平らな深み、緩やかな時間

126. エミール・ノルデ『描かれざる絵』について

この夏、日本では新型コロナウイルス感染のニュースと政治のごたごたの話ばかりでしたが、アメリカでは警察官による黒人の射殺という痛ましい事件が再び起こって、人種差別の問題が大きなうねりになっているようです。そして少し前の話になりますが、短い夏休みの頃、ピーター・バラカンのラジオ番組で1970年の音楽を特集していました。それを聴いていて、番組で取り上げられた曲のうちの二曲が、現在の状況とリンクしているように思えました。
その二曲について、思いついたことを書いておきます。

●Crosby, Stills, Nash And Young - Ohio
クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングという、長い名前のバンドのことを知ったのは、中学2年の頃だったと思います。1970年といえば私はまだ10歳で、この曲のことを知ったのはそれから4年ぐらい経ってからです。私たちの世代は1960年代の喧騒の時代を、後追いで乗り遅れるように知った世代です。1970年はちょうどビートルズとサイモン&ガーファンクルが解散し、カーペンターズが台頭してきた年で、青臭い私の頭でも何かの区切りのように感じた年でもありました。ウッドストック関連のバンドの音を、ぽつぽつと聴き始めるまでには、現実の年から4、5年、遅れてしまったのです。
1970年5月のケント州立大学銃撃事件について知ったのは、もちろん、この『Ohio』という曲があったからです。米軍によるカンボジアへの爆撃に反対する大規模な抗議活動中に、オハイオ州兵が大学生を銃撃して4人の学生が亡くなった、という事件で、歌の中でもニール・ヤングがそのことを歌っています。(たぶん。)
ピーター・バラカンも言ってましたが、この曲が画期的だったのは、事件からわずか1か月ほどでレコードがリリースされたということです。インターネットの時代の今ならいざ知らず、アナログの時代に、この早さは驚きです。
私のうる憶えですが、ジョン・レノンがこの曲について、音楽はもっと普遍的な内容を目指すべきで、あまりに具体的に過ぎる、と言ったと聞いています。たしかにジョンは、この年に『ジョンの魂』という名盤を作っていて、愛や宗教、階級格差などについて、ポップソングとしてはありえないほどの普遍的な表現で歌っています。それはそれで素晴らしいのですが、私はニール・ヤングの、ときに無邪気だと思えるほどの、率直さも好きです。
この曲を聴いたことがない方は、良かったら次のアドレスから聴いてみてください。
https://www.youtube.com/results?search_query=ohio


●Elton John - Border Song
『人生の壁』という日本題のついたこの有名な曲には、次のような一節があります。

そこに一人の男がいます
彼の(肌の)色を私は気にしません
彼は私の兄弟です
私たちを平和に暮らさせてください

下手な直訳ですみません。
この頃のエルトン・ジョンの歌は、盟友のバーニー・トゥピンが詞を書いています。この曲はやや難解な内容なのですが、この最後の部分はエルトンが書き足した、とインターネットで書かれています。本当でしょうか?いずれにしても、エルトン・ジョンの曲の中でも出色の出来だと思います。
今のエルトン・ジョンはどっしりとした体格ですが、この曲を書いた若い頃の、神経質そうで尖った感じが私は好きです。『Your Song』といい、この『Border Song』といい、若いソング・ライターの二人が才能をふりしぼって曲をひねり出している感じがいいですね。
エルトン・ジョンはこの後、アメリカで大スターになりますが、その成功の反面、何かが失われた感じがします。同じころに全世界で『Alone Again』が大ヒットしたギルバート・オサリバンも、スターになってからの方がつらそうな感じがします。私たちが気軽に聴いているポップソングですが、芸術の成熟にはタイミングがあるようで奥が深いです。ポップソングは商業ビジネスでもありますから、表現者一人の努力だけでは何ともならないこともあるのでしょうね・・・。
次のアドレスですが、レコードの音が聴けるものと、1970年代の若者ファッション風のエルトン・ジョンが精いっぱい歌っているスタジオ・ライブと、2種類の音源を紹介しておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=SdkY1rhLOsg
https://www.youtube.com/watch?v=PKnxbRF-Yjg


