平らな深み、緩やかな時間

161.『体の贈り物』レベッカ・ブラウンと現代美術について

新型コロナウイルス感染がいよいよ心配な状況になってきました。
さまざまな情報が飛び交う中で、私のような何もできない人間があれこれ書きたくないのですが、東京の図書館や美術館がまっさきに休止の判断をしたところを見ると、またしても、というふうに思わざるを得ません。科学的な根拠を持った感染防止のための休館、というよりは、自粛のアピールとして経済活動と無関係な文化施設が為政者にねらわれたのだ、と感じてしまいます。
この先、どんなに感染状況が悪化したとしても、図書館の本の貸し出しだけは、文化行政として死守すべきではないでしょうか。図書館での閲覧を休止してもインターネットでの本の検索、予約ができますし、必要ならば本を受領する日時も予約制にすれば、混雑は避けられるはずです。GOTOキャンペーンに使うお金を蓄えているのなら、本の配達サービスでも行ったらどうでしょうか。ただでさえオンライン授業で学びの機会が奪われている学生や研究者がいるのに、本の貸し出しまでやめてしまえば、そのつけは将来に及ぶと思います。いまのところ、私の暮らす神奈川県の行政は冷静な判断をしてくれているようで、美術館も図書館も利用可能ですが、それもいつまでもつのでしょうか。念のため、予約していた本の貸し出し準備が出来たとの知らせを受け、さっそく受け取りに行きました。
そしてちょっとだけ、個人的なお詫びです。このような状況ですが、いまのところ高校の運動部の大会は、予定通りに開催されています。私は高体連のある競技の委員になっているので、4月から5月にかけてのこの時期と8月から9月にかけての時期は、試合の運営に忙殺されて展覧会に行けなくなることがあります。先週も今週も、何人かの知人の展覧会を見ることができませんでした。申し訳なく思うと同時に、自分としても残念に思っています。
ところで私は、この春で定年退職となりましたが、継続して再任用職員として働いています。給料は半分くらいになったのに、部活動も担任業務も、その忙しさがむしろ増しているような気がします。高体連の委員の委嘱もそのままです。これだけ忙しいと、自分も少しは必要とされているのではないか、と勘違いをしてしまいそうですが、そんなことはありません。同僚の若い方々には、相当に困った存在であることは自分でも認識しています。ご年配でそれ相応の尊敬を集めている先生方もいらっしゃいますが、私は残念ながらその正反対の人間なのです。若い頃には、まさか自分が高齢化社会の悪しき問題点になろうとは、夢にも思いませんでした。迂闊にも、自分が定年まで生きのびることを、想像していなかったのです。コロナウイルスをはじめとして、さまざまな災害で惜しまれて亡くなっている方がいらっしゃるのに、何だか自分の存在が申し訳ないような気がしています。しかし自分のことはさておいて、一般論としては高齢者をいかに社会の中でうまく受け入れていくのか、ということが、これからはとても大切なことになります。それには、社会全体がもうすこし、ゆとりと寛容さを持たないとまずいのではないか、という気がしています。

さて、今回はそんな私の悩みとは別に、病のために「死」が身近にある人たちの話です。そして、その人たちと直面する立場にある主人公の、その対応の方法や心のあり方が、とても興味深い物語です。アメリカの作家、レベッカ・ブラウン(Rebecca Brown, 1956 - )の『体の贈り物』という本なのですが、この本について翻訳者の柴田 元幸(1954 - )が「あとがき」のなかで次のように書いています。

この本の内容をざっと要約してみると、たとえば「エイズ患者を世話するホームケア・ワーカーを語り手とし、彼女と患者たちとの交流をめぐる、生と死の、喜びと悲しみの、希望と絶望の物語」といった具合になるのだろう。
(『体の贈り物』「訳者あとがき」柴田元幸)

