これは、8月30日から9月4日まで東京・京橋のギャラリー檜で開催された『Chatterbox展』のかんたんな感想です。
http://hinoki.main.jp/img2021-8/exhibition.html
前回は、展覧会の小冊子について考察しました。今回はその作品について少しだけコメントしておきます。
◉ギャラリー檜B 湯口萌香 「アフターなんとか」
例えば案内状の写真の作品では、ピンク色の女の子、幼児、胎児だと思われる小さな立体の集積と、中央の箱の中には黒猫の小立体があります。その全体から醸し出される雰囲気は(小冊子の中でも話されていましたが)「かわいい」とも言えますが、同時にどこか不穏な感じがします。個々の形を見ると、意図的に不気味さを演出した痕跡はありませんが、集合体として見るとただの可愛らしさを超えた感じに見えるところが興味深いです。
1980年代に、ミニマルアートがはじけて、画廊にファンシーな作品が溢れた時期がありました。インスタレーションという現代美術の自由な表現形式を利用して、おもちゃ箱をひっくり返したような楽しいイメージが作り出されたのです。その当時は「ヘタウマ」と呼ばれたイラストや、いわゆる「サブカルチャー」といわれる分野が同時にクローズアップされました。ミニマルの時代の反動からか、なんでもありの状況が発生したのです。
その当時は禁欲的な雰囲気から、いきなりはじけたような世界を表現すること自体がある種の意味を持っていましたが、それも当たり前の表現になってしまって時代は一回りも二回りも巡った気がします。そして、一見ファンシーなのだけれど、実は内省的な感じのする、湯口さんのような成熟した作品が見られるようになりました。
ギャラリーで作品をながめながら、なぜ湯口さんの作品が内省的に見えるのか、と考えてみたのですが、それはおそらく一つ一つの形が細部まで神経の行き届いた本格的な磁器だからだろう、と思い当たりました。小さな形を一つ一つ作って、さらにそれを積み上げて釉薬で焼く、という本格的な陶芸の手法を施すことで、作品から作家の思いが伝わってくるのです。もしも積み上げた形が接着剤で止められていたのなら、印象は全く違っただろうと思います。
「かわいい」という概念が、アニメーション産業と同時に海外に輸出され、日本的な売り物のように扱われて久しくなりますが、これからどうなっていくのでしょうか。湯口さんの作品のように、ただ単に可愛らしいのではなくて、そこに批評性を持った表現が現れてくると、「かわいい」が一過性の流行ではない意味を持ってくるのかもしれません。
少し脱線しますが、九鬼 周造(くき しゅうぞう、1888 - 1941)という哲学者に『「いき」の構造』という古典的な著書がありました。この本は江戸時代あたりからの日本の流行語「いき」について、「実存哲学の新展開を試み、日本固有の精神構造あるいは美意識を分析した」(ウィキペディア)と言われる本です。しかし、今や「いき」よりも「かわいい」を論じるべき時代なのかもしれません。四方田犬彦(よもた いぬひこ、1953 - )が『「かわいい」論』(2006)を出版した頃に、一流の学者が「かわいい」を論じたことでかなり話題になりましたが、あれからすでに15年が経ちます。それ以降も、かなりの関連書が出ているようですが、「かわいい」を論じる学者たちには、ぜひ湯口さんの作品を見てもらいたいものです。
◉ギャラリー檜C 糸数都 「緩やかな瞬間」
糸数さんの絵を見ていると、絵画というものをよく知った人の表現だな、という感触を持ちました。
今回は、二つのタイプの作品が展示されていましたが、いずれも色の使い方が抑制的です。しかしそれが、ひと頃のミニマルアートの作品のように、禁欲的な、あるいは無機的な感じがまったくなくて、これはどうしてだろう、と会場の絵をいろんな方向からしげしげとながめてみました。そして発見したのが、彼女の絵の縁の部分に残っていたさまざまな色の痕跡です。糸数さんの絵は、さまざまな色を重ねた結果、最終的に抑制的な色に仕上がるのです。表面の下に隠された多彩な色が、彼女の絵を色彩豊かに見せているのだと思います。
