平らな深み、緩やかな時間

202. 小林秀雄について、坂部恵から

2022年になりました。
今年こそは良い年になってほしいと思いますが、また不安な状況になってきました。
医療、福祉など、とくにこの状況下で心配な分野がありますが、私の関わりで言うと教育と芸術の分野に影響がないことを願っています。

さて、前回の『手の倫理』を読んでいたら、坂部 恵(1936 - 2009)という哲学者の『「ふれる」ことの哲学』という本に行き当たりました。1983年に出版された本ですが、すでに入手することが困難で、図書館から借りて読むことにしました。そして『手の倫理』の問題意識と直接リンクするのは、最初の章にあたる『「ふれる」ことについてのノート』であることがわかりました。全体に伊藤亜紗の文章に比べると内容が難しくて、心理学や数学、物理学などの素養がないと、よく理解できません。たぶん、教養のある人たちからすると、そんな大袈裟な・・・という程度のことでしょうが、それらの初歩的なことすらわからない身になると、そう感じてしまうのです。
そう思いながらページをめくっていくと、「Ⅲ 思想家点描」という章の中に「ベルクソン論のことなどー小林秀雄一面ー」という文章がありました。第二次世界大戦前後に活躍した評論家の小林 秀雄(1902- 1983)についてのエッセイです。ちょっと面白い話がありましたので、今回は小林秀雄を取り上げます。

みなさんは小林秀雄をご存知ですか。
私より上の世代の方は、学生時代にどこかで小林秀雄の文章を読んでいると思います。文芸評論家ですが、その知識は幅広く、美術批評やフランス文学の翻訳、日本の古典文学まで論じたので、彼の文章がよく教科書にも掲載されていたものでした。
小林秀雄は、神奈川県の鎌倉に住む高級な文化人、というイメージの典型のような人でした。私がこのblogで取り上げた音楽評論家の吉田 秀和(1913 - 2012)は小林秀雄よりも一回り下の世代ですが、似たような雰囲気があります。教養が広く、二人とも美術批評にも足跡を残しています。ただ小林の文章は、どちらかといえば上からの目線で自分の直感を決めつけるように語るのに対して、吉田の文章はもっと謙虚で、自らの逡巡の様子も隠さずに語るなどていねいです。インターネットで二人の関係を調べてみると、晩年にはちょっと仲が悪かったようなエピソードも見受けられます。でも、小林が吉田の批評における先達であったことは間違いないでしょう。そういえば今年は吉田秀和の『セザンヌ物語』を、いよいよ読み込んでいくことにしましょう。
吉田に限らず、私の若い頃に読んだ批評家は、小林の存在を無視することができませんでした。吉本隆明(1924 - 2012)は小林秀雄以降、日本で最大の評論家と言って良いのかもしれませんが、彼もしばしば小林秀雄について言及しています。さらにその後の世代の柄谷行人(1941 - )においても、小林秀雄について触れた文章を読んだことがあります。
その小林秀雄ですが、文芸批評以外の分野でもポール・ヴァレリー(Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871 - 1945)やアルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud、1854 - 1891)などのフランスの詩人の翻訳が有名です。そして美術の世界では、何と言っても『ゴッホの手紙』という評論で知られています。
「昭和22年、小林秀雄は上野の名画展で、ゴッホの複製画に衝撃を受け、絵の前でしゃがみ込んでしまう。「巨きな眼」に見据えられ、動けなくなったという。小林はゴッホの絵画作品と弟テオとの手紙を手がかりに彼の魂の内奥深く潜行していく。ゴッホの精神の至純はゴッホ自身を苛み、小林をも呑み込んでいく……。読売文学賞受賞。」
これは『ゴッホの手紙』の本の宣伝文句ですが、私も学生の頃にこの本を読んでみました。その後、持っていた文庫本を処分してしまって再読していませんが、今考えてみると、ゴッホの絵だけではなくて、フランス語の能力を生かしてゴッホの手紙まで読み解きながら、画家の芸術の核心に迫ろうという小林ならではの離業だったと思います。しかしそのおかげで(?)、日本人のゴッホの理解には、ゴッホの苦悩や人生を理解することが不可欠になってしまいました。そのゴッホの生涯を描いた『炎の人 ゴッホ』は、カーク・ダグラスが主演の映画でも、三好十郎の戯曲でも大ヒットしていて、演劇としてはいまだに継続した人気があるようです。
ところでこの宣伝文句の中の、小林がゴッホの絵に衝撃を受けた様子が、なかなかドラマチックですが、実は彼は、優れた芸術に出会うと度々同じような反応をしてしまうようです。
例えば次の文章は、小林が訳したランボーの詩集『地獄の季節』の宣伝文句です。
「23歳の春だった、神田でいきなり小林秀雄は、ランボーに叩きのめされた。初めて目にした詩集「地獄の季節」の衝撃。」
いかがでしょうか。たしか神田の書店でランボーの詩集と出会い、その場で小林秀雄が「叩きのめされた」という話だったと思います。彼は常に芸術作品との出会い頭に衝撃を受け、それが彼の優れた鑑識眼の証明のように考えられてきたのです。
今の私ならば、ゴッホといい、ランボーといい、これはちょっと芝居がかっていないか、芸術の素晴らしさというものは、もっとじわじわと心に滲み入るように浸透していくのではないか、と言いたくなります。今でも商業的なメディアにおいて似たような宣伝文句、エピソードに事欠きませんが、小林秀雄の場合ほどには効果がないように思います。

