平らな深み、緩やかな時間

182.アルベール・カミュのこと

アルベール・カミュ(Albert Camus、1913 - 1960)は、フランスの小説家、劇作家、哲学者です。サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre、1905 - 1980)とともに、実存主義の思想家として有名ですが、1957年には史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞していることでも知られています。小説家としては、『異邦人』(1942)がそのインパクトの大きさから彼の代表作だと思いますが、新型コロナウイルスが流行し始めてから、もともと人気のあった長編小説の『ペスト』(1947)が、再び広く読まれているようです。私もコロナ禍が始まった頃にこの小説のことを思い出しましたが、緊急事態宣言が発令されるかどうかという頃になって、まさに『ペスト』の世界が現実のものになってしまった、と感じました。しかし、その頃に『ペスト』について、私ごときが何か書いても仕方ないな、と思っていました。なぜなら、例えば今日、話の中に出てくる中条省平(1954 - )のような専門家が、NHK「100分de名著」2020年9月の『アルベール・カミュ ペスト: 果てしなき不条理との闘い』に出演して解説するなど、この本についてずいぶん語られていたからです。私のような素人がカミュについて、あるいは『ペスト』について、何かいうべきことは何もないと思っていました。
ところで、中条はその2年前の2018年6月に、やはりNHK「100分de名著」で『ペスト』について語っています。私はそちらの方の番組を見て、テキストも買いました。もちろん、その時はまだコロナ禍の前でしたから、今のような状況になるなんて考えてもいませんでした。
そんなふうに、コロナウイルスの感染状況と『ペスト』との関係について、薄々感じていながらもあえて深読みしてこなかったのですが、先日、あるきっかけから以前のテキストを本棚から持ち出してみると、当時はあまり実感がわかなかったことがじわじわと心に染みてきて、やはりすごい小説だな、と遅ればせながら感心したのでした。
その読み直しのきっかけとなったのが、ピーター・バラカンがキャストを務める『The Lifestyle MUSEUM』というラジオ番組です。この番組に中条が出演し、彼が新訳を出すことになった『ペスト』について、あるいはカミュ伝も彼は書いたそうで、カミュの思想や人生全般についても話が及びました。その話のなかでピーター・バラカンによってはじめに触れられたのが、『異邦人』と同じ頃に書かれた『シーシュポスの神話』(1942)というカミュのエッセイでした。
今回は、とかく話題となる『ペスト』についてはほどほどにして、この『シーシュポスの神話』について考えてみたいと思います。
https://www.tfm.co.jp/podcasts/museum/
このラジオ番組ですが、上記のアドレスから「中条省平さん_Tokyo Midtown presents The Lifestyle MUSEUM_vol.694」を探すと、「Podcast」で聞くことができます。30〜40分ほどですので、ぜひ聴いてみてください。

さて、この番組を聴いている中で、私の心に刺さった会話がありました。それは次のようなやりとりです。

ピーター・バラカン;
「実存主義」をわかりやすく説明できますか?
中条省平;
「実存主義」の「実存」とは、人間が今ここにいる、ということです。
人間の存在というのは、今ここにいるということがすべてであり、それ以外は人間の本当(あるべき姿?)ではないのです。
人間の魂が死んだ後に救われる、とか、人間には理性が備わっていて世界が合理的に動いている、ということを(実存主義は)否定しました。
キリスト教文明とか、近代の合理主義をすべて否定して、今ここに人間がいることに何の根拠もない、と実存主義は考えたのです。
だから人間の一人一人が、一回一回、今ここの困難と戦っていかなくてはならない、というのが実存主義の考え方です。