さて、今回は新型コロナウイルス感染で自粛している私たちと、すこし状況が似ているのかもしれないエミール・ノルデ(Emil Nolde, 1867 - 1956)の『描かれざる絵』について、考えてみたいと思います。
まずはノルデについてご存知ない方は、インターネットで画像を見てください。ちょっとプリミティブで美しい色彩の絵画がたくさん並んでいることと思います。例えばこんな作品があります。みなさんが良く知っている『最後の晩餐』とあまりにも違っていませんか?
https://www.musey.net/17923
ノルデは大雑把に言えば、ドイツ表現主義として知られた画家です。
いまでは、こうしてインターネットで検索すれば、すぐにノルデの作品を見ることができますが、私が学生の頃は、本物の作品を見る以外は画集や美術雑誌による情報がすべてでした。私は前回の「ナビ派」もそうでしたが、自分にとってちょっとなじみのないものに、何か未知の可能性があるような気がして、それを調べて知りたくなる性癖があります。
ノルデの作品は、美術出版社の画集で見て興味を持ったのですが、そのころの日本ではあまり知られていない画家でした。私はその色彩に魅了されて、お金をためてその画集を買ったのです。それ以外には、ノルデのことを知る機会はありませんでした。
ところが1981年に国立西洋美術館で大規模なノルデの展覧会がありました。私が21歳になる頃のことです。本物の作品を見て、その色彩の見事さに驚きました。とくに水彩画の発色は、画集での図版で見ていた予想を超えるものでした。そのときに、『描かれざる絵』という小さな水彩画のシリーズのことを知りました。後ほどくわしく書きますが、これは第二次世界大戦中、ナチスの弾圧の中で隠れて描いた水彩画のことなのです。
そして2004年に4つの美術館でノルデの展覧会が開催され、私は東京都庭園美術館でその作品を見ました。そのときのチラシに使われた水彩画の画像があります。
https://www.museum.or.jp/event/17553
以上のような状況で、今回は2004年の展覧会のカタログ資料を中心に参照しながら『描かれざる絵』について考えることにしましょう。まずはカタログの「あいさつ」の文章から見ていきます。

1867年に生まれたエミール・ノルデはドイツ表現主義を代表する画家のひとりで、油彩画のみならず、色彩豊かな美しい水彩画や版画においても傑出した才能を発揮しました。その鮮やかな色遣いと大胆な構成には、誰もが目を奪われることでしょう。
デンマークとの国境沿いに広がる低湿地帯に生まれ育ったノルデは、生涯にわたって故郷に特有なその風景を深く愛し、低く平坦な地平線とその上に広がる雄大な空を繰り返し描き続けました。1913年の南洋旅行をはじめ、世界中を訪ね歩いたノルデは、旅先でも多くの作品を制作しましたが、最後に居を構えたのは、やはり生地に近いゼービュルでした。第二次世界大戦中にナチ政権から制作活動を禁じられたノルデが、「描かれざる絵」として知られる、小さな水彩画の数々を生み出したのも、このゼービュルの家でのことでした。
(『エミール・ノルデ展カタログ』「あいさつ」)

