平らな深み、緩やかな時間

138.『THE SCRAP 懐かしの1980年代』村上春樹から

前回、「ミニマリズム」というキーワードからレイモンド・カーバー(Raymond Clevie Carver Jr.、1938 - 1988)とジョン・アーヴィング(John Winslow Irving、1942 - )というアメリカの作家について触れました。私がアメリカの現代文学を多少なりとも読んだのは、1980年代のことでした。そういえば、その頃のアメリカの雑誌に掲載された記事や小説について、村上春樹(1949 - )がコラムを書いていたな、と思い出して本棚を探したら、目当ての本がありました。『THE SCRAP 懐かしの1980年代』という本です。
この「懐かしの1980年代」というサブタイトルですが、実はこの本が出版されたのは1987年です。したがって1987年にして1980年代を回顧してしまう、という本だったのですが、このことに何か意味があったのでしょうか。おそらく、出版されたときにはとくに意味はなかったのでしょうが、時代はちょうどバブル前夜で、豊かな生活を目前にして、欧米の文化がそれまでよりも身近に感じられていた頃です。はからずもその時代の、ひとつの記録となった面があります。そして村上春樹にとっては、『ノルウェイの森』で大ブレイクする前の、すこしのんきな時代でした。彼の書いた「まえがき」を見てみましょう。

ここに収められた小文は『スポーツ・グラフィック・ナンバー』誌に1982年春から1986年2月までの約4年間にわたって連載されたものです。僕はどちらかというと連載嫌いで、どんなものでも1年つづけると飽きてしまうから、この『ナンバー』の長期にわたる連載はいわば例外中の例外と言ってもいい。
どうしてこんなに長くつづけたかというと、理由は簡単で、書くのが実に楽しかったからだ。まず月に1回か2回『ナンバー』経由でアメリカの雑誌・新聞がドサッと送られてくる。送られてくるのは『エクスクァイヤ』『ニューヨーカー』『ライフ』『ピープル』『ニューヨーク』『ローリング・ストーン』その他いろいろ、そして『ニューヨーク・タイムズ』日曜版である。僕はごろんと寝転んでパラパラと雑誌のページをめくり、面白そうな記事があるとスクラップして、それを日本語で原稿にまとめる。これで一丁あがり。
どうです、楽しそうに見えるでしょ?実を言うと本当に楽なのだ。
雑誌の中で利用する機会がいちばん多かったのはなんといっても『エクスクァイヤ』で、次が『ピープル』、そして『タイムズ』日曜版、『ニューヨーカー』とつづく。ま、『ピープル』はTV的なコンセプトで作られたものだからちょっとわきにどけておいて、『エクスクァイヤ』と『ニューヨーカー』というふたつのクォリティー・マガジンのタフさにはつくづく感服させられた。4年間毎号毎号読んでいても、たるみというものがまったく見受けられないのだ。企画も立体的できちんと手が入っているし、ライターは優秀だし、やっつけ仕事のような原稿もない。にもかかわらず全体的に非常に風とおしが良い。こういう雑誌をずっと読んでいたおかげで日本の雑誌がすっかり読みづらくなってしまった。日本の雑誌はどうしてあんなに連載と悪口と噂話と対談が多いのだろう。
(『THE SCRAP 懐かしの1980年代』「はじめに」 村上春樹著)

このようにコラムが長続きしたというのは、この頃の日本人にとって、まだアメリカがあこがれの対象だったからでしょう。この本を読んで私も、『エクスクァイヤ』とか、『ニューヨーカー』とか、とても素敵な雑誌なのだろうなあ、と思い描いたものです。何回も書きますけど、いまのアメリカの状況を、この頃の誰が予想できたでしょうか。
先ほども少し書きましたが、村上春樹自身のことで言えば1982年から1986年というのは長編小説の『羊をめぐる冒険』から『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を書いたころで、短編集では『中国行きのスロウ・ボート』がこの時期に出版されました。私自身が、熱心に小説を読んでいたのがこの時代で、個人的にはこの時期の村上春樹がいちばん体になじんでいます。そして、『ノルウェイの森』が爆発的に売れたのがこの直後でしたが、私にはちょっと違和感がありました。そして、いささか人気過多となり、日本の喧騒に嫌気がさして、しばらく海外にいたと思ったら、『TVピープル』という短編小説が『ニューヨーカー』に掲載された、というニュースが飛び込んできました。1990年ころのことで、たしか新聞の記事でそのことを知ったのだと思います。村上春樹は、着実に夢を実現している人だなあ、と感心したものです。 
ということで大作家となった村上春樹に比べると、この1980年代前半の彼は、若者に人気があるものの、玄人筋にはいささか評判の悪い作家でした。でも、そこが若者からすると好ましい所だったのです。この『THE SCRAP 懐かしの1980年代』も、そんな若手作家のパーソナルなコラム、という感じで読んだ記憶があります。いまの村上春樹だと、小説はもちろんのこと、エッセイ集一冊出すたびに大変な話題になってしまいますから、だいぶ扱いが違っていました。そんな、肩の力が抜けた雰囲気がここで紹介できるとうれしいです。
その最初のコラムは「1951年のキャッチャー」です。

