平らな深み、緩やかな時間

55.「大きな物語の終焉」を経て

2015年を迎えました。
この年齢になると、いまさら年を越したからどうのこうの・・・とは思いませんが、漠然と最近、考えていることを、まとまらないままに書いてみたいと思います。

さて、表題についてですが、思い返すと私の学生時代から、あるいはそれ以前から「大きな物語の終焉」ということが言われていたように思います。それはモダニズムという時代の終焉と、ほぼ同義の言葉だと言っていいでしょう。わかりやすく言えば、右肩上がりに文明が発展していくようなイメージを持てた時代が終わった、ということです。哲学や現代思想にくわしい方から言わせれば、そんな簡単なことではないのでしょうが、あえて身近なことで考えてみましょう。たとえば、私たちの暮らしの利便性を高めるさまざまな工夫が一方で環境汚染をもたらす、あるいは私たちの富を大きくする資本主義経済が逆に貧富の差を生んでしまう、などということです。このまま私たちの文明が発展していく、という大きな物語には負の側面が伴うことを、私たちは知ってしまいました。今、そのまま「大きな物語」を突き進めていけばいい、と言うことは欺瞞にすぎません。(どこかの政治家が、「経済的な発展しかない」「この道しかない」と選挙で連呼していましたが・・・・)
美術の世界のことで考えてみましょう。美術の世界、というか芸術の世界では、「芸術」という概念そのものの終焉、あるいはそれまで芸術だと思われていたものの否定や批判がありました。それはその時代の話の方向性から言って、避けられないことだったと思います。しかしそれでは、それに対して何かが始まった、という予感があったのでしょうか。そのようなものはほとんどなかったし、あったとしても微弱なものでした。当然の話です。これまでのように「○○イズムの時代が終わった。でも、それよりも、さらにすばらしい(次の)××イズムが始まった。」というような、大きな物語が終わったと言っているわけです。かんたんに新しい何かが始まるわけがないのです。
けれども美術の世界には、そういったこととは別の次元で、商業的な価値として作品を捉える見方があります。美術作品の商取引で生きている人たちからすれば、作品の流通を途絶えさせるわけにはいきません。何か(の流行)が終わった後には、何か(の流行)を始めなければ、新しい商品は生まれません。ファッションの世界で言えば、冬のモードが終われば、次に春のモードを売り出すように、目新しい何かが必要なのです。かくして、ポストモダンの名のもとに、様々な時代の様式を折衷した作品が生産され、流通していきました。私の目から見ると、この頃から美術批評の混乱に拍車がかかり、批評的に作品を語ること自体が空しくなってしまったように思います。そもそもポストモダンの思想と、ポストモダンと称される美術作品との間にどのような関連があったのでしょうか?私にはいまだによくわかりません。そのことを理論的に説明できる評論は、ほとんどなかったと思います。
私自身もいつしか、そんなことを真剣に考えなくなってしまいました。個人的にも、仕事がきつくて時間がない中で、わけのわからない美術界の状況をあれこれ詮索する余裕などなかったのです。「自分は何を表現したいのだろう?」「何をどんなふうに描けば悔いが残らないのか?」周囲の状況とはかかわりなく、そんな考え方をするようになりました。基本的に、それは今も変わりません。
ところが、この年になってあらためて周囲を見渡すと、ポストモダンの時代を冷静に振り返る状況が、ぽつぽつと見られるようになりました。そしてポストモダンの時代にはあまり顧みられることがなかったカントやヘーゲル、ハイデッガーといった思想家たちに関する解説書が、私の視野にも入ってくるようになりました。哲学を専門的に研究している人たちから見れば、それほどの変化ではないのかもしれません。しかし私のような門外漢からすると、彼らの思想にふれるには、わかりやすい解説書や翻訳が出版されていることが必須です。巷で少しずつそのような本が出回るようになった昨今、やっと私の視野に彼らが入ってくるようになったのです。
彼ら(ハイデッガーはすこし別にしても)は、「大きな物語」の時代を形成していった人たちだと言えるでしょう。現代とは異なる時代に生きた人たちだから、彼らの思想に触れるときには、自ずとそのことをふまえて、批判的な読み方を忘れないようにすることが必要だと思います。しかし、「大きな物語の終焉」を経たいまだからこそ、彼らのことを知る必要があるのではないか、とそんな気がしています。いまは新しい価値観を見いだすのが困難な時代ですが、だからといってそれまでの価値観の「終焉」ばかりを語っていても仕方がありません。過去に形成されたものを深く知ることで、いままで見過ごしていたことが見えてくる、ということもあるでしょう。そもそも私などは、見過ごすほどにもそれまでの哲学や思想について知りません。この年になって勉強していったとしても、どこまで進めるのかわかりません。しかし自分の目で何か納得するものをつかみたい、と願っているこのごろです。

何だか、抽象的なことを書きましたので、少し具体的なものについても書いておきます。
今回は美術の話ではなくて、たまたま正月休みに読んだ、「さよなら、愛しい人」(レイモンド チャンドラー・著、 村上 春樹・翻訳)という本についてです。私立探偵のフィリップ・マーロウが登場するシリーズものの有名な小説ですが、村上訳で読むのは今回が初めてです。とても面白かったし、こういう小説についてあれこれ理屈をこねない方がよいと思うのですが、ちょっと気になることがありました。というのは、本の末尾の解説によると、チャンドラーは「パルプ小説」といわれる、読み捨てられることを前提としたような短編小説をいくつも書いていたそうです。そして長編小説を書くときに、その中身を組み合わせて使い回しをしていたとのことです。結果的にそれが長編小説としてのストーリーのほころびになってしまうこともあったようですが、一方で傑作小説を生み出していたことも確かです。
この作り方がちょっと面白いと思いませんか?
チャンドラーの小説を読むと、ひとつひとつの場面ごとに山場があり、読んでいて楽しめるものになっています。それは小説家として巧みであったということなのでしょうが、それとは別に、ひとつひとつの場面がもともと一編の短編小説であったとするなら、それらが独立して楽しめるということも肯ける話です。つまり小説そのものが、部分的にも楽しめるような構造に必然的になっていた、ということなのです。
さきほどの話にもどりますが、小説の世界でも「大きな物語の終焉」ということが言われた時代があり、ミニマルな小説、大きな物語のうねりがない日常的なことを淡々と語る小説や、断片的な言葉の遊びのような小説が書かれました。村上春樹が作品集を編訳したレイモンド・カーヴァーは、ミニマルな小説の代表的な作家だと言えるでしょう。初期の村上春樹の作品には、その影響が見られるような気がします。しかし、村上春樹が徐々に物語性を帯びてきたように、その後の小説の世界は大きな物語を取り戻していったように思います。ただし、一度「大きな物語の終焉」を経験した後に書かれたものには、どこかでその物語性を相対化するような視線が秘められている、という気もします。
ところが、そんな前衛的な小説の世界とは縁がなさそうな、50年以上前に亡くなったハードボイルド作家の小説の構造に、大きな物語を相対化するような構造があったとするなら、これはちょっと面白い話ではないでしょうか。一見すると破綻含みの、大衆的なミステリー小説に見えながら、その構造には部分部分を主体とする物語の構造があったわけです。チャンドラーにとっては、小説を書き上げるための苦肉の策だったのかもしれませんが、「大きな物語の終焉」を経験した現在からみると、また別の見方ができるのではないでしょうか。

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