平らな深み、緩やかな時間

203.『モリのいる場所』熊谷守一、セドラチェクvs斉藤幸平

新しい年になりましたが、私たちを取り巻く環境はあいかわらず厳しいままです。
世界的にも環境破壊や新型コロナウィルス感染など、問題は山積みです。私のような一般庶民でさえ、世の中の動きに無関心ではいられません。
そういうなかで、知識や教養を持った人たちがどう考えているのか、本を読んでも難しくてよくわからないのですが、なんとかそれを私たちに伝えようと健闘している番組があります。1月1日の深夜にNHK BSで放送されている『欲望の資本主義』という番組がその好例ですが、残念ながら今回は見逃してしまいました。それでもチェコ共和国の経済学者セドラチェク(1977 - )と『人新世の「資本論」』の斉藤幸平(1987 - )の対談の最後のところだけは見ることができました。残念だと思っていたら、次のサイトでその対談の一部が読めるようです。
『セドラチェクvs斎藤幸平「成長と分配のジレンマ」』
https://toyokeizai.net/articles/-/477941

そんなことを探っていたら、次のような愉快な対談も見つけました。
『50歳、無職、アフロ女子の「おカネがない快感」』
https://toyokeizai.net/articles/-/124885
「稲垣えみ子・セドラチェク ミニマリスト対談」という副題がついています。稲垣えみ子は朝日新聞の記者時代から、面白い人がいるなあ、と注目していた人です。退社しても元気でやっているようですね、何よりです。

話を戻して、セドラチェクと斉藤の対談です。
その肝心なところは、かつて社会主義経済を経験して、資本主義から社会主義への回帰など考えられない、というセドラチェクと、資本主義に社会主義的な要素を取り入れた新しい経済に活路を見出そうとする斉藤との考え方の相違です。私の感じた限りでは、テレビの最後の部分でも二人の考え方の溝は埋まっていないように思いました。先に紹介した「東洋経済」の記事を読むと、その理由が大体わかります。
斉藤は、今の資本主義では貧富の差が広がり、富をすべての人に行き渡らせることは不可能だと考えます。そうである以上、アメリカのサンダース旋風に見られるように、資本主義に社会主義的な考え方を導入しようとするのは、ごく自然な成り行きだと言います。
それに対するセドラチェクの答えは、自分自身の経験に基づいた貴重なものです。
まず、社会主義経済においても、資本主義と同様に富をすべての人に行き渡らせることは不可能です。実際にチェコの社会主義の時代には、商品棚にものがないことも多く、いまよりもかなり貧しかったということです。社会主義経済の方が、むしろ富の分配は滞っていた、というわけです。
斉藤は、気候変動などの現在の課題に対して、利潤を追求する資本主義経済では身動きが取りにくい状況にある、だから社会主義的なコントロールが必要ではないか、と問いかけます。
それに対してセドラチェクは、実は社会主義国の方が環境を破壊してきた現実があり、現在の社会主義国を見ても、環境保護に対する動きが鈍いことを指摘します。
しかし、このパンデミックの状況下で、いずれの国も社会主義的な政策で一定の規制を設け、給付金を配布するなどの対応を実現してきた、社会主義的な政策の転換だってやればできるのではないか、と斉藤は食い下がります。
それに対しセドラチェクは、その社会主義的な政策を可能にしたのは資本主義経済が蓄えた富があったからだ、と言います。少なくとも、以前のチェコを考えると、給付金を配布することは不可能だっただろう、と言います。それに、政府が人々の意見を聞いて動くような民主的なシステムになっていないと、パンデミックでの給付金も実現できていなかったはずだ、と答えます。
これは重要な意見だと思います。
為政者が強権的な政策でコロナウィルス感染を抑えている中国と、為政者がすっかり信頼を失って、ワクチン接種が遅れているロシアを見ると、いずれの国にも住みたくないなあ、と私は思ってしまいます。
いま何らかの政策の変更が必要だということは認めるが、それを資本主義の中で考えたい、というのがセドラチェクの意見です。
セドラチェクの言っていることを読むと、私たちがこの状況下において資本主義社会のメリットを見失い、社会主義的な政策に希望を持ち過ぎるのは危険だ、と思いました。ただ、資本主義社会では富の偏在が確かにありますし、速やかに環境の変化に対応できるのかどうかも、心もとないものがあります。
いままで経験したことのない危機の中で、まだまだ私たちの試行錯誤が続きます。なんとか納得できる解を見出したいものです。


