アメリカのジャズ・ギタリスト、作曲家のパット・マルティーノ(Pat Martino)が77歳で死去しました。
https://www.musiclifeclub.com/news/20211104_03.html
パット・マルティーノは十代から活躍したギタリストでしたが、30歳ごろに脳の手術を受けて記憶を失うという災難にあった人です。親の顔を忘れ、ギターの弾き方も忘れていたのに、その後、一から学び直すうちにテクニックを取り戻し、数年で復帰したという伝説の人物です。
そのジャズの曲の演奏は、上のホームページから視聴することができますので、こちらではジャズがそれほどお好きでない方にも聞いていただけるように、親しみやすい曲の演奏をご紹介します。パットの演奏としてはやや地味な印象ですが、さり気ない中でメロディーの美しさを大切にしていることがわかります。
いずれもフォークシンガーのジュディ・コリンズの歌唱で知られた曲です。
まずは、ジョニ・ミッチェルの作曲で、日本では『青春の光と影』というタイトルで知られた『Both Sides Now』です。有名な曲ですが、若い方はご存知ないかもしれないので、先にジョニのオリジナルを聞いてください。それからジュディの有名な歌唱と、パットのギター演奏をお聞きください。
https://youtu.be/Pbn6a0AFfnM
https://youtu.be/8L1UngfqojI
https://youtu.be/QF2E0oIRzds
つぎは『Send in the Clowins』という美しいバラードです。やはりジュディが歌ってヒットした曲です。私はこの曲が流行った頃に、アメリカの音楽チャートをラジオで追いかけていたので、とてもなつかしいです。自己主張の強いヒットチャートの曲の中で、ジュディの声を一服の清涼剤のように感じました。
ちなみにCSN&Yの名曲『組曲;青い眼のジュディ』は当時、ジュディと恋愛関係にあったスティルスがジュディからインスピレーションを得て書いた曲だそうです。
パット・マルティーノもジュディのファンだったのでしょうか?
こちらもジュディの歌唱と、パットのギターを聴いてみてください。
https://youtu.be/8L6KGuTr9TI
https://youtu.be/a-v8FYC6aqg
パット・マルティーノはオーソドックスな音色のジャズ・ギターを弾く人ですので、先程も書いたように少し地味な印象を受けるかもしれませんが、音楽の中に入り込んでいる感じが心地よいです。私は熱心なジャズ・ファンではないので、彼がジャズの世界でどれほどの存在なのか明確にはわかりませんが、ジャンルやスタイルにこだわらずに聴くことのできる素晴らしいギタリストだと思います。
ご冥福をお祈りします。
さて、本題に入ります。
先日、知人からメールでアラン・コルバン(Alain Corbin, 1936 - )という人のことを教えていただきました。恥ずかしながら、このフランスの歴史学者のことを、まったく知りませんでした。専門は19世紀、20世紀のフランス史だということですが、人間の感性を問題にした著作が多く、今回取り上げた本のように人が風景をどのように感受してきたのか、というアプローチでいくつかの著作があるようです。この二冊は、たぶんそのなかでも代表的なものだと思われます。
それから、アラン・コルバンは「アナール学派」という学問的な派閥の一人だと見なされています。この「アナール学派」は歴史学に新たな息吹を吹き込もうとした人たちが雑誌『アナール』に集ったことから、そう呼ばれるのだそうです。
その「アナール学派」ですが、1980年代の末ころから勢いがなくなったのではないか、と『空と海』の末尾のインタビューで指摘されていますが、コルバンは自分の歴史探究にはさほど影響がないと言っています。ですから私のような素人は、彼がどのような学派に属するのか、などということはあまり気にしないで読むことにします。でも、もしもコルバンの歴史学に興味が湧いてきた方がいたら、「アナール学派」を掘り下げてみると、いろいろな影響関係や学問的な広がりが見えてきて面白いかもしれません。
