平らな深み、緩やかな時間

196.「J-WAVE レディオ・サカモト」斎藤幸平×國分功一郎

前回の素人の政治談義の訂正です。
野党の代表選の候補者で最も若い人が50歳と書きましたが、47歳でした。でも、あまり変わらないですね。
現在のホットな政治の話題は国会議員の文書通信費の問題でしょうか。こんなものは、領収証と引き換えに実費支給が当たり前でしょう。その上で上限金額を決めるべきです。
https://mainichi.jp/articles/20211118/ddm/005/070/061000c
こういう不愉快な話題にここで触れたくないのですが、政治に起因する私たちの暮らしにくさは、芸術活動にもかかわってしまいます。私たちは選挙でしか意思表示ができないので、本当にもどかしいですね。

さて、今回は斉藤幸平と國分功一郎という二人の若手の哲学者の対談を参考にして、これからどういう社会が望ましいのか、考えてみましょう。
この対談は「J-WAVE レディオ・サカモト」というラジオ番組で7月に放送されたものです。音楽家の坂本龍一が2ヶ月に一回放送している番組だそうですが、しばらく前から療養している坂本に代わって、代役を頼まれた友人がパーソナリティーとなっています。7月は斉藤幸平がパーソナリティーとなり、前半の対談ゲストが音楽家のコムアイで、後半のゲストが國分功一郎でした。今回は、その後半の対談を取り上げたいと考えます。二つの対談の内容は、次のホームページから文字起こしされたものを読むことができます。
https://www.j-wave.co.jp/original/radiosakamoto/program/210704.htm
また、斉藤と國分の対談の音声は、次のYouTubeから聞くことができます。
https://youtu.be/EVeMhqkKxJg
さて、この話に入る前に、斉藤幸平と國分功一郎がどういう人なのか、軽く触れておきましょう。

斎藤幸平は1987年生まれの若い学者です。現在は大阪市立大学大学院経済学研究科准教授だそうです。『大洪水の前に』/堀之内出版)によって「ドイッチャー記念賞」を日本人初歴代最年少で受賞、また『人新世の「資本論」』(集英社新書)が6万部を超えるベストセラーになったことで、一躍有名になりました。
私はこの『人新世の「資本論」』と斉藤がNHKの「100分de名著」でマルクスを取り上げたときのことを、このblogで書きました。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/149.html
このblogは結構な力作ですが、全部読むのは大変かもしれません。
そこで要約して内容を紹介します。
斉藤幸平は現在の経済成長を前提とした資本主義社会に対して警告を発しています。
地球温暖化は待ったなしですし、経済成長が貧しい人にも富を落とすという「トリクルダウン」の理論もまやかしだと見抜いています。「SDGs」は企業のPRに使われているだけで、このままでは地球環境を破壊してしまうということをデータで示しています。それではどうしたら良いのか、と言えば、これまでの経済成長至上主義から脱却し、水や電力、住居、医療、教育といったものを「コモン」と呼ぶ公共財として民主主義的に管理する社会を作ろうと言っています。
しかし、このような社会を作るということは、物質的な豊かさを目指す私たちの価値観を変えるということでもあります。そのためには、私たちの心の変革が必要となります。その辺りのことが、今回の対談で聞けるのかどうか、興味深いところです。