「もう30年もキャッチャーをつづけている」
といっても、これはなにもジョニー・ベンチとか野村克也とかの話ではない。1951年にJ.D.サリンジャーが創りあげた「ライ麦畑のキャッチャー」こと、ホールデン・コーフィールド君の話である。
『エクスクァイヤ』誌の12月号はこの「ライ麦畑のキャッチャー」という小さな特集を組んだ。小説も誕生日を祝ってもらえるようになればたいしたものだ。俗に20年経って評価が変わらなければその小説は本物だと言われるが、30年を経た「キャッチャー」は「白鯨」や「ギャツビイ」と肩を並べてアメリカ文学の名誉の殿堂入りを遂げる雰囲気が濃厚になってきたようである。
『エクスクァイヤ』の資料によれば、「キャッチャー」は、ことセールスにかけては「白鯨」や「ギャッツビイ」を完全にしのいでいる。ペーパーバック権をとったシグネット社ははじめの10年で360万部の「キャッチャー」を売り、シグネットのあとを引き継いだバンタム社は今でも一ヶ月に2、3万部の「キャッチャー」を全国の書店やドラッグストアに向けて送り出している。
トータルすれば、この30年間に一千万部を越す「キャッチャー」が売れた。これはビング・クロスビーのレコード「ホワイト・クリスマス」に匹敵する数字である。
(『THE SCRAP 懐かしの1980年代』「1951年のキャッチャー」 村上春樹著)

ちなみに、ジョニー・ベンチ(John Lee "Johnny" Bench, 1947 - )は、元メジャーリーガーで史上最高の捕手だと言われた人です。捕手で本塁打王タイトルを獲得したのは、この人だけだそうです。野村 克也(1935 ‐ 2020)は、最近亡くなったばかりですから、ご存知ですよね。
それでコラムの引用部分についてですが、ごく単純に、「キャッチャー」がいかに売れているのか、というだけの話なのですが、比較する対象が村上春樹らしいと言えます。このことは後で触れます。
そもそもこの時代に、J・D・サリンジャー(Jerome David Salinger、1919 - 2010)のこの小説を私たちは「キャッチャー」とは言いませんでした。私たちにとって、この小説は野崎孝(1917 - 1995)が翻訳した『ライ麦畑でつかまえて』ですから、そこから「キャッチャー」という言葉は出てきません。村上春樹が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』として翻訳するのが2003年ですから、「キャッチャー」と書かれた時点で違和感があり、それがやがてアメリカ文化のにおいを感じさせるのです。
それから、メルヴィル(Herman Melville、1819 - 1891)の『白鯨』とフィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald, 1896 - 1940)の『グレート・ギャツビー』と比較するあたりは、この小説に対する最大級の評価ではないでしょうか。ちなみに、このblogでもたびたび参照する松岡正剛(1944 - )は『松岡正剛 千夜千冊』のなかで、こんなことを言っています。

大のサリンジャー派の村上春樹は、コールフィールドはメルヴィルの『白鯨』、フィッツジェラルドの『偉大なるギャツビー』の主人公たちに続くアンチヒーローで、そこには「志は高くて、行動は滑稽になる」という共通の特徴があると言っていたものだが、この大袈裟な指摘もまったく当たっていない。
 むしろ村上が『ノルウェイの森』のレイコに、「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ、‥・あの『ライ麦』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」と主人公に向けて言わせているのが、これがコールフィールドが日本に飛び火していた何よりの証拠だったのである。

そもそもぼくがコールフィールドのような人物像にまったく関心が湧かないせいなのかもしれないが、どうもアメリカ文学史ではこのアンチヒーローを持ち上げすぎる。むしろ、文学としてのサリンジャーを問題にしてもらいたいのに、それがおこらない。
 仮にコールフィールドを俎上にのせるなら、むしろその内面のキーワードを手繰りよせてほしかった。それはコールフィールドが退学後にニューヨークに来てつぶやくのだが、「無垢であることは傷つきやすい」ということだ。つまりウラのキーワードは「フラジャイル」なのである。
(『松岡正剛 千夜千冊』「ライ麦畑でつかまえて」松岡正剛)