さて、正月早々になりますが、画家の熊谷守一(1880 - 1977)の晩年の一日を描いた『モリのいる場所』という映画を見ました。公開からすでに4年目となりますので、いまさらという感じがしますが、すでに話題の映画ではないので、基本的な情報をおさえてお読みいただける方は、次の公式サイトをご覧ください。
『モリのいる場所』公式サイト
http://mori-movie.com/artist.html
映画として面白かったのか、と聞かれると私にはちょっと判断できません。
映画の中で何回も言われていることですが、熊谷守一は晩年の30年間、自宅の庭から外に出なかった、と言われています(実はそうでもなかったようですが・・・)。そんな老人の一日を映画にしてどうするの?という作品ですから、それを商業映画に仕立て上げた沖田修一監督の手腕は、大したものだと思います。私はそもそも熊谷守一をどのように映画にしたのか、ということに興味がありますから、一つ一つの場面を目を皿のようにして見てしまいました。
例えば、映画のはじめのところで、バラバラに分解された古い懐中時計が机の上に置いてある映像がありました。それがエンディングのところでは、ちゃんと組み上がっていたのです。それだけでは何のことやらわかりませんが、実は熊谷守一には、時計のような古い機器類を分解しては組み上げる、という趣味があったのです。妻の秀子が、守一がアトリエに籠って絵を描いているのかと思ったら、どうやら時計をバラしては組み立てていただけだ、ということがあったそうですが、そんな時間があれば、絵でも描いてくれればお金になるのに、と思っていたそうです。しかし守一自身は、その趣味をあまり奇異なものだとは思っていなかったようです。
彼には『へたも絵のうち』という自伝のような本があって、その中にはこう書いてあります。

細工物といえば、時計の修理もずいぶんしました。こわれたヤツをけっこう動くようにするから、友だちが面白がってどんどん持ってきます。ハト時計や柱時計など大きなものは比較的らくですが、小さな懐中時計などは部品が細かいので大変です。妻と子供を外に遊びに出して、静かになったところで一人で打ち込みました。
このとき面白いと思ったのは、音の感じ方です。大きな物が落ちると大きな音が出るのがふつうのはずですが、時計修理に夢中になっていると、小さな部品になればなるほど、落ちたときの音が大きく感じるのです。ふつうなら聞こえないような音が、根をつめているとひじょうに大きく耳に響く。
(『へたも絵のうち』熊谷守一)

これを読むと、守一の機械好きには彼なりの理由があったようです。それは守一独特の敏感な感性によるものなので、妻の秀子とはものの見方がずいぶんとすれ違うことが多かったようです。
映画では、そんなエピソードがさりげなく、何の説明もなしに映像化されています。私のような人間だと、その一々を見て面白がってしまいます。ですから、映画が良かったのかどうかは、熊谷守一を知らない人の方が、客観的に判断できるのではないか、と思うのです。

ところで、このように熊谷守一について私は学生の頃から興味を持ち、作品もずいぶんと見てきました。そして、その評価も私の成長とともに変わってきました。その辺りのことを以前に『熊谷守一 生きるよろこび』という展覧会に際して、このblogに文章を書いています。ちょっと長いのですが、よかったらこちらもご覧ください。
82.『熊谷守一 生きるよろこび』展
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/84.html
そのblogと重複しますが、熊谷守一がどういう画家であったの、かんたんに紹介しておきましょう。

