休日に鎌倉の神奈川県立近代美術館まで行ってきました。開催していた展覧会は「麻生三郎の装幀・挿画展」です。
(http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2014/aso/index.html#detail)
麻生三郎(1913-2000)は好きな画家ですが、作品を見ると戸惑いを覚える画家でもあります。
今回の展覧会では、麻生の描いた本の装丁画や挿絵の原画が展示されていましたが、油絵も数点、展示されていました。なぜ、私が麻生三郎に「戸惑いを覚える」のか、油絵を例にとって説明してみましょう。
うる覚えですが、今回の展示では油絵が二か所に分かれて展示されていました。戦後間もない1950年頃までの比較的小さな肖像画、自画像など3点が入り口近くの壁面に展示され、その反対側の壁面に後年の作品、いわゆる麻生三郎の独自のスタイルが確立された後の作品が展示されていました。
戦後の肖像画は、明度の低い色調や独特の色づかいが後年の作品を彷彿とさせるものの、人物の表現は明確で、写実的とまでは言えないけれども、ドキリとするようなリアリティを感じさせる作品です。眼光の鋭さや肌のなまめかしさが麻生作品の何とも言えない魅力ですが、なぜ、こんなふうに描くことができるのか、私にはいまだによくわかりません。
一方、後年の作品群は明度の低いグレーの色調の中で、よく見ると画面の中から人物の顔や姿が見えてきます。色もただのグレーではなくて、赤や青などの彩度の高い色が滲みのように見えてきます。それが画面のそこここに散らばっていて、なぜか痛々しい感じがします。まるでささくれだった傷口のような感じがするからでしょうか。それが、麻生が画面に触れたときのリアリティを表現しているようで、不思議な魅力にもなっています。
しかし、なぜ麻生の作品はそのように変わっていったのでしょうか。
麻生の後年の作品は、暗いグレーを色彩の基調とすることで、画面の平面性が強調されています。それは第二次世界大戦後の現代美術の動向、ヨーロッパのアンフォルメルやアメリカの抽象表現主義の絵画の平面性と、共通するものがあります。麻生が具象画家でありながらも現代美術の中で確固とした地位を占めているのは、その画面の革新性によるところが大きいのではないでしょうか。画家自身がその共通性にどこまで自覚的であったのかはわかりませんが、時代が要請する絵画の革新に反応したことは確かでしょう。
ところが、この暗い色調の画面から垣間見えるような麻生独特のリアリティが、私を戸惑わせます。なぜなら、そこに初期の肖像画のなまめかしさを考え合わせたときに、もっとストレートに、あるいはクリアーに麻生の感受していたリアリティを表現できる方法がなかったのだろうか、と考えてしまうのです。例えばもっと画面を明るくして、色や形を明快にすると、その平面性は損なわれるのかもしれません。ましてや麻生のように具象的な形体を描いていれば、色や形を明確にすればするほど旧套的な奥行きの画面へと退行していくことでしょう。しかし、暗い色調の中で、いわば微妙な手触りだけで表現しているような画面を見ると、その以前のなまめかしいまでのリアリティが減退してしまったようで、何とももどかしい気分になってしまうのです。おそらく画家は、狭い通路のような一筋の道に身を置いて、神経を削りながら誠実に仕事をしていたのでしょう。その緊張感が私のような凡人には少し息苦しくもあり、もっと伸びやかなところでこの画家に表現してもらいたい気がするのです。
さて、今回の展覧会ですが、装幀や挿絵の原画ということで、デッサンや水彩画がほとんどでした。そこには、油絵の作品とは異なる麻生作品の魅力がありました。
油絵に比べると絵の具の層が薄いこともあり、水彩画の色彩は明快です。また墨を使ったデッサンは、野太い形をのびのびと表現していました。どれも小さな画面という枠の中で、即興性が重視されていたように思います。また、油絵のようなタブローと違って、本という媒体が画家にわかりやすさ、明快さを要求していたのかもしれません。それらのさまざまな条件が、ふだん、じりじりと自分を痛めるような表現をする画家を、ちがった場所へと連れ出したように見えました。
とにかく、予想以上の見ごたえがあって、うれしい誤算でした。
それからおそらく、多くの人を魅了したのが、麻生三郎の文学性ではないでしょうか。展示された装幀画や挿絵は、必ずしもその本の内容をなぞるものではありません。本の内容が表現するものを麻生自身が受け止めて、それを直接の関連がない風景画などで表現し直しているものもあるのです。そこに画家としてだけではなく、人間としてのスケールの大きさを感じ取ることもできるでしょう。
ただ私は、そこまでこの展覧会を楽しんでおきながら、また別なことを考えてしまいました。
この麻生三郎の感受性の高さ、それが麻生作品の独特の味わいを生んでいるのかもしれません。実際のところ、麻生は一本の線、ひとつの絵の具の染みが、画面上で様になってしまう画家です。おそらく彼は、自分の絵画が構造上どういう成り立ちをしているのか、などということを頭で考える必要のない、才能あふれる画家だったのだろうと思います。そういう画家だからこそ、さきほど私が書いたような「狭い通路のような一筋の道」で絵を描くことが可能だったのだと思います。でも、もしも彼にそういう感性が少しだけ欠如していたら、もう少し構造的に画面を見やすくすることを考えたのではないだろうか・・・。
すべてが憶測です。一本の線が様にならない私は、それでも私の意思が伝わるような絵の構造を見いだせないだろうか、と逆にそんなことばかりを考えています。それで余計なことを感じたのかもしれません。
とにかく、麻生三郎の作品が好きな人にはお勧めの展覧会です。別館の落ち着いた雰囲気が、小ぶりの作品や資料を見るのにぴったりでした。
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