このところ、若い美術家の方とお話しする機会がありました。それで思うところがあって、このような文章をしたためることにしました。
その機会のひとつは、「わたしの穴 美術の穴」(2019年企画)という変わった名前のシリーズ展で出会った石井友人さんという作家です。この貴重な企画については、ぜひとも直接、サイトをご覧になっていただきたいのですが、簡単に言うとこんな展覧会です。
1980年代生まれの石井友人、高石晃という作家たちが、1970年に行われた「スペース戸塚`70」という野外展示について考察し、関連する企画展示を行ったものです。今回は、「Space23℃」で「スペース戸塚`70」に参加した四人の作家のうち、榎倉康二・高山登・藤井博の三人のグループ展を、「Capsule」で石井さんの、clinicで高石さんのそれぞれの個展を開催しました。あらかじめお断りしておきますと、私は高石晃「下降庭園」(会場:clinic)という展示を見ていません。残念ながら、時間がなくて立ち寄ることができなかったのです。したがって、この企画全体について何かを言える立場ではありません。しかし、個展会場にいらっしゃった石井さんとお話ししていて、彼の口から村上春樹や宮川淳といった、私が若いころによく聞いた小説家や批評家の名前が出てきて、彼らがただ単に「スペース戸塚`70」という野外展に興味を持っただけではなくて、その当時の社会状況までを含めて探究したいのだな、ということがよくわかりました。正直に言うと、彼らが「穴」というものを手掛かりにこの考察を始めていることについて、私にはよくわからないところがあります。また、この壮大な試みの向こうに何か確かな着地点が見えているわけでもありません。しかし、こんなふうに時間を遡行しながら検証し、それを現在の表現活動につなげていく、という発想はとても興味深いものです。それに、展示されていた石井さんの作品の水準の高さが、企画全体の説得力を生んでいます。この試みが、ぜひとも実りの多いものになってほしい、と願っています。
(https://myholeholesinart.jimdo.com/my-hole-hole-in-art-series-2019/)
それから、もうひとつ。その展覧会のほど近い時期に、私は偶然に若い作家の方と出会いました。まだ学生ですから、作家というよりも作家の卵と言った方が正しいのかもしれません。木を使った立体表現の中で、自分なりの表現方法を模索している方ですが、美術への熱意と好奇心が素晴らしいと思いました。これから社会に出ていけば、作品の制作を続けていくことがとても困難になると思いますが、ぜひとも作家としての可能性を追求していただきたい、と願うところです。
そして、その方と話していて感じたことは、私の世代が見聞きしてきたことが、当然のことながらその方の世代にとっては遠い昔のことなのだ、ということです。私の子供たちと同世代、もしくはもっと年少の方なのだから当たり前のことなのですが、せっかく作家同士として出会ったのですから、なんとかお互いのものの見方を共有して、刺激を与えあっていきたいものです。
そんな訳で、私が彼らのような若いころに、その時代をどのように捉えていたのか、そんな話を少し書いておいてもよいのかな、と思いました。私は学者ではありませんし、文学や音楽などの分野について詳しいわけでもありません。ですから、社会全体の空気や美術以外のさまざまなジャンルについては、なるべく書かないようにしてきたのですが、今回は一人の平凡な、あるいは少しばかり愚かな美術好きの人間が捉えたものの見方だと、割り切って読んでいただければ幸いです。不正確なところや間違った点がありましたらご容赦いただくか、もしくはご指摘いただければ幸いです。
さて、そうは言っても、何から書いていいものやらわからないのですが、とりあえず話に出てきたので、村上春樹のことから書いておきましょう。
村上春樹(1949 - )は言わずと知れた大作家ですが、デビューしたのは私が大学に入った頃です。『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』といった長編小説の発表が、私の学生時代と重なります。はじめは物語らしい物語がない、つまりミニマルな感じの彼の作品が、『羊をめぐる冒険』あたりから文字通り冒険譚へと変わっていきます。そのさまが、美術の世界でいうと、ミニマリズムの芸術のその後を模索しているさまと、どこかでシンクロしていたような気がします。
すこし脱線しますが、この「シンクロ」という言葉のもとになるシンクロニシティ(synchronicity)という概念が流行ったのも、この頃でした。これは心理学者のユング(Carl Gustav Jung、1875 - 1961)が提唱した、ちょっとミステリアスな概念なのですが、日本語で訳すと「共時性」という言葉になります。例えば因果関係のない二つの出来事が、あたかも関連するかのように同時的に起こる現象です。偶然だと言ってしまえばそれまでですが、そのふたつの出来事がどこかでつながっているのではないか、というわけです。どこか、というのは人間の無意識の世界であったり、あるいは、科学的に解明されていない世界の摂理のようなものであったり、といった具合です。
