平らな深み、緩やかな時間

151.3月の個展のパンフレットのテキスト掲載

3月15日(月)から20日(日)まで、東京・京橋のギャラリー檜で個展を開催します。
冒頭のblog「はじめに」やギャラリー檜のHP、または石村HPなどご参照ください。
昨年に続き、今回も新型コロナウイルスの感染状況下での開催となりますが、昨年と異なり今回はあらかじめ危うい状況がわかっていましたので、カラー刷りのパンフレットを作成します。自粛して来ていただけない方にも、展覧会の概要を知っていただこうという趣旨です。もちろん、昨年同様に後日、ホームページで画像を見ていただけるようにするつもりですが、それに加えて紙媒体も用意した、ということです。ただ、このような状況下で画廊を開いている方々のためにも、お近くにいらっしゃることがあれば、実際にみていただけるとありがたいです。ご無理のない中で、よろしくお願いします。
ということで、今回はその個展パンフレットのテキスト部分を掲載しました。パンフレットの形をそのままご覧になりたい方は、石村HPの「はじめに NEWS」のページにpdfファイルをアップしました。展示予定の作品の写真も掲載しましたので、よかったらご覧ください。
http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html
この原稿は現在、印刷屋さんにわたしているので、もうすぐ刷り上がると思います。個展会場でも配布いたしますが、もしもパンフレットだけでも、もらっていただけるようでしたら、こちらから郵送いたしますので私のホームページの「コンタクト」の欄から送付先をご連絡ください。もちろん無料です。

さて、こんなふうに展覧会の準備を進めているところですが、現実の社会ではいろいろなことが起こっています。コロナウイルスのワクチン対策がただでさえ遅れ気味のようなので、せめて計画通りに進むことを祈るばかりです。
そのさなかにあって、放送事業会社による総務省幹部の接待が話題になっています。(https://mainichi.jp/articles/20210219/k00/00m/010/204000c?cx_testId=120&cx_testVariant=cx_2&cx_artPos=0#cxrecs_s
私には政治的なことはよくわかりませんが、表現者の端くれとして次の言葉が気になりましたので、雑談のレベルになりますが、ちょっとだけ取り上げます。