熊谷守一は明治13年に岐阜の富裕な家に生まれました。
その後東京美術学校(東京芸大)に入学し、同級生に青木繁、山下新太郎らの著名な画家がいました。在学中に父が亡くなり、その後は旅に出たり、友人宅を転々としたりしながら公募展に絵を出品して賞をもらったりしました。
そして母の死をきっかけに故郷に帰り、木材を運ぶ仕事などをしながら、あまり絵も描かずに4、5年が過ぎます。30代半ばで再び上京し、創立当時の二科展に加わり、42歳で秀子と結婚します。5人の子供(黄、陽、萬、榧、茜)に恵まれますがが、気が向かないと絵を描かないので貧乏暮らしが続き、陽と茜が幼くして亡くなってしまいます。
ちょっと横道にそれますが、次男の陽が亡くなった時に描いた『陽が死んだ日』という守一の作品は、日本のフォービズム的な作品の中でも指折りの傑作だと、私は思います。
https://www.pinterest.jp/pin/726205508646162482/
この作品は陽の死の床で描いたそうですが、守一は子供が亡くなったことも忘れて絵を描くことに没頭してしまった自分に気づき、そこで筆を置いたそうです。それだけに説明的な描写がなく、必要なことだけに意識を集中していたことがよくわかる作品だと思います。
そして不幸にして長女の萬も19歳で亡くなりましたが、次女の熊谷 榧(くまがい かや、1929 - )さんは、今もお元気なようです。榧は熊谷守一の画風を受け継いだ山岳画家として有名で、映画の舞台となった豊島区の熊谷家の跡地に設立された「熊谷守一美術館」の館長をずっとなさっているようです。私も何回か訪れたことがありますが、榧さんの手作りの、かなり風変わりなコーヒー・カップでコーヒーを飲みました。小さな美術館ですが、一度は訪れてみる価値があるところだと思います。よかったら、こちらのサイトをご覧ください。
「豊島区立 熊谷守一美術館」
http://kumagai-morikazu.jp/art-work/index.html
話を守一に戻しますが、その後はフォービズム的な作品から、形体を単純化した色面の絵画へと移行していきます。
参考までに、守一が自分の絵の変化について、どう言っているのか書いておきましょう。

私の絵が長い間にずいぶん変わってきているので、どうしてそんなに画風が変わったのか、とよく聞かれます。しかしこれには「若いころと年とってからでは、ものの考え方や見方が変わるので、絵も変わった」としか答えられません。自然に変わったのです。最近のように平らに塗る絵に変わる前に、その途中の段階もあったようです。ものをひとまとめに見ようとするときに、はじめは輪郭の線は、仕上げで塗りつぶしていました。しかしそれがだんだん欲が出てきて、輪郭もはっきりとかくようになったわけです。
(『へたも絵のうち』熊谷守一)

うーん、興味深い話ですが、この説明では納得できません。そもそもでも「その途中の段階もあった」というのも人ごとのような言い方です。私はその「途中の段階」にあたる過程にこそ、興味があるのです。フォービズムから平面化へと進む頃の作品が、私は熊谷守一の作品の中でもっとも質が高いと思いますし、それは日本の絵画においても注目すべき成果だと思います。しかし、そんな文句を言っても仕方ないので、先に進みましょう。
そして熊谷守一は52歳で映画の舞台となった豊島区の家に移り住みます。その当時は、豊島区の池袋周辺に貧乏な画家たちが集まっていたのです。パリのモンパルナスにエコール・ド・パリの画家たちが集まったことになぞらえて、「池袋モンパルナス」などという言い方もあります。熊谷守一は第二次世界大戦後に二科会を退き、やがて公募展から身を引いて気ままに絵を描く生活に入ります。
そして晩年には、映画の中に散りばめられたエピソードに溢れた、仙人のような生活を続けます。
せっかくですから、そのうちのいくつかの場面を取り上げておきましょう。

映画のはじめに、林与一が扮する眼鏡の老人が「これは子供が描いた絵ですか?」と聞くシーンがあります。これは昭和天皇が熊谷守一の絵を見て、そのように聞いたという話を映画に取り込んだものです。取り巻きを連れた老人の姿は、見るからに昭和天皇ですが、もしかしたら若い方にはピンと来ないのかもしれませんので、一応書いておきます。

