平らな深み、緩やかな時間

30.『芸術作品の根源』M.ハイデッガーについて

今年も夏の終わりに腰を痛めました。昨年もまったく同じ時期に腰を痛め、二年続けてということになります。昨年はグラウンドの草取りをしていて、今年はテニスコートに撒くための砂袋を持ちあげて、ということで、まったくさえない限りです。最近は右肩も上がらなくなっているので、しばらくは腰と肩のリハビリに通うことになりそうです。
そんなわけでとびとびですが、二日間の休暇を取りました。腰が痛いとどんな姿勢をしていても痛いので、一日目の休暇は読書もままなりませんでしたが、それでも夏休み中に読みたいと思っていたM.ハイデッガー(Martin Heidegger、1889 - 1976)の『芸術作品の根源』を読みました。今回読んだのは、平凡社ライブラリーの関口浩(1958 - )訳のものです。実は学生時代に菊池栄一(1903 – 1986)訳の同書(タイトルは『芸術作品のはじまり』理想社)を読んだのですが、そのときはこちらの準備が不十分で、情けないことに何のことやらわけがわからず・・・、という感じでした。いまでも理解のほどは怪しいものですが、若い頃よりは多少マシだと思います。
今回の読書のひとつのポイントは、この本が哲学や美学の流れの中で、どのような意味を持っているのか、ということでした。こういうことは、この本だけ読んでいてもなかなかわからないので、『芸術の哲学』渡邊二郎著(1931 - 2008)をひも解くことにしましょう。この本には「ハイデッガーの芸術論の基本性格を正しく理解するためには、まずそれが伝統的な美学、もしくはとりわけ近代の主観主義的美学とは完全に手を切った立場に立つものであることを、よく心得ねばならない」と書いた上で、次のように解説しています。


 これまでの美学の立場によれば、芸術は、「美」を目指す活動であり、したがって何かを美しいと感じて感動する「体験」に照準を合わせて、芸術の働きは考察されてきたと言っても、ほぼ間違いはないであろうし、またこうした考察の仕方は、一見私たちの常識にも沿うように思われる。とりわけ、近代主観主義的美学は、こうした美の成立根拠を、私たちの心の諸力の働きという主観の側の条件のうちに求めて、種々の考察を展開した。
 
 ところが、ハイデッガーによれば、芸術は、美を目指すものでもなければ、体験に基づいて考察されるべきなのでもなく、ましてや主観主義的に心の諸力の条件から捉えられるべきものでもないのである。「芸術」は、「それ自身だけ別個に切り離されて成り立つと考えられるような美」に基づいて捉えられることもできなければ、「体験」に基づいて捉えられることもできないとハイデッガーは言う。「近代主観主義」の芸術解釈は、ハイデッガーの厳しく斥けるところのものなのである。
(『芸術の哲学』渡邊二郎)


渡邊の解説も私にとっては十分に難解ですが、たぶんこういうことです。芸術作品という美しいものが、いま目の前にあって、それを各自の体験に応じてどんなふうに美しく感じるのか、ということを考えるのが「近代主観主義的美学」なのだけれども、ハイデッガーはそう考えなかった、ということだと思います。それが、それまでの美学の考え方に転回をもたらす、この本のもつ大きな意味だったのでしょう。しかし、それではハイデッガーは芸術作品をどのように考えたのでしょうか。

この『芸術作品の起源』の中でハイデッガーは、考察の対象としてゴッホ(Vincent van Gogh、1853 – 1890)の農夫靴の絵を選びます。平凡社版の本のカバーにはそのカラー図版が掲載されていますので、ネットで本を検索すればかんたんに見ることができます。これは1886年の、ゴッホがパリに行った年の作品ですが、まだオランダ時代の暗い色彩が使われています。本当にしわくちゃの黒い農夫靴だけが描かれていて、他には何もありません。実は学生時代に読んだ理想社の本には、1888年の異なる作品が図版として使われています。モノクロ写真なので詳しいことはわかりませんが、この1、2年でゴッホの色彩は印象派の影響で急に明るくなりましたから、この絵も明るい色彩の絵だと思われます。平凡社版の注によると、ハイデッガーがアムステルダムの展覧会で見た作品だと特定できているようですから、平凡社版の図版が妥当なのだと思います。どちらの作品でも文意をくみ取る上でそれほどの違いはありませんが、絵が好きな人間からするとハイデッガーがどんな絵を見ていたのか、気になるところです。
それでは、この絵からハイデッガーは何を読み取ったのでしょうか。とても美しい文章で表現されているので、まるごと引用してみます。