「私自身、天を仰ぐような、驚がくする思いでございました。」

これは総務省の秋本芳徳情報流通行政局長が、2月19日の衆院予算委員会で発言した内容の一部です。この秋元情報流通行政局長は、事業会社と会食したことは認めていたものの、仕事に関わることを話した記憶はない、と言っていたのです。ところが会食時の音声が文春オンラインで公開され、それが嘘だとばれてしまいました。上の発言は、その音声を聞いたときの自分の心境を語ったものですが、そのあとに「このような会話をしていたのかと、ほとんどを記憶していなかった状態だ」と釈明したのです。
世の中には「紋切り型(もんきりがた)」の表現、という言い方があります。決まりきったものの言い方のことですが、若い方は「ベタ」な表現、と言った方がわかりやすいのかもしれません。「紋切り型」も「ベタ」も同じような意味だと思いますが、「紋切り型」の方が否定的な意味合いが少し強いのかもしれません。この秋元情報流通行政局長の言い方は、その「紋切り型」にあたるのだと思います。例えば文章のプロである小説家が、「アキモトはその録音音声を、天を仰ぐような、驚がくする思いで聞いたのであった」などと書いたら、なんとヘボな小説家だろう、と笑われることでしょう。そんな陳腐な表現であることを、総務省の情報流通行政局長まで上りつめた方がわからないはずはありません。それなのに、なぜ彼はこんな言い方をしたのでしょうか。
まず、すぐにわかることは、彼は天を仰いでもいないし、驚がくもしていない、ということです。しかし彼は、「私は驚がくしたのだ」という嘘を、誰もがわかる形で表現しなければならなかったのです。ここで私が思い出したのは、以前にたしか村上春樹がラジオで言っていたことです。ヒットラー率いるナチスは、国民を洗脳するための宣伝工作がとてもうまかったのですが、彼らは宣伝の対象である国民の教養をできるだけ低く見積もることで効果をあげたのだそうです。つまり国民は愚かだから、広報するならとにかくわかりやすくしろ、というわけです。私は秋元情報流通行政局長の表現を聞いて、そんなことを思い出しました。たとえ自分の比喩が陳腐な「紋切り型」であっても、天を仰ぐほどびっくりした、というイメージをわかりやすい形で国民に刷り込むことの方が重要だ、と彼は判断したのです。
そう考えると、ちょっとこわくなります。どんなに嘘を連呼してもそれは問題ではなくて、国民がその言葉にどんなイメージを持つのか、が大切だというわけです。海の向こうのアメリカ大統領選挙では、当時の大統領の発言によってかなりの国民が何の根拠もないのに、今回の選挙は不正だった、と信じているようですが、これは対岸の火事ではありません。私たちこそ、言葉の雰囲気に飲み込まれて、洗脳されているのではないでしょうか。私たちの上に立つ為政者や官僚の人たちは、それを見透かしてわかりやすい「紋切り型」の嘘をつくのです。
と、ここまで書いてきて、自分の言葉は大丈夫か?と心配になりました。私の場合には、官僚として上りつめるほどの知性も教養もありませんから、もしも文中に「紋切り型」の表現があったとしても悪意からではありません。そのことをご理解いただきたいと思います。それにしても、「紋切り型」の表現に陥らないように日ごろから語彙を豊かにしておくことは大切です。今回は「情報流通行政局長」という立場の方の発言から、そのことを教えられました。「情報」はしかるべき形で、適切に「流通」されなくてはならない、と彼は身をもって教えてくれたのですから、さすがという他ありません。そんな優秀な人たちは、たとえ更迭されても私たちが忘れた頃に優遇されるに違いありません。その一方で、似たような構造の問題で誠実なあまりに自殺せざるを得なかった人がいたことを思うと、胸が詰まります。

それではここからは、パンフレットのテキスト部分になります。よかったら、ご一読ください。


このパンフレットは2021年3月に開催する京橋・ギャラリー檜での個展のために制作したものです。新型コロナウイルスの感染状況など先の見通せない中で、会場に来ていただけない方にも記録として見ていただきたいと思い制作しました。
もしも私の活動に興味を持っていただけるようでしたら、私の発信しているblog『平らな深み、緩やかな時間』(末尾を参照)やHPをご覧ください。何かの参考になれば、こんなにうれしいことはありません。

〇今回の個展のプレスリリース
物体のおもて、表面を特定し、そこに形象をしるすこと、この絶対的な余剰―あるいは表面(場所)の絶対性。物体に拠ってはいるけれど、これは物体、その連続性からの決定的な離脱であり、死にものぐるいの“飛躍”を意味している。ことわるまでもないことだが、これはまた、あの常套的な対語、平面/立体といった形式概念のことではない。そうした「対象言語」ではなく、いまはその手前もしくは下部に眼をそそいでいる。
(『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』平井亮一)

ここに書かれた「死にものぐるいの“飛躍”」こそが、絵画が物質から離脱する瞬間であり、そのときに「視覚性」ばかりでなく、「触覚性」を総動員することでモダニズムの絵画を再検討し、絵画が本来持っている豊かさを探究していきます。

〇前回の個展のプレスリリース
 視覚の独走は、すでに述べたように、人間と自然、人間と人間との間に見るものと見られるものとの冷ややかな分裂、対立をもたらした。それに対して、人間と自然、人間と人間をそのような分裂や対立から救い出し、ふたたびそれらを結びつける力をもっているのは触覚だ、と考えられたのである。
(『共通感覚論』中村雄二郎)