さて、そのアラン・コルバンは、「風景」をどのようなものとして考えていたのでしょうか。
『風景と人間』という本は、コルバンが質問に答える形で書かれていますが、「まず風景とは何かという定義から始めましょう」と言われて、コルバンは次のように答えています。
そうですね、これからわれわれが話題にすることを明確にしておくべきでしょう。それほどまでに風景という概念は曖昧なのですから。地理学者が風景の問題に触れるときは、きわめて明瞭に目につくもの、つまり地形学や生態学と関連するものについて語ります。構造地質学、起伏、自然環境の変化、動植物相の変化、生産・交換システム、そしてより一般的には人間の介入様式にしたがって風景がどのように形成され、変化してきたか―地理学者にとってはそれが風景の歴史にほかなりません。こうした意味に解された風景に関しては、すでに万巻の著作が書かれています。地理学者たちが空中写真に魅了されたことは、客観性を求める科学の勝利を示すものでした。物質性によって規定されるこの風景概念が長いあいだ支配し、やがて哲学者、社会学者、人類学者たちが関与するようになって、風景をめぐる考察が複雑さを増します。
風景とは、必要とあらば感覚的な把握の及ばぬところで空間を読み解き、分析し、それを表象するひとつのやり方、そして美的評価に供するために風景を図式化し、さまざまな意味と情動を付与するひとつのやり方なのです。要するに風景とは解釈であり、空間を見つめる人間と不可分なのです。客観性などという概念は放棄しましょう。
(『風景と人間』「第一章 いかにして空間は風景になるか」アラン・コルバン著 小倉孝誠訳)
さらっと読み飛ばしそうになりますが、内容は驚きに満ちています。私たちが普通に言うところの「風景」は、まず物質の集合体であり、人間がいなくてもそこに存在するものであり、もちろん主観的なものではなくて客観的なものだと考えるのが常識でしょう。それに対して、コルバンが問題としているのは人間が感受するところの「風景」です。ですから、「要するに風景とは解釈であり、空間を見つめる人間と不可分なので」あり、だから「客観性などという概念は放棄しましょう」ということになるのです。
しかし、そうは言っても私たちは、私たちが見ていないところでも「風景」らしきものが存在することを知っています。仮にAさんとBさんが同じ風景を見ていながらも異なる「風景」を感受していたとしましょう。それでもその対象となる「風景」が、客観的に存在することを私たちは知っています。頭の硬い私は、自分の既成概念とは違うことを言われると頭が混乱してしまうのですが、そういうときにはとりあえずこんなふうに考えます。
コルバンは客観的な「風景」を問題にしているのではなくて、主観的な「風景」というものを徹底して考えようとしているのだ・・・、そう解釈することにしましょう。
そのように解釈すると、例えばコルバンが「風景とは諸解釈の錯綜である」と言ったとしても理解できます。地理学者が見る風景と、歴史学者が見る風景と、美学者が見る風景と、哲学者が見る風景と、それぞれが違うのだ、と言われても納得できます。さまざまな立場の人たちが、さまざまに風景を解釈することを、コルバンは「評価する」という言い方をします。
そして、そういう立場の違いに加えて、人々はさまざまな目的で風景の中に入っていきます。目的の違いによって、人間の五感の働きも異なってきますから、そういう要素を掛け合わせると、千差万別の「風景」が立ち現れることでしょう。だからコルバンは「客観性などいう概念は放棄しましょう」と言っているのです。
このような考え方をすると、どのような「風景」の探求ができるのでしょうか。この『風景と人間』という著作は、その探究の事例に溢れていて、私のような無教養な人間ではとてもカバーしきれないのですが、例えば次のような話についてコルバンの方法論を用いれば容易に解釈することができます。
