平らな深み、緩やかな時間

200.佐伯啓思のコラム、坂本繁二郎の「戦争画」菊畑茂久馬の文章による

はじめに、畑違いの経済の話です。
朝日新聞に保守派の論客、佐伯啓思の『異論のススメ』というコラムがあります。私は時に反発を感じながらも、骨のある議論を楽しみにして読んでいます。
12月18日のコラムは斎藤幸平の著作や岸田首相の所信表明演説に「資本主義」という言葉が登場していたことに注目して、これからの資本主義について書かれていました。
資本主義は資本を商品化し、消費を拡大することで成長してきました。消費を拡大するためには市場の拡大が必要で、これまでは植民地の開拓から始まったグローバリズムによって、市場がどんどん広がっていきました。そしてそのグローバリズムが地理的に限界に達した今、金融商品や情報革命、AIなどの新技術の開発に望みを託してきました。しかし、それらはこれまでのような市場拡大によるものではないので、金融経済や情報戦略に長けた企業に富を集中させる、という結果しかもたらしません。したがって岸田首相がいうところの「新しい資本主義」は「実現困難といわざるをえないだろう」と佐伯は書いています。

岸田首相の政策論が誤っているのだろうか。そうではない。問題は、昨日より今日の方が豊かであり、明日はさらに豊かでなければならない、というわれわれ自身の意識にこそあるのではないか。政策を難じるより前に、科学や市場や政治の力によって、より多くの富を、より多くの自由を、より長い寿命を求めるという近代人の欲望の方こそ問題の本質ではなかろうか。
(朝日新聞『異論のススメ 「資本主義」の臨界点』佐伯啓思)

この後の文章で佐伯は、近代社会は人間の無限の欲望拡張を求める社会であり、果てはAI、遺伝子工学、生命科学など人間の分限を超えた「永遠なるもの」へと接近しようとしている、と書いています。その上で、文章を次のように結んでいます。

皮肉なことに、人間の「有限性」を突破しかねない今日の技術のフロンティアにあって、先進国は経済成長の限界に突き当たっている。とすれば、われわれに突き付けられた問題は、資本主義の限界というより、富と自由の無限の拡張を求め続けた近代人の果てしない欲望の方だろう。
(朝日新聞『異論のススメ 「資本主義」の臨界点』佐伯啓思)

これはまったく同感です。
しかし、このコラムに異論があるとすると、岸田首相の政策論が間違っているのか、そうではない、と言っているところです。佐伯は岸田首相の政策論に瑕疵があるわけではない、と言いたいのでしょうが、「新しい資本主義」なんて言ってること自体が間違っている、と私は思います。まさに佐伯が言っている方向へと、政治も舵を切るべきなのです。
私のような年配の年寄りは、よく今の若者のことを「欲がない」、「お金を使いたがらない」、「車を買わない」などと言って、経済停滞の元凶のように難じることがあります。私はそんな若者たちに希望の光を見ています。欲深い私たちの世代が作り出してしまった地球環境問題も、若い人たちならば何とか対処できるのかも知れません。ずいぶんと虫の良い話だと怒られそうですが、微力ですけれど私もできるだけのことをやって死にたいなあ、と思っています。


さて、本題に入ります。
先日、NHK教育テレビの「日曜美術館」という番組で、日本の現代美術家、菊畑 茂久馬(きくはた もくま、1935 - 2020)が取り上げられていました。
菊畑茂久馬といえば、有名なのは1960年代に制作されたルーレットの作品です。
https://www.fukuoka-art-museum.jp/collection_highlight/2652/
菊畑は長崎出身の画家で、前衛美術集団「九州派」の代表的存在です。1950年代の終わりから1960年代のはじめまで活動し、その後は一線から退きました。このblogでよく取り上げる中西夏之(1935 - 2016)と同時代の人ですね。とくに興味のある作家ではなかったのですが、番組で紹介されていた晩年の絵画がなかなか良さそうでした。
http://www.nagasaki-museum.jp/permanent/archives/229
それに菊畑は1960年代半ばに筑豊の炭鉱画家・山本作兵衛の作品を見出し、その作品『筑豊炭坑絵巻』が世界遺産に登録される原動力となったのです。
https://www.crossroadfukuoka.jp/osusume/2011autumn/index.html
また、1970年代には日本に返還された「戦争画」について論述したり、60年代の自分の活動を振り返ったり、ということで本を何冊か出していることを知りました。
それで図書館で菊畑の著作について調べてみたのですが、私が期待していた彼の晩年の作品に関する資料は見当たらず、その代わりに同郷の画家、坂本繁二郎(1882 - 1969)について論じた文章で面白いものを見つけました。それは坂本が描いた「戦争画」にからめて、坂本よりも少し年少の藤田嗣治(1886 - 1968)と比較して論じた文章でした。そこで今回は菊畑の文章に導かれながら、坂本の「戦争画」のことや、藤田との比較について書いてみたいと思います。

