平らな深み、緩やかな時間

180.『戦争は女の顔をしていない』アレクシエーヴィッチと『Chatterbox展』

『戦争は女の顔をしていない』は、2015年にノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ(Svetlana Alexievitch、1948 - )によるノンフィクションです。 第二次世界大戦の独ソ戦に従軍した女性たちの聞き取りがまとめられている本で、日本では小梅 けいとが描いたコミックも出版されています。
ノーベル文学賞の季節になると、日本では村上春樹が受賞するのかどうか、に焦点があてられ、アレクシエーヴィッチが受賞したときも、あまり馴染みのない作家の受賞に落胆の声さえ聞かれていたような気がします。翌年の受章がボブ・ディランで、その次の年がカズオ・イシグロでしたから、彼らの印象の強さから比べると彼女の受賞は地味に見えたと思います。
私はその当時、受賞した作家と本の紹介を読んで『戦争は女の顔をしていない』のことが気になっていたのですが、「戦争」と「女性差別」という重いテーマが重なっていたせいでしょうか、そのまま読まずにきてしまいました。私は面倒なことを避けて通るタイプの人間ですから、その鋭敏な勘が働いたのかもしれません。
ところが8月9日から始まったNHK Eテレの番組『100分de名著』で『戦争は女の顔をしていない』が取り上げられていてなかなか面白いよ、と友人が知らせてくれました。解説が沼野恭子という文学者で、どういう方なのか調べてみると、東京外国語大学大学院教授でNHKロシア語講座の講師も勤められたようです。ハーバード大学で教えていたこともあるようで、とにかくすごい経歴の持ち主です。ちなみに沼野恭子の夫は沼野充義という文学者で、数年前に村上春樹を英語版で読む、というラジオ番組で解説をしていましたね。
そして、『100分de名著』の番組を見てみると、確かにとても面白い番組でした。
https://www.nhk.or.jp/meicho/
8月30日に最終回がありますし、再放送やアーカイブを見ることができる方は、ぜひご覧になってください。また、この番組はテキストで内容を丸ごと把握できるので、文字で読んでみても良いと思います。
私はまだ『戦争は女の顔をしていない』を読んでいないのですが、『100分de名著』を視聴した範囲でこの本について、とりわけ『Chatterbox展』に関わるところについて考察してみたいと思います。
一方、『Chatterbox展』ですが、こちらは東京・京橋のギャラリー檜で8月30日から9月4日まで開催されるグループ展です。
http://hinoki.main.jp/img2021-8/exhibition.html
本来は、展覧会を見てからいろいろと書くべきなのでしょうが、私が展覧会を回れるのは最終日の土曜日に限られていますので、そこからblogに書いたのでは展覧会の紹介としては遅すぎます。(いつも申し訳ないです。)
ところが今回紹介する『Chatterbox展』は、前回同様に参加作家たちの対談が小冊子として配布されるようで、私のところへは事前に参加作家で企画者でもある飯沼さんから送られたものが届いています。そういうわけで、その冊子をもとに少しだけ考察をしてみたいと思います。
偶然ですけれど、『100分de名著』が『戦争は女の顔をしていない』を取り上げた時期と『Chatterbox展』の会期がギリギリ重なっていて、さらにそれを友人から聞いたことと飯沼さんが冊子を送ってくださったタイミングが重なる、という幸運から、この二つが共通して示唆するものについて、私なりに読み取ってみたいと思いました。
もしも読み取りきれていないところがありましたら、それは私の感度が鈍いせいであって、悪意からではありませんのでご容赦ください。
・・・と書いてみて、ふと気がつきました。この「悪意はありませんのでご容赦ください」という言い方ですが、これは差別発言をした人間(主に私のような老齢の男性)が言い訳をするときに使う常套句です。あるいはもっとタチの悪い輩は、悪気がなかったことを示すように、家族(女性)から叱られちゃった、みたいなことを言う例もあります。例えば、こんなふうにです。

「昨夜、女房にさんざん怒られた。『またあなた、大変なことを言ったのね。女性を敵にしてしまって、私はまたつらい思いをしなければならない』と言われてしまった」
「今朝は娘にも孫娘にもしかられた」