ある一定の空間を前にしたとき、17、18世紀フランスの宮廷人の視線は絵画によって強く規定されていました。この貴族たちはサロン展に足を運ぶ常連で、自然を見るときは絵画表現で知っていたことを確認しようとしたのです。こうしてたとえばディエップに赴くのは海水浴のためではなく、牡蠣や魚―要するに新鮮な海の幸―を食し、「海を眺める」ためでした。「私はディエップに行ったが、海は見えなかった」とマルモンテル(フランスの作家、1723-1799)は書き記しています。実際は、われわれが理解するような意味で海を見ているのですが、その日の海は穏やかだったのです。ところが当時の海洋画(とりわけジョゼフ・ヴェルネの作品)は怒涛渦巻く海、難破と崇高美の海を描いていました。マルモンテルはそうした風景を眺めるためにやって来たのであり、だからこそ海は「見えなかった」のです。同じような失望感を表明している宮廷人の証言はほかにもあります。彼らにすれば、現実の海よりもジョゼフ・ヴェルネの絵に描かれた海のほうがはるかに美しかったのです。
(『風景と人間』「第一章 いかにして空間は風景になるか」アラン・コルバン著 小倉孝誠訳)
ちなみにジョゼフ・ヴェルネの絵はこんな感じです。
https://www.meisterdrucke.jp/fine-art-prints/Claude-Joseph-Vernet/86544/%E5%B5%90%E3%80%811777.html
穏やかな海を見て、「海は見えなかった」というのは笑ってしまいますが、しかし私たちも旅行に行くと似たようなことをしていないでしょうか。あらかじめガイドブックなどで観光地を調べ上げて、その景観を確かめるためだけに旅行に行ってきたような気持ちになることがありますね。逆に、古典文学の徒然草には「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ」という有名な話があります。こちらは予備知識がなかったために本当に見たかった石清水八幡神社の手前で帰ってきてしまった僧がいた、何事にも先達が必要だ、というお話でした。ささいなことであっても予備知識が必要だ、という教訓を訴えています。
いずれにしても、私たちは気持ちの持ち方、あるいはその時代の考え方によって風景を見たり、あるいは見なかったりしてしまいます。私たちは地質学などの研究によって、昔の人がどのような風景を見ていたのかを推察することができますが、それはいまの私たちが昔の風景を見たならば、という仮定であって、当時の人がどのように風景を見ていたのか、ということを考えるのなら、コルバンのような考察が必要だということでしょう。
この本が言及している「風景」の「評価」の観点について、一つずつていねいに見ていくと、この本をまるごと書き写さなくてはならなくなるので、以下、キーワードだけを拾ってみましょう。
○映画的なもの、動く乗り物から見たもの
言うまでもなく、映像的な動くもの、もしくは電車などの乗り物に乗って見える風景のことです。動くことによって、意外なほどに風景が変わって見えます。
○極東的なもの
日本的なもの、東洋的なものの中で表現された風景のことです。例えば山水画のように人が中に入ってともに移動するような風景画は、東洋に独特のものです。
○音による風景
風景の中で聞くことができる音も、時代によってずいぶん変化しました。自然の中の鳥のさえずり、物売りののどかな声から都会的な喧騒まで、人間は聞こえてくる音によって風景の感じ方も変えてきました。
○触覚的なもの
手で触るもの、足(靴の底)で触るもの、風や空気などの肌で触れるものによって風景が変わって感じられます。私も、このことをとても重要だと思っています。
○信仰的なもの
信仰によって世界観が変われば、ものの見方も変わります。科学的なものの見方との兼ね合いも気になるところです。ここではキリスト教的な思想と風景との関わりが話題になっています。
○地質学的なもの
科学的なものの見方のうちで、とりわけ地質学的な見方は風景と大きく関わっています。岩や洞窟、温泉などの成り立ちがわかることで、地形的なものの理解も変わってきて、それも風景の感じ方と関わっています。
