平らな深み、緩やかな時間

11.「半透明の絵画」とそれから、宮下圭介の絵画について

前回からの続きです。岡田温司(1954 - )の『半透明の美学』についてですが、まさにその「半透明」の概念にあてはまる作品を制作している美術家がいます。宮下圭介(1944 - )さんという美術家です。

美術家、宮下圭介について、作品をご存知ない方は、たとえば「ギャラリー檜」関連の次のホームページからご覧ください。
http://www.g-hinoki.com/2007/miyashita.htm
さらに最近作は、図版は小さいけれど、次のホームページの5月の欄に案内状の図版が載っています。
http://www2.ocn.ne.jp/~g-hinoki/exhibition.html
また、これまで私が宮下圭介について書いたテキストですが、次のホームページから、『終わりなき<意識のさわり>の営み』(1999)と『宮下圭介展によせて』(2007)のふたつの論文を開いてご覧ください。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~a-center/p-ishimura/text/text.html
これまで書いたテキストは、当然のことながら「半透明」という概念も持たずに書いたわけですが、いずれも宮下圭介の作品の、絵具の層に注目しています。この絵具の層が、「半透明」の概念と関わっている、と考えているのですが、ここでごく簡略に、宮下作品とその透明性について、スケッチをしてみましょう。

1999年のテキストのなかで、私は次のように書いています。

宮下圭介はこの数年、『Veil』という作品のシリーズに取り組んでいる。貼り合わせた板状の木の表面に、メディウムの層を重ねていく作品である。それ以前の『内接半円』シリーズのレリーフ状に板を彫った作品から『Veil』に変わってから、作品の様式はそれほど大きく変わっていないが、表面のメディウムの色彩については微妙な変化を見せている。
(『終わりなき<意識のさわり>の営み』)

『内接半円』は、レリーフ状に半円形が彫り出された作品でした。レリーフの厚みの中で、物理的に、あるいは物質的に図形が見えていたわけです。この頃の作品は、その構造が直接見えるように作られていました。次の『Veil』のシリーズになると、作品の「地」の部分が、透明度の高いメディウムをとおして透けて見える、という構造になります。これらの作品は「リテラルな透明性」の作品と言ってもいいし、あるいは、このあたりから「半透明性」の作品だと考えてもいいでしょう。
ところが2007年のテキストの頃になると、作品はタブロー形式になり、その絵具の層の中に描かれた形象が見える、という複雑な構造を持つようになります。これらの作品では、絵具の透明度が利用されてはいるけれども、「リテラルな透明性」とはもはや言えない作品になっています。まさに「半透明」な絵画としか言いようがない、と私は考えます。岡田温司は『半透明の美学』のなかで、「半透明(ディアファネース)」の概念に「新しいパラダイムの可能性を見いだすことができないか」と書いていますが、宮下圭介の作品は、その可能性の中で模索を続けているのだと思います。

ところで、近年の宮下作品を見ていると、その中に描かれているユニークな形象についても気になります。作品に『Sign on sign』というタイトルが付されていますが、その形象は造形的なまとまりのある形というよりは、「sign」という言葉で示されているように、筆記体の文字のようなタッチで描かれています。この点について、私は2007年のテキストで次のように書いています。

宮下は、その絵具の各層に見える形状を「sign」として位置づけ、その見え方を観測者のように推し量ろうとする。「sign」とは、明確な文字でも記号でもない。観測するための「しるし」である。「sign」が残されていることによって、私たちは宮下のプロセスをより明確に見ることができる。絵具の各層の「sign」がどのような調和をもたらしているのか、あるいはどのような不協和音を奏でているのか、それらの相互の距離感は心地よいのか、あるいは何か抵抗感を感じさせるのか、結局のところ、それらは私たちの視覚の中で感知され、統合される。
(『宮下圭介展によせて』)