「フラジャイル(fragile)」とは、「壊れやすいさま。もろいさま。」ということになりますが、松岡正剛のコールフィールドの評価は「アンチヒーロー」というよりは、「無垢でもろくて傷つきやすい人」ということになるのでしょう。私も松岡の評価に近いものを感じますが、コールフィールドが「キャッチャー」であろうとしたことをつぶやくところでは、やはりほろりと来るものがあります。そして、村上のコールフィールド評価が過大なものなのかどうか、それはみなさんが自分で判断するしかないでしょう。『ライ麦』だけではなくて、『白鯨』も『ギャッツビー』も読んでくださいね。必読書です。
それにしてもサリンジャーは、最近も(といっても数年前?)『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』という映画にもなっているようですし、現在も話題になっているところに、その影響力の大きさを感じます。
この小説にあまり深入りすると、それだけでページがいっぱいになってしまうので、このへんにしておきますが、最後に一つだけ、私たちの世代でサリンジャーといえば、関連して、小説家の庄司薫(1937 - )が書いた「薫くん」のシリーズが思い浮かびます。いまではピアニストの中村紘子(1944 - 2016)の夫だった人、ということになってしまいそうですが、私たちにとっては圧倒的に庄司薫の方が有名でした。その作風にはサリンジャーの影響が取り沙汰されたこともありましたし、比較してみるとコールフィールドくんの家出に比べると、薫くんの環境は温室的で恵まれたものです。しかし、高度なインテリ青年の悩みを、小学生並みと揶揄された平易な言葉で語ってみせた点で驚きに値しました。興味があったら、『赤頭巾ちゃん気をつけて』、『白鳥の歌なんか聞えない』など読んでみてください。
それから蛇足ですが、村上春樹は「キャッチャー」の大ヒットを説明するにあたって、「ホワイト・クリスマス」を引き合いに出しています。「ホワイト・クリスマス」という曲は有名ですけど、若い方はそれを歌ったビング・クロスビー(Bing Crosby、1903 - 1977)という歌手、俳優をご存知でしょうか。1930年代に普及したマイクロフォン(歌う時に使うマイクです)をうまく使って、声を張り上げずに、なめらかに歌うクルーナー・スタイルという歌い方を確立した人だと言われています。私は子供のころにテレビではじめて映画『ホワイト・クリスマス』を見ましたが、母親が「この人がビング・クロスビーっていう人よ」とか「こっちの人がダニー・ケイ(Danny Kaye,1911 - 1987)っていって、クレイジー・キャッツの谷啓(1932 - 2010)はこの人から名前を取ってるのよ」なんてことをこたつの中で教えてくれました。こういう他愛のない話は、なぜか忘れませんね。しかし、いまの若い方は「クレイジー・キャッツ」も「谷啓」もご存知ないかもしれません。コメディアンですが、ジャズのトロンボーン奏者としても一流だったという話です。

さて、次に出てくるのはドナルド・バーセルミ(Donald Barthelme、1931 - 1989)とレイモンド・カーバ―です。
村上春樹は、外国の「雑誌を読む喜びのひとつは優れた短編小説に巡り会うことである」と書いたのちに、このように書いています。

最近では『ニューヨーカー』に載ったレイモンド・カーバーの「僕が電話をかけている場所」(Where I’m Calling From)とドナルド・バーセルミの「落雷」(Lightning)の二冊がお勧め品である。カーバーはいつもながらほれぼれするような好短編である。
「落雷」は『フォークス』という雑誌(もちろん『ピープル』誌のパロディ)のために「落雷に打たれながらも生きのびた人」のインタヴューを集めるフリー・ライターの話で、たいした内容というわけでもないのだけど、思いつきと語り口だけでぐいぐいと読ませてしまう。最後のまとめ方もいかにもバーセルミらしくすっきりとしている。こういう作品は短編集の中の一編として読むよりは雑誌で独立して読んだ方が良いような気がする。僕はエラリー・クイーン風に「読者への挑戦」と呼んでいるのだけれど、はじめからネタを割っておいてどこまで読者をひっぱっていけるかというテクニックのショーケースである。
「僕が電話をかけている場所」はそれとは違ってけれん味のない淡々として語り口の小説である。しかしカーバーの文章は一瞬たりとも立ちどまらず前へ前へと突き進んでいく。アルコール中毒で療養所に入っている主人公が同じ患者の青年と心を通わせあうという話だが、暗い題材のわりにパセティックに流れないところがいい。すらすら読めて、しかも読み終わったあとで心に何かが残る。優れた短編とはそういうものである。
(『THE SCRAP 懐かしの1980年代』「『ニューヨーカー』の小説」 村上春樹著)