さらに脱線すると、それをロック・バンドのポリスがアルバムのタイトルとして取り上げたことからも、当時の流行の概念であったことがわかります。ちなみに『見つめていたい』はそのアルバムの中の1曲ですが、1983年に世界中で大ヒットしました。単なるパンク・バンドだと思っていたポリスが大化けして、スティング(Sting、1951- )が飛躍するきっかけになったアルバムです。
さらに、さらに脱線すると、アフリカン・ミュージックのスター、ナイジェリアのキング・サニー・アデ(King Sunny Adé、1946 - )が『シンクロ・システム』というレコードを出したのも、その頃でした。最近、アデの話題を聴きませんが、同じくナイジェリアのフェラ・クティ(Fela Anikulapo Kuti, 1938 - 1997)とともに、欧米圏以外のポピュラー音楽の存在を世界に知らしめた人です。その少し前にボブ・マーリー(Bob Marley、1945 - 1981)の活躍により、ジャマイカのレゲエが全世界的な音楽になりましたが、1980年代はそれまで民族音楽という特殊なジャンルにおさまっていた音楽が、少しずつその枠からはみ出して広がっていった時代でした。そういう意味では、1960年代とは違った感触で、若者が何かわけのわからないものに可能性を感じた時代だったのかもしれません。私はアデの来日コンサートに行きましたし、バリ島の音楽団の来日ステージやブライアン・イーノ(Brian Eno、1948 - )の環境音楽を聴きに(見に?)行ったりしました。ジャズ、ロック、民族音楽、現代音楽、とにかく面白そうな音楽なら、何でも自分の身になる、と思っていました。実は、私はもともと音楽が苦手で、「あなたは音痴だから人前で歌を歌わない方がいい」と母親から釘を刺されたような人間です。しかし、新しい音楽を聴くことが、自分の表現に何か大切なものをもたらすに違いない、と信じこんでいたのです。
※このあたりの音楽に関することは、昨年の9月にこのblogで書いた『芸術の意図、ジョン・ケージと細野晴臣から』を参照していただけるとうれしいです。
話を戻しますが、1980年ごろというのはモダニズムの時代がちょっと息苦しくなってきたころです。ユングの「シンクロニシティ」という概念も、科学的に考えるとちょっと眉唾的な感じがしますが、その不可解さがかえってよかったのかもしれません。村上春樹の小説の主人公も、ちょっと理不尽で不思議な事件がきっかけで、どんどん大きな物語に飲み込まれていきます。現実と空想、あるいはメタファーとでもいうべきものが境界線を超えて交錯していくのです。
同じ時期に、村上春樹よりもさらに最初から最後まで理不尽でナンセンスな小説を書いたのが、高橋源一郎(1951 - )でした。高橋源一郎の小説は正直に言うと読みづらいし、私は文学通でもないのであまり好きではありません。しかし、彼の評論はわかりやすくて、よく読みました。高橋は、最近では明治学院大学の先生として話題になりましたね。ずっとラジカルな立場で活躍している点が立派だと思います。
その当時の私は、とにかく彼らの作品を目新しいものとして受け止めていたのですが、彼らより少し前のアメリカ文学を読むと、その原型があります。カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut、1922 - 2007)、ドナルド・バーセルミ(Donald Barthelme、1931 - 1989)、リチャード・ブローティガン(Richard Brautigan、1935 - 1984)やジョン・アーヴィング(John Winslow Irving、1942 - )、レイモンド・カーヴァー(Raymond Clevie Carver Jr.、1938 - 1988)といった小説家たちです。村上や高橋は、彼ら自身が翻訳家でもあり、自身が影響を受けたアメリカ文学を積極的に紹介しています。しかし、アメリカ文学の紹介者という意味では、柴田元幸(1954 - )という翻訳家の存在が大きいと思います。最近は忙しくて小説を読むひまがありませんが、若いころはぶらっと図書館に行って、柴田元幸の翻訳した本を探しては読みふけっていました。
それから先ほどのアーヴィングですが、この作家は1980年代に日本でもかなり話題になり、『ガープの世界』や『ホテル・ニューハンプシャー』が映画化されて、ヒットもしていたと思います。本と映画は同じではありませんが、映画は映画でよくできているので、それを先に見るとアーヴィングの世界観が手っ取り早くわかります。
そしてミニマルな短編作家のカーヴァーですが(村上春樹自身が彼の本を訳しています)、村上の初期の短編と味わいが似ています。私はその中でも、どちらかと言えば温かみのある『大聖堂』とか、『ささやかだけれど役に立つこと』というような作品が好きです。
これらの作品から言えることは、ミニマルな小説から大きな物語へ、という動向がある程度共通していること、そしてその物語は昔のようなロマンティックな物語ではなくて、どこか乾いた感じがしたり、何か不思議な感じがしたり、ちょっとねじれた感じがしたりすることです。もはや良き時代の物語は、商業主義的な小説や映画でなければありえないのかもしれません。
