平らな深み、緩やかな時間

79.国立新美術館開館10周年 『ジャコメッティ展』

『ジャコメッティ展』を見に、国立新美術館に行ってきました。
ようやく夏休みが取れた日の午後、六本木の美術館まで行ってみると、平日だったせいか、中は混雑しているというほどではありませんでしたが、会場内から静かな熱気を感じました。みなさん、熱心に作品を見ているのです。いくつかの部屋を行ったり来たりしている方も、何人かいました。国立新美術館の企画展示だけあって、さすがに内容は充実していました。ジャコメッティの作品に、見る人の熱意を誘う力があったのかもしれません。

ジャコメッティ(Alberto Giacometti, 1901 - 1966)の展覧会が、日本では珍しいかと言えばそうでもない、と思っていました。しかしもっとも記憶に新しいところで神奈川県立美術館葉山館を皮切りに『アルベルト・ジャコメッティ展』が開催されたのが2006年です。もう10年以上前のことになりますね。私ぐらいの年齢になると10年くらいなら少し以前、という感じですが、若い方からすれば、今回初めて本格的にジャコメッティを見る、とか、若いころに見たジャコメッティの記憶を久々に確認してみる、という感じなのかもしれませんね。
ところで、私がはじめてジャコメッティの作品をまとめて見たのは、1973年の西武美術館での展覧会です。当時、中学2年生で西武線沿線に住んでいた私は、たぶん美術の教師のすすめで池袋の西武デパートまで見に行ったのだと思います。もちろん、ジャコメッティがどんな芸術家なのかもわからずに見に行ったのですが、針金のような細い形がちゃんと人や犬に見えたことを記憶しています。今回も出品されている犬の作品が、(たぶん、そのときの展覧会のポスターに使われていたと思うのですが)やけにリアルに犬らしく見えました。そのことが作品を見る糸口になったのだと思います。
なぜ、こんな古い話を思い出したのかと言えば、実は今回の展覧会のカタログのテキストに、つぎのような一文があったからです。

彫刻家の若林奮は、1973年に西武美術館で開かれたジャコメッティ展を訪れ、その感想を次のように記している。「多くの作品の中からいくつかの彫刻を見たときに、自分にはっきりその細部まで見る事が出来ないものがあるのに気がついた。特にブロンズの表に彩色したものがあった。[・・・]その垂直に立ち色とも思えぬ様な色で彩色された人体に特に、その他の立像にも、夫々の度合いでしばらく見ていると、物の全体が見えるのではなくて、色ともいえぬわずかな特有の色だけが見えているのであった。それは固定したブロンズに、又別の時間を通過させつつある様である。」ジャコメッティと同様、ラスコーをはじめとする先史時代の洞窟壁画に魅せられていた若林が、彫刻作品の彩色に注目した点は興味深い。
(「時間をほどく線-ジャコメッティのデッサン」横山由季子/『ジャコメッティ展』カタログより)

なんと、はるか昔に見たジャコメッティの展覧会について、あの若林奮が文章を書いていたのですね。テキスト内の引用は、1973年の『三彩』という雑誌に掲載された若林自身のエッセイのようです。もちろん、当時の私は若林奮のことなど知らないし、ブロンズに彩色してあったことにも気づく由もありません。ましてやそこに、「又別の時間を通過させつつある」などと感じるはずもなく、美術作品にいわゆるムーヴメント(動勢)として見て取れる要素以外に「時間」性が存在することに思い至ったのは、ずっと後の美術大学に入ってからでした。
これは大事なことなので、またあとで触れることにしましょう。