村上春樹はカーバーの小説について、「ミニマリズム」というような面倒なことは言わず、「けれん味のない淡々として語り口の小説」という紹介をしています。(「ミニマリズム」に興味がある方は、私の前回のblogを読んでみてください。)そしてこのコラムを書いた1982年の翌年、1983年に村上春樹は自ら『僕が電話をかけている場所』を翻訳しています。これがたぶん、カーバーの日本語訳の最初の本でしょうから、この時点でほとんどの日本人がカーバーのことなど知らなかったのだと思います。だから、英語で小説が読めると楽しいだろうなあ、と思うわけですけど、私の語学力では辞書を引きながら字面を追っても、何のことやらさっぱりわからない、というのが現実です。どうでもいいことですが、私はヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway、1899 - 1961)の英語はわかりやすいよ、と友人に言われて『殺し屋』(The Killers)という短編を読んでみましたが、翻訳では凄みのある殺し屋が、原文を読んでも全然怖くなくて困りました。
ちなみにバーセルミの説明で出てくるエラリー・クイーン (Ellery Queen) は、アメリカの人気推理作家ですが、実はフレデリック・ダネイ(Frederic Dannay、1905 - 1982)とマンフレッド・ベニントン・リー(Manfred Bennington Lee、1905 - 1971)という二人の作家の合作名です。そしてエラリー・クイーンという名前の探偵が主人公の短編もかっこいいのですが、私たちの世代ではドルリー・レーンが活躍する『Yの悲劇』が推理小説史上の最高傑作という評判が高く、私も中学生の頃に頑張って読みました。いまではあまりエラリー・クイーンの名前を聞かないのですが、『Yの悲劇』の犯人はなかなかわかりませんよ、推理小説が好きな方は、挑戦してみてください。

そして次はジョン・アーヴィングです。しかしこれは「J.アーヴィングと夫婦不仲」とういタイトルで、9行目以降はどうでもいい夫婦別居の話です。最初の8行だけ紹介しておきます。

『ローリング・ストーン』の8月5日号を読んでたら、ジョン・アーヴィングの大傑作にして大ベストセラー「ガープ的世界のなりたち」(THE WORLD ACCORDING TO GARP―好きなように訳して下さい)の映画の広告が出ていた。主演がロビン・ウィリアムズ、監督があの「スローターハウス5」の涙の大天才ジョージ・ロイ・ヒル、7月23日全米一斉公開、ワーナー・ブラザーズ作品とある。これはなんとしても観なければならない。
(『THE SCRAP 懐かしの1980年代』「J.アーヴィングと夫婦不仲」 村上春樹著)

この記事が書かれた1982年の時点では、『ガープの世界』は、まだ日本のタイトルが確定していませんでした。調べてみると、アメリカでの小説の出版が1978年、映画化が1982年、そして日本語での翻訳が1983年だそうです。たぶん、私は映画を先に見て、小説を後から読んだのだと思います。映画の主演のロビン・ウィリアムズも熱演でしたが、母親役のグレン・クローズがすごかったです。デビュー当初から怪女優でしたね。監督のジョージ・ロイ・ヒル(George Roy Hill、1922 - 2002)は、一般的には『スローターハウス5』よりも、1969年の『明日に向って撃て!』、そしてアカデミー賞を受賞した1973年の『スティング』の方が有名ではないでしょうか。この二作品は両方ともボール・ニューマンとロバート・レッドフォードという大スターのダブル主演です。ロバート・レッドフォードは、映画に詳しい若い方は映画監督としてご存知かもしれませんが、フィッツジェラルドの映画化された「ギャッツビー」役として印象的な俳優でした。後年、ディカプリオが演じたらしいですが、私たちの世代では圧倒的に「ギャッツビー」はレッドフォードです。小説も映画化されると、いろいろな人脈が繋がってきて面白いですね。
その一方で、この時点では日本人のほとんどがアーヴィングのことを知らなかったと思います。この後にアーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』が、小説も映画もヒットしました。映画では、ジョディ・フォスターとナスターシャ・キンスキーという当時人気だった二人の女優が共演していて、作品としても面白かったと思います。その後のアーヴィングの小説、『サイダーハウス・ルール』が私にとってはいまひとつの印象だったので、その後、彼の小説を読むのをやめてしまいました。ちなみに村上春樹はアーヴィングのデビュー長編、『熊を放つ』を翻訳しています。これは小説としてこなれていない印象がありますが、アーヴィングの小説の中でも村上春樹の世界ともっとも近い感じがして、ちょっと影響があるのかな、と思いました。