この短い紹介文でも、さかんにノルデの色彩の素晴らしさについて語られているのですが、ノルデの色彩のどこがすごいのでしょうか。
絵画における色彩の表現方法は、19世紀から20世紀にかけて、大きく変わりました。
はじめは古典主義的な明暗を基準とした色彩を用いていた画家たちが、ロマン主義の台頭によって色そのものの魅力を引き出すことを、画家たちが考え始めました。やがて印象主義による科学的な点描法が生まれ、絵画の画面は一気に明るくなりました。しかし、それはあくまで自然の光を描く表現方法でしたから、明暗が基準になっていたことには変わりません。ところが、後期印象派と呼ばれた人たちが、そこから色彩そのものの美しさを表現する方法を考えました。その方法は、例えば前回紹介した「ナビ派」の画家たちへと引き継がれたのでした。この時点から、抽象絵画による純粋な色彩表現までは、もうすぐです。
このように美術史的な流れの中で色彩のことを考えてみると、ドイツにいたノルデがどの時代に制作していたのか、あるいはパリで絵を描いていた画家たちの誰と同世代にあたるのか、ということが気になります。ノルデは、なんとボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)とまったくの同じ年です。そしてこの二人を見ると、自然の光によって見える世界をいかに色彩本位の絵画として表現するのか、という課題に挑んだ点において共通したものを感じます。絵のモチーフだけを見ると、身の回りのものをもっぱら描いたボナールと、ときに信仰や民話の世界を描いたノルデでは、まるで違ったタイプの画家に見えますが、色彩表現について抱えていた課題、そしてその技術的な水準という点では、よく似た画家だったのです。
ボナールもノルデも、ベースになっているのはやはり印象派的な光の表現だと思うのですが、彼らはときにそれを越えて、当時としては新しい色彩の世界へと入り込みます。それは「ナビ派」が理論として実現しようとしていた色彩表現に近いのですが、ボナールとノルデはそれを自らの感覚や経験によって実現しようとしたのです。
その方法というのは、具体的にいえば明度以外の色彩の要素、つまり色味(色相)や色の鮮やかさ(彩度)を自由に行き来することによって、生き生きとした形象を表現する方法だったのです。
たとえば、私たちの目の前にオレンジの実が置いてあるとします。その手前の出っ張った部分に光が当たっていて、それが輝きながらこちらに迫ってくるように見えたとします。それを絵画で表現しようとしたときに、古典派においても印象派においても、その光の部分に白や白に近い明るい色を置いてその突出した感じを表現するのです。印象派においては色味を尊重するために、白を混色しないで白とそれ以外の色を点描で置いてみることもあるでしょう。いずれにしても、白によって色の明度を上げることで、光で輝いている部分の突出した感じを描くのです。ところがボナールもノルデも、その輝きを白の代わりに彩度の高い色で表現するのです。つまり色の鮮やかさによって私たちの視覚を刺激して、その部分がこちらに迫ってくるように表現するのです。そのときに優先されるのは色の鮮やかさであって、場合によってそのものの固有食とはかけ離れた色が置かれることもあります。一般的に見えれば、それは何だか変な色なのですが、その場合でも彼らの絵をモノクロの写真に撮って見てみると、意外と写実的な絵に見えるのです。
私は彼らのこの独特の能力を、色彩によるデッサン力だと思っています。もしも私の言っていることがよく理解できない方という方がいらしたら、ボナールと他のナビ派の画家(ヴィヤールは例外とします)、あるいはノルデと他のドイツ表現主義の画家と見比べて見てください。意外とナビ派もドイツ表現主義も形象の表現という点では単純な明度差による色彩表現を用いていますし、そこに彩度の高い色を無理やり使おうとすると形体表現から遊離してしまうのです。
ちょっと話がそれました。今日はノルデの絵画そのものの話ではなくて『描かれざる絵』というシリーズが抱える複雑な事情について、みなさんと共有できれば、と考えているのです。先ほども書いたように、この水彩画のシリーズは、ナチスに制作を禁じられたノルデが、隠れて描いた絵のシリーズです。もしもナチスがアトリエに踏み込んできたときに、油絵具だと匂いですぐにばれてしまいます。それで匂いのない水彩絵の具で、すぐに隠せる小さなサイズの絵を描く必然性があったのです。
さて、ここから話が込み入ってきます。これだけの話ならば、ナチスに弾圧された痛ましい画家の美談で済むのですが、実はノルデとナチスは一時期、近い距離にいたのです。それはノルデの芸術の特徴とも微妙に絡んでくる話なのです。
そのあたりのことが、1981年の展覧会のカタログではそれほど明確に書かれていませんでしたが、2004年のカタログでは『北方の芸術家-ナチ体制下のエミール・ノルデ』という論文が載せられ、はっきりと記述されていました。論文を書かれたのは、このときのノルデ展の最初の会場となった栃木県立美術館の、おそらく学芸員をされていたであろう木村理恵子さんという研究者です。木村はノルデが北ドイツ地方の風景とよくなじみ、ノルデ自身も「最も北方的な芸術家」だと自負していたことを指摘して、次のように書いています。