この解釈が妥当なものだったのかどうか、よくわかりません。宮下の作品は、近作になるほど描かれた形象が何やら文字や記号めいてきています。このあたりで、その形象が記号であること、あるいは記号でないことの意味を考えてみてもよいでしょう。
文字、あるいは言語や記号について考察するなら、ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913 )の思想について触れないわけにはいきません。ソシュールは構造主義哲学に大きな影響を与えた言語学者ですが、私は丸山圭三郎(1933 - 1993)の著作によって、その仕事を知りました。ソシュールは、言語を記号(シーニュ signe)の体系として捉え、それをシニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)の結びついたものだと考えました。例えば日本語で犬を言葉で表すと、「イヌ」という音がシニフィアンで、「イヌ」という概念がシニフィエということになります。「意味するもの」と「意味されるもの」、「音声」と「意味内容」などの関係が表裏一体となったものが記号なのです。この結びつきは恣意的なもので、必然性はありません。例えば「イヌ」は、英語では"Dog"と言いますが、日本語でも英語でも、「イヌ」という概念を表しています。
宮下作品の形象を考えてみると、それらが何かの概念を表している、ということはありません。文字でないことはもちろんですが、明確な幾何学的な形(○、□など)ですらありません。また、抽象絵画としての構成的なバランスや配置も、注意深く避けられているように見えます。筆記体のくずし文字のように軽やかに、あるいは偶然できてしまった絵具のしみのように自然に、それらは何かの意味に届けられることをたくみにすり抜けているのです。そういえば『半透明の美学』で岡田温司は、抽象絵画ですらシニフィアンとシニフィエの合理的な結合が前提とされている、と書いていました。カンディンスキーに「精神的なもの」を、ポロックに「主体的なもの」を、ロスコーに「超越的なもの」を作品の背景に見てしまう・・・、つまり何か合理的な説明を求めてしまう、というのです。これらの事例について、本当にそうなっているのか、考えてみる必要がありますが、とりあえず、宮下作品にはそのような背景や、大きな意味合いは含まれていないようです。
どんな意味にも届けられない「sign」を描くこと、それはそれでしんどい仕事だと思いますが、宮下はそれを、近年、より大胆におし進めているようです。

ここまで書いていて、私はロラン・バルト(Roland Barthes, 1915 - 1980 )の『美術論集』という本を思い出しました。バルトは、ソシュールの言語学から学んで、現代のさまざまな事象を「神話」として暴きだす手法を見いだした人です。
そのバルトは、落書きのような絵を描いたサイ・トゥオンブリ(Cy Twombly、1928 - 2011 )が好きだったようで、ある程度のまとまった批評を残しています。トゥオンブリは、ときに文字を書き、ときに記号めいた形を書きました。しかし、それらは明確な意味へと届けられることを拒むように、出来る限り不器用な書き方で描かれていたのです。バルトは、「TW(トゥオンブリ)の作品は書(エクリチュール)である―と、別の人々はいみじくもいった―」と書いたあとに、次のように分析しています。

 TWの作品は書(エクリチュール)である―と、別の人々はいみじくもいった―。いくらか書道と関係がある。しかし、この関係は模倣関係でも、影響関係でもない。TWの絵は書を暗示する場と呼び得るものでしかない(修辞学の文彩である暗示とは、あることを意味する意図で、それとは別のことを述べることである)。TWは書を参照する(彼が、しばしば、Ⅴirgil(※ウェルギリウス;古代ローマの詩人),Sesostris(※セン・ウスレト;古代エジプト王)といった語によって、文化を参照するように)。そして、別の所に行く。どこに?まさに、書道からずっと遠い所に。つまり、形よく、輪郭もくっきりと、力を込められ、端正に書かれた書から、十八世紀に能筆と呼ばれていたものからずっと遠い所に。
 TWは彼なりにいう。書の本質は形ではない。用途でもない。ただ単に、動作でしかない。成るがままに任せて書を生む動作である。落書き、ほとんど汚れのようなもの、無頓着さである。比喩で考えてみよう。ズボンの本質とは何だろうか(仮にそんなものがあるとして)。きちんと仕上がって、真っすぐ、デパートのハンガーに掛けられているあの物体でないことは確かだ。むしろ、若者が、疲れきって、不精をして、辺りかまわず、服を脱ぐ時、彼の手から無造作に床に落ちるあの布の塊の方であろう。ある物体の本質とは、それが出す屑と何らかの関係があるのだ。必ずしも、使いきった後に残るものではない。使われずに投げ捨てられたものである。TWの書がその例だ。それは、怠惰の、したがって、最高の優雅さの切れ端なのである。あたかも、書という激しいエロティックな行為の後に残るけだるい疲れのようなものだ。紙の片隅に脱ぎ捨てられたあの衣服だ。
(『美術論集』「サイ・トゥオンブリ または 量ヨリ質」)

引用しだすときりがありません。バルトの文章は難解なのに、不思議と何かを実感できる気がします。それにバルトの描きだすトゥオンブリは、まるで禅の高僧か、仙人のように感じられます。私もトゥオンブリは好きですが、正直、これほどの画家かな、と思わないでもありません。しかし、文章と絵が相関しながら互いに豊かになっていくのだとしたら、これは理想的な関係なのかもしれません。

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