こう書くと、かえってこの本を敬遠する方がいるのではないか、と柴田元幸は心配しています。そんなことがあるとしたら、本当に残念なことです。それくらい、素晴らしい本なのです。そこで、というわけではないのですが、私はこの感動的な本を別な角度から読んでみたいと思います。美術にしか興味がないような、そんな偏った人間である私が読んでも、この本はとても面白いのです。それはどういうことなのか、それを説明する前にちょっと寄り道をします。50年ほど前の現代美術の話になりますが、すこし我慢をしてお付き合いください。

現代美術家の李禹煥(リ・ウーファン、Lee U-Fan、1936年 - )は、主著である評論集『出会いを求めて』(1971)の序文で、このように書いています。

近代とは、眼が認識の奴隷となり、表象作用によって操作された、「対象」の輪郭に拘われるようになっている、「作品的世界」を指す。今日の最大の課題は、そのようなオブジェ思想をどう超え、いかにして視座を対象の輪郭から解放するかだ。対象のそれ自体を透明にして、あたりにひろがりを観えるようにするという、無にして有を限定する仕草においてである。といって陰険な修正主義者たちのしわざのような、対象の実体を眼前から取り去って、それを観念の洞窟に隠蔽することであってはならない。問題は、対象観念そのものを解体し、むしろ意識の自己限定をして、現実の形相の上でそのまま非対象的世界を、いかに開示しどう知覚の地平に解き放すかにあろう。観念主義者たちのように「現実」から像の空間に逃避を試みたり、シュルレアリストたちのように「現実」をありうべきでない形にねじまげたり、ポップ・アーティストたちのように「現実」を虚像化し開き直ったりすることは、もはや許し難い犯罪に等しい。今や観る「と同時に」観られ、観られる「と同時に」観るというあるがままに出会う仕方として、「現実」が鮮やかな現実を開く場所であるように、すべてが自ら生きた光景であるように、観ることを持続し普遍化させる出来事をもよおすことが仕事であり営みとなるべきであろう。そのとき出来事において形づくられた構造(関係項)は、立ち合う者をして、いよいよ場所の状態性顕わな、直接なる世界のありように出会わせる「即」の境地を開くのだ。そこで顕在化させられる関係の相は、だからなにものの像でもない。まさしく世界自身の世界する大いなる場所の身体であるということができよう。
(『出会いを求めて』「序」李禹煥)

いまから50年も前に、高らかに書かれた文章ではありますが、今読んでみて、すーっと内容が頭に入る若い方は、ほとんどいないのではないでしょうか。1970年以前の、シュルレアリスムからオブジェ作品、コンセプチュアル・アート、ポップ・アート、ミニマル・アートなどが入り乱れた時代に、新しい芸術、新しいものの見方を開示しようという意欲にあふれた著書ですが、その一方でそれまでの美術の動向を一掃しようということにも余念がないように見えます。1980年代の喧騒を本格的に経験する前の、学生だった私はそれなりの感動をもってこの本を読んだのですが、今になってみると、1980年代以降の「落書きアート」の類の作品に比べれば、李禹煥がここで否定しようとやっきになった作品群から李禹煥自身の作品までが、ひとつの時代のつながりの中にあるように見えます。
ですから、私は李禹煥が現代美術の中で成し得た仕事を尊敬し、評価もしていますが、いま彼の仕事を読み直すと、彼が美術界の鍔迫り合いのなかで小言のように発した言葉をかき分けて、本当に意義深い核心部分を探さなくてはなりません。この文章でいえば、文頭の「近代とは、眼が認識の奴隷」であったというところと、後半の「今や観る『と同時に』観られ、観られる『と同時に』観るというあるがままに出会う仕方として・・・」というところから後ろの部分が重要です。
李禹煥は1970年代に、確かに新しい芸術を創造し、新しいものの見方を示唆した芸術家です。そして彼が言うところの「直接なる世界のありように出会わせる」という芸術の在り方が、レベッカ・ブラウンの小説ともリンクしていると私は思うのです。しかし、先を急がずに、もう少し説明をしておきましょう。
李禹煥がこの本の中で言及している作家の一人に、関根伸夫(1942 - 2019)という美術家がいます。彼の作品の中でも、とりわけ『位相-大地』(1968)は有名な作品です。
(位相 大地1)
この作品は、日本の現代美術の動向である「もの派」の作家たちに大きな影響を与えた作品だと言われています。「もの派」については、いろいろな説明の仕方がありますが、例えば石や木、鉄や土などの物質をあまり加工せずに展示空間に設置し、そのことによって設置された「もの」や展示空間が通常とは違って見えてくるような、そんな作品を提示した美術運動だと言ってもいいでしょう。特定の美術集団があるわけではなく、また個々に見るとさまざまな作風や考え方があったのですが、1960年代の末から1970年代のはじめにかけて、インスタレーションと呼ばれる「もの」を直接、設置する表現方法で活躍した作家たちがいたのです。李禹煥はその代表的な作家と見なされていますが、彼自身が「もの派」を提唱したわけではありません。あとから誰かが、そのように見なしたのです。
そんな作品群の源泉となったのが、関根伸夫の『位相-大地』だったのですが、それではこの作品をどのように見ればよいのでしょうか。
関根はこの作品の以前に、人間の目の錯覚を利用したような、イリュージョニスティックな作品を制作していました。言わばトリック・アートのようなものです。それが、この『位相-大地』において別な面を見せたのです。李禹煥はこの作品について、次のように書いています。