私は自分を実存主義者だと思ったことはありません。(実はカミュもそうらしいのですが・・・)
しかし、宗教を信じない、という点では実存主義と同じなのかもしれません。私は死後の魂の存在を信じていません。今でも生きていくのが辛いのに、死んだ後に魂が残ってしまうのでは、逆に救いがないじゃないか、と思ってしまいます。そもそも「神」という存在がいるのなら、このコロナ禍でなぜたくさんの善良な人たちの命を奪ってしまって、なぜ私のような人間を生かしているのか、まったく説明ができません。さすがに私が一番最初に死ぬべきだとは言いませんが、私より若くて将来のある方が亡くなってしまうのは許せません。最近のウイルスの変異株では若年層も危険だと言いますが、「神様、それはないでしょう?」と言いたいです。
その一方で、人間には理性があるので世界は合理的であるべきだ、という合理主義の考え方については、そう思いたい、という思考傾向が私にも少しあります。あまりに合理的な科学主義が目に余ると、それを批判したくもなりますが、基本的に人間の理性を信じたいとは思っています。
だから、前回までの話のように、私自身の意識の低さから、人を差別したり、傷つけたりしていると思うと、私などはこの理性が律する世界に存在してはいけないのではないか、とつい考えてしまいます。特に老齢の男性というのは、今まで勝手なことばかりしてきましたし、私自身はその中でもとりわけ愚かな存在だから、この合理的な世界ではどこにも居場所がないと思っています。
しかし、中条の解説のように「今ここに人間がいることに何の根拠もない」ということがすべての人に当てはまるなら、私のような人間でも少しはこの世にいても良い気がしてきます。これまでの不甲斐ない生き様よりも、残り少ない人生をどう生きるのか、が問題になるわけです。人間はへこんでいるときには妙なことで元気づけられるものです。実存主義の「一回一回、今ここの困難と戦っていかなくてはならない」という考え方は、ある意味ではとても辛い考え方だと思うのですが、私のような者にはとても救いになります。このことは、この後の内容を理解する上でちょっと関連するので、憶えておいてください。
さて、ここからはコロナ禍にあって、ありがちな話を例に出しますので、皆さんも少し考えてみてください。これはどこかの地方自治体の学校現場で起こった架空の話ですが、現実に起こったとしてもおかしくないことです。

ある県の知事は、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて県立の高校で登校する生徒を減らすため、オンライン学習を組み合わせて分散登校を行うと発表しました。1、2年生は週1日、3年生は週2日の登校とし、それ以外の日はオンラインで学習するという措置をとります。加えて登校時に教室に入れる人数は20人までとし、1年生が登校している時には、その裏で2、3年生が自宅でオンラインの授業を受けることにしました。
さて、これを実践してみましょう。ふだん、一教室30〜40人で授業を実施している学校では、登校している生徒の授業をニ教室に分けて、同時に同じ授業をやります。ふだんは同じ教室で授業を受けているのですから、進度に違いがあってはなりません。同じところから始めて同じところで終わるように、二人の先生は綿密に打ち合わせをしておく必要があります。忘れてはいけないのは、その裏で2、3年生のオンライン授業をやらなくてはならない、ということです。単純に考えても、授業時間中に必要な先生は平常時の4/3倍になります。人数だけを考えるなら、何とか足りているように見えますが、高校生の授業となると教科の専門性がありますから、1年生の国語の授業を分け合う先生のうちの一人が数学の先生では困るのです。これではたして、すべての時間に適正な先生を配置することができるでしょうか?
あくまでも架空の話ですが、こんなことは物理的に無理なのです。しかし、現場のことがよくわからない知事は30%の生徒が対面授業を実施するとぶち上げ、慌てた教育委員会の先生方は現場に対して理不尽な指導をするのです。この時に現場の先生たちは、中条の実存主義が言う通り、一回一回、上からの不条理な指示と戦うしかないのです。あくまで架空の話ですが、私はその処理をする現場の担当者です。
こんな時に、先のピーター・バラカンと中条省平のラジオでの会話を聞きました。話のとっかかりが「シーシュポスの神話」だったのですが、これはうってつけではありませんか?なぜなら先の架空の話の中の先生たち、とりわけ学習計画を立てなければならない担当者の私自身がシーシュポスそのものだからです。シーシュポスの話を知らない方のために次の神話要約を紹介しておきます。

シーシュポス(Sisyphus)は、ギリシア神話に登場する人物である。シーシュポスは神々を二度までも欺いた罰を受けることになった。彼はタルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた(この岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる)。シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される。
このことから「シーシュポスの岩/Sisyphean labor」の語は、日本での「賽の河原」同様に「(果てしない)徒労」を意味する。(Wikipediaより)