さて、この坂本繁二郎と藤田嗣治ですが、いままで私はこの二人について結びつけて考えたことがありませんでした。しかし菊畑も書いていたことですが、二人はたった4歳しか年が違わず、没年も一年しか違いません。
そうは言っても作風がまるで違っていますし、故郷の久留米で制作し続けた坂本と、パリで活躍した藤田とでは、画家としてのキャリアも違っています。だからこの二人を並べて論じたり、考えたりすることはありませんでした。その点からも菊畑の文章に興味を持ったわけです。

二人についてのくわしい話に入る前に二人の作品をご覧になっていない方のために、次の画像をご紹介しておきます。
○《放牧三馬》坂本繁二郎
https://www.artizon.museum/collection/category/detail/303
○《私の夢》藤田嗣治
https://www.musey.net/27343
いかがでしょうか?
独特の淡い色彩で形象を面的にとらえ、朴訥とした味わいを持つ坂本繁二郎に対し、乳白色の下地に細い線で形象を描き、洒落た味わいを持つ藤田嗣治では、真逆と言ってもよいような印象がありませんか?
この点について、菊畑は次のように書いています。

坂本繁二郎、明治15年3月生まれ。藤田嗣治、明治19年11月生まれ。四つ違い。共に80余歳の長い道のりを同時代に生きた。だが二人の生涯は、まるで別世界を生きたように何から何まで全く対照的な軌跡をのこした、とも見える。だがそれはまた、明治以来の日本の洋画家の一つの帰結点として、共に日本の洋画家の表現思想の表と裏をなしているのではないか。(『戦後美術の原質』「坂本繁二郎覚え書」菊畑茂久馬)

少し横道にそれますが、坂本繁二郎とよく比較されるのが、同郷で同じ歳ながらも夭折した青木繁(1882 - 1911)ではないでしょうか。青木繁は、『海の幸』などの作品で有名な、ちょっとロマンチックな画家です。
○《海の幸》青木繁
https://www.artizon.museum/collection/category/detail/187
坂本繁二郎は同じ久留米出身の青木に対して、ライヴァル意識を持っていたとも言われます。それなのに、青木ではなくて、あえて坂本繁二郎と藤田嗣治を比較する気になったのはなぜなのか、菊畑はその事情のあらましを次のように書いています。

もともと坂本繁二郎と藤田嗣治を並べて語ることは、荒唐無稽のそしりをうけるだろうことは百も承知である。だが、この二つの芸術の成熟とその過程を重ねてみる時、懸命に生きた対照的な二人の人生の軌跡を通して、日本の近代洋画の発展の内実が、東京と地方、都市と田園、近代と前近代、自然と人工、富と貧困、名声と隠遁、戦争と芸術など、さまざまな問題を巻きこみながら忽然と姿をあらわすはずだ、そう思ったのである。
爾来繁二郎は何かにつけて青木繁と並べて語りつがれてきた。だが青木と坂本の運命的な宿縁や葛藤、確執、そして青木の哀切極まりない薄幸に思いをつのらせても、いかんんせん二人の結び目には、表現論の論理が巻きつかない。気持のままを述べると、青木に対する世人の想いは、哀感胸に迫る一通の遺言状と、けしけし山の有無にかかっている。東京への道は遠い。
(『戦後美術の原質』「坂本繁二郎覚え書」菊畑茂久馬)

坂本と藤田は、資質が違っているからこそ、同じ表現者でもある菊畑の興味を引いたのでしょう。一方の青木に対しては、菊畑は「哀切」の感情しか浮かばない・・・、そしてこのあとの文章では「絵描きが青木に泣くことはないのである」とまで書いています。
そうはいっても、なかなか結びつかない坂本と藤田を並べて考えるのには、そのきっかけがあったはずです。
それが「戦争画」の研究を通してだったのです。

