平らな深み、緩やかな時間

139.『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』平井亮一、『探究Ⅰ』柄谷行人から

前回、『美術手帖 1985年11月号』の中で、美術評論家の平井亮一が中西夏之(1935 – 2016)について論文を書いていることを紹介しました。それが『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』です。今回は、この論文を何とか解読して、私なりに中西夏之の芸術への理解を深めてみたいと思っています。
その前に、中西夏之の作品をあまりご覧になっていない方は、インターネットで調べておいていただきたいと思います。例えば、つぎの「DIC川村記念美術館」のホームページからは、2012年から翌年にかけて開催された中西夏之の展覧会の画像を見ることができます。
https://www.museum.or.jp/report/220
このページの写真では、「50年代末に制作した初期の作品《韻》シリーズ、1963年に読売アンデパンダン展に出展して大きな反響を得た《洗濯バサミは攪拌行動を主張する》、そして近年の《擦れ違い/遠のく紫 近づく白斑》の連作と、3つの時期の作品」を見ることができます。それに中西の絵画について考えるなら、1970年の『山頂の石蹴り』、1979年の『弓形が触れて』のシリーズ、1981年の『arc・ellipse』のシリーズあたりを見ておくと良いでしょう。その後の『紫・むらさき』、『夏のために』、『たとえば波打ち際にて』までが、1985年に書かれたこの『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』の射程に入っています。
そしてもうひとつ、「東京文化財研究所」のホームページに、中西夏之の足取りがコンパクトなテキストで書かれています。1985年までの、作家としての主要部分だけを書き写しておきます。

58年7月、檪画廊、59年9月、村松画廊にて個展。63年5月、新宿第一画廊にて「赤瀬川原平・高松次郎・中西夏之展」開催。この3人をメンバーに、「ハイレッド・センター」を結成。「ハプニング」と称して、パーフォーマンスなどの発表活動をはじめる。64年1月-2月、南画廊にて、荒川修作、三木富雄、工藤哲巳、菊畑茂久馬、岡本信治郎、立石紘一とともにヤングセブン展に出品。65年、土方巽演出・振付の暗黒舞踏派公演にあたり舞台美術を担当。66年、通貨及証券模造取締法違反を問われ、被告となった赤瀬川原平の「千円札裁判」で、証言及び作品の提示を行う。69年、美学校に「中西アトリエ」を開設、72年には同学校にて「中西夏之・素描教場」を開設、翌年にかけて制作指導にあたる。75年9月、西武美術館にて「日本現代美術の展望」展に出品。
 80年11月、雅陶堂ギャラリーにて個展。絵画に復帰。83年、同ギャラリーにて個展「中西夏之 紫・むらさき」を開催、油彩画シリーズ「紫・むらさき」を発表。85年7-8月、北九州市立美術館にて「中西夏之 Painting 1980―85」展を開催。
 60年代の「ハプニング」など反芸術的な活動から始ったが、70年代の「山上の石蹴り」のシリーズから、「紫・むらさき」のシリーズを経て、晩年まで描く自身の身体性を強く意識して、平面に向き合うという「絵画」表現の本質を追求した、現代絵画において類まれな画家であったといえる。
(『東京文化財研究所』「中西夏之」/「出典:『日本美術年鑑』平成29年版(559頁)」)

そしてこの『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』は、ここにも書かれていた1985年の北九州市立美術館での『中西夏之展』を契機として書かれたようです。私はこの展覧会を見ていませんが、なぜか図録を持っています。この時期は、とにかく中西夏之のカタログであれば、何であれ見てみたいと思っていましたから、何かの機会に購入したのだと思います。いま見返して見ると、なんと中西に関するテキストを書いているのがフランス文学者の豊崎光一(1935 - 1989)と、このblog(123)でも取り上げた『感覚の論理学』(ドゥルーズ著)を翻訳した哲学者の宇野邦一(1948 - )です。彼らはフランスの現代思想書の翻訳でもおなじみですね。中西夏之のスケッチブックの写真までついていて、読みごたえのある図録です。
それから参考資料の最後として、私も何回か中西夏之について(19. 20. 67.)書いていることをご紹介しておきます。実は、先の「DIC川村記念美術館」の展覧会(7.)も見に行きました。よかったらblog内検索で確認してみてください。たいしたことを書いていませんが、それでも今回の内容と多少、重複するところがあります。あまり進歩のない人間が書いていることなので、大目に見ていただくしかありませんが、あえて言えば、今回、平井さんの論文を読んで、いままでボンヤリとしていたものが、とてもクリアになった気がします。そのことをうまくみなさんにお伝えできれば、とくに絵画を制作されている方には参考になるのではないかと思っています。それでは、はじめましょう。