これは東京オリンピック・パラリンピックの大会組織委員会の森喜朗元会長(83)が、日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で、女性は会議で長く話しすぎるため、女性の多い会議は「時間がかかります」と発言したことに関連する謝罪の中での言葉です。女性に対する差別だと批判されたために記者会見を開き、「不適切だった」と謝罪しましたが、それに関連して毎日新聞社の取材に対して発した言葉だそうです。
https://www.bbc.com/japanese/55929450
この言葉を聞いて、「あぁ、森さんも人間味のあふれたいい人だなぁ」と思う人は、まずいないと思います。自分の言い訳のために奥さんや娘、孫娘まで持ち出すなんてずるい、という嫌悪感の方が先に来るのではないでしょうか。
ということですから、私も日頃からの意識の低さをちゃんと認めて、潔く自分の言葉に責任を持たなくてはなりません。言い訳はなるべく書かないようにしましょう。

さて『戦争は女の顔をしていない』には次のような一節があります。

光学にはレンズの「強度」という概念がある──とらえた画像をより確実に見せるレンズの能力のことだ。そして、女性の戦争についての記憶というのは、その気持ちの強さ、痛みの強さにおいてもっとも「強度」が高い。「女が語る戦争」は「男の」それよりずっと恐ろしいと言える。男たちは歴史の陰に、事実の陰に、身を隠す。戦争で彼らの関心を惹くのは、行為であり、思想や様々な利害の対立だが、女たちは気持ちに支えられて立ち上がる。女たちは男には見えないものを見出す力がある。  
(『戦争は女の顔をしていない』アレクシエーヴィッチ 三浦みどり訳)

ここだけを読むと、これも「女性」と「男性」という性差に関する決めつけがあるような気がします。しかし、これまでの戦争の記録といえば、男性の声しか記録してこなかったのですから、女性へのインタビューによって見えてくる事柄について、このような分析をすることはやむを得ないことだと思います。それに、アレクシエーヴィッチのこのような見方にはある程度の根拠があると、沼野恭子は読み取っています。それはこんなところです。

単純に性別で分けてしまうのは発展性のない考え方ではあるのですが、とはいえ、女たちの語りは、語り方も内容も、男たちの語りとはかなり違っていた、という実感をアレクシエーヴィチが持っていたことは確かです。  
では、どのように違ったのか。私は、「身体性」を帯びる、というところに、女性の語りの特徴があると考えています。
 この作品を読んだ方は、身体に関する証言がとても多いことに気付かれると思います。その中でも、特に女性性を象徴するのが、月経やおさげに関する話です。
(『NHK100分で名著「戦争は女の顔をしていない」沼野恭子)

戦争中に体に異変が生じて月経が止まってしまったこと、ロシアでは一般的な女性の習慣である長い髪を切らなければならなかったことなど、いずれも女性でなければ感受できない苦しみです。これらのことは「単純に性別で分けてしまうのは発展性のない考え方ではある」という論理では割り切れない、人としての複雑な感情であり、また事実なのです。
そもそも、ロシアの女性たちが戦士として狩り出されたのは、共産主義の男女平等の思想に基づいたものです。しかし、封建的な古い女性観が日常生活の中で払拭できていなかったので、女性たちは男性の都合によって時に「平等」であると言われ、時に「女性」であると言われて、差別による二重の辛苦を受けていたのです。
そして、この本が単なる女性讃歌ではなく、客観性を持った内容であることを示す例として、女性による女性戦士たちへの差別を取り上げた記述があります。女性戦士は、戦争に行かなかった女性たちによって、戦場で男と淫らな関係にあったのではないか、と噂されてしまうのです。戦後は男性の数が少なく、それを女性たちが取り合う関係にあったので、少しでも同性を貶めようという意識が働いたのかもしれません。そんなことをアレクシエーヴィッチは忖度せずに記しています。
だから女性が立派だとか、逆に女性は能力に劣るのだとかいうことではなくて、今までの戦争の記録、そして歴史、思想、哲学といったもののすべてが男性中心で書かれたものだということが、問題の本質なのです。そして私のような老齢の男性は、そのような環境の中でのほほんと生きてきたので、その歪んだ事実に何の疑問も持たないのです。