 若い頃に読んだ哲学者の言葉を思い出し「触覚性絵画」というテーマを設定してみました。そのテーマによるささやかな試みです。

◆中村雄二郎が提起した「共通感覚」とは何か
 私は前回の個展から「触覚性絵画」という、少し変わった絵画の見方をテーマとして、制作に取り組んできました。そのことについてここで書いておきたいのですが、その前に話の前提となることを確認しておきたいと思います。
 上に前回の展覧会のプレスリリースを掲載しましたが、私は若いころに中村雄二郎(1925 – 2017)という哲学者の著書『共通感覚論』を読みました。そのタイトルである「共通感覚」という言葉の起源は古いもので、英語で言えば「コモンセンス(commonsense)」のことなのですが、「常識」と訳されるこの言葉が古代ギリシアのアリストテレス(紀元前384 – 322)哲学において「共通感覚」として、つまり「五感の統合態」として捉えられていたのです。この「共通感覚」とは人間の五感がはっきりと分かれたものではなく、緩やかにつながっているような感覚だと思っていただけるとよいでしょう。中世の頃までは、五感が連動したものだと考えられていたのですが、文明の発達に伴って五感が分離し、利便性の高い視覚ばかりが独走してしまった、というのが『共通感覚論』の主旨です。中村は、その視覚独走の状況下で見過ごされた感覚のなかでも「触覚」の重要性について特に注目したのです。

◆モダニズムをめぐる状況
この中村雄二郎の著作が話題になっていた1980年代では、欧米のポストモダニズムの思想が輸入されはじめ、中村雄二郎もモダニズム(近代)思想の再検討を掲げた学者の一人でした。彼とその仲間の研究者や文学者たちは、モダニズム思想の行き詰まりについてさかんに議論していたのですが、まだ学生だった私には、それらは先鋭的な学者たちの高度な話題であり、私自身はモダニズム思想さえもよくわかっていない、というのが正直な実感でした。
その頃の美術の状況はどうだったのでしょうか。日本の美術界においては、モダニズム思想の中心となるアメリカの評論家、クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)のフォーマリズム批評でさえ、日本語訳では読めないような状況でした。当時流行していたミニマル・アートの作品が、モダニズムやポストモダニズムの思想のどこに位置するのか、ということもよくわかりません。しかし、そのころにはすでにアメリカではグリーンバーグの教え子たちが、師のフォーマリズム批評の乗り越えを試みていたのです。それなのに私はフォーマリズムの終着点ともいうべきミニマル・アートの周辺をぐるぐる回っていたのでした。
 少し話が専門的になりましたので、一般的な話題で現代社会が「視覚」中心であることを確認しておきましょう。例えば私たちはインターネットを経由した映像によって遠方にあるものをいとも簡単に見ることができます。この技術はコロナ禍のリモート・ワークや学校の遠隔授業にも活用され、とても便利なものだと誰もが認めるところです。しかし、そこには中村雄二郎が重要視した「触覚」が不在であり、視覚、あるいは音声だけの情報が広がっていて、そこに危うさが潜んでいるのです。コロナ禍になってから、ニュースなどでリモートだけの遠隔授業に悩んでいる大学生のことが取り上げられています。彼らはまさに視覚優先の人間関係、あるいは直の接触のない課題によって心が引き裂かれているのです。いくら感染症対策とはいえ、なぜこうなってしまったのか、と問わなければなりません。「触覚」をともなわない、つまり皮膚感覚で実感できない人間関係や事象ばかりにさらされていると、人間は内面的なバランスを崩してしまうのです。私たちは奇しくも、その現実を知ることになってしまったのです。