この『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』は、次のような中西夏之の言葉から始まります。

画家・中西夏之は問いかける。
「人は最初どのように絵をかくだろうか。最初の人はどのように絵をかいただろうか。」(弓形が触れて―『日本戦後美術』、1983、日本戦後美術研究所発行。なお、本年におこなわれた北九州市立美術館での展覧会カタログに収録された自筆ノートの扉にもこのことばが掲げられている)
画布にむかい、そこになにかあらわすことがかならずしも自明の前提とはなりえないことを自覚せざるをえないような、あのパラダイム変換の洗礼をうけた表出者が、なお画布にむかおうとするなら、まずもってゆきあたる問いであろう。画布を前にしながら絵画の初発、絵画の出自を問う画家とは、はなはだ不安定なところに立つ者というほかないのはむろんとして、しかしそれならそれで、こうしたあやういところを軽やかに進み、しなやかに機先を制してゆくことは可能かもしれない。行為者の身さばき・身ぶり、そこにしるされる行為の跡が、ある尋常ならざる秩序とかたち、それらの生成・変容のいわば“形式”を、ひとびとの眼差しに示しうるなら、これはいったいなんと呼んだらいいのだろうか。このようにして、そのつど、むこうへむこうへと眼差しから逃れてゆくもどかしい画面(シーン)を残そうとする画家・・・。
が、これははたして、ひとびとの眼差しの、ひとびとの意識でのできごとなのだろうか。とらえようとすればたちまちむこうへとすりぬけてしまう知覚効果の現前。にもかかわらず、それらはいずれも、もしそうしようとするなら誰でも手でふれることのできるものの上、あるいはその、ものにおいて、なにかかたちをなしてあらわれている。そこは画布の上。
(『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』平井亮一)

このような文章から始まり、平井は絵画の成り立ちそのものへの思考を、どんどん深めていきます。気がついてみると、最初の「画家・中西夏之は問いかける」という一文の次に中西夏之の名前が出てくるのは、論文全体のちょうど真ん中あたりです。つまりこの論文は、中西夏之という画家の歩みを紹介するのではなく、絵画という表現について論じた文章のように読めるのです。中西夏之の絵画について平井亮一という評論家がどのように評価しているのか、ということを早く知りたい人にとっては、まったくわけのわからない論文に見えるでしょう。私も、この論文を初めて読んだときには、そんなふうに思ったのかもしれません。
しかし、この平井亮一の中西夏之へのアプローチは、まったく正しいのです。なぜなら、中西夏之という画家は、絵画という表現の成り立ちについて徹底的に思考した画家だからです。そのことには、もうすこしあとで触れるとして、まずは平井が絵画表現についてどのようなことを言っているのか、その声に耳を傾けましょう。

ことわるまでもないことだが、私たちの知覚作用の前にあって絵画とは、まずもって物質的な現前、すなわちえのぐが一定の物体の表面にほどこされたうえでの色彩・形象のあらわれ、それら知覚的要素のアマルガム現象にすぎない。それが画面というものだ。このことから、そうした現前がやがて“絵画”としてみとめられ、そのように知覚作用がまとめられ同一化されるには、私たちのなかでさまざまなレヴェルでの知覚と認識との変換・統合がおこなわれなくてはならない。そのようなことにふれながら、私は別のところでこうのべた。
「画家は、いうまでもなく筆とえのぐを使って画布になにかを描く。いいかえれば、物質としての素材を、それぞれの手法であつかい、それぞれのかたちと色彩を出来させる。さしあたり、ここまではたんなる視覚的なできごとにすぎない。こうした“零度の視像”にしかるべき構造をあたえているのが、画家のなかでひそかにおこなわれる知覚、手法、認識の統合であった。」(知覚の現実、『構造』第4号)

すこし解説を試みましょう。まず「アマルガム現象」という言葉ですが、一般的には金や銀が水銀と化合して変色してしまうことを言います。平井は、「えのぐが一定の物体の表面にほどこされたうえでの色彩・形象のあらわれ」などというものは、それだけでは「知覚的要素のアマルガム現象にすぎない」、つまり単に何かの表面に絵の具で形を描いただけでは、それは感覚を変質させる何ごとか、感覚に訴えかける何ごとかに過ぎず、そのままでは「絵画」とは言えない、と言っているのだと思います。
そのような、筆と絵具を使って出来た「かたちと色彩」は「たんなる視覚的なできごと」に過ぎないのですが、そのことを平井は「零度の視像」というふうに言っています。この「視像」という言葉を、平井は別なところで次のように説明しています。