それから、この本ではカート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut、1922 - 2007)の小説のことや、ウィリアム・スタイロン(William Clark Styron, Jr.、1925 - 2006)の『ソフィーの選択』という小説の映画化の話などが取り上げられています。女優のメリル・ストリープは名演が多いけれども、この『ソフィーの選択』での主演が一つの頂点だと私は思います。すごく重たい映画で、よい作品だけど映画だけで十分、小説も読もうとは思いませんでした。
こんなふうに書いていくと、この本は文学的なコラムばかりかと思われるかもしれませんが、まったくそんなことはなくて、文学の話は10回に1、2回ぐらい、映画や音楽、スポーツ、食べものの話など、身近な話題がほとんどです。
そんな中で、取り上げたい作家の話が、あと二つあります。
ひとつは「リチャード・ブローディガンの死」というコラムです。このblogでも、「112.ブローディガン『アメリカの鱒釣り』、村上RADIO、國分功一郎について」と「113.ブローディガン『西瓜糖の日々』、『愛のゆくえ』」の2回連続で、リチャード・ブローティガン(Richard Brautigan、1935 - 1984)という作家について取り上げました。とくにブローディガンの死については「113.ブローディガン『西瓜糖の日々』、『愛のゆくえ』」の中で、佐藤良明(1950 - )と高橋源一郎(1951 - )がそれぞれ素晴らしい文章を書いていることを紹介しています。Blog内検索で、ぜひ読んでみてください。
村上春樹のこのコラムは、彼の感想ではなくてアメリカ社会がブローディガンの死をどう受け止めたのか、ということについて書いていますので、佐藤良明や高橋源一郎の文章と単純に比較はできませんが、とりあえず(ちょっと反則ですが)全文を書き写しておきます。

知人の話によるとリチャード・ブローディガンの自殺はアメリカではほとんど話題にもならなかったそうである。『ピープル』誌は二ページを割いてブローディガンの死を報じているが、その記事の内容もだいたい「アメリカ本国での評価に比べて日本において故人の人気がいかに高かったか」というあたりにポイントが置かれている。それはたぶん世界を生命のあるがままにミニチュアの中に封じこめるべく丹精こめて書かれた彼の精緻な文章がボンサイ的優雅さを解する彼の国の読者に受けたのであろう、と『ピープル』誌は解釈している。それからもちろん翻訳者に恵まれたということもあるはずだと僕は思う。ともかくリチャード・ブローディガンは日本人を好み、日本人はリチャード・ブローディガンを好んだ。
しかしそれに比べて、アメリカ本国における彼の凋落ぶりは目を覆うばかりのものであった。最新作の“SO THE WIND WON’T BLOW IT ALL AWAY”はたった一万五千部しか売れずほとんど何の話題にものぼらなかった。かつて「アメリカの鱒釣り」を二百万部売ったのと同じ作家がである。僕も後期のブローディガンにはあまり熱心でなかった標準的な読者のひとりだから気の毒がる資格はないとは思うけど、この落差はあまりにも激しすぎると思う。たしかに後期のブローディガンにはあの天馬空を行くが如き初期の作品における想像の飛翔は失われていたが、それでもやはり凡百の作家には真似のできないもの静かでやさしくおかしみにあふれた独自の世界を描きあげていたからである。デビューの印象があまりにも強烈すぎると作家はあとがつらいものである。僕なんかほどほどにしか売れないから、ほどほどに楽しているような気がする。良いのか悪いのかよくわからないけど。
ブローディガンが登場したのは1960年代中期、ヒッピー・ムーヴメントがまさに花開かんとするサン・フランシスコで、彼はあっという間に当地のボヘミアン・シーンの中心的存在に祭りあげられてしまった。彼の自由でナイーヴで突拍子がなくて楽しいものの観かたと既成の小説の枠組をばらばらにほどいてしまったような独特の解放感は、その時代の空気に実にぴったりとあっていた。彼がサン・フランシスコの街を歩くと人々はあとからあとから彼に群がり集まってきたものである。
「あれは襲撃と呼ぶにふさわしいものだったわね」と彼の友だちの一人であるピーター・フォンダ夫人のベッキー・フォンダは回想している。「私たちはみんなで彼をガードしてまわったものよ」
彼の心を最も苦しめていたのは読者の減少でした、というのが彼の前のマネージャーの証言である。
(『THE SCRAP 懐かしの1980年代』「リチャード・ブローディガンの死」 村上春樹著)

さすがに村上春樹だけあって、何気なく書いていますが、限られた字数の中でブローディガンの死という小さくない事実を、うまくまとめています。このなかで、ブローディガンが翻訳家に恵まれた、と書いてありますが、それは藤本和子(1939 - )のことでしょう。いまや翻訳界の第一人者である柴田元幸(1954 - )が、彼女のブローディガンの翻訳に影響を受けたというぐらいですから、ブローディガンの日本での評価の大きな要因が藤本訳であったことは間違いありません。彼の死の受け止めが、本国ではごくあっさりとしたものであった、というのはお国柄のせいでしょうか。村上春樹自身は「僕も後期のブローディガンにはあまり熱心でなかった標準的な読者のひとりだから気の毒がる資格はない」と控えめに書いていますが、少なくとも前期のブローディガンからは絶大な影響を受けていると思います。それにしても、この文章を書いたすぐ後で、村上春樹はブローディガン以上の、世界的な成功を納めることになりますので、彼が「ほどほどに楽している」のも、この頃まででしたね。