さて、ジャコメッティという芸術家について書き出すと長くなってしまうので、基本的なことは省略します。一般的な情報については、Wikipediaなどで調べていただくことをお勧めします。Wikipediaには、彼がスイスの田舎で生まれたことや、画家であった父親ジョヴァンニのこと、彼の協力者で家具製作者でもあった弟ディエゴのこと、シュルレアリスム運動との関係、その後針金のような彫刻に至ったこと、哲学者のサルトルに高く評価されたこと、晩年にヴェネツィア・ビエンナーレ(1956年)で国際的にも有名になったことなどが要領よくまとめられています。ちなみに、父ジョヴァンニはスイスでは著名な画家で、印象派の影響を受けたフランス以外の近代画家として紹介されることがあり、私も何回か本物の作品を見たことがあります。また、私の好きなアーダルベルト・シュティフターというドイツの作家の代表作、『晩夏 (ちくま文庫 上・下)』という本のカバーにジョヴァンニの絵が使われています。上下二冊に別な絵が装幀されていますが、二点ともとても良い絵です。残念ながらこの本は新刊では入手できない状況のようですが、中身の小説も雄大でとても気持ちの良い作品なので、ぜひ復刊してほしいところです。Amazonで調べてみると、カバーの図版だけなら簡単に見ることが出来ます。

ちょっと脱線しました。
今回の展覧会ですが、南フランスにあるマーグ財団美術館のコレクションを豊富にそろえたことが注目されます。中でもヴェネツィア・ビエンナーレでも展示した「ヴェネツィアの女」のシリーズで1室、ニューヨークのチェース・マンハッタン銀行のためのプロジェクトとして作られた大作3点で1室、という後半の展示室が目玉です。チェース・マンハッタン銀行のプロジェクトの3点は、その部屋だけ写真撮影が許されているようなので、記念撮影も出来ます。私は彫像の後姿を撮影しました。
少し気になったのが、「ヴェネツィアの女」の作品群が、大きな三角形の台座に同じ向きで整然と並べられていたことです。この作品群は、一点の作品に徹底して手を入れたジャコメッティには珍しく、制作途上で出来上がったものを石膏取りして形に残し、次にまたもとの塑像に手を入れて再度石膏取りをして・・・、というやり方で10点以上の女性像を残したものです。「そのうち10点は、ヴェネツィア・ビエンナーレに《進行中の仕事》と名付けられたコンポジションとして出品され、残りの5点はベルン美術館に《人物像Ⅰ‐Ⅴ》のタイトルで展示された」(『ジャコメッティ展』カタログ解説より)ということなのですが、これらの石膏像から9点がのちにブロンズ像として制作され、それが今回展示されている、ということのようです。このヴェネツィア・ビエンナーレで「コンポジションとして出品され」という点なのですが、今回のように整然とひとつの台の上に並べられたのでしょうか。私にはこの展示がジャコメッティの作品にはやや不似合いな、モニュメントとして完成された作品群として見えてしまって、当惑してしまいました。もしもヴェネツィア・ビエンナーレでも今回のような展示のされ方をしたのだとしても、ブロンズ像ではなくて石膏像だったのなら、すこし印象が変わっていたのかもしれませんね。私が確認できるこのときのヴェネツィア・ビエンナーレの展示写真では、残念ながらこれらの作品群が写っていないのですが、それ以外の作品の展示を見ると、意外と作品間の距離がせまくて作品の量が多い感じがします。現在とは時代が違うので、展示の感覚も異なるのかもしれませんが、もしかするとジャコメッティは展示の仕方が上手ではなかったのかもしれません。それにどういう展示であれ、ジャコメッティが「進行中の仕事」と名付けたのなら、作品群全体がモニュメントとして完成されたものとして見えることを、彼は意図しなかったことでしょう。ですから、今回の展示に関しても、もう少し個々の作品の中に分け入って見るような置き方にしてほしかったなぁ、というのが私の感想です。

つぎに、さらにジャコメッティという芸術家の本質に関わることについて、話題にしておきましょう。
それは、このようなジャコメッティの回顧展となると、避けて通れないのが彼の初期の作品と後期の作品との関係や評価を、どう考えるのか、という問題です。今回も初期のキュビズムやシュルレアリスムの影響を受けた時代の作品(数は多くなかったものの)から、具象的な小像を経て後期の作品へと移行していく過程がしっかりと示されていました。
今回、初期の作品で印象に残ったのが、『キューブ』という幾何形体のような彫像です。何とも言えないいい形で、見ていて飽きません。それから檻のような枠組みから頭部をつりさげた『鼻』は、彫刻のさまざまな可能性を示唆していて、やはりとても面白い。今回、出品されていない『吊り下げられた球』という有名な作品からつながる作品でもあります。
これらの時期の作品をどう考えるのか、実はこのblogでも二年近く前にその議論を取り上げたことがあります。ぜひ、次のページを読んでみてください。