このように画面にあらわれるあいまいなかたちは、おそらく結果として平面の自己指示を綾どるけれども、平面を参照しているわけではないし、システムを参照しているわけでもない。そうかといって、なにかのイメージをそこにあらわしたともいえない。あえていえば、なにものも参照しないかたちの現前―原像というには少しばかり複雑だし、形象というには定かならぬ様態ということで―私はさしあたり“視像”ということにしているが、いままでにふれた作品でもわかるように、しばしば、画面の外の生活現実にふれたなにかを媒介していることは注目していいと思う。
(『指示する表出 現代美術の周辺で』「媒介される視像」平井亮一著)

現代絵画においては、画面上に描かれた何かが、何とも言いようがない、ということがしばしば起こります。具象的なモチーフではないし、抽象的な形体やフォルムとも言えないようなものが、画面上に描かれている、ということがあるのです。例えば、このblogでも取り上げたことのある山田正亮(1929 – 2010)の筆触・画面分割、辰野登恵子(1950 – 2014)の絵肌・形、などを平井は例としてあげています。
さきほどの文章に戻れば、「零度の視像」とは、それ自体では何も意味しないような「形や色彩」ということになるのでしょう。そして画家は、それらに対して「しかるべき構造」をあたえることによって、絵画表現というものを成立させているのですが、ここからがさらに話が長くなります。
何だかややこしい内容ですが、このややこしさを回避していては、現代において「絵画」というものが何なのか、と問うことができません。
19世紀までならば、平面上に「人」や「林檎」などの具体的なものが描かれていれば、それが「絵画」だと言えたのかもしれません。20世紀の前半までならば、その具体的なものが、幾何学的な形体や不定形のフォルムなどの抽象的な形体にまで範囲が広がったのだ、と説明できたのかもしれません。しかし、いまでは「絵画」を説明するにあたって、そう簡単にはいかないのです。ですから平井は「視像」という言葉を用い、さらに用心深く「零度の視像」というふうに、その「形や色彩」がそれ自体では意味を持たないような言い方をしなければならなかったのです。
さて、それでは、人はどのようにして描いたものに「しかるべき構造」をあたえて、それを絵画として認識しているのでしょうか。平井はここで、オーソドックスなふたつの説明を紹介しています。ひとつは人がその発達段階に応じて、絵画を描くということを発展させていったという説明です。もうひとつは、人が歴史的に、つまり美術史的な発達過程において、絵を描くということを発展させてきたという説明です。それをまとめると、次のようになります。

私たちの個体(史)の発生認識論的な形象対応が、たまたまこうして美術(史)の系統発生論的なそれといっしょになったけれども、私たちの日常的な知覚作用や認識とじかにむすびついた形象表出にせよ、いずれにも前提となるのは、知覚、手法(日常的な意味で手段)、認識の統合ということであった。幼児には主客未分化の身体的知覚の延長にそれがあるとするなら、画家の現実再現意志には、対象とのあいだでそれと描かれたものが同一とみなすような知覚的なシステム、またそのことを支える認識の体系の特定が前提となる。実践方法としての遠近法であれ明暗法であれ、またスフマートであれ、いずれもそうした体系に依存してのことであった。
それはそれとして、この統合はひとびとの頭のなかだけで、なにもないところで仮構されるものだろうか。絵画に認識は関与するけれども、それ自体はついに認識ではないという意味でも、それはまずもって物質的現前として眼差しをとらえるのだから、そのことを出来させるフィジカルな装置・場所が現に存在しなければならない。―幼児の手の向こうには紙が、クレヨンが。そして画家の前には画面ではなく、画布や板が。
幼児には大人が紙をあてがうだろう。それなら画家には誰が画布、この平らな面を・・・。
(『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』平井亮一)