アメリカ文学から離れますが、大きな物語と言えば、この頃はラテン・アメリカの小説が話題になっていました。コロンビアの大作家、ガルシア・マルケス(Gabriel José de la Concordia García Márquez, 1927 - 2014)の『百年の孤独』はその前から話題になっていましたが、私が読んだのは大学生の時でした。安部公房(1924 – 1993)が推薦していたので読んでみたのですが、これはまさに大きな物語です。架空の歴史物語であり、神話と言ってもよいスケールがあります。この本を読み切るのには時間がかかるので、覚悟して読まなくてはなりません。
他にもアルゼンチンのボルヘス(Jorge Francisco Isidoro Luis Borges Acevedo、1899 - 1986)とか、マヌエル・プイグ(Manuel Puig、1932 -1990)などが、その当時の私の視野に入ってきました。ボルヘスは短編作家ですが、とにかく不思議な話が平然と進んでいく様に圧倒されます。しかし当時は翻訳されたものがわずかだったし、それも高価な単行本だったのでなかなか手が出せませんでした。いまではボルヘスが岩波文庫で読めるのですから、そういう意味ではよい時代になりましたね。プイグの本は、実は何を読んだのか憶えていないのですが、映画化された『蜘蛛女のキス』が強烈でした。主人公の蜘蛛女にあたる人物の最期がとても哀れに思えました。
「グローバル化」という言葉がまだ一般的ではなかった時代で、インターネットも普及していませんでしたから、文学にしろ、音楽にしろ、世界のどこかにまだまだ面白いものがたくさんある、と信じられた時代でした。
さて、アメリカ文学に話を戻すと、先ほど名前を挙げた作家たちの前の時代といえば、ビート・ジェネレーションと言われる人たちが思い出されます。ジャック・ケルアック(Jack Kerouac、1922 - 1969)やアレン・ギンズバーグ(Irwin Allen Ginsberg, 1926 - 1997)そしてウィリアム・バロウズ(William Seward Burroughs II、1914 - 1997)といった作家たちです。
ウィリアム・バロウズは、詩人の鮎川信夫(1920 - 1986)がバロウズの『裸のランチ』を翻訳していて、とても重要な作家だというので読んでみました。正直、読み直したいと思う本ではありませんが、麻薬と幻想に彩られたビート・ジェネレーションの本の中で、とくに重要だといわれているのもわかる気がします。『裸のランチ』は映画化もされましたが、これは映像化するよりも言葉としてのイマジネーションを味わった方が、バロウズの意図にあっているような気がします。
そして、ビート・ジェネレーションの作品で、もっともヒットしたのがジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード(路上)』だそうですが、これはいまでも河出文庫で手に入ります。ビート・ジェネレーションの青春記としても読めるので、この世代のことを知るにはお勧めです。これが1960年代のヒッピー文化につながっていく感じが分かります。ビートからヒッピーへ、という移り変わりは、おそらく明確な線が引けないのだろうと思うのですが、ヒッピー世代の音楽と言えばロックであり、サイケデリックであり、ウッドストックに出演した人たちが、すぐに思い浮かびます。
この時代を代表するバンドのひとつ、グレイトフル・デッド (Grateful Dead)は主要メンバーのジェリー・ガルシア(Jerome John "Jerry" Garcia, 1942 - 1995)が亡くなってからずいぶん経つのに、いまだにライブ音源が話題になります。余談になりますが、このバンドはライブでの録音を解禁し、営利目的でなければその音源をファンが共有することを認めています。インターネットの時代になり、彼らの音源をネットで自由に楽しむことができ、それがこの渋いバンドが人々に広く愛される要因になっている、という話を聞きます。何だかいい話だと思いませんか?
話がそれましたが、ケルアックの青春時代は、まだサイケデリック音楽はありませんでした。『オン・ザ・ロード(路上)』が書かれたのが1951年、発表されたのが1957年だそうですから、発表された年を考えても、エルヴィス・プレスリー (Elvis Aron Presley, 1935 - 1977)の『Jailhouse Rock(監獄ロック)』が流行った頃のようです。では、彼らはどんな音楽を聴いていたのかと言えば、言うまでもなくジャズです。「モダン・ジャズ(ビバップ)の父」とも言われたチャーリー・パーカー(Charlie Parker Jr. 、1920 - 1955)が麻薬やアルコールなどの不摂生で亡くなったのが1955年ですから、ケルアックはその晩年を知っています。彼の書いた『地下街の人びと』(1953年)では、パーカーのステージをこんな風に書いています。
ステージではごく最近までからだをこわし、バップが下火になったサンフランシスコへ戻ってきたばかりのバード・パーカーが真剣な目をして立っている。レッド・ドラムのことは自分で見つけたのか人伝に聞いたかしたのだろうが、新しい世代の連中がそこに集まって乗りに乗っているのを見てここのステージに立つことになったのだ。そして、彼らの反応を見ながら抑制のきいた落ち着いたスタイルで“狂気の”音を吹いていた。
(『地下街の人びと』ケルアック 真崎義博訳)
