平らな深み、緩やかな時間

71.「トーマス・ルフ展」ほか所蔵作品から

国立近代美術館の「トーマス・ルフ展」を見に行きました。
トーマス・ルフ(Thomas Ruff 1958- )は、主にドイツの現代美術を紹介する展覧会などで、たびたびその作品を見てきた作家です。とても大きなポートレート写真が有名です。私がこの作家について知っていたことはその程度でしたが、実はルフは現代の写真表現をリードしてきた重要な作家だそうで、ベルント&ヒラ・ベッヒャーの弟子なのだそうです。
ベルント&ヒラ・ベッヒャー(1931- 、1934- )夫妻は著名な写真作家です。タイポロジー(類型学)と題した作品―例えばさまざまな給水塔やサイロなど似た形をした建物ばかりを撮影した写真を並べて展示したもの―を見たことがあります。それらの写真はモノクロで、まるで人のパスポート写真のように、何の変哲もない建物を正面から撮影したシリーズです。一見すると、何これ?という感じですが、日常的な風景では決してさまざまな形状の給水塔が集合するということはありえないわけですから、それらが一堂に集められて証明写真さながらに並べられると、ちょっと不思議な感じがします。彼らはデュッセルドルフ美術アカデミーで教師をしていて、有名な作家を何人も育てているようです。ルフもその一人、というわけです。
この流れで見ていくと、トーマス・ルフの初期作品であるポートレートのシリーズが、ベッヒャー夫妻の影響によるものだ、ということがわかります。その後もルフの作品は、はっきりしたコンセプトをもって展開していきます。感覚的に美しいものを追究したり、衝撃的な場面を撮影したり、といった写真家とはまったく異なるのです。「Interieurs」、「Porträts」、「l.m.v.d.r.」、「cassini」、「ma.r.s.」、「photogram」、「Substrate」、「nudes」、「jpeg」、「zycles」、「press++」などのシリーズごとに作品が展示されていましたが、展覧会場ではそのひとつひとつのシリーズについて明確な説明が付されています。そのどれもが興味深いわけではありませんが、コンセプトをきっぱりと表現する手腕はたいしたものだと思います。
私が個人的に面白いと思ったのは、「l.m.v.d.r.」というシリーズです。「l.m.v.d.r.」 とは、建築家ルードヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエの頭文字で、ルフはミースのある時期の全建築作品を撮影するプロジェクトをてがけます。ルフのユニークな点は、自ら撮影した写真の他に「既存の写真を収集し、さらにはそれらのイメージをデジタル処理する」という手法をとったことです。自分の撮影したものにこだわらず、なおかつそれぞれの写真にデジタル処理を大胆に施す、ということになれば、ルフは写真家というよりは、画像作家と言った方がよいのかもしれません。実際に今回展示されていたミース・ファン・デル・ローエの建物の写真は、手前の地面が緑色の色面に置き換えられたり、全体に色彩が抑制的に扱われていたり、という加工がされていて、モダニズム建築の明快な形体をうまく浮きだたせることに成功しています。それらの作品を見て、私は勝手に次のようなことを考えました。私の経験ですが、例えばジャコメッティの彫刻作品を展覧会で見て感動したものの、あとで図録の写真を見ると実物の印象とは程遠くてがっかり、ということがしばしばあります。おそらくジャコメッティの彫刻を写真として表現するには、かなり大胆な解釈が必要なのでしょう。そこで、トーマス・ルフがジャコメッティの彫刻の写真を撮ったら、どんな表現をするのでしょうか。撮影方法や現像の工夫にとどまらず、デジタル処理を大胆に施したものを見てみたい、と思いました。
ルフの大胆なコンセプトによる作品群を見ると、これだけ写真という概念を自由に広げることが出来るなら、例えばそこに絵画表現との差異は存在するのだろうか、とふと疑問に思いました。ある面では、それらの差異を考えることに、もうたいした意味がなくなっている、というふうに思いました。写真だろうが絵画だろうが、視覚的な表現方法として個々の作家が自分にしっくりとするやり方を選べばよい、ということが言えるでしょう。その一方で、トーマス・ルフはやはり写真家だな、と思わせる面もあります。それは彼が「画像」という出発点から、つねに発想している点からそう思うのです。うまく説明するのは難しいのですが、それと対照的な表現をしているのが、今回、近代美術館の所蔵作品展の中で展示されていたセザンヌの静物画です。セザンヌが写真のような既成の画像から出発していないのはもちろんですが、おそらく彼の中には完成した絵のイメージすらないでしょう。彼は目の前にあるモチーフが空間の中で占める位置を、ひとつひとつ確認するように筆を置いていくのです。その確認する行為、過程が重要なのであって、それが画像としてどこまで完成するものなのか、彼自身にもやってみなくてはわからないことでしょう。ルフの場合は、自分で撮影するにしろ、すでに存在する画像を収集するにしろ、あくまでも「画像」から出発するのです。一方のセザンヌは、「画像」という概念を持たずにそれを構築する行為から出発します。そこには表現者として大きな違いがあります。
しかしルフの作品が興味深いのは、それが単なる「画像」に関するアイデアの集積ではなくて、彼が「写真」という既成概念を排して視覚や想像力に直接訴えかけるような方法を追究していることです。そこには「絵画」における様々な既成概念を排して視覚そのものに迫ろうとしたセザンヌと、共通する点があるのかもしれません。ルフの作品が、画像処理の方法論を超えて何か真摯なまなざしを感じさせるのは、そこに要因があるのだと思います。

ところで、国立近代美術館では12月に山田正亮の展覧会があるようです。彼の画業を一望できる展覧会になりそうで、またとない機会になりますし、展覧会のカタログが発行されるなら貴重な資料になることでしょう。待ち遠しいですね。

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