國分 功一郎(こくぶん こういちろう)は1974年生まれで、斉藤より一世代年長となります。現在は東京大学大学院総合文化研究科准教授だそうです。彼について私は何回かこのblogで取り上げています。
はじめに國分のことを書いたのは『中動態の世界』という著作のことでしたが、その時に私は『芸術の中動態』という森田亜紀が書いた本と同時に取り上げたのでした。「中動態」とは「受動態」と「能動態」の中間にある言語の「態」なのですが、時代の流れの中でいつしか忘れられてしまいました。それは近代社会が人間の意思の有無によって物事のシロクロをはっきりさせようとしていく中で、埋もれてしまったのです。そして芸術において「中動態」について考えるということは、作者と作品、主体と客体という二元論的な価値観に疑問を呈することでもありました。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/83.html
次に國分のことを取り上げたのは、NHK・BS1スペシャル「コロナ新時代の提言~変容する人間・社会・倫理~」というテレビ番組が放映された時のことでした。コロナ・ウィルスの感染防止のための最初の緊急事態宣言が出された頃で、今から思えば感染者数に比べると社会的にずいぶんとピリピリとしていました。その時に國分は、あえてジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben、1942- )というイタリアの哲学者が、新型コロナウイルスで亡くなった方を見舞うこともできない現実に対し、死者をこのように遇してよいのか、という疑問を投げかけたことについて語ったのです。アガンベンも、もちろん立派だったと思いますが、それを取り上げた國分の冷静さも立派でした。この時期は冷静であることが、とりわけ重要だったのです。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/114.html
次は『100分de名著 エチカ スピノザ』というNHKの番組で、國分がスピノザについて語った時のことでした。スピノザについて考えることは、近代思想に毒された頭の中のOSを入れ替えるようなものだ、と國分は語っていましたが、その後、スピノザを勉強しそびれている私には、その本当の意味がわかりません。いつか死ぬまでにはスピノザを読んでみたいと思っていますが、そろそろ着手しないと手遅れになりますね。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/129.html
そして比較的最近、國分のことを取り上げたのは『<責任〉の生成 中動態と当事者研究』という本のことでした。この著書は熊谷 晋一郎との共著、対談の本です。ここでは、薬物中毒や精神的な障がいという事例から、私たちがいかに自ら思考することをせずに、いわば自動的に物事を判断してしまっているのか、ということについて語っていました。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/163.html
このように國分は、私たちが無意識のうちに近代的な「意思(決定)」を当然視していることについて、鋭く問い返しています。その切り口の多様性も見事です。

それでは、この二人が互いをどのように評価し、どのようなことに共感してこれからの社会について語っているのか、読んでいくことにしましょう。とりわけ、ラジオ番組という媒体の中で、平易に、私たちの日常生活に沿って語ってくれることを期待しましょう。
まずその辺りのこと、つまり学者としての社会との距離感について、二人はこんな対話をしています。


斎藤「なんかやっぱり、どうしても社会の哲学のイメージって。象牙の塔にこもって、よくわからないことについて、すごい小難しく書いているみたいなイメージだと思うんですけど。なんかやっぱり國分さんとかのいろんな著作……『暇と退屈の倫理学』とかもそうですし、『中動態の世界 意志と責任の考古学』とかも結構本当に多くの人たちに、哲学の話が届いているな、という感じはするんですけどね。」
國分「いやいや、そんな言っていただいて嬉しいけれどもでも(笑)、それは斎藤さんも同じで、すごくベストセラーになっている『人新世の「資本論」』なんかも非常に多くの人に読まれて大ベストセラーですけど、他方で『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』とか、研究書も出されていて。僕はやっぱりその二つをうまくバランス取りながら並行してやっていくっていうのがすごく、大事だと思っていて。」
斎藤「うん。」
國分「特に最近はさぁ、大学人もその社会貢献とかね……社会にどれだけ研究が貢献しているかとかをさ、見せなきゃいけないというのもあるんだけど、別にだからやってるわけじゃないんだけど、給料をもらって時間ももらって研究しているわけだから、その成果をきちんと社会に還元してくっていうのは、建前じゃなくて本当に思っているところはありますよね。」
斎藤「それ、ガブリエルも結構言うんですよね、やっぱり(マルクス・)ガブリエルも大学は国のお金でやられているし、それをやっぱりしっかりと社会に還元していく責任があるんだ、っていうことを言うんですけど……リスナーの方でも、哲学が社会に還元されるって、どういうことみたいに思う人もいると思うんですけど、そのあたり……哲学の役割ってどういうふうに、國分さんが考えていらっしゃいますか。」
國分「そのやっぱり一言でいうと哲学っていうのはね、「概念」の学問なんだよね。だから、哲学を勉強するっていうのはうまく、哲学的な概念を理解して、自分で体得して使えるようになってく……っていうことだと思うんですよ。」
(「J-WAVE レディオ・サカモト」斎藤幸平×國分功一郎 2021.7)