コロナ禍で何か教育委員会から指示が出るたびに、それを現場の実態にあった善後策に変えて模索する担当者はシーシュポスなのです。その押し上げる岩の重みは人為的な愚かさも重なって、どんどん重たくなっていきます。
この「果てしない徒労」を負わされたシーシュポスは不幸な存在に違いないのですが、カミュはシーシュポスは幸福なのだ、と言っています。どういうことなのでしょうか。ここは少しじっくりと、カミュの文章を読んでみたいと思います。

天のない空間と深さのない時間とによって測られるこの長い努力のはてに、つい目的は達せられる(つまり岩をいったん、山頂へ押し上げたということです)。するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へところがり落ちてゆくのをじっと見つめる。その下のほうの世界から、ふたたび岩を頂上まで押し上げてこなければならぬのだ。かれはふたたび平原へと降りてゆく。
こうやって麓へと戻ってゆくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、僕の関心をそそる。石とこれほど間近に取り組んで苦しんだ顔は、もはや石自体である!この男が、重い、しかし乱れぬ足どりで、いつ終わりになるかかれ自身ではすこしも知らぬ責苦のほうへとふたたび降りてゆくのを、ぼくは眼前に想い描く。いわばちょっと息をついているこの時間、かれの不幸と同じく、確実に繰り返し舞い戻ってくるこの時間、これは意識の張りつめた時間だ。かれが山頂をはなれ、神々の洞穴のほうへとすこしずつ降ってゆくこのときの、どの瞬間においても、かれは自分の運命よりたち勝っている。かれは、かれを苦しめるあの岩よりも強いのだ。
この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。きっとやりとげられるという希望が岩を押し上げるその一歩ごとにかれをささえているとすれば、かれの苦痛などどこにもないということになるだろう。こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。ところが、神のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。まさにこの悲惨な在り方を、かれは下山のあいだ中考えているのだ。かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである。
(『シーシュポスの神話』「シーシュポスの神話」カミュ著 清水徹訳)

岩が転がり落ちることを知りながら、山頂へとその岩を運ぶ労働は理不尽でしかありません。普通に考えると、シーシュポスの幸福は、この理不尽な労働から解放することによってしか実現しません。これを現実に置き換えると、例えばアメリカン・ドリームと言われるような、新興国アメリカの成功物語があります。大きな成功を勝ち得れば、岩を頂上まで運ぶという労働から解放されるチャンスが誰にでもある、というわけです。自分自身の努力と才気によって自分の未来を切り開くのだ、というのがアメリカン・ドリームです。しかし、これも万人が実現できるものではありません。開拓時代とは異なり、いまやドリームを実現できる人というのは、大学に行ける経済力がある家庭に生まれたり、さらには人種や民族などの境遇に恵まれたり、という条件が揃っていないといけません。
カミュが考える幸福は、どうもアメリカン・ドリームのようなものではないようです。それにしても「かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる」というのは、どういうことでしょうか。かれは自分の運命を知り、自分でそれを受け入れることで理不尽な運命から「勝利」する、とカミュは言っているのです。『シーシュポスの神話』の最後の部分を読んでみましょう。

ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう!ひとはいつも、繰り返し繰り返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以降もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争のただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。
(『シーシュポスの神話』「シーシュポスの神話」カミュ著 清水徹訳)