公園のとある広場で延々と大地を掘り起こし、それを近くの地上に掘った形通りに積みあげるという行い。掘っては積みあげ、掘っては積みあげる。何日も何日も、このまるで子供じみた滑稽でナンセンスな反復は続けられ、そうして、巨大な凹凸の円筒を出現させて(直径2.5メートル、高さと深さ各3メートル)、彼の仕草は終わる。そこでも彼の仕草は、大地を大地にしたにすぎず、なに一つ付け加えることもなく、へらすこともしていない。ただ大地を大地にすること、つまりは、大地を世界のありようのなかへ開示する行いとしての土の塊や形としての凹凸ではなくなる。そこには、人間の表象物としての作り上げた対象など認めることができないのだ。
大地を二つにしたからだろうか。否、まさしく一つにしたからである。否、二つにもみえ、一つにもみえ、または一つもないようにすらみえる。そしてそこに対象が「在る」かとみると「無く」、「無い」かとみると「在り」、しかしそれでいてなにもみえないかというと、鮮やかに「見える」のだ。そのような大地の様相の状態性のゆえ、ついにそこに「見る」ものは、対象ではない広がりの空間、非対象的な世界のありようであるといえる。仕草はこうして世界を、オブジェのように認識の対象物に化けさせることではない、非対象的な現象のさなか〈知覚の地平〉へ解き放すこと、すなわち世界を世界することを指している。
(『出会いを求めて』「存在と無を越えて―関根伸夫論―」李禹煥)