そして大きめの作品は、重ねられた色が刷毛のストロークによって自然とばらけていくのを、そのまま表現したような色の変化のある作品です。この時、色のばらけ方を意図的に作ってしまうと、画面を構成する意識が見えてしまいます。色の対比、それぞれの色の面積の割合など、作為があるとどうしても作品が固くなってしまいます。糸数さんはそこをある程度成り行きに任せ、自分で良いと思った時に筆を止めるのだそうです。その方法論が、彼女の作品に自然体で伸び伸びした感じを与えているのです。
一方の小さめの作品は、グレー調のマットな色面の上に白と黒の刷毛の痕跡が一ヶ所から数ヶ所、後から付されています。こちらは激しい筆致の部分とマットな平面的な部分と、画面の構成要素が大きくふたつに分かれていますが、それがネガとポジ、背景と前景のようなありきたりの関係に見えてしまっては面白くありません。彼女の作品は、それが固まって見えてしまう一歩手前の瞬間を、まるでスローモーションでも見ているような静かな動きとして捉えているのです。
彼女の作品の両方に言えることですが、その画面は動的でありながら、同時に静謐な時間性を感じさせるとても不思議な感触を持っているのです。
これは説明してしまえば簡単なことのように聞こえますが、実は大変に難しいことで、それだけに貴重な成果でもあります。例えば激しい筆跡による落ち着きのない絵画が世の中に数多く見られることを思い起こしてください。その事実と照らし合わせて見れば、私のいっていることが理解していただけるのではないかと思います。
私自身を例に出すのは恐縮なのですが、私もいかに筆致が激しく見えても、絵画の中には緩やかな時間が流れていてほしいと願っていますが、これがなかなかうまくいきません。できれば私の絵の前に立った方が、いつまでも佇んでいたくなるような作品を描きたいのですが、糸数さんの作品は、そんな絵画に近づいているように見えます。おそらく彼女がこのような表現を身につけるまでには、抽象表現主義からミニマルアートの絵画まで、さまざまな経験を経ているのだろうと思います。私たちは彼女の作品を見ることで、その豊かな経験の時間を無意識のうちに感受することができるのです。
殴り描きのような刹那的な表現が世に溢れている中で、糸数さんの作品の静かな動勢は、たいへんに尊いものだと思います。
◉ギャラリー檜E 中西晴世 「Our exsistence」
ものを作る喜びというのは、それがいま形になる瞬間に立ち会えることではないでしょうか。例えば、小さな子供がクレヨンで一心に絵を描き、自分のイメージを少しずつ形にしていくような感触です。しかし、その瞬間を作品として定着させることはとても困難です。作品が完成してしまうと、それはすでに終わってしまったものの痕跡となってしまうのです。
中西さんは、その作品の運命にあえて抗おうとするタイプの作家なのではないか、と推察します。今回の作品はモノタイプ、つまり一点ものの版画作品なのですが、流動的な絵の具の痕跡を、あるいは即興的な描画のタッチを版画という媒体で定着しようとした作品が、壁面に躍動するように貼り付けてあります。
彼女の案内状に使われた作品を見ると、海の波が泡立つ瞬間を連想するかもしれません。しかし実際の波を瞬間的に撮影した写真を見ると、波が動きを止めてしまったような不自然な映像に見えてしまいます。それに比べて彼女の作品がいまにも泡立つように見えるのは、経時的な描画のプロセスを同時的に刷りとるという版画システムを用いた効果なのではないか、と思います。
このような一枚一枚の作品に加えて、今回の中西さんの展示は人体や臓器のイメージが散りばめられています。これらのイメージが結ぶものは「生命」、あるいは「生命の誕生」ということになるのでしょうか。曖昧な言い方になって申し訳ないのですが、彼女の作品は、そういうことを説明していません。私たちは、壁面に貼られた作品たちが発する言葉にならないメッセージを、視覚的に感受するしかないのです。もしかしたらそのメッセージを誤読することもあるかもしれませんが、そもそも正解というものがないのだから、それでも良いと思います。