 靴という道具の履き広げられた内側の暗い開口部からは、労働の歩みの辛苦が屹立している。靴という道具のがっしりとして堅牢な重さの内には、荒々しい風が吹き抜ける畑地のはるか遠くまで伸びるつねに真っ直ぐな畝々を横切っていく、ゆっくりとした歩みの粘り強さが積み重ねられている。革の上には土地の湿気と濃厚なものとが留まっている。靴底の下には暮れ行く夕べを通り抜けて行く野路の寂しさがただよっている。靴という道具の内にたゆたっているのは、大地の寡黙な呼びかけであり、熟した穀物を大地が静かに贈ることであり、冬の畑地の荒れ果てた休閑地における大地の説き明かされざる自己拒絶である。この道具を貫いているのは、泣きごとを言わずにパンの確保を案ずることであり、困難をまたも切り抜けた言葉にならない喜びであり、出産が近づくときのおののきであり、死があたりに差し迫るときの戦慄である。この道具は大地に帰属し、農婦の世界の内で守られる。このような守られた帰属からこの道具そのものが生じ、それ自体の内に安らうようになるのである。
(『芸術作品の根源』M.ハイデッガー)


これだけみごとな文章を書いておきながら、ハイデッガーは「これらの一切のことを、われわれはただ絵のなかの靴という道具からだけ見て取っているのかもしれない」と疑いをはさみます。たしかに、ぼろぼろの農夫靴さえ描かれていれば、どんな絵であっても似たようなことを私たちは読み取れるのかもしれません。しかし、これほどの文章を書くには、やはりゴッホの絵でなくてはならないし、ハイデッガーも「ゴッホの絵画が語ったのである」と結局のところ書いています。「芸術作品が、靴という道具が真実のところ何であるかを知るようにうながした」とも書いています。
それにしても、このときゴッホの絵とハイデッガーとの間に、いったい何が起こっているから、このようなみごとな文章が書けるのでしょうか。


 何がここで生起しているのか。作品において何が活動しているのか。ヴァン・ゴッホの絵画は、道具、すなわち一足の農夫靴が真理においてそれであるものの開示である。この存在するものはその存在の不伏蔵性の内へと歩み出る。存在するものの不伏蔵性を、ギリシア人たちはアレーテイアと名づけた。われわれは真理と言うが、この語ではほとんど何も十分に思索していない。ここで、存在するものの開示が、その存在するものがそれにほかならないものへと、そしてそのもののまさにそれらしいあり方へと生起するなら、作品において真理の生起が活動しているのである。
(『芸術作品の根源』M.ハイデッガー)


「不伏蔵性」という見慣れない言葉が出てきますが、理想社版では「あからさま」と訳されています。あるいは先ほどの渡邊二郎の『芸術の哲学』では「非秘匿性」といっています。つまりこの文章の意味は、ゴッホの作品のなかには農夫靴の真理があって、それが隠されずに開示されている、ということなのでしょう。
私たちは作品を鑑賞するときに、その表面的な美しさだけではなくて、もっと深い感動を味わいなさい、というようなことを美術の授業で、あるいは人生のどこかで言われてきているように思います。ですから、ハイデッガーの言っていること、つまり芸術作品のなかに真理の開示を見るということに、それほどの違和感はないように思います。しかしハイデッガーは、上記の文章の後で「これまで芸術は美しいものと美とに関わってきたのであって、真理には関わってこなかったのではないか」ということを書いています。おそらく、ここで芸術作品に関する概念が変わったのでしょう。もちろん、「美」や「芸術」に関する概念は時代ごとに変わって当然ですが、ハイデッガーのもたらした変化は、そんな通り一遍のことばですむものではなかったようです。
それにしても、ハイデッガーはなぜ「不伏蔵性」、あるいは「非秘匿性」というややこしい概念を持ち出してきたのでしょうか。これにはハイデッガーの考える芸術作品の構造的な解釈が関わってきます。これがまたわかりにくいのですが、がんばって追いかけられるところまで追いかけてみましょう。
ハイデッガーはゴッホの作品の次に、ギリシアの神殿を考察の対象とします。建築物は「何も模写していない」ので、純粋に考察しやすい、ということなのでしょうが、ここでもハイデッガーは美しい文章を紡いでいます。