ちなみに、「レッド・ドラム」は店の名前で、「バード」はパーカーの愛称です。パーカーはサックス奏者ですが、ビバップと呼ばれるスタイルでジャズのアドリブをより自由にした人です(大雑把な説明ですみません。なにせ音楽は素人以下なので・・・)。パーカーがバンドで起用した若きマイルス・デイヴィス(Miles Dewey Davis III、1926 - 1991)がその後のモダン・ジャズを牽引し、さらにマイルスがバンドで起用した音楽家たちがその後のジャズを作っていったことは、よく知られています。1940年代以降、ジャズはアドリブ演奏の限界を追究していく音楽になった観があり、より自由を求めた演奏者が麻薬やアルコールにおぼれていく様は、ビート・ジェネレーションの文学や、抽象表現主義の絵画などと共通しているのかもしれません。多少の差はあれ、同時代的に似たような傾向が進行していたのだと思います。パーカーの演奏を聴くと、どのレコードでも彼の熱いアドリブ演奏が聴けますが、マイルスは逆にその静かで美しいことに驚きます。『カインド・オブ・ブルー』はモダン・ジャズのレコードとしては異例の大ヒットをしたそうですが、もしも聞いたことがなければ聞いてみるとよいと思います。オールマン・ブラザーズ・バンド(The Allman Brothers Band)のデュエイン・オールマン(Howard Duane Allman、1946 − 1971)も、そのアドリブ演奏の素晴らしさを勉強したそうです。ちなみに、ジャズのレコードで私が一番好きなのは、ベタな曲ですがサック奏者のジョン・コルトレーン(John Coltrane, 1926 - 1967)の『マイ・フェイヴァリット・シングス』です。このタイトル曲は有名な映画『サウンド・オブ・ミュージック』の中の一曲ですが、親しみやすいメロディーの中でコルトレーンが自由にアドリブを展開し、マッコイ・タイナーのピアノとともに天にも昇るような、とよく形容されるような盛り上がりを見せます。ぜひ聞いてみてください。
それからギンズバーグについてですが、不勉強なことに私はギンズバーグをちゃんと読んだことがありません。私のギンズバーグの唯一の印象は、彼がボブ・ディラン(Bob Dylan、1941 - )の『血の轍』(1975)というアルバムの中の1曲『Idiot Wind(愚かな風)』をアメリカの国家にすべきだ、と言ったという話と、何かのヴィデオで、この頃のディランのツアーのステージ上で彼がパーカッションをたたいている姿を見たこと、ぐらいでしょうか。この時の音源は『激しい雨』というライブ盤に入っています。ギンズバーグは、なんかかっこ悪いおじさんだな、としか思わなかったけれど、このライブのディランは素晴らしいです。これ以外のディランのライブと言えば、『Before The Flood(偉大なる復活)』というザ・バンドとの共演盤が名作です。ディランと言えば、しわがれ声で情けない感じで歌う人だと思っている方は、ぜひ『Before The Flood』を聞いてみてください。有名な『ライク・ア・ローリング・ストーン』の演奏もドライブ感がすごいです。
さて、このあたりの時代のアメリカは、文学も、音楽も、美術も興味が尽きません。もちろん、私もいまの若い方と同じように、後追いで勉強しただけですが、ジャズのレコードだけを追いかけてもあまりに広くて深いので、有名なレコードのつまみ食い程度になってしまいます。粗雑でとりとめのない案内になってしまいましたが、今回はこんなところでしょうか。
すこし、美術の話もしましょう。美術批評家の宮川淳(1933 – 1977)の名前が出てきましたね。彼は私が高校生の頃に亡くなっていますから、さすがに生前の活躍されていた時代に、リアルタイムでは読んでいません。しかし、大学生になって宮川を読み始めるとともに、ミシェル・フーコー(Michel Foucault、1926 - 1984)、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)、フェリックス・ガタリ(Pierre-Félix Guattari、1930 - 1992)、ロラン・バルト(Roland Barthes、1915 - 1980)、レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908 - 2009)、ジャック・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901 – 1981)やジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930 - 2004)といったフランスの現代思想家の名前が、一挙に頭の中に流れ込んできました。それは浅田彰(1957 - )の『構造と力』という現代思想の本が1980年代に大ヒットしたことが大きかったですね。『構造と力』以降、現代思想の本がどんどん翻訳されていった感じがします。でも、いざ翻訳されてみると、難しくて読めないのです。こんなことなら、高校時代にちゃんと勉強しておけばよかった、と思わないでもありませんが、まぁ、多少の努力をしたところで結果は変わらないかもしれません。宮川淳はすでに1960年代からヨーロッパの最新の思想を自分なりに咀嚼して、独自の美術批評を展開していたのですから、高名な学者とはいえ、つくづくすごい人だと思います。