自分の表現に対して、鑑賞者が自ら考える余地を残し、そこでそれぞれの人が自分のイメージに問い返すことで、それぞれの人の中で作品が生まれてくる、中西さんの作品はそういうシステムを持った作品です。作品そのものが、「誕生」を内包しているのです。良質の作品というものは、多かれ少なかれそういうものですが、彼女の作品は私たち鑑賞者に投げられているものが大きくて強烈だということが言えると思います。
ちょっと彼女の作品から離れた話になりますが、私は最近のビデオ映像や最新のテクノロジーを用いた作品の多くが、あまりにもわかりやすいメッセージへと鑑賞者を導いてしまうことに、若干の違和感を持っています。そもそも流行の映画やアニメーションを見ると、鑑賞者を飽きさせない工夫に満ちていて、こういうサービスに慣れてしまうと、鑑賞者自身のイマジネーションを刺激するような作品に対して、反応できなくなってしまうのではないか、と心配です。
中西さんの作品が展示してある部屋に入ったら、おそらく誰もがちょっとドキッとして、どうして自分は驚いてしまったのか、この作者は何を言いたいのだろうか、などといったことが頭をよぎると思います。そこから迷い道に入って、それぞれの人がそれぞれの迷路を歩いてみれば良いのだと思います。質の低い作品ならば、迷うだけ時間の無駄だということもあるのでしょうが、中西さんの作品は大丈夫です。彼女が、作品が生成することに鋭敏な感性を持った作家であることは、先に説明しました。彼女の作品は、鑑賞者が迷う時間に耐えうるだけの、質を持った作品なのです。
◉ギャラリー檜F 飯沼知寿子 「点に在す」
飯沼さんの画面は、知的で複雑な構造を持っています。彼女は現代絵画において、特に抽象的な絵画においては省みられることのなかった一点透視図法の奥行き表現を意図的に用いています。その一方で、平面上を横に、あるいは縦に繋がる文字表現を重ね描きする、ということも同時に試みています。飯沼さんの作品は、この相容れない二つの空間を重ね合わせるという、矛盾した空間構造を持っているのです。
この矛盾を取り払って、例えば透視図法の奥行きを彼女の絵画から取り去ってしまえば、それは抽象絵画に文字の筆致のリズムを取り入れたサイ・トゥオンブリ(Cy Twombly、1928 - 2011)のような絵画の発展形と見なすことも可能でしょう。その方がずっとまとまりの良い、見易い絵画となるはずです。
しかし彼女は、一点透視図法が内包する世界観を画面に取り込まなければならないのです。今回の冊子で、彼女はその透視図法のことを「男性優位の視線の象徴」という言い方をしていますが、それは男性原理によって作られた絵画の歴史そのものであり、旧套的な絵画の象徴でもあるのです。それならば、それを無視してしまえば良さそうなものですが、彼女の考える絵画表現というものは、そんな簡単なものではないのです。
長い絵画の歴史の中で、透視図法に限らずあらゆる遠近法が、人類の発展とともにある種の必然性を持って生まれてきました。ですからどんなにそれを否定しようとしても、遠近法は私たちの内面にしっかりと刻み込まれているのです。
遠近法が絵画を見る私たちの視線の中に深く刻まれたものならば、どんなに居心地が悪くても、それと対峙するしかない、と彼女は考えたのではないでしょうか。おそらく飯沼さんにとって、ただ心地よく消費されてしまうだけの絵画では意味がないのです。そんな見せかけの気持ちよさよりも、絵画の矛盾した要素とどのように対峙したのか、ということの方が問題です。その探究のプロセスこそ、彼女が鑑賞者と分かち合いたいものでしょう。
そんな根源的な絵画の課題に立ち向かう飯沼さんですが、彼女には凡庸な絵描きにはない鋭い感性があります。それは先ほどから言及している言葉や文字に対する独特の感受性です。その彼女の個性が、彼女の絵画を他に類を見ないユニークなものにしているのです。特に今回の作品においては、文字の重ね描きの効果が絶妙で、平面的でありながら厚みのある文字の層が、その奥にある透視図法の層と相乗効果を生んでいるように見えました。空間の考え方が異なる矛盾した二つの絵画の構造が、その矛盾を乗り越えて美しい層の重なりとして昇華する現場に、いま私たちは立ち会っているのかもしれません。色合いの異なる大作が何枚か展示してありましたが、そのどれもが同じような充実した厚みを持っていて、感動的と言って良い展示風景でした。こんな絵画は、他の誰も描いていないと思います。