最後にもう一人、ブローディガンとは逆に、このときもっとも注目されていた若手作家、ジェイ・マキナニー(Jay McInerney, 1955 - )についてのコラムを紹介します。この人もいまでは65歳です。月日の経つのは早いものです。
マキナニーの出世作で高橋源一郎が翻訳した『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』は、このコラムが書かれた2年後ぐらいに日本でも話題になりました。ちょうどその翻訳本がでたころ、『再会の街』というタイトルで映画化もされました。こちらはマイケル・J・フォックスが主演していて、かなりヒットしたと思います。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が大ヒットして、飛ぶ鳥を落とす勢いだったマイケル・J・フォックスでしたが、私はこの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』を見て、はじめてこの俳優はまじめでいい人なんだな、と思いました。現在もパーキンソン病と闘っていらっしゃると思いますが、その姿勢は立派です。
このコラムが書かれたのは、そんな日本での話題になる2年前、1986年に書かれたものです。

今アメリカでいちばん注目されている若手小説家といえば、これはもうなんといってもジェイ・マキナニー(Jay McInerney)である。アメリカの雑誌のページをぱらぱらとめくっているとよく彼の名前にお目にかかることになる。たとえば『ヴァニティー・フェア』には彼がモロッコのタンジールに伝説の作家ポール・ボウルズを訪ねたときの会見記が載っているし、『ピープル』には二冊目の長編『ランサム』を出したマキナニーのインタヴュー・紹介記事が掲載されている。また二十代だし、文字どおりあつあつ・ホカホカのホット・スタッフである。
彼のデビュー作「ビッグ・シティーの明るい灯」は僕も読んだけれどなかなか面白い鮮やかな小説で、クリティックスには完璧に無視されたが、巷では評判になって、新人作家としては異例・破格の十五万部という売り上げを記録した。長いあいだピチピチの「青年作家」を輩出していなかったアメリカ文壇・ジャーナリズムは彼を第二のサリンジャー、新しい時代のフィリップ・ロスと持ちあげているから、そういうのに興味がある方は原文で読んでみて下さい。Vintage Books ”Bright Light Big City”で、値段は5ドル95セントです。
マキナニーはブリンストンの奨学金を受けて二年間を日本で過ごし、アメリカに戻ってからは『ニューヨーカー』の校正係という地上で最も困難な職のひとつに就き、売れっ子モデルと結婚して、NYのナイト・スポットを巡ってコカインを吸いまくるという派手な生活を送った。この生活は数年で破綻するわけだが、「ビック・シティー・・・」はこのときの彼の経験が題材になっている。
1980年に彼はランダム・ハウス社の持ちこみ原稿を読む係になり、そこでレイモンド・「村上春樹訳」・カーバーと知りあいになり、彼が創作を教えているシラキューズ大学のクラスに来ないかと誘われることになる。そして1983年にデビュー作「ビック・シティー・・・」を書きあげるのである。
いつもクールさを失わないマキナニーだが(ダン・アイクロイドを少し甘くしたようなマスクである)、その成功と名声の到来するスピードの速さにはやはりいくぶん戸惑っている。
「生活のために夜は酒屋でアルバイトしていたんだ」と彼は言う。「ところがその次の瞬間には飛行機でハリウッドにつれていかれ、新進作家として上等な食事とワインをふるまわれている。僕のエージェントのところには新人作家を売りこむ電話がかかってくる。『こいつは第二のジェイ・マキナニーになるぜ』ってね」
日本でもアメリカでも新人作家の回転速度はおそろしく速いのである。
(『THE SCRAP 懐かしの1980年代』「ジェイ・マキナニーの明るい灯」 村上春樹著)

私がマキナニーを読んだのは、この『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』と次作の『ランサム』まででした。『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』の方が断然に良かったし、『ランサム』も好感は持てたけど、もう追いかけなくてもよいかな、と思ってしまったのです。
それとは別にして、こういうふうに時代の寵児となるときの様子というのは、やはり見ものではあります。自分で体験することはないし、そういう人生もあるのだなあ、という単純な興味がありますね。