しかし厄介なのは、ナチによる「北方的」という概念に対しても、ノルデが同調してしまったことだ。それには、1930年代初頭にノルデがナチに称揚されたことも関係していよう。当初はナチに好印象を抱いたとしても無理ないほどに、ノルデの芸術はある時期までナチ側に受け入れられていたのである。
ノルデのナチ政権に対する両義的な立場は、近年のドイツ等における研究でかなり明らかにされてきている。本稿では、そういった研究の成果を踏まえ、ナチ政権下のノルデとその芸術について論じてみたい。
(『北方の芸術家―ナチ体制下のエミール・ノルデ』木村理恵子)

だいぶ話が見えてきました。ノルデの土着的な芸術が「ゲルマン民族」という意識と深くかかわり、「ゲルマン民族」こそが尊い、というナチのプロパガンダと同調してしまったというのです。それがナチ政権下におけるノルデの社会的な地位にもかかわろうとしていたのです。

それ以外にも、ナチ体制の中である程度、ノルデの地位が確保されていた形跡がある。1930年代初頭の段階では、まだ要職に就く可能性さえも残されていた。そのひとつは、1933年に新設された「帝国芸術院」の長官に推薦されたことである(結局はヒトラーの介入で実現には至らなかった)。さらにノルデの自叙伝によれば、文部省から国立芸術学校の校長を打診されたり、アカデミーの教授に招聘されたりしたこともあったようだ(いずれも、統率力がないからとか、創造活動に専念したいからという理由で、ノルデ自身が断っている)。また、ナチ学生同盟は表現主義の芸術家たちの熱心な擁護者であったことが知られている。彼らもノルデを「北方的な」芸術家と見なし、他の芸術家にも増して称揚していたのである。こういった成功の数々がノルデを新ナチに陥らせる要因のひとつとなったとしても、不思議はないだろう。
(『北方の芸術家―ナチ体制下のエミール・ノルデ』木村理恵子)

このような話は、何もノルデ一人に限ったことではなくて、実際にナチ政権下で大学の総長になった哲学者のハイデッガー(Martin Heidegger、1889 - 1976)や、ナチの党大会やベルリン・オリンピックを映画化した映画監督・女優・写真家のレニ・リーフェンシュタール( Leni Riefenstahl、1902 - 2003)のことなどを思い出します。聡明な哲学者や世知にもたけていたであろう映像作家がナチに同調したぐらいですから、素朴な一地方の画家の過ぎないノルデが、ナチの本質を見誤ったとしても仕方ないような気がします。
ところが、ノルデの後ろ盾であったナチの宣伝担当のケッベルス(Paul Joseph Goebbels 、1897 – 1945)が同じくナチの対外政策担当のローゼンベルグ(Alfred Ernst Rosenberg、1893 – 1946)との権力闘争に負けると、ノルデらの表現主義作家への政権の風向きが変わります。ノルデは芸術アカデミーから除名され、作品は没収され、その作品は「頽廃芸術展」で多数展示され、彼の芸術は誹謗中傷にさらされます。そこまで追い込まれても、ノルデは、自分の状況がよくわかっていなかったようです。