哲学的な文章で、難しいですね。
この作品は野外展の会場の地面に円柱型の穴をうがち、掘り起こした土を穴と同じかたちに固めて隣に置いただけの作品です。先ほども書いたように、見方によっては、トリック・アートのアイデアの延長にある作品だとも言えるでしょう。しかし、この作品は大地、土、空間という人間にとって根源的なものが素材となっている点や、それが大きなスケールで表現された点において、たんに穴と同じ形が地上に現れた、という表現以上の印象を見る者に与えるのです。
例えば、掘り起こされた土が、地面の下でどのような形を成していたのか、などということを私たちは通常、気にしません。しかし、このように巨大な円柱型として地上で提示されると、地下と地上という異なった位相の空間が、土を介して裏返しの関係で繋がっているように見えます。それが「否、二つにもみえ、一つにもみえ、または一つもないようにすらみえる」ということなのでしょう。それに、土が円柱型に固められたことによって、私たちは土という物質の可変性を意識することにもなります。
地上と地下の異なる位相に現れた鏡のような物質と空間、そして土という物質の不思議な可変性、これらのことにふだん私たちは気づかないでいます。しかし、こんなふうに、通常では見過ごしてしまう世界や見えない次元を可視化することが、現代芸術の果たす大きな役割でもあるのです。「非対象的な現象のさなか〈知覚の地平〉へ解き放すこと、すなわち世界を世界すること」と李が言っているのも、そういうことなのです。美術というのは、何かもの(対象物)をつくり出すことだけが美術なのではなくて、ふだん、私たちが気づかずに見過ごしてしまっていることに気づかせることが重要で、それが「〈知覚の地平〉へ解き放すこと、すなわち世界を世界すること」なのだと、李は書いているのです。
この本の中で、李は繰り返し「世界を世界すること」について説明しています。例えば文豪の川端康成(1899 – 1972)が、ハワイのホテルのテラスの棚に並んでいるガラスのコップが朝日でぴかぴか光っている光景に「出会った」こと、そのことによって「ガラス」や「コップ」というものが川端にとって、それまでとは別なものとして発見されたことを書いています。あるいはサッカーのゲームによって引き起こされる感動や興奮は、物質的には説明できないものであり、それはその場所や空間との「出会い」によって得られるものであること、などをあげています。これらはいずれも、芸術作品(対象物)として用意されたものではなく、日常的な光景の中で私たちが意識することによって「出会い」、気がつくことのできるものなのです。そしてこの「出会い」によって、私たちの周囲の硬直した、閉塞した世界が突き崩され、広がっていくというわけなのです。
実はこれと同じ「出会い」が、あるいはもっとすばらしい「出会い」が『体の贈り物』のなかにありました。それがこの本を、たんなるヒューマニズムのドラマとは一線を画するような作品にしているのだと私は思っています。それをこれから考察してみましょう。

それでは、『体の贈り物』を見ていきましょう。
実はこの本は、大きなひとつの物語ではなくて、短編小説集のような小さな話の集まりです。その一つ一つの話が、作者がモデルと思われるホームケア・ワーカーの体験談となっているのですが、出会う患者も状況もそれぞれ異なっています。とりあえずその中の一編を取り上げてみます。四編目として掲載されている『肌の贈り物』という小説です。『肌の贈り物』は、文庫本にして15ページほどの短編で、ドラマチックな出来事もロマンチックな出会いもありません。物語は、主人公のホームケア・ワーカーが仕事仲間のマーガレットから、突然の欠員の代理を頼まれるところからはじまります。

土曜日に電話して悪いんだけど、いつもの人が来れなくなっちゃって代わりが要るのよ、助けてもらえないかしら、とマーガレットに言われた。その男性は私のアパートからほんの二、三ブロックのところに住んでいた。名前はカーロス。
マーティという男性が玄関に出て、なかに入れてくれた。マーティはカーロスの友人で、夜はここに泊まっている。でも昼は仕事に行かなくてはならない。このへんの事情はマーガレットから電話で聞いていた。いらっしゃい、とマーティは私を迎えてキッチンに案内し、身ぶりで冷蔵庫、食品棚、レンジを示した。ぽっちゃりした、西洋梨みたいな体つきで、三十代なかばぐらいだが、赤ちゃんのころの丸みがまだ残っている感じだ。赤ちゃんのような肌は、ひげを剃る必要もほとんどなく見える。肌の色は青白かった。特に腕は。半袖のシャツを着ていた。電話のそばに貼ってある自分の勤務先の電話番号と、アンディという別の男性の番号をマーティは指さした。廊下のクローゼットを開けて、タオル、洗剤、掃除用具、脱脂綿、シーツ、手袋のありかを教えてくれた。
(『体の贈り物』「肌の贈り物」レベッカ・ブラウン著 柴田元幸訳)