このように、ちょっとした小林秀雄に関するエピソードを拾ってみてもわかるように、彼は一時期、文化人の代表格として大きな影響力を持っていたのです。その文章は批評文の手本のように思われていて、国語の教科書や受験問題にもたびたび使われていたのです。それが少しずつ忘れられていって、私のように「もう、小林秀雄の本は読まないかな・・・」と思って彼の本を手放してしまった人も多いことでしょう。
私は今回、そんな小林秀雄が書いた美術評論『近代絵画』にはどんなことが書いてあったっけ?と思って、再度読み直してみました。
中身を見ると、詩人で美術批評家でもあったボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821 - 1867)からはじまって、画家のモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)、セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)、ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853 - 1890)、ゴーガン(Eugène Henri Paul Gauguin, 1848 - 1903)、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 、1841 - 1919)、ドガ(Edgar Degas 、1834 - 1917)、ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)と巨匠の名前が並んでいます。「近代絵画」というには、ちょっと印象派に偏っていますが、それでも意外と言っては怒られてしまいますが、なかなか興味深い蘊蓄に溢れた本でした。
しかし、吉田秀和の美術評論もそうですが、小林のこの本も話があっちこっちに飛んでしまって、結局のところ結論めいたものが見出せない文章がほとんどなのです。後で紹介しますが、小林秀雄の寄り道具合は、吉田秀和の文章を上回っています。なんでこういうふうになるのだろう、と思っていたら、冒頭にもご紹介した通り、坂部恵の「ベルグソン論のことなど ー小林秀雄一面ー」に興味深いことが書いてありました。
それは次のような文章で始まります。

ことさら生硬な哲学用語を使っていうことにすれば、小林秀雄の思考の宇宙の超越論的な境域を限るものは母であるようにおもわれる。
それは、(一)可視性の形をとるとき、この世にたちまじった冥界の姿においてあらわれ、(二)可視性の世界のなかば不可視な限界と根源の形をとるとき、一つのまなざしとして感受される。
(『「ふれる」ことの哲学』「ベルグソン論のことなどー小林秀雄一面ー」坂部恵)

よけいなことですが、「ことさら生硬な哲学用語を使っていうことにすれば」と書いてありますが、ぜひとも「生硬な哲学用語」などは使わないで、平易に語っていただきたいものです。
それでかんたんに言い直してみますと、小林秀雄の思考は「母親」的なものを原理として動いていて、それは理屈を越えたものなのだ、ということでしょうか。その思考は(一)母親の視線が直接見えない時には冥界(あの世)の何かが姿を現して語られるでしょうし、(二)そうでない時には母親の視線が直接感じられるように語られる、というのです。
これは何を言っているのでしょうか?
それでは、(一)の場合として引用されている小林秀雄の文章を読んでみましょう。

終戦の翌々年、母が死んだ。非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。日支事変の頃、従軍記者としての私の心はかなり動揺していたが、戦争が進むにつれて、私の心は頑固に戦争から眼を転じて了った。私は「西行」や「実朝」を書いていた。戦後、初めて発表した「モオツァルト」も、戦争中、南京で書き出したものである。それを本にした時、「母上の霊に捧ぐ」と書いたのも、極く自然な真面目な気持からであった。私は自分の悲しみだけを大事にしていたから、戦後のジャーナリズムの中心問題には、何の関心ももたなかった。
(『「ふれる」ことの哲学』「ベルグソン論のことなどー小林秀雄一面ー」坂部恵)