私は大学の研究者というのは、やっぱり自分がやりたい研究、自分が必要だと思う活動をしてほしいと思います。それは真にアカデミックなものであってほしいですし、そのことによって文化の水準が保たれるということも重要です。その一方で、研究者自身も、自分が生活者であることを忘れないでほしいなあ、とも思います。
そのバランスは、研究者の自覚によってとられるべきだと思いますが、今の日本は政治家が研究費を人質のようにして、自分が政権を持っている間に成果が出るようなものばかりを求めていて、情けない状況です。あるいは、自分を支持してくれる企業を利するような政策で頭がいっぱいな政治家がほとんどでしょう。
その中で、この二人のようなスタンスを持った学者がもっと出てくると、われわれのような一般的な生活者と大学の研究者との間の信頼関係が強くなって、政治家も介入しにくくなるのではないか、と期待できます。
それから、マルクス・ガブリエルの名前が出てきました。私も何度か、このblogでマルクス・ガブリエルのことを取り上げています。
『なぜ世界は存在しないのか』
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/110.html
『新実存主義』
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/111.html
『私は脳ではない』
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/113.html
これらは、マルクスが一般的な人に向けて書いた本だそうで、本格的な研究書と私たちとをつなぐものでもあるでしょう。そのマルクス・ガブリエルが日本のテレビで紹介された時に、私ははじめて斉藤幸平のことを知ったのでした。
マルクスはコロナ・ウィルスの緊急事態宣言中に、テレビでコメントを寄せていました。私にとって印象的だったのは、感染状況下での人々への援助について感想を求められた時の彼の答えでした。彼は一時的な援助金ではなくて、「ベーシック・インカム」を早く実現するべきだと言っていて、それも実現の是非を問うのではなく、どのような制度にするべきかを早く議論すべきだ、というようなことを言っていました。これは斉藤幸平の言う「コモン」と共通する考え方でしょう。
彼らのような若い学者がこのような考え方を提示するのは、とても興味深いことです。こういう考え方の前提になってくるのは、利潤追求型の資本主義社会からの変革です。それは社会制度の問題であると同時に、私たちの内面の問題でもあります。そのことについて、二人はこんなふうに語っています。

國分「あと、もうひとつその大きな話ということに関しては、僕は斎藤さんより一回りくらい上だけど、僕も大学院生くらいの時代ぐらいから、やっぱり大きな話をもっとしなきゃダメじゃないかっていうふうに、すごく思っていたところがありました。僕はほぼ最初に出した本が、その『暇と退屈の倫理学』という本だけども、あれも……ある意味では、まぁこれちょっと我田引水で恐縮です……恐縮ですけれども(笑)、『人新世の「資本論」』 に繋がるようなね、資本主義批判の本なんですけれどもね。」
斎藤「いや、そうなんですよね。誰も指摘しなくて、僕にこないだメールしましたけど(笑)、脱成長的な要素を結構含んでいるんですよね。」
國分「いや、そうなんだよ。だから……斎藤さんの言葉だと「潤沢なコモンズ」っていうふうになるのかな。僕はあのときは、消費と浪費っていうのを区別してね。消費社会というのは、人間を消費者にして、記号の消費みたいなのをがんがんやらせていくっていうね……今はこれが流行ってる、次はこれが流行っているぞ!って、どんどんどんどん人に、はぁはぁはぁはぁ言わせながら消費させるっていう社会だけど、浪費というのはそうじゃなくて、きちんと物を受け取ってお腹がいっぱいになって、「お腹いっぱいだ、もう食えないな。」っていう……十二分に飯を食うことだって、僕が書いたんだけど。その、資本主義社会あるいは消費社会っていうのは、人が浪費家になることを妨げて、消費者になることを強いるっていうのが、あの僕の本のテーゼの1つだったんですよね。だから、浪費的な贅沢さっていうのがすごく大事で、実はそれこそが無駄使いの社会を止めていくんじゃないかっていう、主張だったんですよね。斎藤さんはもっとこうある種……経済システムの観点から「潤沢なコモンズ」っていうね、みんなで使える資源というものについて話をされていて、僕はだから、ねえ、自分の本に引き付けちゃって恐縮ですけれども(笑)、大変そのコモンズの話はね、感銘を受けましたね。」
斎藤「「潤沢さ」とか「贅沢」とかっていうのはね、別にそのなんか、そこら辺の六本木ヒルズで、わーって遊ぶことじゃなくて……」
國分「全然違うよ(笑)。」
斎藤「(笑) 芸術品とか、まぁ……なんでもいいんですけれど、公共財とかをシェアしたりだとか、いろんな本を読んで議論したりとかっていう、そういうこう時間の豊かな使い方とか、そういうイメージですよね。 」
國分「まあねー、あと僕も年取ってきて思うけど、やっぱ時間ですよね。時間があるってことが本当、贅沢だし、大事だと思う。子どもと遊ぶとか。」
斎藤「そうですね。逆に時間が現代人になさすぎるんですよね。」
國分「なさすぎなんだよね。」
斎藤「やっぱり日本人は働き過ぎているし、空いた時間があったら、みんなすぐ携帯やって……まぁ、もうちょっとまとまった時間があったら資格の勉強をしてとか、投資してとか……そんなばっかりで、常にこうGAFAに取り込まれたり、証券会社に取り込まれたりっていう、まあ、そういう状態ですよね。」
國分「もう僕ね、あえてね……さまざまな問題も単純化して解決策を出すとしたらね、もうとにかく「暇」ですよって僕は言いたい。つまり暇がなきゃは、民主主義もできないわけ。」
(「J-WAVE レディオ・サカモト」斎藤幸平×國分功一郎 2021.7)