この文字面だけを眺めても、よくわからないですね。「この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる」という美しい一節が、文学としてすべてを解決しているように思いますが、結局のところ、労働の運命から逃れられないシーシュポスは幸福なのでしょうか。
ちょっと現実的な話をしましょう。私はこのカミュの労働に対する哲学がわかる気がします。私自身、もう退職して、さらに今は再任用で働くほどの労働まみれの人生でした。結局、この残酷で不条理な運命から逃れることができなかったのです。あとは死ぬ時に労働から解放されるのを待つだけです。そういう意味では、「死」が楽しみでもあります。
このような辛い人生ですが、これをただ「不幸」だと言ったのでは、一部の恵まれた人を除けば、世界中が「不幸」だらけになってしまいます。これはどうにかしなくてはなりません。そこでカミュは、こう考えました。このような労働にまみれた運命であっても、それを知ることで、人間は心理的にその徒労感を乗り越えることができるのだ、と。私にはこのカミュの考え方が極めて現実的な対処方法だと思います。もしかしたら、人生がもたらす不条理な運命からの救いは、これしかないのかもしれません。
カミュは若死にしましたし、さらにこのエッセイを書いた時は30代の前半という若さでした。才能あふれる若者であったカミュが、どうしてこんな結論に至ったのか、私にはよくわかりません。しかし私の年齢になると、労働を苦役だと思わずに、そこに自ら進んで意味を見出すことによって、労働そのものに勝利する、ひいては自分の運命を乗り越える、という気持ちがわかるのです。
中条がラジオで言っていたことですが、カミュは高校生の時から肺結核を病んでいたそうです。その当時の結核は根治しなかった、ということですから、彼にとって死は身近なものであり、自分の人生が結核によって限界づけられたものかもしれない、という予感が絶えず付きまとっていたことでしょう。そのことが、ギリシャ神話のシーシュポスへの親近感となっていたのかもしれません。
恥ずかしい話ですが、私の場合、若い頃は例えば絵が売れるとか、有名になって美味しい仕事にありつけるとか、そういうことがまったくないわけではないだろう、という仄かな期待がありました。そのころは、今よりも日々の労働が辛く感じていたと思います。ところがこの年齢になって、死を身近に感じるようになった頃から、ああ、これが自分の一生なのだな、と観念した時に辛い労働を受け入れる気持ちになりました。今は退職後の雇用で給料も半分くらいに減って、言ってみれば岩の重たさがこの歳になって二倍に増えた感じがするのですが、全然平気です。私のこういう解釈が不条理の哲学である実存主義と結びつくのかどうかよくわかりませんが、とにかく現実の理不尽さを受け入れつつ、戦い続けるしかないのが人生の正体です。そもそも、人間の存在自体が不条理なのです。宗教や合理主義の甘い言葉にだまされてはいけません。
さて、カミュが『ペスト』を書いたのは、『シーシュポスの神話』の5年後です。もしかしたらカミュは、ペストという感染症の状況を利用して、それに対処する小説の中の人たちをシーシュポスの境遇へと落とし込みたかったのかもしれません。特に話の中心となる人たちは、ペストがもたらす不条理に絶望しませんし、自分の死に際しても「すべてよし」とつぶやくのです。以前にこの小説を読んだ時には、こんな言葉に気づきもしませんでしたが、中条の「100分de名著」を読み直して、その言葉の重要性に気がつきました。例え不条理な運命であっても、それを理解したときに「すべてよし」と人間は言えるものなのだ、とカミュは言っているのです。
今の私たちは、コロナウイルスによって、私たち自身がシーシュポスであることに気づかされているのかもしれません。もしもあなたが課題を抱えた生徒たちと向き合う教師であっても、あるいは才能あふれる前途揚々とした学生であっても、私のように希望のない三流作家で労働者であっても、誠実に人生を生きようとすれば、自分がシーシュポスであること、そして不条理な世界を生きていることに気がつくはずです。先ほども書きましたが、30代前半の才能あふれるカミュがこのような問題に立ち向かい、このような結論に至ったことは驚きです。彼の才能はやっぱりすごいと思います。いったい、カミュはどうやってこのような事実を学び、このような考え方に至ったのでしょうか?彼が結核であったこと、裕福ではなかったことが大いに影響していると思いますが、それだけでは説明ができません。もう少し勉強してみたいところです。

最後になりますが、中条は中学生の頃にこの本を読んで、そしてちょうど読み終わる頃に聴いたビートルズの曲が、『シーシュポスの神話』を想起させることに気がついたのだそうです。ビートルズも、カミュを読んでいたのでしょうか?その曲を作曲したのはポールではないかと思いますが、ピーター・バラカンは「ポールなら読んでいたかもしれない」とコメントしていました。ラジオの中とはいえ、なんと知的で素敵な会話でしょうか。
私も中学生の頃にこの曲を初めて聴いて、いったい何を歌っているのだろう?と不思議に思いました。その頃に私もカミュを読んでいたのに、カミュとポールは少しも結びつきませんでした。このあたりが頭のいい人との違いでしょうか?実に理解力に半世紀の差がありますね・・・。
それでは、そのポールの曲を聴いてください。
https://music.youtube.com/watch?v=6B224XDJw6g&list=RDAMVM6B224XDJw6g
少年よ、その重荷を背負いなさい、長い間・・・!
中学生の時に聴いたこの曲の通りに生きてしまいました。

 
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「ART」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事