このように、この小説は淡々とした語り口で書かれています。むずかしい言葉はなく、主人公の思いや独白も最小限に抑えられ、文学的な形容詞も見あたりません。それに話の一つ一つが短いので、これなら私でも原文で読めるのではないか、と思ったのでしょうか、実は知人の外国語の先生が英語のペイパーバックの本を私に贈ってくれました。そこで上記の部分の中でも、私はマーティの描写がみごとだと思うのですが、その部分を原文から拾ってみましょう。

A guy named Marty let me in. He was a friend who’d been staying at Carlos’s place at night. Marty had to go to work during the day. Margaret had told me all that on the phone. Marty said hi and ushered me into the kitchen, gestured at the fridge, the cabinets, the stove. Marty was a pudgy pear of a guy, mid-thirties, but he still looked like he had his baby fat, and that baby skin, like he almost never had to shave.
(『The Gifts of The Body』「The Gifts of Skin」Rebecca Brown)

私は翻訳の経験がありませんのでよくわからないのですが、「hi(ハイ)」を「いらっしゃい」と訳すのは、よくあることなのでしょうか。そしてもっとも気になるのが「ぽっちゃりした、西洋梨みたいな体つき」というところですが、これはそのまま「pudgy」=「ずんぐりした」、「pear」=「ナシ、洋ナシ」を訳したもののようで、とくに意訳したものではないようです。ただ、滑らかな流れの日本語になっているところが、やはり柴田元幸のうまさなのでしょう。
全体として眺めてみると、先ほども書いたように文学的な、とりわけ感情的な形容詞を極力排し、事実に基づいた単語の羅列となるように、意図的に書いているように見えます。それが創作する行為よりも「世界を世界すること」を旨とした、現代美術の動向と重なるような気がするのですが、いかがでしょうか。そして、そんな抑制的な書き方をしていても、人物の肝心なところの感情表現はしっかりと、それも実感をもって書かれているのです。例えば次に引用するマーティが仕事に出かける前の、その気持ちを綴ったところを読んでみてください。

マーティが戻ってきた。「また今夜な、カーロス」とゆっくり言った。カーロスを安心させようとしているのだ。自分でもその言葉を信じたいのだ。
「マーティを玄関まで見送るね、カーロス」と私は言った。「すぐ戻ってくるから」。カーロスの手を離して、シーツの上に置いた。
玄関まで来ると、マーティが私に、外の廊下に出るよう手で合図した。私が部屋から出ると、マーティはドアを閉めた。
「僕の勤務先の番号は電話のそばにあるから」とマーティは念を押した。「もし何か必要だったら電話して」
「そうする」と私は言った。
「カーロスが僕と話したいって言ったら、君が代わりにダイヤルしてあげた方がいいかも」
「オーケー」と私は言った。
「それでもし電話して、僕が席を外していたら、伝言を残してくれればいいから。頼めば社内放送で呼び出してもらえるし、僕らの仲間のアンディに電話してくれてもいい。アンディの番号も電話のそばにあるからね」
「オーケー」と私はもう一度言った。マーティは行きたくないのだ。
マーティは私のうしろのドアを見た。「うん・・・そう・・・じゃあ・・・君、尿バッグとか全部見た?」
「うん、いますぐ取り替えておく」
マーティはうつむいてカーペットを見た。「カーロスの奴、導尿器のこと恥ずかしがってるんだ。べつに駄々こねたりはしないと思うけど、ただ―」マーティは口をつぐんだ。
「わかる」と私は言った。
マーティはため息をついた。「あいつがあんな糞みたいな―失礼―物に頼らなくちゃならないと思うとね。」
「大丈夫」と私は言った。
「また一歩進んだんだ」
私はうなずいた。
「新しいことがあるたび、何かをなくしちゃうみたいでさ」。マーティ首を横に振り、腕時計を見下ろした。「やばい、もうほんとに行かないと」。そう言って廊下を行きかけたが、途中でまたこっちを向いた。「ただ何となく話したいだけでも、電話してくれて構わないから。かけても全然大丈夫な職場だから」
「オーケー、マーティ」と私はまた言った。「そうする」
何かを思い出そうとしているみたいに、マーティはそこに立っていた。本当に行きたくないのだ。でも無理して、歩き出した。「結構。オーケー。じゃ、行くよ。バイ」と彼はすごく早口で言って、出かけていった。
(『体の贈り物』「肌の贈り物」レベッカ・ブラウン著 柴田元幸訳)