このように、現代社会の行き詰まりは私たちの時間の使い方とも連動していて、私たちの内面的な問題でもあるのです。社会的なシステムの変革と、内面的な変化とがうまく連動しないと、なかなか前に進めないということが予想できます。
そこで話の中でもチラッと出てきましたが、芸術の果たす役割というものが小さくないと思います。私の信じるところでは、芸術は経済成長の有無とは関わりなく、人間の暮らしを豊かにするものだからです。
それから、ここで『暇と退屈の倫理学』という書名が出てきました。この本が出た頃に、私は國分功一郎のこともよく知らずに、気楽なエッセイだと思って読み始めて挫折した記憶があります。「暇と退屈」という言葉が、いかにも学問的な探究から外れた感じがしたからです。
しかし國分はこの本の中で、大哲学者ハイデッガー( Martin Heidegger, 1889 - 1976)の『形而上学の根本諸概念』という本を読み解きながら、次のように書いています。

結局、ある種の深い退屈が現存在の深淵において物言わぬ霧のように去来している(「現存在」というのはハイデッガー独自の用語で、端的に人間のことを指している)。
何も言わない霧のように、いつの間にやら退屈がただよってきて、私たちの周囲を覆い尽くしている・・・。ハイデッガーが抱いていたのはそんなイメージである。そして、この退屈こそが私たちにとっての根本的な気分であるとハイデッガーは言うのだ。つまり私たちは退屈のなかから哲学する他ない、と。
(『暇と退屈の倫理学』「第五章 暇と退屈の哲学」國分功一郎)