○医学的なもの
温泉浴、日光浴、海水浴など、医療や治癒効果が風景への関心を高めます。旅の目的にも関わってくるので、それまで見過ごしてきたものに注目したり、あるいはその逆のことも生じてきます。
○崇高なもの
先ほどの18世紀の宮廷人の例のように、風景の中にその時代の思索的な傾向を求める動きがありました。嵐や雪崩、峻厳な岩山などの自然の恐ろしさに崇高さを見出す価値観がありました。その価値観が、嵐の中で難破する船の風景画や、峻厳な岩や崖を描いた風景画を生んだのです。そういうものを見たいという欲求が、旅行の概念も変えていきます。
○移動手段の変化
先ほど、乗り物によって見える風景のことをあげましたが、それとは別に、移動手段の変化が旅行の形を変え、見える風景を変えていきます。徒歩から自動車、鉄道、クルージング、さらには気球や飛行機などが風景に与えた影響は大きかったようです。
○季節の変化、四季
18世紀ごろから、四季の循環に関心が持たれるようになったそうですが、かつては春、秋が人気があったのに、ヴァカンスやスポーツへの考え方の変化から冬や夏の評価が上がったそうです。日本人は(ヨーロッパ人よりも?)自然と親しい関係にあるので、春に執着が強いと分析されています。桜への偏愛や花見の習慣がそう思わせるのでしょうね。
○夜の変貌
都市化、近代化に伴って、夜の風景が変わっていったのは必然でした。夜遊びが定着していく特権的な人たちがいる中で、明け方から働く石工や市場の労働者たちとの交錯する時間帯があったことも指摘していて、コルバンの目配りが興味深いです。
○霧の表象
霧が風景に与えた影響は絶大です。その一方で、シェークスピアの作品では実際にそれほど霧が描かれていないこと、コナン・ドイル作のホームズ・シリーズの有名な『バスカヴィル家の犬』については、「霧がたなびいていると考えられているけれど、それは正しくありません」などと注釈されています。うーん、そうですか、あらためて読み直すつもりはないけれども、霧の影響もなく犬が怪物に見えるのかな・・・?という感じです。
○風景の保護
風景のアイデンティティーや「自然らしさ」が認識されるにつれて、それを保護しようという欲求が出てきます。しかし、どのような観点から風景を守るのか、ということでその時の風景への評価が明らかになります。風景の保存の難しさは、その評価様式の未来が予測しがたいという事情によるそうです。
時節柄、辺野古の埋め立てられた珊瑚の海を思い浮かべてしまいました。
いかがですか。このように「風景と人間」を考察する入り口は多岐にわたります。
さらにコルバンは、「日本の読者へ」という前書きを日本版に寄せています。これはエキゾチックな日本への過大評価も含まれていると思いますが、なかなか面白いので前半部分を参照してみましょう。
風景の評価と表現に関するかぎり、極東という言葉で括られている国々が西洋よりも一日の長があることに疑いの余地はない。しかも、風景を享受する様式は同じではなかった。極東における風景の嘆賞はヨーロッパとは異なる空間の実践、とりわけ散策の動きに基づいており、これは西洋における眺望愛好家がじっと動かぬ観者だったことと鮮やかな対照をなしている。中国人と日本人は、西洋人よりも気象に対して敏感である。芸術家は極めて早い時期から、霧、もや、霞、雨などを正確に分析していたし、泉や小川や沼の水の戯れがしばしば彼らの注意を引きつけた。それに対して西洋では、いわゆる空気遠近法が、長いあいだ大気の特徴を示唆する唯一の方法であった。日本の画家たちが好む鉱物、植物、動物の細部への執着は西洋に類例がない。月見や花見のための宴が示しているように、極東では風景の評価がヨーロッパよりも密接に社交性と結びついていたのである。18世紀、とりわけ19世紀にはこうした特質ゆえに、新たな美を探求するフランスの画家やフランスに居を構えた外国画家が、日本の影響を強く受けることになった。ヴァン・ゴッホの例を想起していただきたい!