まずは言葉の解説から始めましょう。「スフマート」って、ご存知ですよね。スフマート(イタリア語:Sfumato)は、深みやボリュームを造り出すため、色彩の透明な層を上塗りする絵画の技法、つまりモナリザの頬に見られるようなぼかしの技法です。このスフマートに見られるように、私たちは絵を描くときに、当たり前のように鉛筆をこすったりして柔らかな立体感を表現しようとしますが、これは「絵画」がそれを許容するような「知覚的なシステム」を構築していればこそ、成立する技法なのだと思います。それがなければ、たんなる汚れ、染みにすぎないものになってしまいます。
このスフマートの事例は、平井が指摘している興味深い事実と関連しています。この「絵画」の「知覚的なシステム」は、「絵画」を認識するという「ひとびとの頭のなか」で起こっているできごとであると同時に、紙やクレヨン、画布や絵具といった「物質的現前」がなければ成り立たない、という物質的なできごとでもあるのです。そんなことは当たり前だと通り過ぎてしまうような単純なふたつの事実ではありますが、平井はさらにここから思考を深めていきます。
平井は「もの派」の作家として著名な菅木志雄(1944 - )の、板に刻みを入れた作品を取り上げて、次のように説明しています。
菅の作品は、板という「物質」に刻みという「形象」を出来させることによって、はじめて表現の「場所」として認識されます。あらかじめ絵画の「場所」として認識されている紙の上の表現とは、そこが異なるのです。菅のこの作品においては、表現の「場所」としての認識が、刻みという「形象」の後に訪れるのです。その「遅延される表面」、「のるかそるかの構造的な矛盾」が、「物質」、「形象」、表現の「場所」の問題を、私たちに際立たせて見せているのです。この菅の事例を示されることによって、私たちは「物質」が表現の「場所」となること、さらにそれを表現の「場所」として認識することの「不思議さ」に気がつくのです。つまり、「物質」に「形象」が刻まれるところまでは、「物質的現前」の範疇で行われ、そこにはごく自然な「連続性」があるのですが、それを表現の「場所」として、「絵画」的な表現として認識することには、人の内面における「飛躍」があるのです。平井の説明を聞きましょう。

ところであらためて見わたすまでもなく、私たちのいる現実空間はそのまま、物体のつらなる場所といいかえてもよい。それぞれの物体が私たちにそれとして意識されるのは、ふつう、「ものに対することの基底性」と「実体に対する関係の第一次性」(廣松渉)においてであるにせよ、個々の物体とのかかわりにおいてあらわれる“知覚の現実”のレヴェルでのそのちがいは、固体であれなんであれ、「こと」としてよりは、けっきょくむしろ形相・質料のそれに還元されるほかないのであるまいか。眼と手だけの世界である。この形相・質料を、かたちと質感、といいかえてもよい。これは実にあっけらかんとしたすがたといわねばならない。このことにおいてすべての固体(物体)は、単なる形相・質料のちがいとして連続しているのである。彫刻であれ、ラジオであれ、石ころであれ、また電柱であれ、そのような知覚の現実に還元されうるかぎり連続している。が、いっぽうで、こうした固体のおもてにひとびとによって付け加えられる形象においては、そのような還元は不可能といわなければならない(微視的にみれば付加された形象も、えのぐやチョークなど物質の様態といえないわけではないけれど、それは問題外である)。“しるし”と、それがある“場所”はどこにも、少なくとも形相・質料には還元できない。構造からして形象は物体と非連続なのである。
物体のおもて、表面を特定し、そこに形象をしるすこと、この絶対的な余剰―あるいは表面(場所)の絶対性。物体に拠ってはいるけれど、これは物体、その連続性からの決定的な離脱であり、死にものぐるいの“飛躍”を意味している。ことわるまでもないことだが、これはまた、あの常套的な対語、平面/立体といった形式概念のことではない。そうした「対象言語」ではなく、いまはその手前もしくは下部に眼をそそいでいる。
(『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』平井亮一)

ある物体の表面にしるされたものを「形象」として見なすこと、そこにおいて「飛躍」がある、というところに注目しましょう。それは「物体」の表面ではあるけれども単なる物体ではない、それが表現のための「場所」となること、そのことに「死にものぐるいの“飛躍”」があるのだというのです。この「死にものぐるいの“飛躍”」という一節(この後の部分では平井は「決死の飛躍」という言い方もしているのですが・・・)は、どこかで聞いたことがあるぞ、と私は思い出しました。それは次のようなものでした。

私はここでくりかえしていう。「意味している」ことが、そのような《他者》にとって成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、“文脈”があり、また“言語ゲーム”が成立する。なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができる―規則、コード、差異体系などによって、いいかえれば、哲学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、この「暗闇の中での跳躍」(クリプキ)または「命がけの飛躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。
この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ“神秘”がある。われわれが社会的・実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠的な危うさにかかわっている。そして、われわれが《他者》とよぶものは、コミュニケーション・交換におけるこの危うさを露出させるような他者でなければならない。
(『探究Ⅰ』「第三章 命がけの飛躍」柄谷行人著)