しかしノルデは、自身に対する処遇がこのように急転したことを、にわかには信じることができなかった。何かの間違いでないかとさえ考え、政府に誤解されていると思い込んだ。この状況の変化に対して、ショックを隠すことができなかった。
「頽廃芸術展」について、戦後に書かれたノルデの自叙伝には次のようにある。「大勢の人間が『頽廃芸術展』を見に行くように動員され、芸術作品はひどい照明の中で思いつく限りにひどい恥知らずな展示がなされていた。どぎつい赤いビラには悪意のある言葉が並び、作品購入金額がインフレの高騰で極端に高くされて、あちこちに故意に書き込まれ、最悪の中傷に晒されていた」。しかし、同時代的にはまだなおナチへの信頼を失っていなかった。ナチの政治体制に対する認識が甘かったとしか言いようがないが、彼は自分の北方的な芸術がナチ体制下に理解され、自分に対する処遇がすぐにも改善されることを願い、まだその余地があるに違いないと信じていたのである。
(『北方の芸術家―ナチ体制下のエミール・ノルデ』木村理恵子)

さらにノルデは、ケッベルスに処遇改善を懇願する手紙までまでしたためており、今から見ると悲しいほどに愚かでした。しかし、ノルデはこれだけ自分の作品が否定されていたにもかかわらず、自分の作品が正当なものであると主張し、ナチにおもねって作風を変えようとはしませんでした。仮にそれがたんなるノルデの不器用さから生じていたのだとしても、芸術作品は嘘をつかないものだ、とつくづく思います。描いた作者が権力者に泣きつこうとも、その作品は土着的な表現に根付いたまま、変わることがなかったのです。
その後、ノルデは制作禁止令まで出されて、軟禁状態に置かれてしまったといいます。これだけひどい状況下に置かれても、隠れて制作を続けたことは驚きです。
もしもノルデが当初からナチに批判的で、その報いとして制作禁止になり、それでも抵抗して『描かれざる絵』を描いた、というのなら、わかりやすい話です。しかし周囲の状況も、自分の期待もずたずたにされながらも、その作品の内容が変わることなく絵を描き続けたことは、素直にすごいと思います。それは意志の強さというよりも、絵を描き続けることだけが彼を支えていたのではないか、と私には思われます。ノルデからすると、新型コロナウイルス感染の状況下で、外出ができなかったり、人と会えなかったり、などということは何でもないことなのかもしれません。
木村理恵子は、『描かれざる絵』と並行して書き残されたノルデのメモ書きから、彼の印象的な言葉を拾い上げています。それを書き写しておきましょう。

「夜中に目が覚めると、これから人生の悲劇が始まるのか、あるいはもうすでに始まっているのか、と思うことがしばしばある。夜は真っ暗で、昼は悲哀に満ちている」。
「線描、色彩、燃え立つようでいて、鈍く深みのある美しさ。そこに私は存在することができる。それこそが私の栄光の世界であり、また悲劇の世界でもある」。
「夢や空想、幻想の中は、法則や冷静な判断とは全く関係のない世界だ。そこは解放的で素晴らしい場所であり、魅力と熱狂に溢れた領域だ。それは明るく、深く、時に軽い精神体験の中に存在する。夢を見たり、覗いたりできない人には、全く理解できない世界だ」。
「幸いにも以前は次々に意欲が沸き起こり、絵を描かずにはいられなかった。今日では、とにかく何かをしていなければ耐えられないので描いている。それでもまだ背筋を伸ばし、私の小さな絵たち、おまえたちだけには、私の苦悩、痛み、私の蔑みを打ち明けよう」。
(『北方の芸術家―ナチ体制下のエミール・ノルデ』木村理恵子)