彼の理論の中でもっとも衝撃的だったのが「引用」という概念です。それまでは「創造」という概念が、表現の世界では最も重要だと思われていたのですが、考えてみると何もない世界からすべてを「創造」する芸術家なんているわけがないので、「創造」だけに価値を置くと芸術の重要な部分を見落としてしまうことになります。そこで宮川は、「引用」という概念から芸術について語りました。
だが、なぜ引用なのか。ここで引用論はつぎのように設定されるだろう-。
おそらく現代のもっともアクチュアルな思想状況(おそらく今日の美術はそのもっとも象徴的なインデックスであるが)は、われわれがその中で語りつづけてきた、そしていまなお語りつづけている文脈そのものが問い直されているところにあるように思われる。しかし、そのようないわばメタ・クリティックは、これまでとは別の文脈の、したがってまた同時に別の論述の仮設作業と同時的でしかありえないだろう。引用論はここでそのようなものとして求められる。
事実、《引用》は、他のいくつかのメタファー(たとえば《表面》とたがいに関連しながら、単に美術にかぎらず、さまざまな領域を通じてあらわれる現代にきわめて特徴的なひとつのメタファーであるように思われる。このメタファーの網目を組織し、のみならず、このメタファーにいわばどこまでを強制できるのかが試みられなければならないのである。
(『引用の織物』「引用について」宮川淳)
ちょっと解説が必要でしょうか。たぶん、ここで宮川が言っている「いまなお語り続けている文脈」というのは、芸術というものが、それまでの芸術の「破壊」と新しい芸術の「創造」という繰り返しで発展してきた、というモダニズムの文脈のことでしょう。けれども、そのような文脈をつきつめていくと、新たな「創造」がいずれは行き詰ってしまいます。そのことを知的に実践して見せたのがデュシャン(Marcel Duchamp、1887 - 1968)です。彼はまったく「創造」的ではないレディ・メイドを作品と見なし、自らの「創造」の概念を箱に封印して、その後は無為の生活を送る、という極端な人生を演じて見せました。その文脈への問い直しの結果、宮川が示して見せたのが、レヴィ=ストロースという人類学者が提唱したブリコラージュという概念です。そしてその延長上にあるのが、「引用」だったのです。
レヴィ=ストロースという人は、未開民族だと思われていた人たちの生活をフィールドワークして、そこに私たちの思考回路ではとらえられない知的な営みをすくい取った人です。『悲しき熱帯』という本を読むと、そんなレヴィ=ストロースという人が分かる気がします。ブリコラージュは、その未開の(と思われていた)人々が、手に入る在り合わせの素材で新たなものを作り出す、そんな手仕事のことを表す言葉です。在り合わせの素材をあちらこちらから拝借して新しいものを作ってしまう、これは「創造」に重きを置く現代においては、どちらかと言えば軽蔑されてしまう手法なのかも知れません。しかし、だからといって彼らの生活が芸術的に見て貧しいかと言えば、そんなことはありません。現代の私たちとは、価値観が異なるだけなのです。そのコラージュ手法のことを、宮川は「引用」という概念で評価したのです。さらに彼の文中に「表面」という言葉が出てきましたが、これも「表面的」という言葉が蔑みの言葉として使われるように、現代では否定的な概念ですが、宮川はあえて「表面」について積極的に語ったのです。
これらのことは、その当時の最新の思想であった構造主義とか記号論とか呼ばれる考え方から必然的に導かれたものです。ですから「引用」や「表面」に着目したのは、何も宮川に限ったことではありません。しかし宮川が独特であったのは、その思想を美しい散文詩のような、無駄のない文章で綴ったことです。考えてみると、構造主義や記号論と言われる学問は、スイスの言語学者であるソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)の言語学から端を発したと言われていますから、宮川は日本語でその思想そのものを体現していたとも言えるわけです。いま読み返してみても、彼の姿勢は単に最新の思想を説明しようとする学者たちとは、一線を画していると思います。
この『引用の織物』という本は、すばらしい書物ですが、この考え方の延長が「創造」の否定に結びつき、ひいてはそれまでの「芸術」は「終焉」した、というようなことを言いたてる批評家もいて、これが結構頭を悩ましたものでした。宮川自身も、すべて引用による書物を作っていますし、もしも長生きしていたら、その後の芸術をどのような方向に向かわせたのだろう、と考えてしまいます。
実は私も、これからの芸術は「創造」ではなくて「引用」だ、と考えて、描画的な作品からコラージュ的な作品へと制作方法を変えてみました。若い時にはこのような短絡的な変化がつきものだ、というのは言い訳がましいでしょうか?そのころに私が毎年のように個展をやらせていただいていた真木画廊(神田)の山岸信郎さんに、「創造」を否定してはいけません、とたしなめられたことがありました。山岸さんはすでに故人ですが、なつかしい思い出です。当時の私は個展をやっても、無視されるか、けなされるかのどちらかでしたから、山岸さんの言葉にどれだけ励まされたのかわかりません。いまも孤立した状況は変わりませんが、若いころと違ってたいして気にならなくなりました。ちょっと大人になったのか、それとも年を取っただけなのでしょうか?
