私の住んでいる横須賀からはちょっと遠かったのですが、モンミュゼ沼津(沼津市庄司美術館)の『飯室哲也展』を見に行きました。体調不良もあり、今回も会期最終日にすべりこみで見に行く羽目になりましたが、内容的に興味深い展覧会でしたので、ここにメモを記しておく次第です。
展覧会には「観念、感覚、事物、空間の往来:1970年代から現在」というタイトルが添えられていました。美術家、飯室哲也(1947 - )の作品の軌跡を40年以上にわたってたどるという企画です。作家自身の文章の冒頭部分を引用しておきます。
私の表現は、ものに関与することから始まる。四十数年の経過の中で、表現の場を、空間、立体、平面と、次元を変化させ混合させてきた。手触りの感触を重要視しながら、表現方法もさまざまに変えて表現してきた。
変容する表現の経過の中で、「自然と人工」「作為と無作為」など、対照的なことを受け入れ、それを混合して、ものを表現の中に囲い込む事が、私の表現の基底として続いている。
(『飯室哲也展』作家コメントより)
このコメントの中には、飯室の作品を見る上でいくつかの大切な点が含まれています。「ものに関与」してきたこと、「空間、立体、平面」を表現の場としてきたこと、「手触りの感触を重要視」してきたこと、「自然と人工」「作為と無作為」など対照的なことを作品の中に受容してきたこと、などです。このうちのはじめのふたつ、「ものに関与」、「空間、立体、平面」という部分は、飯室の世代、つまり1970年代から活躍している現代美術の作家に共通する特徴だといえるのかもしれません。この世代はミニマル・アートやもの派と呼ばれた動向が美術界を席巻していた時代に、美術家としてのキャリアを始めた世代です。その中には、その後、独自の表現を展開して、興味深い作品を作り続けている作家たちがいます。前回、このブログで個展を紹介した橘田尚之も、そのひとりだと言えるでしょう。そしてあとのふたつ、「手触りの感触」と「対照的なこと」という部分ですが、これが飯室の作品に見られる独特の特徴だと思います。飯室はたびたび自分の作品に文章を寄せるほど、分析的な思考をする作家です。しかし、その作品にはつねに「手触りの感触」があり、観念的な空虚さとは無縁の表現をしています。また、飯室の作品には「対照的」な要素が混在することが多く、それがときに作品のバランスを危うくして見えることもあります。私ならば、「自然と人工」「作為と無作為」という要素のほかに、「部分と全体」という対照的な要素も付け加えたいところです。
今回の展覧会は、飯室の作品の軌跡をダイジェストに伝えようとするものですから、その流れに沿って記述していくと、とてもこのブログでは書ききれません。恐縮ですが、1999年に宮下圭介と飯室との二人展に寄せた私の文章がありますので、それを参照していただければ幸いです。
(http://www5b.biglobe.ne.jp/~a-center/p-ishimura/text/1999-2.pdf)
また、飯室の作品をご覧になったことがない方は、例えば「ギャラリー檜」のホームページを見てみてください。
(http://www.g-hinoki.com/artist/iimurowork.html)
さて、今回の展覧会で印象的だったことについて、すこし書いておきます。
私は飯室の、最近の平面作品をとても面白いと思いました。その中でも2010年の『ゴーギャン追想』という作品が、もっとも出来がよく、興味深く思いました。これは3枚組の作品で、おそらくは紙に水溶性の絵具を用いたものですが、飯室の豊かな色彩感覚と意外な軽やかさが発揮されていて、他の平面作品とは、すこし違って見えました。飯室自身はこのシリーズの作品について、「抽象表現主義の身振りの絵画と通じるところがあるかも知れない」と書いています。確かにそういう面もありますが、この2010年の作品について言えば、インスタレーション作品の空間見取り図のような画面分割と、絵具のにじみ、筆の動きなどの即興的で偶発的な要素がうまく混じりあっていて、見ていて飽きない作品です。飯室は「どうでもよいように描きながら、描く運動感が散在し、収束する平面の場として囲みたい」とも書いていますが、その意図をかなりうまく実現しているのではないでしょうか。
しかし彼は、こうも書いています。「ごく普通の抽象絵画と同様のこのシリーズに対して、物に依拠して制作をすすめてきたこれまでの作品群と、整合性がないとの批判がある」ということですが、そうでしょうか。例えば、今回展示されていた1975年の、紙の上にグレーの絵具を滴らせた作品群と見比べてみると、それらと『ゴーギャン追想』とは、どこかに共通点があるように思います。1975年の作品では、たしかに作家の行為性や絵具の物質性、偶然性が強調されていましたが、同時にそれは奥行きの浅い原初的な絵画空間でもあるのです。その素材への接し方や空間の触り方は、手法を変えても簡単に払拭できるものではなく、飯室の中で継続的に息づいているのではないでしょうか。たとえ絵具の物質性や作家の行為性があからさまに表現されていなくても、絵画空間の質としてそれらを感じ取ることができると私は思います。そうでなければ、「抽象絵画」はすべて同じ、ということになってしまいます。
現在において、作品を見るときに重要なことは、一瞥して分かるような形式や特徴に注目することではなくて、その向こう側に見える内容や質に目を向けることではないか、と私は思っています。飯室にしてもそれをよくわかっていて、あえて平面作品を並行して制作しているのではないでしょうか。
ぐるっと回廊式にめぐる今回の会場では、初期の作品と最近の作品とを数歩歩くだけで簡単に見比べることができました。40年の差異を実感することもあれば、思わぬ共通点を見つけることもあり、一時間ほど楽しみながら佇みました。欲を言えば、充実した作品群を、もう少し広いところでゆったり見たい気がしました。この後、そんな企画もあるのでしょうか?
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