ブリヂストン美術館で「ウィレム・デ・クーニング展」を見ました。
実は昨年末に一度見ていたのですが、もう一度見てからブログに書こうと思っていたので、展覧会が終わってしまった、このタイミングになりました。
クーニングの作品を、このようにまとまった形で見るのは、今回が初めてです。会場の説明板によると、1975年にも日本でクーニングの展覧会があったようですが、その時、私はまだ中学生か高校生だったので見ていません。
考えてみると、その後まもなく通い始めた美大予備校で、クーニングの画集を見せてもらったのですが、展覧会よりはだいぶ後のことですね。当時は石膏デッサンをせっせと描いていた時期ですから、遥か彼方にはこういう画家もいるんだな、という感想しか持てませんでした。しかしその後、抽象表現主義の画家たちの作品を、さんざん追いかけることになり、その中でも最も興味をもったのが、ポロック(Jackson Pollock, 1912 - 1956)、ゴーキー(Arshile Gorky, 1904 - 1948)、そしてクーニング(Willem de Kooning, 1904 - 1997)の三人でした。
ポロックとゴーキーは、それなりの展覧会が日本で開かれたことがありました。彼らの作品の、最良のものがそろっていたわけではありませんでしたが、それでも十分に楽しめました。今回のクーニングの展覧会は・・・と、期待と不安を持って会場に入りましたが、残念ながら量としてはそれほどのものではありませんでした。それでも二度見に行ったのは、彼の作品の持っている力が、そうさせたのだと思います。
それでは、クーニングとはどういう作家なのか、そして私自身がクーニングのどこに惹かれているのか、思いつくままに書き留めておきます。
まず、ポロック、ゴーキー、クーニングの三人を比較してみましょう。同時代の抽象表現主義の画家とはいっても、それぞれ異なった個性を持っています。
この中で、アメリカで生まれたのはポロックだけです。アメリカの地方主義の画家に師事し、その後、メキシコの壁画やインディアンの砂絵に影響を受けた彼の作品は、ヨーロッパ的なアカデミズムからは一番遠かったと思います。さらに野人のような強烈な個性が、彼の絵の強さにもなっていました。ポロックと美術批評家のクレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)との関係については、昨年の沖縄県立芸大の講演のところでさんざん書いたので繰り返しませんが、アメリカの新しい絵画を指向していた彼らは、まさにぴったりの組み合わせだったのです。
アルメニアから移住したゴーキーも、ポロックとは違った意味で強烈な個性を持ち、また数奇な人生を駆け抜けました。ポロックもゴーキーも、映画に描かれるほどのドラマティックな生き方をしましたが、ゴーキーがポロックと異なるところは、ヨーロッパ的なアカデミズムとのつながりを、色濃く感じさせる点でしょう。母と二人で写った写真を絵にした連作などは、アカデミックな技法と当時の絵画の前衛性とを高度に融合させた、興味の尽きない作品です。ゴーキーはテクニックも抜群で、クーニングをはじめとした当時の仲間たちからも尊敬されていたようです。その彼がアカデミズムから離脱して、抽象表現主義の絵画へと展開していく過程もまた、とても興味深いものです。そこにはシュールレアリズムなどから取り入れた最新の絵画理論と同時に、失われた故郷への強いプリミティブなイメージがあり、それが何とも言えない魅力なのです。
そしてクーニングですが、彼もオランダからの移民です。彼の場合は、二十歳を過ぎてからの移住だったので、アメリカという国を自分の意志で選んだ、という意味合いがゴーキーよりも強かったのだろうと思います。クーニングは若い頃に、ゴーキーの影響を強く受けたようですが、実際にそのころに描いた人物画などは、ゴーキーと同様のことを試みています。しかし、クーニングの中にはポロックやゴーキーのような土着性や民族性などのプリミティブなイメージが、あまりありません。クーニングの場合、そういった湧き出るようなイメージが、彼の制作を牽引していったのではないだろう、と今回の展覧会を見て感じました。それでは彼が抽象表現主義の絵画へと展開していくときにバネとなったものは何だったのでしょうか?
それは例えば常識的な人物画、女性像からできるだけ遠ざかろうとする意志、つまり社会通念のようなものから、より自分が自由になろうとする意志だったのではないか、と私は思います。クーニングは、画面の抽象化を推し進めては具象的な人物像、それも女性像に回帰するということを、何度か繰り返しています。実を言えば、私などはクーニングに抽象化の方向性をもっと推し進めてほしかった、と思うことがあります。女性像というイメージから離脱して、もっと画面の構造そのものに集中して描き続けていたらどんな絵画が生まれたのか、見てみたいのです。しかし、彼はそうしなかった。おそらくそこには、自分の表現を動機づけたものに立ち返ろうとする気持ちが働いたのではないか、と思います。今回の展覧会場の別室にあった、スーラージュの作品などと比較すると、クーニングの絵画の面白さはその具象的なイメージとは切り離せないものだ、とあらためて感じました。ポロックやゴーキーのように、内から湧き出るようなイメージを持たないタイプの画家だったクーニングは、その表現を観念的で上滑りなものにしないためにも、たとえば女性像のような具体的なイメージに立ち返ることが必要だったのではないか、と思いました。
しかし、これは現時点での仮説です。クーニングの作品は、本当に日本で見る機会が少ないし、彼に関する文献もあまりありません。その一方で、上記の三人の画家の中で、おそらく私がもっとも頻繁に画集を開いた画家がクーニングです。若い頃の繊細なデッサンも、後年の大胆でありながらも明度や彩度が調和した色彩も、何もかもが憧れでした。野性的なポロックや、天才肌のゴーキーに比べると、どちらかといえば秀才的に見えるクーニングに、私は端から見れば理不尽な親近感を持ってしまっているのかもしれません。今回の作品も、傑作揃いではなかったけれども粒ぞろいでした。そのなかでは、若い頃のデッサンが、もっとも生なクーニングの感触があったように思います。ああいう鉛筆の表現力を見ると、また勉強してみたくなります。
今回のような展覧会を見ると、本物の作品と出会わせてくれることのありがたみを感じます。クーニングの描いた絵の具の厚み、筆のタッチ、下地の紙や布の素材感、鉛筆を持つ指の圧力など、画像ではわからない感触が迫ってくるのです。
ブリヂストン美術館では、以前にも日本でまとまった作品を見ることがない、モンティセリの作品展を見せてもらいました。地道にこういう企画を、継続してもらえることを願っています。
最近の「ART」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事