いきなり、こんな難しい文章を読まされても何が何やらわかりませんよね。
この文章を書いた柄谷行人(1941 - )は、哲学者、文芸批評家で、私は彼の若い頃の著作『日本近代文学の起源』について、このblog(96)で取り上げたことがあります。そしてここで引用した『探究』を書いた1990年代前半までの柄谷行人は、難しくて訳が分からないのに、つい引き込まれるような魅力がありました。近年の彼の活動については、より社会にアクティブに関わろうとしているようなのですが、私にはさらに訳が分からなくなってしまって、ときどき彼の本を読んでみるのですが、かつてのような引力を感じません。もちろん、私の知性に問題があるのは明らかですが、その後の柄谷行人(2000年頃?)について内田 樹(1950 - )という人気の学者が面白いことを書いているので、興味のある方は読んでみてください。
http://blog.tatsuru.com/2000/12/16_0000.html
さて、この『探究』の一節で、柄谷行人は何を書いているのでしょうか。
例えば柄谷は、クリプキ(Saul Aaron Kripke, 1940 - )というアメリカの哲学者の「暗闇の中での跳躍」という言葉を取り上げています。この言葉はクリプキが論理哲学者として有名なヴィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889 - 1951)の言語哲学を考察していくなかで語られた言葉のようです。難しいことは私にもわかりませんが、理解できる範囲で解説してみます。
私たちは言葉によって他人とコミュニケーションを交わすわけですが、そのときに言葉の意味を一定の規則のなかで了解しようとします。しかし、言葉の通じない外国人とコミュニケートしようとするときは、どうでしょうか。そのとき、お互いに自分の言葉の「規則」にはない言葉の意味を教え合い、理解しようとするわけです。そのときに、お互いの内面では何が起こっているのでしょうか。そこでは、言葉の意味の了解が先に訪れ、言葉の「規則」性はあとからやってきます。実は、私たちが日常的に交わす言葉においても、「規則」性があとから成立する、ということが起こっているのだそうです。言葉の「規則」では説明し得ない何か、ルール通りではない何ごとかが私たちの内面でおこっているというわけです。それをクリプキは、「暗黒の中における跳躍」と書いているのです。
一方、マルクス(Karl Marx, 1818 - 1883)の「命がけの飛躍」という言葉は、どういう意味なのでしょうか。マルクスの名は、革命思想としての「マルクス主義」、あるいは『資本論』における「マルクス経済学」といった言葉で知られていますが、柄谷の本を読むと、マルクスは「商品」や「労働」、そこから生じる「価値」といった問題について、根本から考えた人だということがわかります。そのマルクスが、ある商品が価値を持つか否かは、それが売られる(交換される)という「命がけの跳躍」にかかっている、と言ったのだそうです。このときの商品の交換は、他人同士、あるいは異なる共同体同士の間で行われます。クリプキの「言語」の問題が外国人同士のことを考えるとわかりやすかったように、マルクスの「商品」の問題も異なる価値観を持った他人同士のことを想定すると理解しやすいかもしれません。自分たちの共同体とは異なる「外部」の人に対し、あるいは「他者」に対し、「商品」を差し出すときに、それがどのような「価値」を持っているのか、それは「命がけの飛躍」と言わねばならないほど、ドキドキすることではないでしょうか。
実は柄谷の、この『探究』は「外部」もしくは「他者」に関する探究なのだ、と「あとがき」に書いてあります。私は表現者として、自分の表現が内輪のものにならないように、「外部」や「他者」について考えなくてはならない、というごく素朴な気持ちから柄谷のこの時期の仕事に注目してきました。しかし、この平井の『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』という論考によって、実は絵画の成立そのものが「死にものぐるいの“飛躍”」であることがわかりました。若い頃にさんざん柄谷の本を読んできたのに、今になってやっと柄谷と中西の仕事が、平井亮一のガイドによってリンクしたのです。それは「芸術」や「絵画」の問題が、「経済」や「言語」の問題に繋がり、さらにはそれらの問題がこの世界全体を考えることに繋がるのだ、ということを示してはいないでしょうか。おそらく、これらの問題は、言葉を認識し、ものの価値を分かち合い、芸術表現に感動する、という人間らしい営みのなかで、共通する問題なのです。私たちはそのことを心に留めながら、平井の論考をさらに追っていきましょう。
先ほど、物質としての表面が絵画表現の「場所」となるためには、「物体に拠ってはいるけれど、これは物体、その連続性からの決定的な離脱であり、死にものぐるいの“飛躍”」をしなければならない、と平井は書いていました。これをマルクスの「商品」の例と比較して考えてみましょう。物体の表面に何か傷つけられたり、汚されたりしたままの物体は、ただの物質に過ぎません。それは「交換」されて「価値」を持つ前の「商品」と同じことで、単なる「もの」のままです。しかし、それが絵画表現として、つまり芸術表現として受容されるときに「物体」から表現の「場所」へと一気に飛躍します。それは例えば、ただの赤い実が「交換」されることによって、トマトとしての「価値」を付与されることと似たことだと思います。
そして、もしもある画家が、「絵画」について根本的に考えよう、と決意した時にその画家は何をすべきでしょうか。それは「絵画」が「死にものぐるいの“飛躍”」を経ていることの秘密を解き明かすしかないでしょう。そのためには画家は「物体」としての「連続性」を断ち切り、「物体」が「絵画」へと「飛躍」する「場所」に立たなくてはなりません。
実際に中西夏之はそうしたのですが、ここはとても重要なところなので、平井の論考を端折ることなく書き写しておきます。