このなかで、とくに私が共感できるのは「とにかく何かしていなければ耐えられないので描いている」という一節です。ある意味では、これは究極のエゴイズムではないでしょうか。自分の精神が生き延びるためだけに絵を描くということは、まさに日々の私がなしていることですし、私にとってはこのblogの文章も同じです。それが単なるエゴイズムで終わるのか、それとも実り豊かな芸術になるのか…、それはその作品の質と内容による、としか言いようがありません。そこには、厳しく、そして芸術家にとっては残酷な審判があるのだろうと思います。私自身の審判はすでに下されおり、そこには何の希望も見出せませんが、一方のノルデは戦争終結後、『描かれざる絵』をもとにして多くの油彩画を制作し、その旺盛な制作活動が報われることになります。
しかし、ノルデの紆余曲折のあった芸術活動は、結局のところ答えのない複雑な問いだけを残したように思います。思想家であれ、芸術家であれ、時に判断を誤り、時に多くの人を傷つけることに加担してしまうという現実があります。そのことを簡単に断罪しても何も解決しませんし、かといって何事もなかったことにはできません。私たちは苦い記憶と素晴らしい思想や芸術との両方を抱きながら悩み続けるしかないのです。
木村理恵子の、この素晴らしい論文の最後は、ちょっときれいに終わりすぎたのかもしれません。それを次に書き写しておきましょう。

ノルデにとっての「北方的」とは何だったのであろうか。彼の政治的な言説よりも、芸術の方がより雄弁にその答えを語っているように思われる。色彩と幻想の響き合う美の世界こそが、彼が北方的という言葉で表現しようとした芸術世界ではなかっただろうか。それは、ドイツ・ロマン主義以降の伝統につながる、豊かな精神性と魂によって生み出された芸術の世界であった。
亡くなるまで生まれた故郷を愛し続けたノルデの芸術作品は、今もなお故郷の一角に位置する北ドイツのゼービュルの家に遺されている。故郷に自身の芸術の安住の地を得ることこそが、ノルデ自身の希望であった。
(『北方の芸術家―ナチ体制下のエミール・ノルデ』木村理恵子)


さて、ここまで2004年までの資料をもとに、ノルデの『描かれざる絵』についてまとめてみました。しかし、その後もノルデについての研究が進み、さらに苦い記憶が発見されたようです。
その研究の成果は、2019年春のベルリンで開催された「エミール・ノルデ - ドイツのある聖人物語。ナチ政権下の芸術家」という展覧会のときに、ドイツ国内でかなりの話題になったようです。ノルデが一時的にナチに近い関係にあったことはそれまでも知られていましたが、それがもっと深い関係であったことがわかってきたのだそうです。そのことによって、全般的に見ればナチ政権下の犠牲者として認識されていたノルデの位置が、危ういものとなってきたようです。私はインターネットでこの情報を得ましたが、複数の記事が同じ展覧会のことを伝えているので、この事実は間違いないと思われます。
それによると、ノルデがケッベルスに地位回復を懇願したことは木村理恵子の論文にも書いてありましたが、そこでノルデは自分が反ユダヤ主義であることを強くアピールしていたことがわかり、その差別主義的な考え方が明らかになりました。また、「頽廃芸術展」では意外とノルデの絵が売れていたそうで、ノルデが自叙伝に書いていたような惨めな状況ではなかった、ということです。そして、ノルデはナチの監視下に置かれて職業画家としての活動は差し止められていたものの、制作することまで禁止されていたわけではなかった、ということが書かれています。くわしくは次のアドレスで記事を確認してみてください。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/woman/2019/05/post-175_1.php
私は厳密な文献に当たったわけではないので、それまでわかっていたことと、最近の研究で明らかになったこととの間にどれほどの落差があったのか、くわしいことはわかりません。これを読んだかぎりでは、2004年の木村の論文の延長上にあることばかりのような気もしますし、もしもノルデが戦時下において絵の制作をみとめられていたのなら、油絵制作を避けた理由がわからなくなる、という疑問点も残ります。
しかし、少なくとも2019年の展覧会がきっかけになり、ドイツではノルデとナチとの関係があらためて話題になり、メルケル首相が飾ってあったノルデの絵を壁から外してしまった、というようなことも書いてあります。もしかすると、新たにわかった事実よりもインターネットの普及によって人間の倫理観がより厳しく問われる風潮になった、ということの方が影響しているのかもしれません。今の時代にあっては作品と作者とは別なものだ、という考え方は通用しないのかもしれません。作品にまつわる苦い記憶との向き合い方が変化した、ということも十分に考えられるでしょう。