◆高村峰生の『触れることのモダニティ』について
 高村峰生(1978 - )という若い研究者が書いた『触れることのモダニティ』という著書があります。この本にはモダニズム美術における「触覚性」の問題が、作家のD.H.ロレンス(David Herbert Richards Lawrence, 1885 - 1930)、写真家のスティーグリッツ(Alfred Stieglitz, 1864 - 1946)、批評家のヴァルター・ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)、哲学者のモーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)らによって探究されていたことが書かれています。この中でメルロ=ポンティについては、画家セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 – 1906)に関するポンティの論文、とりわけ『眼と精神』が有名ですので、内容についてご存知の方も多いと思います。ここでは作家のロレンスについてのみ、少し触れておきます。
『チャタレイ夫人の恋人』を書いた作家のロレンスが絵も描いていたことを、私はこの著書で知りました。彼の絵はそれほど上手ではありませんが、画集も出しているようなのです。そして美術鑑賞者としてのロレンスは、古代エトルリア(紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群)美術とセザンヌの絵画の双方に共通した触覚的感性を見出していました。古代エトルリア美術について彼はまとまった本を出していて、日本語にも翻訳されています。またセザンヌについては自分の画集の論文の中で、ほぼ「セザンヌ論」と言っていいほどにセザンヌについて言及しています。高村は、「ロレンスの考えでは、エトルリア文明の触覚的感性を持った現代の画家はポール・セザンヌであった」と書いています。ロレンスにとって絵を描くという行為は「モノとの接触を求める画家の強い衝動を起源とする」ものなのであり、そのロレンスから見るとセザンヌは「触覚的な物質性を表現するために生涯を費やした芸術家である」ということなのです。思い起こせば『チャタレイ夫人の恋人』は肉体の触覚的な関係を描いた小説であり、ロレンスという芸術家は終始一貫して「触覚」について考えた人だったのです。
この高村の『触れることのモダニティ』によって、私は「触覚性」を意識して絵画を制作することに大きな可能性がある、と確信を深めることになりました。

◆中西夏之の絵画と平井亮一の評論から学ぶこと
 中村雄二郎が探究した「共通感覚」の問題は、近代(モダニズム)の再検討に他ならないのですが、日本の現代絵画において独自のアプローチでそれを実践した画家がいました。それが、中西夏之(1935 – 2016)です。中西の絵画は、一目見ればその個性的な画面に魅了されてしまいますが、それでいて彼の絵のどこが良いのだろう、と問いかけてみると簡単には答えられない、謎めいた画家です。私自身も、中西の絵画のどこに自分が魅かれているのか、最近まではっきりと言葉にできませんでした。その点を少し考えてみます。
中西夏之の制作方法は独特です。実際の制作方法にまで言及する余裕はありませんが、彼が絵画をその起源から問い直したことについては確認しておきたいと思います。そして実は「絵画とは何か」を批判的に問い直すことは、モダニズムの絵画において絶えずなされてきたことでした。先ほども名前を挙げたアメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグは、カントの哲学に倣って近代以降の絵画を批判的に検討しました。彼はその方法でアメリカの現代絵画を主導したのです。しかしその結果、グリーンバーグのフォーマリズム批評はモダニズムの絵画を袋小路に追い詰めてしまいました。絵画とは平面的な表現である、という命題にそって批判的な検討を重ねた結果、絵画は平坦な色面にまで還元されてしまい、出口が見いだせなくなったのです。この袋小路からどうやって出たらよいのでしょうか。いろいろと方法はあるのでしょうが、例えば「絵画とは何か」と問う際の射程を近代以降に限らず、もっと深く絵画の起源から問い直す、というのも一つの方法です。中西が実践したのは、まさにこのやり方でした。もちろん、絵画の起源が現実にはどうであったのか、ということをつきとめることはできません。美術史的な事実などはいかようにも見えてしまうからです。しかし重要なことはそのような美術史的な検証ではなくて、絵画という概念がどのような形で私たちの心の中に宿っているのか、そしてそれをいかにラディカルに問い直すことができるのか、ということです。このような試みは中西の他にも例があって、例えばフランスの「シュポール/シュルファス」運動(1960年代末 – 1970年代はじめ)の作家たちが似たようなことを試みています。しかし、私の知る限り「シュポール/シュルファス」の作家たちの中で、中西ほど興味深い絵画を描いている作家はいません。これはどういうことなのでしょうか。
そのことを35年以上前に正しく理解し、みごとな言葉で綴ったのが批評家の平井亮一でした。その論文『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』の核心部分を今回のプレスリリースとして引用させていただきました。中西夏之の絵画の素晴らしさは、絵画の起源を徹底的に問い直しながら、「画布」と「絵具」という物質が「絵画表現」として昇華する瞬間をみごとに捉えたことにあります。一方、実は平井も論文の中で例示している「シュポール/シュルファス」の作家たちは、絵画を「木枠」、「画布」、「絵具」といった物質に分解することで、それが「絵画」として見なされることの不思議さ、そこに現れる「絵画」という「制度」を私たちに意識させることに成功しましたが、それを「絵画表現」として昇華させるには至らなかったのです。
この中西の絵画において、「画布」と「絵具」という物質が「絵画表現」として昇華する瞬間のことを、平井は「死にものぐるいの“飛躍”」という言葉で言い当てました。まさに中西が画面上に絵具を置く瞬間に、それが物質としての連続性から解き放たれて表現へと“飛躍”するのです。もう少し、平井の言葉に耳を傾けてみましょう。