『松浦寿夫「同時偏在性の魔」から、ジャコメッティを考える』(2015/9/19)
http://blog.ap.teacup.com/applet/tairanahukami/archive?b=19

このように、ジャコメッティの評価を通じて、論じる者の立場も入り組んでくる状況について、今回の展覧会のカタログの中でも取り上げられています。「ジャコメッティを語ること。-可能性としての空虚/空間について。」(千葉真智子)という論文です。ロザリンド・クラウスの「ノー・モア・プレイ」について、次のように紹介しています。

一方、ジャコメッティのシュルレアリスム時代の作品群を担ぎ出して、フランスの思想史に巧みに依拠しながら、モダニズム美術史観を転覆させるという力技を発揮したのがロザリンド・E・クラウスであった。1983年に発表された論文「ノー・モア・プレイ」が如何に新鮮であったことか。フランス印象主義から戦後アメリカの抽象表現主義に至る、クレメント・グリーンバーグに端を発するモダニズムの言説においては、絵画が絵画固有の「視覚的」イリュージョンを如何に発動させるかが重要な判断基準であり、そのために作品は、常に、見る者との間に距離を置いて垂直に起立している必要があった。これに対して、ポストモダニズムの言説空間で覇権を獲得すべくクラウスが掲げたのが、「別の判断基準」となる、垂直軸を転倒させた「水平性」であった。
(「ジャコメッティを語ること。-可能性としての空虚/空間について。」千葉真智子/『ジャコメッティ展』カタログより)

今回の展覧会では、残念ながら問題となっているジャコメッティの『ノー・モア・プレイ』は出品されていませんが、悩ましいのは先ほども書いたように、初期のジャコメッティの作品が、彫刻のさまざまな可能性を示唆していてとても面白い、ということです。通常の作家のように、初期の作品は後期の作品のための準備段階であった、と簡単に言えないところが、ジャコメッティを論じることのポイントになりつつあります。この論文でも、こう書かれています。

こうして簡単に挙げてみただけでも、ジャコメッティの作品が、如何にそれぞれの思惑と結びつきながら、有効な言葉を提供してきたのかが分かるのではないだろうか。しかし、このことは翻って、ジャコメッティについて新たなことを語ることの難しさを物語ってもいよう。「見えるものを見えるままに」表した戦後の彫像作品=実存主義・現象学/モダニズムを転倒させる力を秘めたシュルレアリスム時代の作品=バタイユ的アンフォルム。このあまりに対照的な言葉を尽くすことができるだろうか。こうしたなかで必然として生まれるのが、相反するふたつの言説をどうにか接続できないものかという、素朴と言ってもいい願望であろう。
(「ジャコメッティを語ること。-可能性としての空虚/空間について。」千葉真智子/『ジャコメッティ展』カタログより)

この「相反するふたつの言説をどうにか接続できないものかという、素朴と言ってもいい願望」が、この論文においてどう決着するのでしょうか。この大きな問題を論じるには、展覧会のカタログという、おそらくはページ数にも限度があろう文章では、ちょっと厳しかったのではないでしょうか。論者はジャコメッティが初期から後期に通じて、彫刻の「空間」を問題としてきた作家であることを示したうえで、次のように結びます。

「見えるものを見えるままに」とは、言うまでもなく「写実」という問題を超えている。後にサルトルが「古典主義の反対に立って、ジャコメッティは彫像たちに、部分のない、想像上の空間を回復した。一気に相対性をうけいれて、絶対を発見したのだ」と述べたように、またジャコメッティ自身が「空間を現実に存在するものとして作られる彫刻は、すべてインチキだ。空間の錯覚があるのみ」と述べたように、ジャコメッティにとって、彫刻とは空間を創造することであり、それはここに挙げた初期作品において、別の形を取りながらも一貫して実践されたことだったのだろう。
(「ジャコメッティを語ること。-可能性としての空虚/空間について。」千葉真智子/『ジャコメッティ展』カタログより)