画家・中西夏之がたちきったのは、いうまでもなくそのような(物体の)連続性であった。
そのかわりにかれは、物体からすれば余剰である仮構を、その表面にしるしおおせなければならない。さしあたっては画布(物体)と画面(場所)の差異をポジティヴにひきうけること、そのことによるであろうけれど、さまざまにゆれうごく視点やそこに招きよせる知覚の現実の錯綜を、絵画の存立の条件としてうけいれてゆくこと。実際に、かれの作品では、固体としての画布にとどまらず、えのぐの物質的な要素や知覚効果をむしろあらわにする局面に対し、いっぽうではその周辺あるいは背後へと広がりぬけてゆくような空間性、どこにも参照のできない全一的なイリュージョンの現前、といったおたがいに示差的な知覚の現実が、アンビヴァレントな視像をかたちづくっている。
この中西の作品では画布はむろん一貫して方形である。そこで固体としての画布についてなおいうなら、たとえば絵画形式の自己指示性を、画面(色彩、形象、画面の形体)へと収斂させていったミニマル・アート、そのようなことを、物体としての条件までからの分析的にあるいは「脱構築的」に指示したシュポール/シュルファス、そしてまた、物体と描写・彩色によるイリュージョン効果を混在させる疑似絵画としてのあの“立面構造体”などでは、おおむね、物体(画布)と表面(場所)のちがいを慮外にするか、それらをはじめからきりはなし解体するか、さもなければなしくずしに並行させるかして、物体から表面への、あの決死の飛躍ということは、まともにとらえられているわけではない。そうであるかぎり、物体として側面をぎりぎりまで抑えるそのいっぽうで、“場所の具体的(マテリアル)な支え”であるためには、画布はやはり、眼差しの前方の二次元性に難なく納まる方形がもっともふさわしい、などということさえも問題にならないのである。そのことからいうと、変形キャンヴァスにみとめられる「事物性」もまた、物体のあの連続性にかぎりなく近いと考えざるをえない。
(『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』平井亮一)

このblogでも何回か触れたことがある「ミニマル・アート」、「シュポール/シュルファス」といった1960年から1970年ごろにかけての美術の動向について、平井は言及しています。私はそれらの美術作品に影響を受けながらも、どこかで批判的にならざるを得なかったのですが、ここで平井は明確にそれらの運動と中西夏之との差異を書いています。
それらの美術運動に欠けていたのは、「物体から表面への、あの決死の飛躍ということは、まともにとらえられているわけではない」という一点につきます。絵画の物質的な側面から、その構造や形式、平面性などを「ミニマル・アート」、「シュポール/シュルファス」の作家たちはさまざまに分析し、解体し、再構築していきましたが、彼らは絵画の「決死の飛躍」について目を向けることができなかったのです。もしもそのことがよく飲み込めなかったら、「ミニマル・アート」、「シュポール/シュルファス」という言葉をネットで調べて、その画像群をながめてみてください。そしてネット上にあふれるそれらへの解説を読んでみて、この平井亮一の言葉ほど的確に彼らの芸術の性格を言い当てた文章があるのかどうか、確認してみてください。おそらく、そんな批評はないと思いますが、もしもあったら教えてください。
そしてそれらの作家について、作家ごとにその作品の変遷を見てみるならば、相も変わらず「物体の連続性」に拘泥しているか、もしくは突然に旧套的な絵画に変質してしまうのか、いずれかの事例に当てはまる作家がほとんどだということに、気づくことでしょう。平井亮一の評論が稀有であるのと同じくらい、中西夏之のような絵画は存在しないのです。
それでは、どうして中西においては、「画布(物体)と画面(場所)の差異をポジティヴにひきうけること」が可能であったのでしょうか。そのことを知るには、私たちは平井がこの論考のはじめに引用した、中西の言葉に注目する必要があるでしょう。
「人は最初どのように絵をかくだろうか。最初の人はどのように絵をかいただろうか。」
この言葉の意味は、美術史的にさかのぼって、人類がどのように絵を描き始めたのかを研究しようというのではありません。また、一人の人間がどのように絵を描き始めたのか、という話でもありません。それは前に書いた通りです。それでは、中西夏之の考える「絵画」の起源とはどのようなものなのでしょうか。それは、このblogの『着陸と着水』(19.と20.)を読んでいただけると詳しく書いてありますが、次のような中西夏之の言葉を見ていただくのも良いでしょう。