物体(固体)の連続性をたちきりながらも画布に拠らなければならぬ絵画―このあやうい事態が、中西夏之に、“画面”ということとまともにむきあうよう強いたのだろうか。
物体の連続性に還元されない表面を“場所”にしてしまうこと。ある種の絵画的インスタレーションや立面構造体のように、そのことをあいまいにしないこと。この決定的な飛躍。
(『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』平井亮一)

私は長いあいだ、なぜ自分が中西の絵画にこれほどまで魅かれているのか、うまく説明出来ませんでしたが、それは中西の絵画が、絵画表現としての“飛躍”を遂げていたからなのです。月並みな言い方になりますが、この平井の言葉によって私は目から鱗が落ちるような思いがしました。
そしていま、「触覚性絵画」を制作する私にとって、触覚的な物質である絵具やコラージュの紙片が、「絵画表現」として“飛躍”することを必要としています。そのことによって「触覚」的な物質が「視覚」的な絵画表現へと変換されるのです。そのときに視覚と触覚が相互に浸透し合う、スリリングな関係が成り立つはずなのですが、それが成功したのかどうかは、鑑賞者の判断を待たなければなりません。絵の具や画布などの物質が「死にものぐるいの“飛躍”」によって絵画となること、それが「触覚性絵画」を成立させる条件なのですが、それをどうやって実現したらよいのか、いまも悩みながら制作を進めています。