(『風景と人間』「日本の読者へ」アラン・コルバン著 小倉孝誠訳)
これを読んで頷けるところと、そうでないところとありますね。また、この本が出版された2002年と今ではだいぶ様相が違っているのかもしれません。今の日本では、特に都市生活者にとって一世代違うだけで随分と自然との関わり方が異なるような気がします。
そして私は現代の芸術の世界において、とりわけ絵画において日本と西洋との違いはほぼないと思っています。
ただし、意識して日本の芸術に触れようと思えば西洋人よりも私たちの方が容易ですし、本物の作品に出会う機会も数多くあります。私の中の日本的な感性というのは、無意識のうちに体に宿っているものよりは、むしろ大人になってから意識的に吸収したものの方が大きいような気がします。このことについては、ちょっとだけ後で触れることにしましょう。
『風景と人間』で示された多様な切り口は、『空と海』という著作の中でいくつかの具体的な実践がなされています。この本はコルバンの講義集になっています。コルバンのねらいは「風景」を視覚的な観点から解き放すことにありますから、『空と海』は「風景」に対して広く人文科学的な興味がある人が読むと面白いと思います。彼は『空と海』の最後の文章で、次のように書いています。
私が考えているような意味での風景の歴史を構成するためには、過去の人間を理解する必要があり、そのためには彼らの身体文化を総合的に知らなければならない。そしてその身体文化は、視線の問題だけに限定できない。聴覚、嗅覚、触覚も風景の構成に関与するし、その歴史を解明するためには、感性や快楽行動の変化を把握し、苦痛の受け入れ方や、暑さ寒さ、乾燥、湿気、その他あらゆる大気現象の評価のしかたがどのように変化してきたかも視野に入れるべきである。それは感覚的メッセージにたいする許容の閾値をよく理解していることを前提とする。長い間、造形芸術の研究者たちのほとんど独占物であった風景の歴史は今や、歴史人類学的な探究へとより広く開かれるべきであろう。
(『空と海』「第4章 身体と風景の構築」アラン・コルバン著 小倉孝誠訳)
このようなものの見方は、ミシェル・フーコー(Michel Foucault 、1926 - 1984)の「知の考古学」を彷彿とさせますし、この本を私に教えてくれた友人は、柄谷行人の「日本近代文学の起源」との類似を指摘してくれました。私は柄谷の風景論について、以前にこのblogで書いていますので、よかったら参照してください。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/98.html
先程もちょっと触れたことと関わるのですが、柄谷が「日本近代文学の起源」で前提としている「風景」は、おそらく西洋的な客観的「風景」です。柄谷の文中に出てくる文豪、夏目漱石にとっての「文学」が日本の古典文学を含まない、西洋的な「文学」の概念であったのと同様に、柄谷が問題としている「風景」はそれまでの日本文学には存在していなかった「風景」なのです。それがいまでは私たちの意識の中で、「風景」という概念の前提になっている、ということに私は驚きを感じたのでした。
柄谷の「日本近代文学の起源」を読んでもわかるとおり、私たちはコルバンが過大評価してくれたほどには、自然と親しい関係にはありません。また、日本の古典的な文学や山水画で表現されている「風景」観も、すでに私たちには遠い存在です。しかしそれを学び直すことに意義があるのなら、私たちは日本文学や美術に容易に触れることができるでしょう。その点では、コルバンの言っていることが一部あたっているのです。
最後になりますが、このような既存の知の組み換えを提案する著作について、ひとこと書いておきましょう。私はフーコーや柄谷ですでにそのような著作に触れているので、コルバンのこの著作を読んで感銘を受けた、というところまでは至りませんでした。しかし、五感をフルに使って風景を感受するという考え方は、今の私の興味と共通するところがあります。そんななかでわがままを言わせていただくと、こういう歴史学的なアプローチというのは、どうしても教養主義的な、多岐にわたる知識を絡めていくような方向に向かって行くのですが、これは少し私の向かう方向とは違っています。
考えてみると、柄谷の本を読んだときに目から鱗が落ちるような思いに至ったのは、彼の視点が文学的であったからだろうと思います。彼はその執筆時期においては、文学のただなかにいたのだと思います。同様に柄谷の文中にでてくる夏目漱石も、たんなる文学研究者ではなくて、文学創作者であったからこそ、神経衰弱になるところまで西洋の「文学」との差異に悩んだのだろうと思います。芸術家にとって、それまでの自分の世界観を更新するということは、自分の存在意義を問うような切迫したものです。柄谷の文章には、創作することへの深い理解と共感があるような気がします。コルバンの場合には、そこに少し距離があります。彼は研究者ですから、それは当然のことです。しかし、私が欲しているのは、創作者と随伴するような思い悩む文章なのだろう、と思います。
コルバンに不満があるわけではなく、私がただのないものねだりをしているだけなのですが・・・。
その柄谷も文芸批評から離れてしまってずいぶんと月日が経ちます。私の興味に寄り添うような批評がなかなか現れないのが現状です。しかし、それを嘆いてばかりもいられません。力不足は覚悟の上ですが、日々五感を研ぎ澄ませて、くもりのない感性で絵画に立ち向かっていくばかりです。
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