さて、話を戻しますが、おそらくいまから時代を遡って「芸術の終焉」などと言われても、若い方たちは「へえー」という感じにしか思わないでしょう。しかし、当時はそれなりに深刻でした。例えばアーサー・C・ダントー(Arthur Coleman Danto, 1924 - 2013)という人が「芸術の終焉」ということを言っているらしい、ということは伝わってくるのですが、肝心の彼の著作を読む機会がありません。ダントーはどうやら、それまでの芸術観が終わった、という趣旨のことを言っていて、芸術そのものが終わって無くなってしまう、と言っているわけではなかったようです。それが「芸術の終焉」という刺激的な言葉を使ったものですから、あたかも芸術のすべてが終わってしまったかのように流布されていたのです。せっかく美術について学び始めたところで、そんなことを言われても困ります。その頃、松浦寿夫(1954 - )という人が、雑誌『美術手帖』1983年6月号の論文で次のようなことを書いています。
美術や絵画の終焉をこともなげにいいたてながら、そのことによって自らは何も傷つくこともないままでいられる批評の頽廃に与しないためにも、この点だけが強調しておきたい。いかなる場合であれ、たやすく終焉など語らないことだ。
そして、今日における批評の問題とは、方法論的な次元での問題なのではなく、停滞がいわれて久しい美術の領域においてすら、時おり立ち現れるこの輝きを、いま・ここの場で批評が顕示する力を十分に持ちえていない点にこそ帰着するのではないだろうか。
(『絵画のポリティーク』松浦寿夫)
胸のすくような文章ですね。作品を真剣に見ること、作ることに携わらない人たちが、自分にとって安全な場所から「芸術の終焉」などということを軽々しく口にしていることに対する痛烈な一撃です。松浦はこの当時、まだ20代ですから本当にびっくりしました。私などはいくら年をとっても、こんなに立派なことは言えないだろうな、と思っていたら予想通りになってしまいました。
この文章の中で、松浦は宮川についても触れています。宮川の文章を引用しながら、次のように書いているのです。
かつて宮川淳はその「記憶と現在-戦後アメリカ美術の《プロテスタンティズム》について」(1969年)で、新興文化国家としてのアメリカの戦後美術が「描くことの現在進行形」、「《現在》への意志」に賭けることを通して、記憶を払拭してゆく過程であったと、見事に整理している。ポロックとともにアメリカ戦後美術は、ヨーロッパに顕著な「《記憶》に汲む行為」から決定的に離脱し、プライマリー・ストラクチャーやミニマル・アートによる記憶の全面的な抹殺に到達したというわけだ。
プライマリー・ストラクチャーないしミニマル・アートのノン・リレーショナルが様式的にポロックのオール・オーヴァーにつながっていることはしばしば指摘されている。しかし、たえず《記憶》を打ち消してゆく時間論的《現在》の永遠の自己運動の苦渋に満ちた軌跡は、ここでついに、完全に《記憶》を拭い去った《表面》の現前にまで到達するのである。そして、それこそがドナルド・ジャッドのいう《強さ》であろう。(※宮川の文章からの引用部分です)
だが、はたして記憶は完全に払拭されえたのであろうか。ここでも見え隠れする「《芸術》そのものにほかならない」記憶をテクノロジーによって廃棄するという構図、芸術/テクノロジーという対立の一般的な了解、それらを宙吊りにし、芸術の外部に委託されていた素材の物質性を芸術の内部で行使しえた点に、ジャッドの作品の強度があったのではないだろうか。少なくとも、テクノロジーの援用によって芸術=記憶を全面的に払拭することなどできないだろうし、芸術=記憶の領土をより拡散させてゆくばかりだろう。
(『絵画のポリティーク』松浦寿夫)
ここでは、ドナルド・ジャッド(Donald Clarence Judd 1928 - 1994)の作品が引き合いに出されていますが、宮川はジャッドの無機質な作品からミニマル・アートの意義を見出して、そこから「記憶の払拭」という解釈に至ったのだと思います。しかし松浦の言うとおり、ジャッドの作品の魅力はそのむき出しの素材によるところが大きいと思います。工業製品的なチープな素材が、なぜこんなにも美しく、そして強く見えるのか?ジャッドの作品の前では、おそらく多くの人がこのような戸惑いをおぼえるはずです。工業製品のぴかぴかの、あるいはぺらぺらの表面を「記憶の払拭」という言葉で整理してしまうと、肝心のジャッドの作品そのものの存在さえ払拭してしまうことになりかねない、そんな危険性も感じます。宮川の理論的な潔さ、美しさは、現実の作品と向き合う上では、両刃の刃でもあるのです。
そんな宮川淳の名前も、最近は聞かなくなりましたが、いまでも若い方が興味を持って読んでいることを聞いて、とてもうれしくなりました。私は宮川の理論から、ますます自分が追い詰められていくような読み方しかできませんでしたが、そういう観念的な時期も作家には必要なのではないか、と思います。むしろ私の場合、それが不徹底であったために成長できなかったのかもしれません。
さて、このように哲学や思想の本から直接、創作活動の影響を受ける、という経験は、大学生活の後半から急激に始まりました。思い起こすと、それは羽生真さんという作家のアトリエで、いろいろとお話を聞いたことから始まったのだと思います。羽生さんは文頭で触れた「スペース戸塚`70」のメンバーの一人だったのですが、現在の所在が不明で石川さんの企画展にも参加していません。私は学生時代に、神奈川県の秦野にあった羽生さんのアトリエを訪ねて行っては、何時間も作品の話を聞かせてもらったものです。そのとき、アトリエの本棚にあって目についたのが、メルロポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)の『眼と精神』と、フーコーの『言葉と物』という二冊の本でした。
フーコーの『言葉と物』は実に難解な本で、はっきり言って読んでもチンプンカンプンでした。それでも現在の自分のものの見方を相対化するような、独特の視線を学んだような気がしています。フーコーは現在に視点を置いて過去を遡る歴史的な視点ではなくて、視点そのものを過去に置くようなものの見方をするのです。それを彼は歴史的な視点ではなく、考古学的な視点という言い方をしていました。それにこの本は、第一章の「侍女たち」でベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599 – 1660)の『ラス・メニーナス』を論じていることでも有名です。この部分だけなら文庫本でも読めるようですので、もしかしたら美術に興味がある人には、それで十分なのかもしれません。