 そこに立ちながら、この建築作品は岩の土台の上に安らう。作品のこのような安らいは、岩からそれの不従順で、しかも何ものにもせき立てられることのない、担うことの暗さを取り出す。そこに立ちながら、この建築作品は、その上で荒れ狂う嵐に耐え、そのようにしてはじめて嵐そのものをその威力において示す。岩石の光沢と光輝とは、それ自体ただ太陽の恩恵によるとしか見えないが、実は昼の明るさ、天空の広さ、夜の闇をはじめて輝き―現れることへともたらす。このようの確然とそびえることは大気という眼に見えない空間を見えるようにする。作品の不動なることが、海の波浪の波立ちに対して張り出し、その静けさからして海の荒れ狂いを出現させる。樹木と草、鷲と雄牛、蛇とこおろぎとは、はじめてそれら自体を、しかも全体としてのそれを、ギリシア人たちは早初期にピュシスと名づけた。このピュシスが同時に、人間が自身の居住をその上にそしてその内に基づけるある場所を空け開くのである。われわれはそれを大地と名づける。この言葉がここで言っている事柄については、堆積した物質の塊というイメージも、一惑星という単に天文学的なイメージもともに遠ざけておかなければならない。大地とは、立ち現れることが立ち現れるもの一切を、しかも立ち現れるものとして、それの内に返還し保蔵するものである。大地は保蔵するものとして、立ち現れるものの内で、その本質を発揮するのである。
(『芸術作品の根源』M.ハイデッガー)


前半はよいと思うのですが、後半に出てくる「大地」とは何でしょうか。それは文字通りの「大地」ではなく、「保蔵」するものだというのです。これはけっこう重要なことなので、順番に見て行きます。
ハイデッガーは、芸術作品は「真理」を「開示する」ものだ、といいます。そして、「作品は作品として世界を開け立てる」のだ、という言い方をします。「作品は一つの世界を開示し、そしてその世界が支配しつつ滞留するように保持するのである」とも書いています。例えばギリシア神殿について、次のようなことを言っています。ギリシア神殿では、さまざまな素材が使われているけれども、ギリシア神殿が一つの世界を開け立てるとき、それらの素材は消費されるのではなく、逆に輝き出す・・・。神殿が単なる道具のようなものであれば、その素材の一つひとつは建物の有用性のなかで消費されてしまうのだけれど、芸術作品の場合には素材はけっして消費されず、逆に現れてくるのだというのです。「石の堅牢さ」、「木の堅固さとしなやかさ」、「青銅の硬さと輝き」、「色彩の光輝と黒ずみ」、「音の響き」などは世界を開け立てることによって現われてきます。そして、それらの要素を保蔵するものが「大地」ということになるようです。
この「大地」という概念の難しさは、私一人のものではないようで、平凡社版にはハイデッガーの論文に加えて、『導入のために』というハンス=ゲオルグ・ガダマー(Hans-Georg Gadamer、1900 - 2002)の解説が付されていますが、その中でも「大地」という概念について語られています。
ここでは、『芸術の哲学』の渡邊の解説を書き写しておきます。文章の小見出しは「大地の分かりにくさと重要性」です。


 こうして、ハイデッガーは、芸術作品が、以上の「世界」と「大地」という二つのものの「活性化された」「対立」において成り立ち、両者が「対抗」し合った「争い」の遂行成就が、「作品」として結実すると述べるのである。既述のように、「世界」とは、人間の生の行われる場所であり、そこで見えてきた「存在者の真理・真実・真相の作品化」が、芸術作品となって成立し、明るい輝きを放射するに至るという考え方は、比較的理解しやすい。それに対して、芸術作品には「大地」の要素が付き纏い、ここに結局、作品の持つ「物の有様・要素」も帰着するという考え方は、やや理解しにくい面がある。何よりも「大地」という概念が捉えにくい感じを伴うのは否定できないように思われる。しかし、ここにハイデッガーの独自の思索の成果があることも否定できないのである。
『芸術の哲学』渡邊二郎