さて、村上春樹のコラムをきっかけとして、私のような素人が1980年代当時の外国文学の思い出話ばかりしていても仕方ないので、最後に少しだけ、1985年11月の『美術手帖』がたまたま手元にあったので、美術の話も加えておきましょう。
「現代絵画の冒険」というのが、この号の特集で、目玉は横尾忠則(1936年6 - )と彦坂尚嘉(1946 - )の対談だと思います。それ以外に、知っている画家の作品が多数掲載されていて、懐かしさもわいてきます。
このころ、東京方面の展覧会評を書いていたのが田野金太さんですが、偶然にも先日、画廊でお会いしました。お互いに面識はなかったのですが、当時、神田界隈でお会いしていたはずですね、なんて話をしました。それから作家の橘田尚之さんが、「林檎の悦楽」なんていうタイトルで、林檎の張りぼてを作る工作を実演しているコーナーもありました。橘田さんは、もうすぐ個展を開く予定で、とても楽しみです。
大発見は、尊敬する美術評論家の平井亮一さんが画家の中西夏之について、まとまった評論を書いていたことです。昔、見たはずなのに、すっかり記憶から消えていました。これはうれしい発見です。何とか解読して、これだけを取り上げてblogを書いてみたいと思います。
そんなわけでいろいろとあるのですが、今回は篠田達美の「視覚のフォークロア」という論文の一部を抜き書きしておきましょう。前回から話題になっている「ミニマリズム」とも関連した部分です。

ところが、当然のことながら、視覚と平面との関係は絶対的に安定しているものではない。それは空間よりは比較的安定しているというにすぎないだろう。まず、表面の感触については、視覚以外の、経験的な悟性によって判断している。これは空間認識の悟性とは別の悟性なので、視覚の触感的な機能と呼んでおいてさしつかえないだろう。次に、色彩あるいは色価については、視覚内部の機能(光に対する反応といってもよい)のイリュージョンが、浅い奥行きを作る。この視覚の属性とさえ言いうる触感と色彩に対するイリュージョンすら最小限にまで排除しようとしたのが、60年代のステラやケリーなど、ミニマリズムの絵画であった。われわれはモンドリアンの絵に対面するとき、テープや絵の具の盛り上がりがあって、表面がざらついているのに気づくのであるが、モンドリアンは表面の感触について、驚くほど無頓着であった。ミニマリズムの絵画はそうではない。
しかし、ミニマリズムは視覚の純粋性を究めようとした結果、現れる作品が静的なもの、ヴァリエーションの限られたもの、視覚にとって障害のないものに落ち着く、という袋小路を自ら招くことになった。この袋小路から抜け出るためには、視覚の属性に余地を与え、触感や筆触、色彩による浅い表面構造内のムーヴメントも、絵画の領分として許容しようではないか、という理解が共通のものになった。いわば、二枚のガラス板の中で、視覚の手足が解き放たれたのである。この浅い表面構造もしくは絵画空間が、現代絵画を成立させるボトム・ラインとして再設定された、と考えてみることができるだろう。そしてこの二枚のガラス板の浅い自由領域に、満を持していたイメージが逆流してきたのである。イメージは平面的なものであれば、この浅い表面構造を侵犯しない。問題はイメージが解釈を生む、ということで、解釈は視覚の領分から逸脱してゆく。つまり、絵画に向き合っていながら、実はイメージに向き合っている、という退行現象に陥る危険性を内包している、ということである。このため、イメージは解釈を生みにくいものである必要がある。その範囲であるならば、イメージは抽象的なものでも具体的なものでも区別がない、ということができるだろう。
(『美術手帖1985年11月号』「視覚のフォークロア」篠田達美)

篠田達美の文章を、私は熱心に読んできたわけではありませんし、特別な共感も持っていませんでしたが、この文章を読むと、当時のミニマリズムから、アニメのキャラクターを描く絵画が横行するようになったその当時の絵画の状況に対し、何とか整理して考えよう、という誠意ある態度が読み取れます。しかしそんな状況に対して、絵に描かれた「イメージ」が「解釈を生みにくいもの」であれば、何とか「退行現象に陥る」ことがなく許容できる、というふうに篠田は言っているようで、ちょっと苦しい解釈だと言わざるを得ません。
その当時は、篠田が書いているように「満を持していたイメージが逆流してきた」ことが、とても重要だと思われていましたし、ショッキングなことでもありました。それを受けいれるのかどうか、受けいれるのならどのように受けいれるのか、ということが注目を集める美術評論家として、大切なことだったのでしょう。しかし、今から振り返るなら、実はそんなことはどうでもよいし、放っておけばよいと私は思います。思わせぶりな「イメージ」を描く者いるのであれば、「それは何の意味があるの?」と問いかければよいでしょうし、それを聞いてしまえば、その底の浅さがすぐに露呈するはずだからです。その「イメージ」の導入によって、何かを創造しえている者がいるのであれば、そのことを真剣に論じることも可能です。要は視覚偏重のモダニズムを再検証するところに立ち戻らなければ、「ミニマリズム」の破綻を本当には指摘できないはずです。それができなければ、商業主義的な美術の流行の追認に終わってしまう、ということになってしまうでしょう。
さらに、篠田は次のように書いて文章を終えています。