ともあれわたしはかつて戦争画の解明に取り組みながら、藤田の戦争画制作の構造のなかに、日本の近代洋画を支えつづけてきた表現思想の核心が凝縮しているものとしてとらえてきた。だがしかし、藤田嗣治の狂気の戦争画を追いつづけている最中も、ずっとどこかで背の低い風采の上がらない山羊ひげを生やしたじいさんが、八女の田舎でぼんやりと月をながめて、ぱっとしない絵をごそごそ描いている姿が気になっていたのだ。繁二郎はわたしが藤田に迫れば迫るほど巨大なアンチテーゼとして存在しはじめていた。繁二郎はその意味で、藤田の戦争画制作の狂気の謎を解く上で、またひいては画家の表現思想の総体をとらえる上で、重要なキーポイントになってきたのである。
(『戦後美術の原質』「坂本繁二郎覚え書」菊畑茂久馬)

このあたりで「戦争画」について、少し説明しておきましょう。
「戦争画」とは、戦争を題材にした絵画のことですが、ここで話題となっている「戦争画」は、単に戦争を描いたというものではありません。日中戦争からアジア太平洋戦争期にかけて、戦闘場面や兵士たちの姿、戦艦や戦闘機などを(大きな画面に)描いたものを「戦争画」と呼びます。それらが描かれた背景には、国民の戦意発揚という目的がありました。
「戦争画」を描いた画家たちには、自らすすんで描いた者もいれば、軍から公式に依頼を受けた従軍画家もいました。終戦までに描かれた戦争画の総数は約200点と言われていますが、多くの作品はGHQ(連合国最高司令官総司令部)よって収集され、アメリカに送られました。1970年に「無期限貸与」というかたちで東京国立近代美術館に返還、収蔵されましたが、著作権者(描いた画家たち?)が公開を望まなかったり、アジアの国への外交的な配慮から一括公開が難しいと言われています。その「無期限貸与」の作品のリストはこちらです。
http://home.g01.itscom.net/cardiac/WarArtExhibition.pdf
東京芸大をはじめ、美術大学の教授になった画家、公募展の重鎮となった画家、さまざまな人がいますが、その中でも藤田嗣治の名前は目立っているように見えます。このことについては、後で少し触れましょう。
それでも近代美術館の常設展示として数点ずつ展示されてきましたので、私も何点か見ています。日本の写実絵画を語る上で欠かせない資料である、とも言われますが、うーん、どうでしょうか。私にはどれも表面的な描写の作品にしか見えませんが、その価値判断はひとまずおいて、坂本繁二郎が描いた「戦争画」はどうであったのか、菊畑の文章を見ていきましょう。

昭和7年(1932年)、繁二郎は石橋正二郎(ブリヂストンタイヤ会長)の依頼で「肉弾三勇士」の絵を描かされた。人も知る上海廟行鎮(しゃんはいびょうこうちん)の戦いの折、昭和7年2月22日、久留米工兵十八大隊所属の江下、北川、作江三兵士が爆薬をつめた筒と共に自爆し、日本軍の攻撃の突破口を開いたという戦勲の作画である。これは石橋正二郎が久留米工兵隊内に三勇士記念館を建てて寄贈する際、その中央大座面を飾る予定であった。
繁二郎は、三人の兵士が大きな筒を抱いて朝もやの中を背をかがめて突進していくさまを描くのに、わざわざ上海と九州とはあまり緯度が変わらないからと言って、翌昭和8年の同じ月日の同時刻に、自宅の庭に軍装一式を借りてきてつくったわら人形を据え、薄闇のなかでスケッチをつづけた。兵士の筒をもった格好は、近所の若い青年に頼んで実演してもらった。描くうちに、飛び交う弾はどう見えるのか、地面に当たった弾はどんなふうな火花に見えるのか、実践体験者に聞いてまわったりした。
「それにしても軍装はよく考えた保護色が選ばれておりますなあ。大地に低く構えると土の色と変わらぬ感じとなり、画面にするには困りました」といった按配である。繁二郎は激しい戦争画を描こうとしている最中でも、色彩の関係や構図のことばかり考えていたようである。別のものを見、別のものを感じ、別のものを描いているのである。
(『戦後美術の原質』「坂本繁二郎覚え書」菊畑茂久馬)