このあと、「大地」に関する解釈が数ページにわたって書かれていますが、ここで書き写すには量が多すぎますので、やめておきます。
ただそのかわりに、私の拙い思いつきを記しておきます。
ハイデッガーは、「大地」というのは文字通りの「大地」ではないと言っているようですが、私には土着的なもののパワーまで吸収した、例えば抽象表現主義のポロック(Jackson Pollock, 1912 - 1956)の芸術の源泉となるもの、などがイメージされます。ポロックが評論家のグリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)と出会い、フォーマリズムの理論に導かれて作品を展開していったことは有名ですが、その様は、まさに「世界を開け立てている」ように見えます。それはポロックという存在者の「真理」どころか、「絵画芸術」そのものの「真理・真実・真相」が作品化されていく過程だったと思うのです。しかし、それはグリーンバーグの示唆によってスムーズに進んだわけではなく、ポロックのなかの「大地」的なもの、保蔵しているものとの絶えざる葛藤の末に成されたもののように思います。
あるいは、前回話題にしたド・スタール(Nicolas de Staël、1914 - 1955)の葛藤も、同様のことが言えるのではないでしょうか。彼が抽象絵画の成功に飽き足らなかったのは、自らのなかの「大地」が保蔵していると直観したものを、「世界」に「開け立てて」みたい、と望んだからではないか、と考えると、単純に解釈できない彼の足跡の理由がつかめるような気もします。
しかし、それにしてもハイデッガーは、なぜこのような分かりにくい概念をあえて芸術作品の構造として考えたのでしょうか。それは、ハイデッガーが、芸術作品の追求すべき「真理」というものが、どういうものだと考えたのか、ということと関連しています。


 「真理において」とは何を意味するのだろうか。真理は真なるものの本質である。本質と言うとき、われわれは何を思い浮かべるのか。通例そのようなものと見なされているのは、すべての真なるものがそこで一致するあの共通のものである。本質は、多数のものに等しく妥当する一つのものを表示する類概念と一般概念として現れてくる。この等しく―妥当する本質は、しかし、非本質的な本質であるにすぎない。何かについての本質的な本質はどこに存するのか。おそらくそれは、存在するものが真理においてそれであるところのものに基づいているだろう。ある事柄の真なる本質は、その事柄の真なる存在から、そのつど存在するものの真理から、規定される。だが、われわれがいま探し求めているのは、本質の真理ではなく、真理の本質である。奇妙な絡み合いが現れている。それは単に奇妙なことにすぎないのか、あるいはそれどころか概念の遊びという空疎な詮索にすぎないのか、―あるいは一種の深淵なのか。
(『芸術作品の根源』M.ハイデッガー)


ふつう、真理と考えるもの、例えば科学的に考えた場合の真理とは、「すべての真なるものがそこで一致するあの共通のもの」、あるいは同様に本質とは「多数のものに等しく妥当する一つのもの」のことでしょう。しかし、芸術の求める真理とは、「奇妙な絡み合いが現れている」と書かれているものです。『芸術の哲学』の渡邊の解説によれば、「『秘匿』を孕んだ存在の『隠れない蔽いない非秘匿性の有様』、そうした『存在者全体の真っ只中』での『秘匿』を含んだ『開けた明るみの場』にかかわっている」ものだと言います。別の言い方をすれば、「世界」と「大地」という二つのものの葛藤の末に見いだされたもの、ということでしょう。
結局のところ、ポロックやド・スタールなどのように、それらの葛藤の末に見いだされたものが芸術における「真理」であり、その「真理」を含んで「大地」の上に打ち立てられたものが「芸術作品」なのだ、ということになるのでしょう。

なんとも、駆け足で粗雑な解釈を並べたてました。自分の言葉としてこなれていないことも実感しています。「美学」や「哲学」について、ちゃんと学習しないから、理解が及ばないところもあり、反省しています。
しかし、ハイデッガーがゴッホの作品やギリシア神殿から、このような深い考察に至ったことは感動的です。後日改めて、彼の言う「世界」と「大地」については、もうすこし明確に理解したいところです。

 



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