未発生の絵画の中にすでに楕円があるにちがいない
画布とは未発生の絵画である
絵のカタチの縦線は実は直線ではなく、かぎりなく直線に近づこうとしている円弧なのではないか。このような円弧を含む円とはどのような大きさなのか。絵のカタチの縁はこの巨大な円の一部を共有しているのではないだろうか。
(『中西夏之展カタログ』1995 北九州市立美術館)

この言葉を手掛かりに、中西夏之の『弓形が触れて』を見てみましょう。画家を中心とした巨大な円の一部、つまり円弧が画面に触れたその瞬間を表現した作品のように見えないでしょうか。「絵画」は画家の前に垂直に屹立する平面であり、その平面は巨大な円弧が触れた時に発生するものなのだ、と語っているように見えます。
このような「絵画」の発生の認識は、中西夏之という画家の仮想、もしくは夢想に近いものですが、だからといって中西の個人的な空想だ、と捨てておけないような必然性を感じます。それがなぜなのか、ずっと私にはわかりませんでした。しかし、今回、「死にものぐるいの“飛躍”」という平井の言葉に促されて、柄谷の『探究』を探って見ると、例えばウィトゲンシュタインに関する次のような興味深い記述がありました。

進化論は、解剖学的な同一性と差異にもとづく系統樹を時間的にとらえなおしたところからはじまっている。しかし、それは世界の「説明」にすぎない。ウィトゲンシュタインの「自然史」的立場は、それとは根本的にちがっている。それは自然史的展望を与えるものではなく、どのような展望も言語ゲームのなかで可能であることを、あるいは言語ゲームの外部に客観的な世界などないことを示すからだ。宇宙の起源と結末について、われわれは考えることができる。だが、そこに神秘はない。神秘は、そもそも「世界」が在ることだから。《世界の中に神秘はない。世界が在ることが神秘だ》(ウィトゲンシュタイン)。
(『探究Ⅰ』「第四章 世界の境界」柄谷行人著)

ここで「言語」について説明されていることが、そのまま「絵画」についてもあてはまりそうです。もしもここで、「絵画」の発生について知りたいからと言って、ラスコーの洞窟画のことから語り始めても、それは今ある世界の「説明」をしているにすぎません。さらに言えば、それは世界中で数多く描かれた絵画らしきものの中から、年代順に選ばれたものの連なりに過ぎないのです。そんなことについて考えるよりも、物体としての平面がどのようにして「絵画」になりうるのか、その「飛躍」の現場に立つことの方が重要なのではないか、と中西は考えたのでしょう。
「東京文化財研究所」の彼の略歴には「80年11月、雅陶堂ギャラリーにて個展。絵画に復帰。」とあります。中西が絵画に復帰したのは、まさに「画布(物体)と画面(場所)の差異をポジティヴにひきうける」ためだったのではないでしょうか。しかし、それはいったい、どのようにして「ひきうけ」られたのでしょうか。例えば、平井は中西夏之の、このときの北九州市立美術館での作品について、次のように記述しています。

中西の作品は、総体として、とりわけ「弓形が触れて」以来、これまでふれてきた歩みに沿って、統合/拡散、高揚/下降を文字どおり螺旋をえがきながらくりかえしてきたふしがある。そしてそのつど画面は様相をずらしてきたけれども、方形の画布を綾どる形象は、ずっとえのぐと筆とによる触覚的なしるしの集積であった。物体としての画布、物質としてのえのぐ、画面と画家とのへだたり。画家は長い棒のような軸先、筆のむこうで画面とふれる。えのぐはあたかも、チョコレートかバターの粒のようにして画布に置かれ、その上にあるいは横にもっと彩度の低いそして明るく明度の高い色あいをそえると、画家の筆先はそれらをα字型にひねるか、上をやわらかくすべるかして筆を網目状につなぐ。画面に沿ってつらなる粘っこい力。あいまいにまじりあう色料。このような順をふむえのぐの重なりはそこに、物質―色彩―かたち―イリュージョンと眼差しとともに変わる知覚・認識のすがた、その閾の差、などといえるようなはたらきを同在させているようである。
(『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』平井亮一)