この結論に何も反論はありませんが、ジャコメッティに限らず、優れた彫刻家のほとんどが彫刻としての「空間」を創造してきたことを考えると、あまり決定的なこたえになっていないように感じます。ジャコメッティがどのように空間を創造したのか、その仕方に分け入っていってもジャコメッティの初期と後期を接続できるのか、それが今後の問題なのだろうと思います。さらに本格的な論文を期待したいところです。

ところでこの展覧会では、先ほども書いたように、「ヴェネツィアの女」のシリーズで1室、チェース・マンハッタン銀行のためのプロジェクトで1室、という後半の部屋が大きな目玉であったのですが、これらの部屋の作品を思う存分に堪能しようと思うものの、なかなかうまく作品の世界に入っていけない自分を感じてしまいました。そのひとつの理由として、「ヴェネツィアの女」の展示の方法について私なりの感想を書きました。しかしそれ以外に、ジャコメッティの作品は大きくなればなるほど、作品自体がモニュメントとしての迫力を持ってしまい、それがジャコメッティの作品が持つ魅力の一部を減じてしまっているのではないか、ということに思いあたりました。これはいったい、どういうことでしょうか。
ジャコメッティの作品は、いろんな意味で「時間」とともにある、と私は思います。それは彫刻作品においても、絵画作品においても共通しています。とくにデッサンについての「時間」性について、さきに紹介したこのカタログの論文「時間をほどく線-ジャコメッティのデッサン」では、こう書かれています。

過去の芸術作品の模写を通じて鍛えられたジャコメッティのまなざしは、現実を前に、特異なヴィジョンを獲得する。そしてモデルを前にした写生においても、そのデッサンは時間の空間化ともいうべき特徴を備えているように思われる。その時間は単線的に流れるものではなく、細かく切断された、非連続的なものであった。
(「時間をほどく線-ジャコメッティのデッサン」横山由季子/『ジャコメッティ展』カタログより)

このデッサンにおける「時間の空間化」とは、「対象の輪郭を1本の線で描くことは決してなく、何本もの細やかな線を、わずかに位置をずらしながら、幾重にも重ねている」ことで達成されていきます。それが塑像においては、針金のような形の芯にはりついた粘土のタッチに置き換わっているのでしょう。私たちはジャコメッティが何度も手を入れて形を確かめた痕跡を、作品を見ることで追体験していくのです。さらにそれがブロンズ像となったときに、さきに若林奮が注目した彩色という方法になるのでしょう。「それは固定したブロンズに、又別の時間を通過させつつある様である」というのは、モニュメントとして固まってしまう作品に対して、生き生きとした制作の「時間」を付与するための方法だったのだと思います。そういえば、チェース・マンハッタン銀行のためのプロジェクトの部屋の彫像には、いずれも彩色が施されていました。それは広い部屋に堂々と置かれ彫像が、モニュメントとしてそびえ立ってしまうことに抗っているようにも見えます。一番大きな『大きな女性立像Ⅱ』を見たときに、私は『法隆寺・百済観音像(木造観音菩薩立像)』(7世紀前半)を思い起こしました。ヨーロッパの彫像のように力強くではなく、ひょろっと自然に立っているような、そんな感じがするのです。それでも小ぶりの彫像に比べると、ジャコメッティの制作の実感が少し薄らいでしまっているように感じました。
例えばカタログには『大きな女性立像Ⅱ』の石膏像が、雑然としたアトリエに置かれた写真が掲載されていますが、ジャコメッティの作品は創作現場に置かれたときに、もっとも生き生きとして見えるのかもしれない、とふと思いました。展覧会場では、ジャコメッティの制作する様子を撮影した映像が流されていましたが、所狭し、と作品が置かれたアトリエを見ると、あぁ、あの部屋に行ってみたいと思いました。彫刻作品をどのように展示したらよいのか、とくにジャコメッティの作品においてはどのように見せることが作品の意志に沿うことになるのか、むずかしい問題だと思います。私自身、何か答えを持っているわけではありません。それどころか、ジャコメッティの作品を見ると、もっと深く理解したい、という思いにばかり駆られます。

いろいろと書きましたが、とにかく本物の作品をみることが重要なので、展覧会場に足を運んでみてください。理屈っぽいことを考えなくても、作品の変化を素直に見て取っていけば、こんなに楽しい見世物(?)はないと思います。

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