一方のメルロポンティの『眼と精神』は、現代の科学的な思考に対して芸術家のものの見方を対置しながら、彼特有の身体的な現象学を語っています。そもそも現象学という哲学が、フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 – 1938)を祖とする、旧来の哲学の問い直しの学問ですから、メルロポンティの本もつねにものの見方、考え方を問い直すかたちになります。とりわけ彼は、セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 – 1906)を素材として取り上げて、いくつかの論文を書いています。私もメルロポンティから、まったく新しいセザンヌ像を学びました。この読書は素晴らしい驚きでしたが、そのなかに例えばこんな一節があります。
セザンヌが描こうとしていた「世界の瞬間」、それはずっと以前に過ぎ去ったものではあるが、彼の画布はわれわれにこの瞬間を投げかけ続けている。そして彼のサント・ヴィクトワールの嶺は、世界のどこにでも現れ、繰り返し現れて来よう。エクスに聳える固い岩稜とは違ったふうに、だがそれに劣らず力強く。本質と実存・創造と実在・見えるものとみえないもの、絵画はそういったすべてのカテゴリーをかきませ、肉体をそなえた本質、作用因的類似性、無言の意味から成るその夢の世界を繰り広げるのである。
(『眼と精神』「眼と精神」メルロポンティ 滝浦静雄・木田元訳)
この文章は、セザンヌの絵を思い出すとその山の姿が頭の中に浮かび上がる、というような月並みな話ではありません。メルロポンティは、セザンヌが山を認識した瞬間そのものが、繰り返し目の前に現れる、と言っているのです。これを字面として理解することは困難ですが、もしも私たちがセザンヌの絵の前でそのような特殊な経験をしていれば、メルロポンティの言いたいことがすぐにでも了解できます。そして言葉にできないその経験を、何とか語ろうとし、その秘密を解き明かそうとする思想家の懸命な姿に感動するのです。もうひとつ、メルロポンティの文章を引用しておきましょう。
セザンヌは風景とともに「芽生える」。科学はすべて忘れて、しかも科学を使って、生まれようとする有機体としての風景の構成を捉え直そうとした。すべての部分的な光景をつなぎあわせ、目の移りやすさのために拡散しようとする光景をまとめ、「自然のばらばらな手を結び合わせる」必要があったとギャスケは語っている。「世界の一分間が過ぎ去る。その実在において、これを描き出すことだ」。そして瞑想はある時点で一挙に完成する。 ―<中略>― セザンヌは、「風景が私の中で考える。私は風景の意識なのだ」と語っていた。この直観的な科学ほど、自然主義から遠いものはないだろう。芸術は模倣ではないし、直観や良き趣味の望みに従った産物でもない。芸術は表現の動きである。言葉が、漠然とした形で現れたものを名づけ、その本性を把握し、認識できるものとしてわたしたちの目の前におくように、画家は「客観的なものとし」「投射し」「固定する」とギャスケは語る。
(『メルロポンティ・コレクション』「セザンヌの疑い」メルロポンティ 中山元訳)
本を読むと、まれにこういうことが起きます。文章としては簡単ではないし、理屈としてひとつひとつを飲み込んだわけでもないのに、あぁ、このことか!と合点がいくようなことです。
そして、私はいろんなことをやってきましたが、結局のところメルロポンティがセザンヌについて語ったような、「認識した瞬間そのものが、繰り返し目の前に現れる」ような絵画を描きたくて、ここまでじたばたしてきたような気がします。それに「世界の一分間が過ぎ去る。その実在において、これを描き出す」、それが「ある時点で一挙に完成する」ような境地に到達したいと切実に願っていますが、残り時間は確実に減っています。絵と向き合う時間が、なかなか取れないところが痛いですね。
それから、余計なお世話ですが、もしもあなたがはじめてメルロポンティの『眼と精神』という本を手に取るのなら、まっさきにその中の「眼と精神」という章を読んでください。この本は、様々な機会にメルロポンティが書いたもの、語ったものを集めた本ですから、初めから最後まで読む必要はありません。思想書は読むのが大変ですから、興味から外れた部分から読み始めて「眼と精神」にたどり着けないようでは元も子もありません。われわれは学者ではないので、読めるところから吸収していけばよいのだと思います。
それにしても、もしも誰かが私の文章を読んで、羽生さんが若い時分の私の眼を開かせてくれたように、新たに本を読んでみたり、音楽を聴いてみたり、展覧会を見に行ったりするようなことが起きたら、これは本当にうれしいです。こんな私でも、少しはここまで生きのびてきた意味があった、ということになりますから・・・。
まだまだ話は尽きませんが、だいぶ長くなりました。最後に、ひとつだけ書いておきたいことがあります。それは、私が若いころから悩んできたことです。
ここまでの話のように、どうやら新しいことというのは、つねに外の国からやってきました。そして付け焼き刃のようにそれを学習していると、次の新しいことがまた外からやってきます。そんなことを繰り返していると、日本ではモダニズムがどんなものなのかもわからないうちに、もうポストモダニズムだなどといって浮かれている、というような声が聞こえてきます。そんな根無し草のような思考では、本当の思想や哲学は理解できない、というような極端な話になります。私にとってもっと身近なことで言えば、例えば日本人には本当の油絵は描けない、なぜなら西欧では数百年の歴史があるのに、日本ではこの百年ぐらいの経験しかないからだ、というような話です。同様に、本当の古典を知らないのに近代絵画が理解できるのか?とか、近代絵画が煮詰まらないうちに現代アートだなんていっても表面的な物まねじゃないのか?といった具合です。
しかし、このような話は今に始まった話ではないようです。
次の文章を読んで、これはいつ頃の話だと思われますか?