マーティが仕事に行くのをぐずっている様子を書いただけですが、そこにはカーロスに関するさまざまな情報が盛り込まれ、それに対するマーティの気持ちが書かれています。そして、それを辛抱強く受け止める主人公の、ホームケア・ワーカーとしての矜持と力量も察することができます。文章の書き方はミニマル(最小限)で素っ気ないのですが、それだけにかえってその背景にあるものが、言葉にならない形で表れているような気がします。主人公が感想らしいことを語ったのは、ただの二回だけです。
「マーティは行きたくないのだ。」
「本当に行きたくないのだ。」これだけでも十分すぎるくらいに感じます。
そしてマーティが出かけた後、主人公はカーロスの世話を始めます。
カーロスが目を閉じている間に彼の尿を捨てた主人公は、もどってきたところで「君、誰?」とカーロスから聞かれます。カーロスはさっき、マーティから主人公のことを紹介されたのに、そのことをすっかり忘れているのです。もちろん、病気のせいだということは明らかです。主人公はあらためて自己紹介した後に、「前に会ったっけ?」とカーロスから聞かれます。そこで「二、三分前に」とさらりと言うところが、とてもいいです。相手の気持ちを思いやり過ぎて、ごまかしたり、嘘をついたり、ということはしないのです。そんなことをしていてはホームケア・ワーカーの仕事は務まらない、と教えられているような気がします。そしてカーロスの身体を洗うために、彼の上半身を起こします。そんなさりげないことも、いろいろと気を遣う、けっこうな重労働なのですが、そのなかでだんだんと二人の間に信頼関係が生まれてきます。たまたまシーツがめくれて、カーロスのペニスと導尿器が露になってしまう、というカーロスにとっては過酷な出来事もありますが、そのきまり悪い状況も主人公はうまくやり過ごします。そして最後に、カーロスの身体を洗う場面になります。

「腕を洗うよ、いい?」
「うん」
彼の目は閉じたままだった。
お湯のなかでクロスをぎゅっと絞ってから、それを彼の前腕に当ててのぼっていき、肱まで行った。
彼は大きく息を吸った。「ああ、すごく気持ちいい」
私は両手を丸めてお湯をすくい、彼の腕にかけた。肱を洗い、腕を洗い、タオルで拭いた。わきの下の窪みと、肋骨を洗った。背中と、腹と、肩を洗った。お湯が冷めてくると、お湯とオイルをなみなみと足した。首と顔を洗った。額を洗い、瞼を洗い、あごひげと口のまわりを洗った。あたりにオイルの匂いがたちこめてきた。ミントかユーカリのような香りだった。
私は床に座り込んで、彼の足を洗った。両足にお湯をかけた。
彼は下を向いて私を見た。手が私の頭に触れた。彼の顔に優しさがあふれていた。「ありがとう」と彼は言った。
洗い終わると、動き方を彼に伝える必要はなかった。向こうから体をあずけてきたからだ。私が両腕を持ち上げると、自分から私の首に巻きつけてきた。私たちの肌は清潔な感じがした。私は両腕を彼の背中に回して、彼の体を横たえた。それから彼の両肘をベッドの上に載せて、導尿器のチューブをまっすぐに直した。体に掛かっていた古いシーツを剥がし、代わりにタオルで覆った。背中が私の方を向くよう、体の向きを変えた。見かけよりも重かったが、すんなりと動いていてくれた。体の下に敷いていた古いシーツのこっち側をベッドから剥がして、新しいシーツを半分敷いた。体を転がしてこっちへ向けた。私の服を通して伝わってくる彼の体はひんやり冷たく、清潔な感じがした。下に敷いてあるシーツを丸めるようにして剥がし、新しいシーツの残り半分を広げた。私は彼を仰向けに横たわらせた。彼の息は荒かった。
「大丈夫?」
「うん」と彼はあえぎながら言った。「ちょっと疲れただけ」
私は上掛けのシーツをぱっと広げ、ベッドの端にたくし込み、両横にも押し込んでいった。体に掛けたタオルを、導尿器のチューブに気をつけながら外し、シーツを引っぱり上げた。
シーツを引っぱり上げて、体に掛けようとしたところで、彼が片手で私を制した。「まだ掛けないで」と彼は言った。「空気がすごく気持ちいい。空気を肌で感じていたいんだ」
(『体の贈り物』「肌の贈り物」レベッカ・ブラウン著 柴田元幸訳)