◆新実存主義が切り開く思考
 このように「触覚性絵画」の実現に向けて私は制作をはじめましたが、そこに何か明確な方法論や新しいやり方があるわけではありません。このことはこれまでのモダニズムの方法論からすると、とてもまずいことです。モダニズムの考え方では、新しく何かを始めるときには、旧弊を覆すような新しい方法論が必要です。それも曖昧さのない、一元的な基準のようなものを備えていなければならないのです。
しかし、私はそもそもそのようなモダニズムの考え方に寄り添うつもりがありませんし、目指すべきなのはモダニズムの乗り越えです。それでは、「触覚性絵画」は果たしてモダニズムの絵画を乗り越える可能性のあるものなのでしょうか。そのことを検討するにあたって、さきほどから名前の出ているグリーンバーグのフォーマリズム批評について、再度考えてみましょう。グリーンバーグのフォーマリズムの考え方では、絵画は平面であるという特徴がありますから、その平面性を追求しなければなりません。そして絵画には余計な含意は必要なく、作品を見れば明確にその表現の質がわかるもの、つまり視覚的なものでなければならないのです。グリーンバーグがアメリカの抽象表現主義の画家、ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 – 1956)のアクション・ペインティングを、その行為の荒々しさや絵具の物質性などを捨象して、画面上の均質な密度だけを取り上げたのはよく知られた話です。それを「オールオーヴァー」な絵画として新たな評価を与えたのです。この方向性が「モダニズムの絵画」のあるべき姿として喧伝され、アメリカ絵画がモダニズムの頂点に立ったのです。しかし、これもさきほど見てきたように、そのグリーンバーグの示唆した方向性がまったくの平坦な色面の絵画であるミニマル・アートとなったとき、モダニズム絵画は表現の袋小路に陥ってしまったのです。余談ですが、彼の教え子であるロザリンド・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )は、反フォーマリズム的な表現を称揚しました。「アンフォルム」という概念を打ち出して、その大規模な展覧会(1996)を組織したのです。このことの評価は定まっていませんが、クラウスのとった反グリーンバーグという姿勢が、かえってグリーンバーグの影響を感じさせてしまう、と言われています。
私の指向する「触覚性絵画」は、そのようなモダニズム以降の流れとは別なものだと考えます。例えば先ほどのポロックの絵画において、彼の行為性や絵具の物質性に注目すれば触覚的な絵画として評価することができます。彼の絵画は、モダニズムの理論だけでは収まらない可能性を持っているのです。「触覚性絵画」とは、このようにこれまでの文脈の読みかえや、古いものの中から新たな発見をすることも含んでいます。必ずしも新しいものでなくても構いませんし、異なる価値観の中で評価された作品であっても、それらを相互に認め合うことができるのです。この考え方はモダニズムの考え方からすると、ずいぶんといい加減なもののようにも思え、正直に言えば戸惑いも感じました。
そんな折に読んだ本が、現代の哲学者マルクス・ガブリエル(1980 - )の『なぜ世界は存在しないのか』です。マルクスは、例えば「唯物論」と「唯心論」が互いを補完しながら共存するような、そんな世界について語っています。厳密に言えば、そのような多元的な「世界」は哲学の概念として想定されていません。だから「世界は存在しない」ということになるのです。このような考え方を、「新実存主義」と言うのだそうです。はじめにこの本を読んだときには何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたが、何回か読み直すうちに、この「新実存主義」と呼ばれる考え方が、モダニズム絵画について考えるときに有効な思考方法だと思うようになりました。つまりモダニズム絵画におけるフォーマリズム批評の一元的な呪縛を解放するためには、この「新実存主義」の自由な考え方がとても役に立つのです。ものごとを分析的に、あるいは批判的に考え、不要なものをそぎ落としながら進むことでモダニズム思想は発展してきました。モダニズムにおいては前へと推進することがとにかく重要なのです。しかし、これからの世界はそうではなくて、一見無駄に見えるものも含みつつ、多様な文脈のものが共存ながら、前へと推進するばかりではない、新たな価値観を見出すことが必要なのではないでしょうか。
このモダニズムの進歩史観の見直しということでいえば、日本の若き哲学者・斎藤幸平(1987 - )が、人間がこのまま経済成長を追求すれば地球を破壊してしまう、ということを最近の著書で言っています。だから彼は「開発」の概念を含んだ「SDGs(持続可能な開発目標)」では地球を救えない、と言うのです。現実の社会においても、モダニズムの進歩史観の修正は待ったなしです。勇気をもって立ち止まり、これまでとは異なる価値観を再検討すべきときです。言うまでもなく、芸術はその先進的な例であるべきです。

◆『絵画の思考』の持田季未子に学ぶ
このマルクス・ガブリエルの「新実存主義」が唱える考え方ですが、実は持田季未子(1947 – 2018)という研究者が、『絵画の思考』(1992)という素晴らしい評論集によってすでに実現している、と私は考えます。持田は、批評家が自分の理論や概念に合わせて作品を語るのではなく、作品が発する声を聴くことで批評の言葉を紡いでいくべきだ、と書いています。それゆえに彼女は、古い日本画から現代美術までを同じ俎上でぶれることなく批評したのです。そして持田ははっきりと、「フォーマリズム批評をいつまでも踏襲するべきではない」と書いています。彼女は2年ほど前に惜しくも故人となってしまいましたが、この『絵画の思考』から彼女の文章を二か所だけ拾っておきましょう。