これまで近代主義的な西欧のモデルに頼りながら、触感性、メディアの中のメディア、平面性などの問題に触れてきたわけだが、これらの特性はわれわれの伝統的な領域の中にもアナロジーを見出せることに気づくはずである。素材に対する豊かな感性と理解は触感性と直接に結びつくし、メディアの中のメディアは一定形式の中の物語性、言語、宗教観、世相などの枠あるいは網として、平面性は意匠性もふくめた融通無碍な空間の処理において、それぞれ無関係ではない。われわれはあいかわらず西欧モデルに頼りながら、ヴァナキュラーなものの同時代なエッセンスを構造化してゆく道を考えなければならないのである。
(『美術手帖1985年11月号』「視覚のフォークロア」篠田達美)

篠田達美の誠意をくみ取ったうえで、あえて書くことなのですが、この最後の「ヴァナキュラーなものの同時代なエッセンスを構造化してゆく道」というのも、苦しい解釈です。「西欧モデル」に対して、日本人の伝統工芸的な感性、つまり素材に対するデリケートな感性や意匠性などを対置して、それらを「西欧モデル」の中に構造化して入れ込むことに、篠田は可能性を感じていたように読めるのですが、私たちの生活環境を考えてみればそんなことはあり得ませんし、実際にそうなりませんでした。
「西欧モデル」に頼るのではなく、むしろもっと主体的に、私たちも近代的な思想や考え方を根本から理解する必要がありますし、もはやそこには西洋も東洋も、外国人も日本人もないでしょう。残念ながら、私のなかには日本的なデリケートな感性は微塵もありませんし、そこに注目しなければ美術表現が成立しないのであれば、止めてしまった方が良いくらいです。
私の近代思想の理解がつけ刃的で浅はかだ、という指摘があれば、どこが浅はかなのか教えていただいたうえで、そこを勉強するしかありません。私に残されたわずかな人生の中で、それが出来るのかどうかわかりませんが、やりきれなければそれまでだと思います。少なくとも、日本固有の「ヴァナキュラーなものの同時代なエッセンス」という曖昧なものに拘泥するくらいなら、もっと大きくて重要な課題に取り組んだうえで、道半ばで果てた方がましというものです。

今回見てきた村上春樹のコラムに関連させながら、最後にまとめておきましょう。
村上春樹にも、彼に対する日本の文学界からの批判が数多くあるようです。そして、ここで見てきたことは、彼がたかだかアメリカの雑誌の読みかじって書いたコラムを追いかけることだけです。それでも、村上春樹の感性が世界に対して開かれたものであることは、確認できたのではないでしょうか。この数年後に、彼は『ニューヨーカー』に掲載される小説家になり、世界的な作家になったわけです。彼が成功したからエライ、というわけではないのですが、日本の文壇的な雑音に拘泥して、彼自身の感性を閉ざしていたなら、今日の村上春樹はいなかったと思います。
西欧の表現であれ、日本人の表現であれ、同じ時代を生きている人間の表現です。彼の国に学習しなければならない厖大な哲学や思想があるのであれば、それを学べばよいことで、一人一人の表現に対して無用なランク付けをする必要はありません。一人の人間の営みを尊敬し、批判しながら、その根本から見ていくようにしませんか?何も堅いことを言っているわけではありません。雑誌のコラム程度のことであれ、とにかく境界を作らず、卑下することもなく、かといって己惚れることもなく、平静に見ていけばよいのです。村上春樹は「どうです、楽しそうに見えるでしょ?実を言うと本当に楽なのだ。」と書いていました。こんなふうに、今を面白がって見ていくことが大切だと思います。
それにしても、大作家になってしまった村上春樹ですが、その「気軽さ」は健在でしょうか?そうはいかない現実は多々あると思いますが、最近はラジオ番組でも活躍しているようですから、その番組作りで息抜きしながら、頑張っていただきたいと思います。ラジオの彼の選曲、それにトークは、本当に楽しそうですから、まだ大丈夫でしょうね。ノーベル文学賞に関する雑音にも、耳を貸さないでいていただきたいものです。

私たちも、コロナ禍でつらい毎日が続きますが、こういうときこそ芸術表現に触れたいものですね。何か好きなものを見て、聴いて、読んで、気を取り直して生きていきましょう。私も、ささやかな自分自身の気づきを、ここに綴っていきます。

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