それから、守一の日常が映画で描かれていきますが、守一自身は、自分の晩年の日々についてこう書いています。

私は明治13年4月の生まれですから、こんにち風に数えても91歳になります。しかし、ちいさいころから、だれにも気がねをせずに、したいことをしてきたせいでしょうか、からだはまだまだ丈夫なものです。
ここ何年間も、毎日の日課は、ほとんど変わりません。朝、目をさますのは6時ごろ。軽いごはんをすませると、庭に出て植木をいじったり、ゴミをもしたりぶらぶらします。これが終わると、とりあえずしなければならぬことは何もない。好きなきざみタバコを吹かしながら、テレビを見るかぼんやりするかして、ばあさんの仕事の終わるのを待ちます。
ばあさんの朝の仕事で、手間のいるのは鳥の世話です。私は鳥が大好きだから、昔からずいぶんたくさん飼ってきました。いまいるのは、クロツグミ、ジュウシマツ、ホオジロ、イカル、小イカル、小ミミズク、錦鶏鳥、銀バトなどです。
(『へたも絵のうち』熊谷守一)

映画でも、ずいぶん多くの鳥が出てきます。その一々がこの通りなのか、私にはわかりませんが、ミミズクがいたのが印象的でした。餌をやるのも大変でしょうね。
それから映画の中で、守一は秀子とよく碁を打ちます。どうやら、いつも守一の方が負けているようです。守一自身はこう書いています。

ばあさんの仕事が片付くと、二人で碁を打ちます。だがまあ、打つなんてものじゃないかな。片手に碁石を山盛りに持って、ロクに考えもせずにポンポン打っていく。ひどいときは両手でホイホイと石を置いていく。「読み」はなしの碁です。
碁をおぼえたのはいつごろだったか、ばあさんと一緒にはじめたのですが、今は向こうの方がちょっと強い。黙っていると、何をしかけてくるかわかりません。大きな石をごっそり取られて、おやおやということなどしょっちゅうあるのです。
<中略>
いつだったか、碁の雑誌の人が、私たちの碁を写真に撮りたいといってやってきたことがあります。ところが、盤の上を見て、びっくりしたような顔をしている。そうして、ことばは忘れましたが、こんなヘタクソな碁は見たことがない、という痛烈なことを言って帰りました。ああいう人は碁が強いのでしょう。
(『へたも絵のうち』熊谷守一)

それとちょっとしたことですが、守一は歯が悪く、肉類などはキャンバス張り器でつぶして食べていたそうです。キャンバス張り器というのは、木枠に麻布を張るときに、麻布を挟んで引っ張る器具です。その挟み込む部分を利用して、食べ物をつぶして口内で咀嚼しなくて済むようにしていたという話です。映画の中では、守一が食べ物をつぶす度に中身が食卓に飛び散る、というコミカルな演出をしていました。
そして映画の中で、店の看板を描いてもらおうと思って訪ねてきた人に、守一が「無一物」という店名とは違う文字を書いてしまうエピソードがあります。「だから主人は好きな文字しか書きませんよ、といったじゃないですか」と秀子が客人に言う場面があります。守一自身は自伝でこう言っています。

ところが版画の棟方志功さんが「無盡蔵」と書いてくれと言ってきたことがあります。「無一物」は書くが「無盡蔵」は書いたことがないと言い付けしたら、棟方さんは無一物も無盡臓も同じことだと言ったそうです。
なるべく書きたくないのは「日々是好日」とか「謹厳」などという字です。しかし妻がいうには、無理に頼まれて書いても、あとで展覧会などで見ると、本人が喜んで書いたように見えておかしかったそうです。
(『へたも絵のうち』熊谷守一)

エネルギッシュな版画家の棟方 志功(むなかた しこう、1903 - 1975)と熊谷守一の個性の違いがわかる、面白い話です。守一は総じて絵も書も、興味のあるものしか書かなかったそうです。
それから、映画の中で大きな要素となるのが、守一が自宅の庭だけで自足して暮らしていたことです。両手に杖を持って、ひょこひょこと歩きますが、その気になれば散歩ぐらいは行けそうです。でも、あえて彼が外に出ないことが、守一の人となりを仙人のように思わせる大きな原因になっているのです。30年も外に出なかったというのは、ちょっと大袈裟な話らしいことは、先ほど書きました。
このことについて、守一自身はこう書いています。