この記述の中で、例えば中西の描いた筆触が「えのぐと筆とによる触覚的なしるしの集積」であったということ、あるいはその絵具の重なりが「物質―色彩―かたち―イリュージョン」と、その様相を見る者の知覚・認識とともに変わっていくことなどが指摘されています。そしてこれらのことが、中西が「画布(物体)と画面(場所)の差異をポジティヴにひきうける」ということを続けてきたことの軌跡でもあるのです。あるいは、彼が物体から「絵画」への「飛躍」をつねになぞり続けたからこそ、その作品は「統合/拡散、高揚/下降を文字どおり螺旋をえがきながらくりかえしてきた」というふうに見えるのでしょう。そして平井は、中西が果たしてきた仕事の意義を、次のようにまとめています。

物体(固体)の連続性をたちきりながらも画布に拠らなければならぬ絵画―このあやうい事態が、中西夏之に、“画面”ということとまともにむきあうよう強いたのだろうか。
物体の連続性に還元されない表面を“場所”にしてしまうこと。ある種の絵画的インスタレーションや立面構造体のように、そのことをあいまいにしないこと。この決定的な飛躍。実際には当の“画面”こそその場所ではなかったか。このことの認識は、この画家をして、画面に自己言及性をもちこむことを余儀なくしたように思われる。だから、画面にむかって立つ画家と画面のあいだで、にもかかわらず「目前の」絵画への到達は、ゼノンの矢のようにつねに遅延される―いや、遅延そのものが絵画ではなかったろうか。
実際には、画布と画面、このアンビヴァレントな事態において、ひとびとの眼差しはほとんど予期できない知覚の現実とであうことになろう。
「東京湾の見える京浜島にゆく。凪の赤い空と水、空港、飛行機の発着。九州から北海道全域に地震。東京震度4。」(同前書より)
こうして、その知覚の現実が、画家の生活空間とさえも接点をもちうるのだとすれば、中西夏之のもたらす自己指示的な視象は、そのとき、実に遠まわりではあるけれど、なにごとかのイメージでさえあるのだろう。すなわちメタファとしての“意味”をはらむのだ。表面への飛躍が、単なる“イメージのオブジェ”に固定されてしまうおそれがないわけではない。
とはいえ、知覚・認識の統合の“自己運動”は、構造的にそうした固定をこばむようにはたらかざるをえない。そればかりか、“意味”はそこで噛みくだかれ、“運動”の糧になるのだろう。不思議はこの“運動”にある。自己指示する画面で、絵画という「作品」が夢みられるのもそこである。しかし、物体の外がわで。
(『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』平井亮一)

さて、私も最後に中西夏之が「83年、同(雅陶堂)ギャラリーにて個展『中西夏之 紫・むらさき』を開催、油彩画シリーズ『紫・むらさき』を発表。」という現場に居合わせたころを思い出してみます。
そのころは、誰もが絵画を解体し、分析し、その最小限の要素で絵を描こうとしていました。その時期に中西夏之は決然と、「物体の連続性に還元されない表面を“場所”にしてしまう」ことを実践し、「知覚・認識の統合の“自己運動”」を継続していたのです。ミニマル・アートや「もの派」の影響によるインスタレーション作品が現代美術の最前線だと信じられていた時期に、「絵画」への「命がけの飛躍」に目を向けていたということは、まったく感動的なことです。実際に私は、雅陶堂ギャラリーの中をわけも分からないままに、半ば興奮状態で歩き回っていたのです。中西の仕事を理解できる知性はなかったのですが、その魅力を感受する感性だけはあったのでしょう。
そしていま、あらためて平井亮一の論考を読み直すと、これが1985年に書かれていた、ということに驚いてしまいます。言い訳のようになりますが、おそらく、この文章の価値をそのときに正しく理解できた人はいなかったのではないでしょうか。
そして今回、私の拙い要約を読んでいただいて、みなさんはどのように感じられたのでしょうか。今なお、中西の仕事も平井の文章も、難解さを持って私たちの前にありますが、35年も経ったからこそ、私たちはこれらの貴重な仕事を正当に評価して、さらに先へと進まなければなりません。
それと、1990年代までの柄谷の仕事を、もう一度、見直してみる必要を感じました。「言語」と「経済(社会)」と、そして「芸術」とが共通して持っている人間としての課題がおそらくあるはずで、それを解く鍵が彼の著作の中にまだ潜んでいるのかもしれません。また、何か発見出来たら報告したいと思います。

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