これは坂部が、小林秀雄の「感想」というベルクソンを論じた文章を引用したもののようですが、小林秀雄にとっては終戦よりも母親の死の方が大事件であったようです。もちろん、身近な家族の生死は戦争よりも大事だ、と思うのは当たり前の感情ですから、この嘆きは良いとして、この後の部分が興味深いところです。
母の死後数日経って、小林は仏にあげる蝋燭を切らしていたことに気づき、夕暮れどきに店へ買いに行きます。そこに一匹の大きな蛍が飛んできて、小林は思わず「おっかさんは、今は蛍になっている」と思います。これぐらいのことなら、誰でも感受することではありますが、さらに小林は続けて書きます。

ゆるい傾斜の道は、やがて左に折れる。曲り角の手前で、蛍は見えなくなった。人通りはなかった。S氏の家を通り過ぎようとすると、中から犬が出て来て、烈しく私に吠えかかった。いつも其処にいる犬で、私が通る毎に、又、あいつが通るという顔付きをする、言わば互いによく知り合った仲で、無論、一ぺんも吠えついた事なぞない。それが、私の背後から吠えつくのが訝しかった。私は、その日、いつもの不断着で、変わった風態に見える筈もなかった。それよりも、かなり大きな犬だから、悪く駆け出したりして、がぶりとやられては事だ、と思い、同じ歩調で、後も見ず歩きつづけたが、犬は、私の着物に、鼻をつける様にして、吠えながらついて来る。そうしているうちに、突然、私の踝(くるぶし)が、犬の口に這入った。はっと思ううちに、ぬるぬるとした生暖かい触覚があっただけで、口は離れた。犬は、もう一度同じ事をして、黙って了った。私は嫌な気持ちをこらえ、同じ歩調で歩きつづけた。後を振り返れば、私を見送っている犬の眼にぱったり出くわすであろう。途端に、犬は猛然と飛びかかって来るだろう。そんな気持ちがしたから、私は後を見ず歩いた。もう其処は、横須賀線の踏切りの直ぐ近くであったが、その時、慌ただしい足音がして、男の子が二人、何やら大きな声で喚きながら、私を追いこし、踏切への道を駈けていった。それを又追いこして、電車が、けたたましい音を立てて、右手の土手の上を走って行った。私が踏切りに達した時、横木を上げて番小屋に這入ろうとする踏切番と駈けて来た子供二人とが大声で言い合いをしていた。踏切番は笑いながら手を振っていた。子供は口々に、本当だ本当だ、火の玉が飛んで行ったんだ、と言っていた。私は、何んだ、そうだったのか、と思った。私は何の驚きも感じなかった。
(『「ふれる」ことの哲学』「ベルグソン論のことなどー小林秀雄一面ー」坂部恵)

これは要するに、亡くなった自分の母親が蛍に姿を変えて現れたと思ったら、どうもそれが自分の背後にいたらしいのです。だから馴染みの犬が急に吠えたり、舐めてきたり、という異変を察知した行動をとり、さらにはその姿が人魂となっていたらしく、それを見た子供たちが慌てて踏切を越えて逃げていった、という話です。
このようなとんでもない話ですが、小林秀雄自身は「何だ、そうだったのか」と驚きもせずに納得し、この一節を引用している坂部は「可視性の形をとるとき、この世にたちまじった冥界の姿においてあらわれ」などと、「生硬な哲学用語」を使いながら、もっともらしい事を書いています。私のように普通の言葉で書いてしまえば、いくら母親思いとはいえ、このおじさん大丈夫か?と誰もが感じるのではないでしょうか。
批評の神様を相手にしながら、ちょっと言い過ぎました・・・。
さて、坂部が言うところの(一)の不可視の場合に冥界が現れること、の方は分かったとして、それでは(二)の「可視性の世界のなかば不可視な限界と根源の形をとるとき、一つのまなざしとして感受される」というのは、どういうことでしょうか。
坂部は次のような小林の文章を引用して、説明します。