以前はよく、書生さんに連れられて写生に行ったものですが、今は庭から外には出ない。15年ほど前から、長く立って歩いたりすると血管がつまる病気になって、冷や汗が出たり、ひどいときはめまいがしたりするので遠出はダメなのです。
だから、いつの間にか足が弱って、最近は家の中を歩くにもツエをつくようになりました。立っているだけでも、ひょっとするとヒザが痛くなってくる。そのうちに、また赤ん坊の昔にもどって、這うようになるのかもしれない。
(『へたも絵のうち』熊谷守一)

守一の書くことのすべてが本当であるのかどうか、わかりませんが、本当に病気で遠出ができなかったのだとすると、気の毒な話です。それを仙人や天狗にしてしまってはまずいと思うのですが、映画を作られた方たちがこんなエピソードを知らないはずがありません。何か調べた上での、あるいはこのようなことを知った上での映画制作なのでしょう。
また、文化勲章を電話一本で辞退してしまった話も映画に盛り込まれています。この場面はコミカルに演出されていますが、このエピソードのあたりから、映画らしいファンタジーが混ざってきて、最後の方ではちょっと不思議な話になります。
でも、これは書かないほうが良いでしょう。
なお、映画の中で、熱心に熊谷家に出入りして、守一の写真を撮るフジモリという写真家が出てきます。この写真家は、藤森武という土門拳に師事した一流の写真家です。藤森が守一を撮影した写真集「独楽」という本がありますので、参考までにご覧ください。
https://nostos.jp/archives/213190

さて、以上のように、熊谷守一の本当のエピソードを盛り込みつつ、映画そのものはどこか浮世離れした、現在の価値観とは別な価値観で動く人々を描く群像劇となっています。たんなる伝記映画にしたくない、という監督のメッセージを感じます。この映画が、熊谷守一の芸術理解の一助になる、ということはありませんが、亡くなってすでに40年以上経つ画家のことが、映画化によって話題になることは悪いことではありません。一人でも多くの方が、これをきっかけに熊谷守一の作品に触れていただければ喜ばしいことです。
それにしても、若い頃に黒澤明監督の『天国と地獄』で冷酷な誘拐犯を演じた山崎努が、まさか熊谷守一を演じるようになるとは夢にも思いませんでした。亡くなった樹木希林の秀子役はいかにもはまり役ですが、山崎努は想像以上に見事に守一を演じていました。

さて、最後になりますが、映画の中で守一が、じーっと何時間も手のひらに石をのせて、その石ころを微動だにせずに眺めているシーンがあります。守一自身は、こんなことを『へたも絵のうち』の最後に書いています。

戦後の話ははしょった感じになりましたが、今の毎日と同じことで別にことさら書くことがないのです。これからもどんどん生き続けて、自分の好きなことをやっていくつもりです。
ただ何回かふれましたが、私はほんとうに不心得ものです。気に入らぬことがいっぱいあっても、それに逆らったり戦ったりはせずに、退き退きして生きてきたのです。ほんとうに消極的で、亡国民だと思ってもらえればまず間違いありません。
私はだから、誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます。監獄にはいって、いちばん楽々と生きていける人間は、広い世の中で、この私かもしれません。
(『へたも絵のうち』熊谷守一)

こんなわがままな老人が、監獄で暮らせるとは思いませんが、それでもこの守一の生き方に、新型コロナウィルス感染以降の人間の生き方、あるいはちょっとかたい言い方をすれば、冒頭にあった資本主義でも社会主義でもない生き方の手本があるような気がします。
石ころ一つで満足して、自分の欲望を無制限に広げていかないような生活、それも無理にそうするのではなくて、守一の庭でひっそりと暮らす虫たちのように、マイペースで自足しているような暮らしです。映画の中でも虫の映像が、良い時間を醸し出していました。そのせまい庭が、広い宇宙のどこかと繋がっている、そんな生き方を夢見て、この『モリのいる場所』という映画は作られたのかもしれません。だから破天荒なファンタジーのようなシーンが盛り込まれていたのでしょう。
そして遥かな宇宙への通路は、外面的な豊かさの中ではなくて、私たち一人ひとりの心の中にあるのかもしれません。

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