こういう才能を持った人の作品を見ると、ほんとうにうらやましくなります。そして、そんな彼女の絵画の複雑さと覚悟がわからない先輩男性作家たち、あるいは私のような凡庸な年配者は、彼女が問題としている矛盾した空間を「さっさと整理してしまえばもっといい絵になるよ」などといったお気楽な助言をしてしまうに違いありません。
飯沼さんに限らず、今回の参加作家たちは無神経な年配男性たちの発する雑音とつねに戦ってこなければならなかったことでしょう。そのことを考えると、男性の一人として暗澹たる気持ちになります。
個々の作家の感想はこれぐらいにして、私が言える範囲の、この展覧会の意義について書いておきます。
芸術の世界では、限りない自由が保障されてきたはずですが、実はこれがとんでもないまやかしです。例えばジョット( Giotto di Bondone、1267-1337)からピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)まで、美術史上に名を残した画家たちを思い起こしてみれば、言うまでもなくそのほとんどが男性です。もしも男女が平等に表現する機会があって、その作品が対等に評価されてきたとすれば、確率的にこんなことはあり得ません。
以前にも書いたことがありますが、だからと言ってこれまでの歴史を参照に値しないものだとは言いませんが、同じことを繰り返してはいけません。
しかし、前回も書いたように男性的な原理はしぶとくて、これを変えていくことは並大抵のことではありません。だからこそ、この『Chatterbox展』のような、女性たちの覚悟を秘めた展覧会を実践していく意義があるのです。
この問題を考える上で、最適な本をここに紹介しておきます。私はこのような問題について特に詳しいわけではないのですが、それでも間違いなくこれが最上の本だと断言できます。
それは持田季未子(1947 - 2018)が書いた『美的判断力考』という本です。「美的判断力考」という論考を中心とした178ページから222ページまでを、ぜひとも読んでみてください。美術や思想の領域において、いかに男性的な原理が根深く働いてきたのか、ということについて、例えばこんなふうに書かれています。
『女性の権利の擁護』(フェミニズムの先駆者であるメアリー・ウルストンクラフトが1792年に書いた本)が論敵としたのは、ルソーら教育思想家であった。ルソーは『エミール』で、「女性は男性よりも体力が劣っているから、弱く受動的でなければならない。男性を楽しませ、男性に服従させられるように造られたのであるから、その主人に気に入られるようにすることが女性の義務である」と述べて、女子教育の方針を、夫に気に入られる女性に育てるという一点に置く。ルソーの教育論はカントにも影響を与えている。ウルストンクラフトの女子教育論は、男女の違いを生得的なところに求めるルソーに抗して、人為的、制度的な環境が作り出す結果と考えたものであり、フェミニストの面目が躍如としている。
(『美的判断力批判考』「判断力の可能性」持田季未子)
これを読むと、各地方の教員採用試験で必ず出てくるであろう教育思想家のルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712 - 1778)が、あまりにもとんでもないことを言っているのに驚きます。そして「崇高さ」について論じた哲学者のカント(Immanuel Kant、1724 - 1804)は、さらに評判が悪いようです。このように、私たちが拠り所とするべき思想や哲学が、身も蓋もない男性的な原理のもとで発展してきたことを知ると、何もかもが信じがたくなります。
しかし、ここはそれでもあえて冷静になる必要があります。持田はそのことについて、このように書いています。