本書の野心は、絵画の現象学とでも呼べそうな方法で作品をできるだけ厳密にたどり創作の本質をとらえるようにしつつ、テクストに言葉を与え、ディスクール(言説)の次元に引きつける端緒をみつけ、無言のテクストを世界・社会・歴史・人間に向けて開くことである。絵画を美術史の言説の内部に閉じ込めておいてはならない。絵画を思想へ向けて開くディスクールが必要である。それは行為者である当の画家たち自身がよく成し得るところではない。ここに批評の出番がある。
(『絵画の思考』持田季未子著)

ロスコ(アメリカの画家マーク・ロスコ)の言明はフォーマリズム批評的な接近を拒否するかのようである。自分の芸術は色と形の関係ごときで語りつくせる幾何学図形じみたものではない、と言わんばかりのロスコの断固たる主張はその意味で重要である。私たちはグリーンバーグらによって60年代まで盛んになされたフォーマリズム批評をいつまでも踏襲するべきではないだろう。
(『絵画の思考』持田季未子著)

彼女の論文を読むと、作品への愛情と前向きな勇気をもらえるのですが、それは上記のような「行為者」である画家に代わって「絵画を思想に向けて」開こうとする彼女の姿勢によるものでしょう。フォーマリズム批評が得てして批判的な言葉と、先行きが暗くて細い見通ししか感じさせないのとは対照的です。だからといって、持田の批評が作品に対して甘いというのではありません。それは彼女の文章を読んでみればわかります。

◆「触覚性絵画」の可能性
 私の「触覚性絵画」の試みは端緒についたばかりです。私の中では、まだ触覚と視覚の分断が十分に解消されず、「触覚性」の表現として、どうしても物質的な手触りの感触に頼ってしまう傾向があって不満です。もっと視覚と触覚が相互に浸透し合うような、豊かな表現を掘り起こしていかなくてはなりません。それには絵画が喚起するイメージの力がもっと必要だと予感しています。モダニズム絵画の理論においては、表現要素をしぼって課題を先鋭化していくことが求められたので、長らく私もそうするように心がけてきました。しかし、これからはあらゆる可能性を排除せずに、さまざまな方法論を共時的に取り組んでいきたいと思います。すでに私の手元には、バシュラール(Gaston Bachelard, 1884- 1962)などの著書が読み解かれる日を待っています。
そしてもしも私の活動に興味を持っていただけるようでしたら、文頭にも書いたように私のblog、それからホームページを開いてみてください。何か感想をいただけたら、ほんとうにうれしいです。

2021年2月 記   石村 実

◇blog 『平らな深み、緩やかな時間』参照ページ
147.『100分で名著』、『人新世の「資本論」』斎藤幸平を読む
139.『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』平井亮一、『探究Ⅰ』柄谷行人から
134. 持田季未子の語るモネ
132.「震動するエクリチュール」持田季未子の村上華岳論
130. 持田季未子の『カントの批判哲学』(ドゥルーズ)の読み方
129.『美的判断力考』「美的判断力の可能性」持田季未子について
111.『私は脳ではない』マルクス・ガブリエル
108.『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエルについて
102. 触覚性絵画の試み
101. 高村峰生『触れることのモダニティ』について
100. 中村雄二郎『魔女ランダ考』と市川浩『<身>の構造』
99. 絵画の触覚性と中村雄二郎『共通感覚論』
98. 持田季未子『セザンヌの地質学』について
88. 持田季未子『絵画の思考』『芸術と宗教』―ロスコ論から


以上が、個展パンフレットのテキスト部分です。
よかったら、私のHPのpdfファイルの作品写真もご覧ください。

 
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