良い絵を見たいなぁ、と思う時があります。
そんな漠然とした思いを抱えて、でも、たいして期待もせずに、あてずっぽうに美術館に行ってみたら、意外と良い絵に出会えた、ということが、たまにあります。こんな書き方は失礼なのかもしれませんが、印象派のピサロ(Camille Pissarro、1830-1903)という画家は、そんな出会い方をする画家です。例えば、ブリヂストン美術館が所蔵しているピサロの『菜園』はなかなか良い絵ですが、この美術館では他にも名品がたくさんあるので、この作品を見に出かける、という人はあまりいないと思います。
(http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/works/39/)
ピサロは印象派の個性派揃いの画家の中で、どちらかといえば地味で、注目されることの少ない画家だと思います。これぞ傑作、という有名な作品がないし、印象派から新印象派の流れに乗って作風を変えてしまったことも、何となく大物芸術家らしからぬイメージを与えています。しかし、印象派の色彩と古典的な絵画の構築性の両方を併せ持った画家、というと、よくセザンヌについてそういう言い方をすることがありますが、むしろピサロの作品にこそ、この言い方は合っているように思います。
さて、美術評論家の藤枝晃雄(1936- )が、1987年から1989年にかけて『美術手帖』で連載したエッセイをまとめた、『絵画論の現在』という本があります。藤枝晃雄が、近代から現代にかけて具体的な作品をとりあげて書いた、実に貴重な著作です。
そのなかで、なんとピサロの『エルミタージュの丘、ポントワーズ』(1867 151x200cm グッゲンハイム美術館、ニューヨーク)が取り上げられているのです。これもまた失礼な言い方ですが、15本の連載の中の1本がピサロ・・・というのが意外なようでもありますが、個人的には納得しています。その作品の画像は、つぎのホームページで見ることができます。
(http://art.pro.tok2.com/P/Pissarro/Pissarro.htm)
(http://www.art-library.com/pissarro/index.html)
ふたつのページをリンクしたのは、色彩が随分違うからです。私のもっている『絵画論の現在』(改訂版が出ているようですが、私の本は古い版です)の中の写真は、どちらかといえば後者のホームページの写真に近いと思います。ただ、もう少し落ち着いた感じの色で、先入観かもしれませんが、私の本の写真が一番良いと思います。また、この本の中で居並ぶ、他の名画の写真と比べても遜色がありません。
この絵のどこが良いのか、これは藤枝の文章を引用する以上にうまく説明する方法はないでしょう。
画面は、ほぼ三つの領域に分けることができる。手前の大きな道を軸にして、左の叢、右の斜面、そして丘である。この作品は、実景に即して描かれたものに基づいてアトリエで変更されたものと考えられている。叢、丘などの自然は緑と茶という共通した色相からなっているため、上に伸びるいく本かの樹木、とりわけいく軒かの農家がなければ画面は平板になる。さらに幾人もの人物がいなければ平板さは増大する。これらが画面に奥行きのある起伏を与えているのである。画面のほぼ中央に一軒の農家が描かれている。それは明るく突出し、パラソルをさした女性、左の農家と同じく明るい壁と結びついている。また煙突から立ち昇る煙は雲と関連している。左の農家のかたまりは形体が類似しながらその配置、色彩において変化に富んでいる。それらは明暗の調子によって分割されて、幾何学性がきわだっている。右の農家は、奥まった場所にあるため暗い色調をもっているが、壁、屋根、窓の一部は明るく、これもほかの明るいいくつかの対象物に相応して画面の調子を立て直す。三つの領域とそこに配された事物と人間の描写、表現は、エルミタージュの光景を構築的にする。そしてこれが平板になるはずの区間に奥行きを、たぶんに凝縮された奥行きをもたらしているのである。
(『絵画論の現在』藤枝晃雄)
藤枝晃雄が、この本全体で訴えていることは「作品を注視する」ことの重要性です。そして、それを軽んじて「作品を忘却する」ことが、もっとも戒められています。これは本当に耳の痛い言葉で、私自身、作品を文章で書きあらわすときに、「注視する」力の不足を痛いほど感じます。例えば、上の藤枝の文章ですが、ただ作品を描写しているように見えますが、この絵の構成と色彩についての解釈が何の粉飾もなく盛り込まれています。前回の村上春樹の文学者らしい文章とは対照的で、まさしくプロの批評家の文章です。
それから藤枝はこの絵について、「実景に即して描かれたものに基づいてアトリエで変更されたものと考えられている」と書いていますが、なるほどなぁ、と思います。このようにおおらかで、かつ起伏に富んだ小気味よい風景は、実際にはなかなかありません。たぶん、実景はもっとのっぺりとした、捉えどころのない風景なのでしょう。印象派というと、屋外にイーゼルを立てて、ひたすら光を追い求めた、と思いがちですが、本当はそうでもないでしょう。
それにピサロといえば、ちょっと渋めの色彩も魅力的です。モネ(Claude Monet, 1840 - 1926)の妙に紫色やオレンジ色がかった色彩が鼻につくときなど、ピサロの色彩がとても好ましく感じられます。藤枝は、ピサロの色彩について、こう書いています。
いずれにせよ、ピサロの沈殿した色彩は、バーネット・ニューマンやステラを思わせる。カラリストとは、明るい色彩を使用するしないということではなく、セザンヌやマチスのような色彩を用いた画家を指す。「ポントワーズのエルミタージュ」の特性は、その構築力にある。それはセザンヌに影響を及ぼしたが、この画家はそれをこの作品において微妙な、非物質的な色彩と融合させたのである。
(『絵画論の現在』藤枝晃雄)
正直に言って、私にはピサロとニューマン(Barnett Newman、1905 - 1970)、ステラ(Frank Stella, 1936 - )とが、なかなか結びつきません。この文章を読んでも、うーん、そうかな、という感じです。お読みになって、いかがですか。しかし、それ以外の指摘はよくわかります。カラリストの定義も、勉強になります。マチス(Henri Matisse, 1869 - 1954)も、野獣派などといわれ、派手な色を使うイメージがありますが、意外と渋めの色を使うのがうまい画家です。それにセザンヌ(Paul Cézanne、1839 – 1906)をカラリスト、とはあまり言わないと思いますが、実は私がはじめにセザンヌに魅かれたのは、その色彩です。中学生の頃、難しいことが何も分からずに見た「セザンヌ展」で、もっとも分かりやすかったのが「ヴィクトール・ショケの肖像」のモザイクのような精緻な色彩でした。最近の展覧会でほぼ40年ぶりに見たその絵は、あまりに小さくて唖然としました。イメージの中で、三倍くらいに大きくなっていたのです。
さて、ピサロの話ですが、この本を読むと、この地味な画家にもさまざまな解釈が入り乱れていることがわかります。美術史家ではない私には、それほど興味のない話なので、ピサロの絵そのものに関する部分ばかりを繰り返し読む、ということになります。ただたんに、絵について書かれただけの文章ですから、それほど面白くもないはずなのに、何年か経って、ふと思い出した折に読んだりします。
他の絵の話も、そのうちに書いてみたいと思います。
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