美学言説がジェンダー・バイヤスに濃く染まりながら18世紀に成立したのは事実だが、カントの美学そのもののなかに、近代的主体の限界の自覚とその克服への努力を読みとることができる。ジェンダー観点導入による批判はたしかに一度は必要だが、告発だけに終わるのではつまらない。フェミニズムと1970年代後半以降のフランス哲学は、立場の相違こそあっても、ともに、文化がいかにフィクショナルな言説でしかなかったかを明らかにした。両者は西洋の近代的価値の批判という共通の動機をもち、ひいては人間の文化一般の批判という目標を共有していた。それだけに、相互に栄養を与え、学び合っていくことが可能なはずである。
(『美的判断力批判考』「判断力の可能性」持田季未子)
むずかしい文章ですが、要するにフェミニズムにしろ、新しいフランス哲学にしろ、それまでの価値観を疑い、批判的に検討していくという点では共通していた、というのです。だからお互いに栄養を与えあって、学び合うことが可能だというのですが、それが実現すれば、なかなか素敵なことだと思います。しかし、そのような学問的な探究を実現するには、新しい哲学とフェミニズム研究と、両方に目配せができる広い知識と推進力が必要です。これを書いた持田こそが、そのような能力を持った人だったと思うのですが、惜しいことに数年前に亡くなってしまいました。本当に残念でなりません。
ちなみに私はこのblogで、昨年の『Chatterbox展』の感想の後に、この本のことを取り上げて拙文を綴りました。前回の文章と合わせて、
128. 『Chatterbox』展、『ニーチェ』ジル・ドゥルーズについて
129.『美的判断力考』「美的判断力の可能性」持田季未子について
の二本の論考を読んでいただけるとうれしいです。上記のタイトルから検索してみてください。もちろん、持田の原著にあたることが最上の勉強であることは言うまでもありません。
このblogでは持田の本を何回か取り上げていますが、彼女の『絵画の思考』(岩波書店、1992)は最高の絵画論であるだけでなく、画家と批評家の役割を論じた点でも最上の書です。次の一節も、このblogで何回も引用していますが、素晴らしい一節なのでここでも書いてみましょう。
本書の野心は、絵画の現象学とでも呼べそうな方法で作品をできるだけ厳密にたどり創作の本質をとらえるようにしつつ、テクストに言葉を与え、ディスクール(言説)の次元に引きつける端緒を見つけ、無言のテクストを世界・社会・歴史・人間に向けて開くことなのである。絵画を美術史の言説の内部に閉じ込めておいてはならない。絵画を思想へ向けて開くディスクールが必要である。それは行為者である当の画家たち自身がよく成し得るところではない。ここに批評の出番がある。
(『絵画の思考』「序」持田季未子)
画家が言葉にできない思考を画面から読み取り、それを世界へと開いて見せるのだという持田の覚悟を、皆さんはどう思いますか。こんな批評家なら、どんなことを言われたとしても作品を見てもらいたいと思いませんか。
それから彼女には『セザンヌの地質学 サント・ヴィクトワール山への道』(青土社、2017)という、数あるセザンヌ論の中でも存在意義の高い本があります。私はこの持田のセザンヌ論を読んで以来、セザンヌの絵画は「地質学」と切っても切れない関係にある、と思っています。先日、『セザンヌと過ごした時間』という映画を見ていて、背景として映し出されていたエクスアン・プロヴァンスの大地が、セザンヌの絵画そのものに見えてきてとても楽しかったです。
話がどんどん逸れてしまいそうなので、最後に一言・・・。
このような優れた展覧会を見ると大きなエネルギーをもらえて、コロナ禍で息苦しい中ですが、少しだけ元気がでます。
彼女たち自身が呼びかけ合い、語り合うという企画が、大規模な公募展やエライ先生が寄せ集めた展覧会とは違った輝きを放っているのです。私は、それぞれの人たちがそれぞれの場所で輝いていていいと思うので、大展覧会も否定しませんが、できればこの『Chatterbox展』のような展覧会の価値が、もっともっと大きく認識されればいいなあ、と思います。
私自身はあまりにも微力なので、そんなふうに願うばかりです。
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