さて、一方の『Chatterbox展』のことを話しましょう。この展覧会は私の知る限り、昨年に引き続き2回目になります。そして昨年も素敵な冊子を作っていました。そのときに私がblogに書いた文章を参照してみましょう。

展覧会ではギャラリー檜の4つの部屋をそれぞれの作家が個展形式で展示していました。絵画や版画から映像作品まで表現形式も様々で、とくにグループでまとまった展示をしている印象はありませんでした。しかし、会場で『Chatterbox ―4人の語りとそれぞれの表現』という展覧会の小冊子をいただき、帰ってから読んでみると、そのグループ展の意義が分かったような気がしました。
この4人の作家というのは、阿部尊美、藤本珠恵、山本裕子、飯沼知寿子で、それぞれがキャリアを積んで活躍している女性の作家たちです。冊子の初めの部分で飯沼知寿子は、ギャリーで知り合うことが多いのは男性の作家たちだということを語った後で、そんな状況下で「他の女性作家達は、どのような言葉で語るのか、これまで言葉にしてこなかった部分を言葉にしていきたい」と書いています。

いかがですか、思わずこの冊子を読んでみたくなりませんか。
そして今回の冊子のタイトルを正確に書くと『ChatterboxⅡ ―交錯する4人の場面』で、その語り出しは次のようになります。

2021年2月、森喜朗元首相の差別発言「女性が沢山入っている理事会は時間がかかります」で、社会における女性の公的発言の軽視と疎外が浮き彫りとなりました。それはお喋りな人(主に女・子供を言う)と冠したこの展覧会の必然性を、再確認する出来事でした。Chatterbox展は4人の女性作家の個展を座談会によって繋ぐ展覧会として、2020年に始まりました。2回目の今回は糸数都さん、中西晴世さん、湯口萌香さんにご参加頂きます。皆さんの経験としての美術教育、制作、そして発表などについて話していけたらと思います。
(『ChatterboxⅡ ―交錯する4人の場面』飯沼さんの発言)

森喜朗元首相の差別発言については、先ほど取り上げた通りです。その後の謝罪も、残念ながら彼の反省を示すものではありませんでした。
それにこの発言には、悪しき男性的な原理を表す価値観が隠されています。それは時間をかけて話し合うよりも、誰か(偉い人?)があっさりと決めて仕舞えばいい、という価値観です。『ChatterboxⅡ ―交錯する4人の場面』は、まさにその正反対の価値観を提示する展覧会でもあるのです。
この「chatter=お喋り」には、例えば美術史的なタテマエをあっさりと蹴飛ばしてしまう真実があります。次の糸数さんの発言を読んでみてください。

絵画は死んだ、と言われてミニマル(アート)が出てきた時、私は非常に楽になったの。自分の殻を破る必要もなく、淡々と自分を見せていけば良かったから。ただ、結局描けなくなるんだよね。シンプルさを求めて表現を打ち消していくと、最終的には空白しかない。
(『ChatterboxⅡ ―交錯する4人の場面』糸数さんの発言)

この発言に対して、飯沼さんの反応は次のようなものです。

冊子に挿入出来なかったんですが、昨年の座談会で山本裕子さんが「表現を否定したミニマリズムは結局行き詰まるしかない」って(笑)。それで80年代の新しい美術が花開いていった、というお話でした。
(『ChatterboxⅡ ―交錯する4人の場面』飯沼さんの発言)

