合い方について、どのようにお感じになりましたか?はじめに書いたように、山田の絵画が素晴らしいから何回でもblogで取り上げる、ということもありますが、論じるべき点をたくさん残した画家だともいえると思います。私は表現を学ぶという点において、巨匠として評価が定まった人だけを注目していたのでは、表現活動の持つ大きな可能性を見落としてしまう、と考えています。だから、かつて同時代に生きて、その活動を目にした画家たちのことを大切にしたい、と思っています。これからも機会があれば、過去に取り上げた画家や作品の読み直しをしていきたいと思っています。
それから山田のことから少し離れますが、この『絵画との契約』という本のなかで松浦寿夫が気になることを指摘しています。それは山田が師事した長谷川三郎についてです。
「1930年代後半の何人かの画家たちの試みはきわめて高い水準で重要な問題群に取り組んでいます。ところが美術史的な検証は、この時期に関していうと、もっぱらシュルレアリスムの作家の検証に集約されてしまいます。」
松浦はこのように言っています。彼が言うには、日本の美術館やマーケットは「具体美術」、「もの派」というふうに集団化されると、とんでもない作品までその場所を与えられるのに、個々の画家となると優れた表現活動をしているのにもかかわらず美術史の研究から脱落してしまう、というのです。松浦の同伴者とも言える岡崎乾二郎(1955 - )が、長谷川三郎よりすこし年長の坂田一男(1889 – 1955)の展覧会を以前に企画しましたが、坂田一男もその中の一人だというわけです。そういえば、長谷川三郎の作品を展覧会で見たな、ということで横浜美術館の展覧会を思い出し、図録の購入にたどり着きました。私自身も、松浦が指摘する「集団化された」日本美術史に、すこし毒されているのかもしれません。
ということでそんな戒めもこめて、近いうちに長谷川三郎についてまとめてみます。

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