その「肉弾三勇士」を描いた作品はこれです。
https://www.artizon.museum/collection/art/19618
「肉弾三勇士」とは1932年の上海事変で、日本軍の突破作戦のときに亡くなった三人の若者のことだそうです。どうやら真相は、爆弾の予想外の爆発に若者たちが巻き込まれたらしいのですが、その事故が国威発揚に利用されたのです。坂本はその片棒を担いだことになりますが、本人はそんなことには無頓着で、絵の制作のことばかりを気にしている様を菊畑は書いているのです。結局、三年もかけて描いた絵は不評で、坂本が手を加えたくてのちに絵を探したのに、どこかに紛失してしまった、という顛末までこの後に書かれています。そういう事情からでしょうか、前に掲載した国立近代美術館の「無期限貸与」の作品リストに、坂本繁二郎の名前はありません。
それに対して、藤田嗣治の方はどうでしょうか。

同じ戦争画でも、藤田がその練達の腕をふるって一日平均14時間で、あの『シンガポール最後の日』の大画面が26日間、そして『決死ガダルカナル』、『アッツ島玉砕』と狂ったように描きまくったのと、これはどう比べればよいのか。
(『戦後美術の原質』「坂本繁二郎覚え書」菊畑茂久馬)

菊畑には『フジタよ、眠れ 絵描きと戦争』という著作があり、テレビの日曜美術館でも藤田の『アッツ島玉砕』を、藤田の写実表現の達成点であるようなことを述べているインタヴューが放映されていました。藤田への思い入れはたいへんなものだと思います。みなさんはこの『アッツ島玉砕』を見て、どう感じますか。
https://www.musey.net/27269
確かに、他の「戦争画」に比べると、描写の密度が違います。しかし、藤田がアカデミックな手法をとった時の限界も見えているような気がします。
その評価はともかく、戦中の藤田は「戦争画」の中心にいて、坂本はどうもさえない、ピント外れの画家であったようです。そして戦後は、その立場が大きく変わって二人の画家はまったく違った境遇にいました。

戦争の中の二人の画家、戦争が終わったあとの長い年月、二人の画家はすでに全く別の星座の中に棲んでしまっていたのである。
(『戦後美術の原質』「坂本繁二郎覚え書」菊畑茂久馬)

これはどういうことでしょうか。
とりあえず、「戦争画」について書かれた記事をご紹介しておきます。
https://media.thisisgallery.com/20223177
この中で、藤田に関する部分だけ、抜き書きしてみます。

第二次世界大戦でパリが陥落する直前に日本に帰国し、陸軍省嘱託として戦争画を描くようになります。
トレードマークのおかっぱ頭を丸刈りにし、戦争協力洋画界の重鎮として活躍しましたが、敗戦後は戦争協力画家として日本画壇からスケープゴートに近い形で責任を追及されることに。
かねてより藤田嗣治のファンであった占領軍GHQ所属出版・印刷担当者のフランク・E・シャーマンの助けを借りて、失意の中アメリカに渡り、フランスへ戻った後に帰化。
日本へ戻ることなく1968年に81歳で亡くなりました。
(『This is Media』「戦争画とは?」より)

この記事を読んだ後で、先ほどの「無期限貸与」のリストを見てください。あるいはこの記事に取り上げられた、「戦争画」の代表的な画家を見てみましょう。
宮本三郎は公募展の重鎮画家として戦後も活躍し、新聞の連載小説の挿絵などでも有名です。小磯良平に至っては、東京芸大の教授として日本の写実的な絵画の代表者としての地位を得ました。それに比べて藤田嗣治は「スケープゴート」として日本画壇から突き上げられ、逃れるようにアメリカを経由してフランスへと戻ったのでした。
私は、画家たちがどのような環境で「戦争画」を描いたのか、あるいは描かせられたのか、よくわからないので安易に宮本三郎や小磯良平のことを非難することはしませんが、日本画壇が藤田をスケープゴートにして延命を図ったことは醜いことだと思います。問題を顕在化させることを嫌い、責任を曖昧なままに時間が過ぎるのを待つ、という姿勢は、今の政治家と重なります。そこに課題を感じて、菊畑も著作をいくつか書いたのでしょう。
一方の坂本は、あいも変わらず故郷で絵を描き続けたのでした。そのことについて、菊畑はこのように書いています。