私自身がこのblogで何度も書いている「モダニズムの限界」、もしくは「袋小路」ということと、たぶん共通することを言われていると思うのですが、私は彼女らの言っていることを肌で感じていながらも、さらに何年ももがき苦しむことになるのです。それは私の中に美術史的なタテマエの意識があるからだと、今なら気づくことができます。私がその袋小路から脱するためには、美術史的な裏付けが・・・、というとカッコよいのですが、平たくいえばもっともらしい言い訳が必要だったのです。それを彼女たちは自分たちの経験から、あるいは自分たちの鋭敏な感性から正しく反応したのだと思います。
私はこれと同じような話を聞いた経験があります。私の尊敬するある女性作家(お名前を出しても良いのですが、私の記憶が不正確でご迷惑をおかけすると申し訳ないので、とりあえず匿名にしておきます)が、若い頃に今とは作風の異なる、アメリカの抽象表現主義、もしくはカラーフィールド・ペインティング風の大胆な絵で脚光を浴びていた新聞記事を見た時のことです。それで私が「○○さん、すごく上手いですね」と感心して言うと、「こういう絵は簡単に描けるのよね」とあっさりと言われてしまいました。そう、この類の絵は色彩感覚の優れた人なら、たぶん簡単に描けるのです。だからこういう作品を描くのをやめた、とこれもあっさりと言われました。
作品が上手く見えてカッコよくて、さらに評価もされているとなれば、その作風をあっさりと捨てるなんてことが、私のようなタテマエ重視の人間からするとあり得ません。「女性」、「男性」という決めつけはよくないと思いつつ、おそらく多くの男性作家が私と同じように感じるのではないでしょうか。事実、有名、無名を問わずに抽象表現主義風の大きなかっこいい作品を描く男性画家は沢山います。その代表的な画家が数年前に国立新美術館で大規模な個展を開きましたが、数点ならともかく、沢山の作品が並ぶと退屈なものに見えてしまう展覧会でした。たぶん、そのことを本人も感じたのでしょう、ある部屋は絵の背後の壁面まで色を塗っていましたが、そんなことは粉飾に過ぎません。その画家がモダニズム絵画の正しい系譜に基づいて制作していることは、誰もが認めるのでしょうが、そんなことにそれほどの意義はない、と痛感する展覧会でした。
正しいこと、崇高なこと、偉大なこと、これらの概念にケチをつけるのは難しいのですが、例えば今回の冊子にはこんな発言があります。

大学院の時に先生から、今の学生や若い人は私小説的な作品が多くてそういうのじゃダメだよって言われて、急に皆「戦争が・・・」とか「社会に目を向けなくては!」みたいな感じになったことがありました(笑)。でも今思うと、私小説的なものこそ良くないかなって。最近は意を決して自分のこととか女性であることのモヤモヤを出す、ちょっと日記的な作品を作ってるんです。でもそれをやったら結構しんどいというか、ヒリヒリ感が前より増した感じがあって、女性であることは自分の中でもセンシティブな部分で痛みが大きい。でも、今はそれをやるタイミングかなと思ってたところに、今回の展覧会に誘ってもらいました。
(『ChatterboxⅡ ―交錯する4人の場面』湯口さんの発言)

これもいろいろなことを教えられる発言です。まず、彼女の言う通り、なぜ「私小説的な作品」がいけないのか、この先生は教師である以上、学生に正しく理解させる必要がありますが、それは不可能だと思います。なぜなら、「私小説的な作品」を表現してはいけないわけではないからです。それよりもむしろ、彼女のいう「ヒリヒリ感」のある表現であることの方が、何倍も重要です。おそらく、この先生は学生たちが個人的な小さな問題に拘泥していて、作品が開かれて見えない、ということを言いたかったのでしょうが、そのために実感のない、そして一見大きく見える課題に取り組めば良い、というのは男性原理的なアドヴァイスで、指導としては間違っていると思います。
そういえば、『戦争は女の顔をしていない』にも、こんな話がありました。アレクシエーヴィッチがある元女性兵士のインタビューに行ったところ、同じく元兵士であったその女性の夫が、インタビューの前日まで妻であるその女性に、彼女がどの戦線にいて、それがどういう状況だったのか、ということをしきりにレクチャーしたのだそうです。女性には戦争の大局が正しく理解できない、という男性の思い込みから出た行動でしょう。でも、その女性は結局、戦地で仲間と作った包帯のウエディングドレスのことを詳しく話してくれたのでした。こういう話のディテイルこそが、真実に迫る正しい方法だと思います。とかく男性的な原理に囚われた人は、正しく、大きく見えるタテマエのために、真実に迫る道筋を見誤るのです。
さて、今回のこの小冊子は評論家のこと、美術教育のこと、ギャラリーなどの美術家を取り巻く環境のこと、素材や技法のことなどが語られています。
例えば今回の参加作家の中西さんが、日本の教育環境の中では上手くいかず、アメリカに渡った話など、その勇気のある決断と行動力がとても参考になる話です。大学で彼女が教わった女性教授は、学生のこと理解しているとても素晴らしい先生でした。それはこんな話です。