「あいつは、ああいう奴さ」という。甚だ厭な言葉である。だが、人を理解しようとして、その人の行動や心理を、どんなに分析してみた処が、最後につき当たる壁は「あいつは、ああいう奴さ」という同じ言葉であるから妙である。
「子を見る親に如かず」という。わかる親もあれば、わからぬ親もあるという風に考えれば一向につまらないが、親が子をどういう風に見るかと思えば面白い。私という人間を一番理解しているのは、母親だと私は信じている。母親が一番私を愛しているからだ。愛しているから私の性格を分析してみる事が無用なのだ。私の行動が辿れない事を少しも悲しまない。悲しまないから決してあやまたない。私という子供は「ああいう奴だ」と思っているのである。世にこれ程見事な理解というものは考えられない。
(『「ふれる」ことの哲学』「ベルグソン論のことなどー小林秀雄一面ー」坂部恵)

先ほどの母親の人魂の話も驚きですが、こちらはこちらで驚きです。確かに、親子の愛情は理屈では割り切れないもので、どんな子供でも親から見ると可愛いものだ、というのはわかります。しかし、それを「世にこれ程見事な理解というものは考えられない」というのは、言い過ぎではないでしょうか。これも私のような普通の言葉で話す人間からすると、「それって、親バカって言うんじゃない?」などと茶化してみたくなります。小林秀雄が、あるいは坂部恵が、親子の愛情をこれほどにも崇高なものだと考えたのは良いとしましょう。しかしそれが「世にこれ程見事な理解というものは考えられない」、と言いながら、あらゆる物事の理解の方法としてその母親の眼差しを批評にも応用してしまう、としたらどうでしょうか。そこに考え方の飛躍はないのでしょうか。
坂部はこれらの小林の言葉を「母のまなざしが、批評眼の理想とされていることがわかるだろう」と解釈した上で、次のような小林の言葉を引いています。
「私は所謂慧眼というものを恐れない。」
「慧眼の出来る事はせいぜい私の虚言を見抜く位が席の山である。私に恐ろしいのは決して見ようとしないで見ている眼である。」
これは小林秀雄が志賀直哉(1883 - 1971)を論じた文章で言っている言葉です。そして小林は、志賀直哉の眼はそういう眼なのだ、と解釈しているのです。つまり母親のごとく見る「まなざし」を、実際の批評の場で小林は実践しているのです。
しかしこういうふうに、母親のような「まなざし」が理屈抜きで「慧眼」よりも尊いと言われてしまうと、私のようなふつうの凡人はどうしたら良いのでしょうか。私のような人間がどんなに努力しても、得られるのは「慧眼」の部類の中でも下の方でしかないでしょう。だから例えば、私のごとき無教養な人間が小林の批評の落ち度を見つけたとしても、彼はそんなことなど「恐れない」のです。それよりも、そんな努力をしなくても小林の欠点をぴたりと言い当ててしまうような、つまり母親のような、あるいは志賀直哉のような才能のある人の「見ようとしないで見ている眼」こそが恐ろしいのだ、というわけです。
このような見方は、結局のところ、小林秀雄とか、志賀直哉とか、特権的に教養が備わっている人たちだけが何か大切なものをわかっている、そういうものを見抜く眼が備わっている、というふうに読めないでしょうか。いうまでもないことですが、私にはそういう考え方を許容することができません。たぶん、私が小林秀雄を再読しなくなったのは、そういう偉い人のありがたいお言葉をいくら聞いても仕方ない・・、という気持ちが働いたからではないか、と思います。