ここで私はドイツの小説家ギュンター・グラス(Günter Grass, 1927 - 2015)のことを思い出しました。
私はグラスの代表作『ブリキの太鼓』(1959)を小説ではなく、1979年に映画化された作品で見たのですが、これはとても奇妙な話です。幼児の時に身体の成長を止めた異能の少年の目を通して、ナチスの時代を描いた話なのですが、作者であるグラスは1999年にノーベル文学賞を受賞しています。
政治的な発言も多かったグラスですが、2006年に突然、自伝的作品『玉ねぎの皮をむきながら』の中で、自分がナチスの親衛隊であった過去を明かしました。そのことは日本の新聞でも取り上げられていたので、私のような者でもリアルタイムでそれを知ることができました。ドイツ人ではない私には、信頼のおける作家が少年の頃にナチスの親衛隊であったということがどれほどの衝撃であったのか、あるいは、なぜグラスが78歳まで隠していた事実を突然に明かしたのか等々、分からないことが多く、自分なりの感想を持つことができませんでした。
ただ私は、ドイツではいまだにそういう事実が重く受け止められ、作家の告白が意味を持って読まれているということに、日本との違いを感じました。この過去との向き合い方、反省の仕方の相違は、いったい何なのでしょうか。
それと関連して、ノルデの問題と、日本の画家たちの戦争画の問題と、つながるようでいて実感としてはあまりうまくつながらないことに気が付きました。それは日本の戦争画とノルデの絵画とではあまりにも芸術作品としての水準が違いすぎる、ということがあります。それから、日本の画家が戦争にどうかかわり、どう加担したのか、ということについて、私たちの認識はあまりにあいまいだということも要因の一つです。
話が少し飛びますが、そこで意表を突かれたのが、カズオ・イシグロ(Sir Kazuo Ishiguro、1954 - )の小説『浮世の画家』(1986)のテレビドラマ化(2019)でした。この小説は、「第二次世界大戦後の日本を舞台に、戦中に時局に乗じて日本精神を鼓舞する画題を描き名声を成した画家が、戦後の急激な価値転換の中で自身の信念と新たな価値観との間で精神的拠りどころを求めて苦悩する姿を描く」(Wikipedia)というものですが、その主人公を演じた渡辺謙の重厚な演技を見ながら、これはどこの国の画家の話だろう、と思わずつぶやいてしまいました。有名な戦争画を描きながら、芸術系大学の教授、名誉教授になり、あるいは団体展の重鎮になって幸福な人生を全うした画家が数多くいて、私ぐらいの世代になるとそのことを後追いで知るだけ、という国において、渡辺謙の演じた主人公がどこかにいるのだろうか、といぶかしく思ったのです。
それにあり得ないことですが、もしも日本の首相が戦争に加担した画家の作品を壁から外した、などということがあったら、日本の世論はどのように反応するのでしょうか。

考えがまとまらず、話が散ってしまってすみません。もともとは新型コロナウイルス感染のいまの状況と、ノルデの戦時下での制作のことを考えて書きはじめたのですが、私の手に負えないぐらい状況は複雑で、一筋縄ではいかないことが分かりました。
こういうことを考えるときに、私自身がノルデのような、あるいは「浮世の画家」のような立場にあったらどのように行動するのか、と考えてしまいます。小心者で正義感に薄く、世情に流されやすい私が立派な行動をとれるとはとても思えませんが、たとえ戦時下でなくても「とにかく何かしていなければ耐えられないので描いている」という自分に嘘はなさそうです。時代を越えた仮定の話はさておいて、とにかくいまの新型コロナウイルス感染の状況下においては、何かを描き、何かを書くことで何とか生きている、ということを続けるしかありません。
もしも同じように感じていらっしゃる方がいたら、おこがましいのですが、一緒に何とか生き伸びましょう。

 
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