アメリカでは、先生と学生が対等ですごく自由でした。授業も先生の一方的なものではなく、常に対話するもので、共に考えながら結論を導いていく教員側の力というのは、日本の教育では経験しなかったな。だからすごく頭を使いました。評論を沢山読まされて死にそうでしたけれど、一方ですごくリラックスして自分の方向性を突き詰めることができました。最高学年の時、私は平面作品と半立体作品を同じ空間に展示しようとしていたんです。それは相反することだから無理があるという意見が大半でした。でも、やってみたい欲求がふつふつと湧きてきたんですね。その時に後押ししてくれたのが、私がアドバイザーに選んだ女性の教授でした。「自分が直感で信じたことを突き詰めていく価値はあるんじゃない?」と。それが一年間試行錯誤して、卒業制作の形になったんです。
(『ChatterboxⅡ ―交錯する4人の場面』中西さんの発言)

これを先ほどの湯口さんの話と比較してみてください。私は勝手に、湯口さんに助言した大学の先生を男性だと思っているのですが、「男性」「女性」という違いよりも、日本とアメリカの教育の違いが際立っていますね。そもそも私の教わった大学の先生で、ちゃんと美術評論を読んでいた人が何人いたのだろうか、と考えると絶望的な気持ちになります。こんなふうに学生と共に道に迷いながら、それでいて的確なアドヴァイスの出来る先生が、日本の美術大学にどれほどいるのでしょうか?日本の教員のレベルは、小中高に比べて大学教育になるとガクッと落ちる、というのが私の持論です。それでいて、社会的な地位はその真逆だというところが日本の教育の不幸なところです。
ちょっと話がそれますが、コロナ禍ではっきりしたのは、看護、福祉、教育をはじめとして、社会の中で本当に汗をかいて周囲を支えている人たちを、いかに日本という国がないがしろにしてきたのか、という事実です。女性に対する偏見もそうですが、この国は考え方を変えていかないと、そろそろ限界に来ているのではないでしょうか。
私がラジオで愛聴しているピーター・バラカンというキャスターは、世界の為政者を全て女性にしたら、少なくとももっと平和になるのではないか、と言ったことがあります。東京都知事や横浜市長を見ていると、それも人によるのかな、と思いますが、それでも彼の発言には一理あるような気がします。圧倒的な男性原理で世界が行き詰まっているわけですから、為政者の性別がどうあれ、その原理を見直さなければならないことは、否定しようのない事実です。私のような老齢の男性がボチボチとこの世からいなくなりますから、そのチャンスを生かして、同じことを先の世代で繰り返さないようにしなくてはなりません。この『ChatterboxⅡ ―交錯する4人の場面』という展覧会は、そのための有意義な第一歩だと思います。

話がまたそれますが、ローリングストーンズのドラマーだったチャーリー”ワッツ(Charles Robert "Charlie" Watts, 1941 - 2021)が8月24日に亡くなりました。なんと80歳だったのですね。こういうニュースを聞くと、世界が確実に世代交代していることを感じます。
その一方で、少し前にせっかく五輪組織委員から身を引いた森元首相に「名誉最高顧問」就任案があり、五輪組織委が検討している、というニュースがありました。せっかく世界が変わろうとしているのに、こんなふうに逆戻りしようという動きがあることに、愕然とします。
https://www.asahi.com/articles/ASP7Q6G0PP7QUTFK00J.html
その後、就任したという話を聞きませんが、どうなっているのでしょうか。この世界の男性的な原理を守ろうとする勢力は強く、女性差別はなかなかなくならない、という苦い教訓になる話です。男女を問わず、こんな古い世界を変えたい人は、協力しあって一緒にがんばりましょう。

コロナウイルスが猛威を奮う一方で、そこで暮らす人々の生活のディテイルを理解しょうとしない為政者の無策によって、画廊に行くことすら困難な状況ですが、もしも可能でしたら『ChatterboxⅡ ―交錯する4人の場面』展を見に行きましょう。
このblogをご覧になって、画廊に行くことは困難だけれど小冊子はぜひ読みたい、という方はギャラリーを通して企画の方に連絡をとってみてはいかがでしょうか。きっとなんとかなると思いますよ。
コロナ禍でのこの展覧会はあまりにももったいないので、微力ですが余計なことを書いてみました。

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