しかし今回、彼の美術論である『近代絵画』を読んでみると、そういう何か特権的な物言いが気にはなるものの、それが結構面白いのです。その逐一を触れていくと長くなるので、今回はセザンヌの章の大筋だけを見ていきましょう。
小林は、セザンヌの絵画には音楽的な魅力があるのではないか、と論じ始めます。それは良いのですが、セザンヌが絵の主題としたワーグナーの『タンホイザー』をきっかけにして語り出す音楽談義が長いのです。それがやっと絵画の話に戻って、後輩の画家であるエミール・ベルナールがセザンヌの言葉として書き残した「自然を、円筒と球と円錐とで処理する事」という一節が「後になって、キュービスムの理論家達によって、誤解されるのが目的で言い遺された様に見える」という素晴らしい指摘をしていて、さすがだと思わせます。なるほど、と思って読み進めると、ボードレールやリルケの美術批評に話が及び、彼らの詩作にも思いを馳せ、さらに時代を遡ってベラスケスやレンブラントの絵画にも話が及びます。とくにベラスケスについてはドラクロワの色彩の使い方との比較なども交えながら堪能に語ります。そして再びセザンヌと同時代の話に戻って、他の印象派の画家との比較、例えばルノワールの透明な色彩は見事だけれど、セザンヌの色彩にはかなわない、というもっともなことも書いています。そして、セザンヌを現代の抽象絵画の祖としてみてしまうと、彼を不完全な構成家にしてしまう、彼が実現しようとしていた「感覚」というものは、もっと別なものなのだ、と語り出します。
これでも、まだ半分くらいでしょうか。ミレーやコローなどの自然主義との比較、セザンヌのモチーフに対する考え方なども論じていきます。そして同時代の文学者、ゾラはもちろん、モーパッサンまで登場し、最後は「二人は、絵画への信仰と同時代への不信と叛逆とに於いて、セザンヌの真の弟子であった」と結ばれています。この二人というのは、ゴッホとゴーギャンのことです。
これだけ振り回されて、結論がそれ?とも思いますが、その振り回されている最中にも、私はさまざまな金言に出会います。そして私は、小林がどのような知識のもとでそれらのはっとするような認識に至ったのか、と考えてしまいます。
この『近代絵画』が出版されたのが1958年です。彼はフォーマリズム批評の祖と言われるロジャー・フライ(Roger Eliot Fry, 1866 - 1934)の『セザンヌ論』を知っていたでしょうか。フライはイギリスの評論家ですから、さすがの小林であっても守備範囲外であったのではないでしょうか。また、現象学者のモーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)が斬新な眼差しでセザンヌを論じたのは1950年代ですから、おそらく小林の眼には触れていなかったでしょう。
そう考えると、今の私たちにとって基本的な文献であるものが、小林の時代にはそうでなかったのですから、彼のセザンヌ解釈は相当に先見的であったと思います。そして教養の深さは私たちの及ぶところではありませんから、どんどん話が横道に逸れてしまっても、それはそれで面白いのです。

さて、それでは今の私たちは、どのように小林秀雄の美術批評を読んだら良いのでしょうか。
もしも私たちが、今の時代にふさわしい美術批評を求めてしまうと、小林の批評は古くさい教養主義的なものに見えてしまうでしょう。そもそも、彼が何らかの結論に達しようとしているのかさえも、怪しいのです。
しかし、彼の寄り道の中にも何かが見つかるかもしれない、と思って読んでみると、なんらかの気づきがあって興味深いのです。もちろん、小林秀雄のような批評の考え方を、私は受け入れることができませんが、かといって読まないのももったいないものです。
いまさらのように小林秀雄や吉田秀和の文章を読んでいると、読むことそのものが楽しい、あるいは彼らからすると書くことそのものが楽しい、ということに重きを置いているような気がしてきます。批評文は読むことでどこか遠くへ導かれる、ということも大切ですが、同時に読むことそのものに喜びがなくては読む気になりません。彼らの活躍した時代は、理論的な高みをはっきりと示すことよりも、とにかく読者を文章に誘うことが重要だったのかもしれません。そしてそのような文章を書くためには、後天的な勉強よりも母親の眼差しのような先天的な才能が必要だということでしょうか。
繰り返しになりますが、私はそのような立場を取りません。だから小林秀雄や吉田秀和の文章を読むことは、そこに楽しみと発見と同時に、懐疑的な気持ちが同居しています。これでいいのかな?と思いながらも、つい読んでしまう、という感じでしょうか・・・。でも、考えてみると100%信用できる文章などないのですから、それも良いのではないでしょうか。

さて、私は今年もこんな風に、さまざまなものに偏見を持たずに、多くのことに面白さを見出していきたいと思います。
そして街の画廊が開くのが、今月の2週目ごろからでしょうか。それも今から楽しみです。
新型コロナウィルスも心配ですが、みなさんも感染に気をつけながら、無理のない範囲で出かけてみてください。できるだけ、たくさんの作品に出会いたいものですね。

新年早々、最後まで読んでいただいてありがとうございました。
今年もよろしくお願いいたします。

 
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