坂本繁二郎という画家にひっかかっりだしたのは、なにも難しい理由からではない。それは齢のせいだと思っても見るが、どうもそんなに気分がよくない。むしろそれはずっと以前から私の論理に紛れ込む一粒の胆石のようなやっかい者であった。ことわるまでもないが、例の孤高な哲学画家とか、高雅、韻清とか言われる幽遠な画境にいかれているのではない。繁二郎という人は、実はわたしたちが考えている日本の近代洋画の発展の過程や、絵描きの成熟のパターンをどこかで全面的に否定する、ないしは徹底的に暴露している画家ではないか。さらに言うと、日本における近代洋画の発展、とりわけ西欧文化導入の内実、あれはみんな虚妄なのではないか、という何かひんやりとするアンチテーゼを握っているような、少なくともその問題の仮説が立ち得る画家ではないか、そう思いはじめたのである。
(『戦後美術の原質』「坂本繁二郎覚え書」菊畑茂久馬)

坂本繁二郎も、若い頃にフランスに渡って勉強したことがありました。
滞欧期間が短かったし、坂本自身もパリのことをあまり良く言っていないようですが、坂本が滞欧中に描いた『帽子を持てる女』はフォーヴィズムのような自由な色彩の使い方と形体の単純化という、当時の最先端の絵画の問題がちゃんと含まれていて、それに対応しているように見えます。さらに言えば、そこに坂本独自の色彩感が取り込まれているところなどは立派です。
https://bijutsutecho.com/magazine/review/20680
その坂本が、帰国してからはシンプルな静物画を好んで描き、モチーフの置かれた台面と背後の壁との境目も曖昧な状態で描いています。それらの絵を見ると、日本画のような空間意識を感じます。もしかしたら、その坂本の空間意識を菊畑は「西欧文化導入」の「アンチテーゼ」と感じたのかもしれません。この「坂本繁二郎覚え書」の文章の結びを見てみましょう。

繁二郎の自然は、生の諦観を積極的な生の中に際限なく増幅させている点にある。晩年の月の絵の見事さ、すばらしさ、すがすがしさはここにある。勝負を死に際に賭けた、そう思う。勝ったのか負けたのか、わたしには分からない。自然の風土の恐ろしくも残酷な力が絵に照りはえている。繁二郎は身を賭して、自然が芸術を陵辱し尽くす一瞬を待った。それを映しとろうとした。それは自然の人柱とも殉死とも言えるかも知れない。ここに繁二郎の自意識を問うことは愚かである。
(『戦後美術の原質』「坂本繁二郎覚え書」菊畑茂久馬)

たぶん、菊畑が評価している坂本の月の絵というのは、次のような作品でしょう。
https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=201906011559351169
私も、こういうふうに老境の画家がシンプルなモチーフを選んだり、色彩や構成を抑制的に表現したりすることを、表現の高みの境地に達した人の有難い作品だと思った時期もありました。しかし、今はそう思いません。モチーフをシンプルにし、色彩や構成を抑制することは、実は絵を描く上では難しいことではありません。老境の画家が衰弱してそういう表現に至ったことを、枯れた境地だなどと言ってありがたがってはいけません。私はそう思って絵を描いています。何か悟りすましたようになってはいけないのです。
そういうわけなので、私は菊畑の評価とは違った意見を持っています。しかし、「戦争画」を描いた頃からの坂本の生き様を見て、そこに「繁二郎の自意識を問うことは愚かである」という感想を菊畑が持ったことについては、わかる気がします。戦争という緊急事態や、滞欧という未知の経験にうまく反応できない一方で、自然と絵画だけが表現上のすべてであったような画家、坂本繁二郎は確かに独自の魅力を放っている、と私も思います。
それにしても「死に際に賭けた」とか、「自然が芸術を陵辱し尽くす」とか、時代がかった菊畑の言葉使いには辟易しますが、こんなふうに一人の画家が自分の理解している芸術のあり方について、率直に述べることは良いことだと思います。美術史的な良識や、同調圧力にとらわれずに書かれた文章は、後から読み直しても何か気付かされることがあります。
私の書いた文章も、描いた絵も、どこかにそんな価値を持っているはずだ、と信じて日々表現に励んでいます。

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