そしてハイデッガーはごていねいに、「退屈」は誰もが知っている言葉だけれども、その正体をはっきりとは分かっていない、それだけに説明することが困難だという趣旨のことを言っているのです。まるで私のことを言っているようですね。
ここでこの本について深入りするつもりはありませんが、興味深いところだけ拾ってみましょう。
ハイデッガーは「退屈」を三つの種類に分けているのだそうです。例えばバスや電車の不意の待ち時間のように、外部から「退屈」を余儀なくされた場合がその一つ目です。次にパーティーに参加したのに、意外と「退屈」であった場合のように気晴らしのはずが「退屈」になってしまう例が二つ目です。そして、なんとなく「退屈」になってしまう場合、これが三つ目の「退屈」で、これこそが人間が本質的に退屈する存在であることを示していて、最も根深い問題であるようです。
ハイデッガーは、人間だけが「退屈」するのだ、と言っていて、動物は目の前の事象にとらわれていて、「退屈」するという視点を持ち得ない、と考えています。だから人間だけが「退屈」するのであり、それは私たちが動物よりも自由に世界と接する存在であることを示しています。例えば、動物は夕食ができるのが待ち遠しくて、その待ち時間が退屈だ、などは思いません。空腹であるのか、満腹であるのか、のいずれかしか彼らにはないので、空腹であるならそれを満たすべく行動するしかないのです。そんな動物に比べて私たちは「自由」な存在なのだから、私たちは「退屈」を克服すべく、何をなすべきか決断すれば良いのだ、とハイデッガーは言っているのだそうです。
國分功一郎は、このハイデッガーの結論に納得しません。私たちは完全に自由に世界と接しているわけではない、だから私たちの決断次第で「退屈」が克服できるわけではない、というのが國分の言い分です。ハイデッガーのように、人間が決断次第でどんどん「退屈」を克服できると考えると、例えば退屈なパーティーを克服すべく、さらに忙しく催しを考えていく・・・、それはあたかも利潤追求型の現代社会を象徴するような行動です。
そして、ここで國分が提案する結論は、先ほどの二人の対談とも共通します。「退屈」を克服するには「暇」を「贅沢に」享受することが必要です。この「贅沢」というのは、例えばどんどんお金を消費するような「浪費」とは違って、仮にパーティーで出されたご馳走や演奏された音楽があったなら、それらを十分に楽しむということです。ところがそれらを十分に楽しむためには、食べ物や音楽に対する知識や理解が必要になります。その知識や理解を得るためには、いくらかの「暇」な時間が必要になるでしょう。だから「退屈」を克服するには「暇」が不可欠であり、「暇」な時間によって享受する「贅沢」が、人間を豊かにしていくのです。
結論をいえば、人間にとって、あるいは今の社会にとって大切なのは「暇」な時間を作ることであり、そのことによって心の「贅沢」を享受することなのです。
ここまで理解してみると、私たちの社会のより本質的な問題は、利潤追求型の生き方をどのように維持していくのかではなく、一部の人間に富が集中してしまっていることをいかに解消していくのか、ということです。彼らが持て余した時間でさらに忙しく利潤を追求してしまっている結果、貧しい人たちの富も時間も奪ってしまっているのです。國分功一郎は、『暇と退屈の倫理学』の最後に、こう書いています。

退屈とどう向き合って生きていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。しかし、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるようになる。それは<暇と退屈の倫理学>の次なる課題を呼び起こすだろう。すなわち、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかという問いだ。
マルクスは「自由の王国」の根本的条件は労働日の短縮であると言っていた。誰もが暇のある生活を享受する「王国」、暇の「王国」こそが「自由の王国」である。誰もがこの「王国」の根本的条件にあずかることのできる社会が作られなければならない。そして、物を受け取り、楽しむことが贅沢であるのなら、暇の「王国」を作るための第一歩は、贅沢のなかからこそはじまるのだ。
(『暇と退屈の倫理学』「結論」國分功一郎)

この結論を読んで、もしくは二人の対談を聞いて、月並みな結論だと思われますか?
こういうことは、頭ではわかっているけれども現実には・・・、というふうに思われる方も多いと思います。しかし、その現実が切羽詰まっていて、次の世代にこんな形でしか世界を残せない、ということが喫緊の問題なのです。私たち一人一人の意識の変革が必要で、理想と現実の乖離などということを言っている場合ではないのです。「現実には・・・」と言っている人間には現実が見えていないのであり、そのことが若者たちの苛立ちを生んでいます。
そして私たちは、自分のできることをやるしかないのですが、私は私で、自分の作品を見た人がこのような意識の変革を感受できるような、そして心が豊かになれるような作品を作りたいと思っています。もしも美術家の一人一人が、将来の商業的な成功よりも今目の前にいる人を幸福にできるような、あるいは説得できるような作品を目指して制作するようになると、美術の世界全体も変わっていくのかもしれません。

さて、この二人の対談ですが、ラジオ番組というだけあって、難しい話もなく、学者としての生活実感に寄り添いながら話しているところが良いと思います。その代わりに、二人の話の根拠となる学問的な内容については掘り下げられていません。興味のある方は、是非とも二人の著書を読んでみてください。私のblogが、その一助になればとてもうれしいです。そして、これからの社会のために、それぞれの場所で考え、行動していきましょう。

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