これは、たえず優位な文化から岸辺を洗われてきた辺境の島国という歴史的な宿命を負ってきたことを考えると、痛いほど身に沁みて感じられることだ。わが国では、文化的な影響をうけるという意味は、取捨選択の問題ではなく、嵐に吹きまくられて正体を見失うということだった。そして、やっと後始末をして、掘立小屋でも建てると、まだ土台もしっかりとしていないうちに、つぎの嵐に見舞われて、吹き払われる。もちろん、その度ごとに飛躍的な高さに文化はひきあげられた。でも、その高さは狐につままれたように、実感の薄いままに踏襲しなければならなかった。
(『初期歌謡論』「歌謡の祖形」吉本隆明)
本のタイトルから、何のことだがわかってしまいますね。この文章は次のように繋がります。
詩歌の歴史も、それとちがわない。古代の歌謡から和歌がうまれ、和歌の胎内から連歌や俳諧が発生し、また、近代詩がうみだされたという歴史は、詩歌の形式的な変遷を語るとともに、その折り目ごとに何らかの外来の文化的な影響をかんがえに入れなければ、とうてい解き難いような裂け目を露出した。
(『初期歌謡論』「歌謡の祖形」吉本隆明)
日本に和歌が生まれる前の古代歌謡の時代から海外の影響で右往左往してきた、というのが日本の文化的な状況のようです。吉本隆明(1924 - 2012)は、このように鋭くて、しびれるような文章を書くので、若いころはよく読みました。ちょうど私の父親と同世代ぐらいの人です。今の若い人たちには、作家の吉本ばなな(1964 - )の父親だと言った方が、わかりやすいかもしれませんね。吉本隆明は、晩年に漫画や映画など、いわゆるサブ・カルチャーについても大いに語りましたが、やはり文学について論じたものが面白いと思います。
ところで、「掘立小屋でも建てると、まだ土台もしっかりとしていないうちに、つぎの嵐に見舞われて、吹き払われる」ような状況に私たちがいるとしたら、どうしたらよいのでしょう?そんななかでは、何を考えて、表現しても無意味なのでしょうか?
たぶん、そんなことはないと思います。もしも自分の学んでいるものが、まがい物だと思うのならば、それは本物に近いものを学習した方がよいに決まっていますが、一人の人間の理解できることには限りがあります。仮に西欧に生まれたからといって、それだけで西欧の思想や美術の素養が身につく、というものでもないでしょう。いまどき、西欧に生まれようが、アジアの辺境に生まれようが、絵を描くのにどれほどの違いがあるのでしょうか?
若いころは、自分の思い通りにいかないと、自分をめぐる環境のせいにしてみたり、社会的な状況のせいにしてみたり、いろいろな理由を考えます。そうしないと、湧きおこってくる焦燥感を抑えきれない、という面もありますが、嘆いたり、焦ったりする間に本の一冊でも読んでおいた方が役に立ちます。そのようにして生きてきた結果がどうだったのか、それは死んでから考えよう、というぐらいの気持ちがちょうどよいのではないでしょうか。それに、日本人には油絵の歴史がない、という人には、それを覆す作品を描いて見せるしかない、と思います。現在の自分を否定的に考えるときりがありません。表現活動をやめたくなるような要因はそこら中に転がっていますが、表現活動を継続する理由は、私のような才能のない人間にはたった一つしかありません。自分が作りたいから、作るのです。多くの恵まれた人たちには、こんな話は役に立たないかもしれませんが、もしも何かで落ち込むようなことがあったら、原点にかえって考えてみてください。私のような最低の人間でも、自分で絵が描きたいと思うのなら描いても構わないはずですし、それが描く理由になるのだと思います。
なんだか、つまらない思い出話とお節介に終始してしまったような文章ですが、文中にも書いたようにどなたかの参考になれば、うれしいです。書き足りないことがまだまだあるので、もしも、面白かったよ、と言っていただければ、調子に乗って、また書きます。
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