小説はここで終っています。
ちなみに、最後のカーロスの言葉は、原文ではどうなっているのでしょうか。

“Don’t cover me yet,” he said. “The air feels good. I want to feel the air against my skin.”

難しい単語は、ひとつもありません。中学生レベルの私でも翻訳できそうです。しかし「空気がすごく気持ちいい」という訳語は出てこないと思います。そこがいちばん、肝心なところですが・・・。このような終わり方で、この小説がどれほどの余韻を残しているのか、あるいは柴田元幸の翻訳がどれほど素晴らしいのか、ということも気になりますが、それは私のような者が評価することではないので、ここでは現代美術の表現とのつながりについて考察しておきましょう。
レベッカ・ブラウンがこの小説において、一貫して感情表現を抑制し、具体的な「もの」や登場人物の語りによって物語を書き進めてきたことは、すでに確認しました。それが「もの」を直接提示する現代美術の表現とも似ている、と私は先ほど指摘しました。さらにここでは、「空気」という物質について語っているところに注目しましょう。「空気」は、水中に飛び込まないかぎり、あるいは宇宙にでも飛び出さないかぎり、つねに私たちの周囲にあるものです。カーロスの周囲にある空気も、私たちが呼吸している空気も、気温や湿度、においなどの違いはあったとしても、本質的にはさほど変わらないものでしょう。それは私たちの日常に、あたりまえに存在しているものなので、ふだん「空気」についてあえて語ることはありませんし、注目したり、意識したりすることもありません。しかし、この小説の中において、カーロスの体がこまかな手順を踏んで清潔になり、その肌に直接、「空気」が触れたとき、私たちが見過ごしてきた「空気」が何か特別な存在感を示し始めるのです。
このように、あたり前に存在するものについて何か驚きをもって指し示すこと、これこそが李の言うところの「〈知覚の地平〉へ解き放すこと、すなわち世界を世界すること」に相違ありません。関根伸夫が地面から掘り起こした土くれを円筒状に固めて私たちの前に示してくれたように、レベッカ・ブラウンは「空気」というものの存在を、私たちの意識の中に呼び覚ましてみせたのです。
それにしても、この「空気」の指し示し方は、なんと美しく、素晴らしいことでしょうか。この一瞬を感受できたことによって、気の毒に見えたカーロスの存在が生気を取り戻し、そして彼がこの世界に生きている意味が、一気にあふれ出してきたように感じました。哀れみや同情ではなくて、「空気」の存在を噛みしめた彼は、私よりも有意味は存在なのだと確信できるのです。
最後にこの本について、訳者の柴田元幸がどう書いているのか、再び書いておきます。実はレベッカ・ブラウンという作家は、この本を出すまでまったく別な作風の小説を書いていた人で、このようなリアリスティックな書き方に柴田元幸もかなり驚いたと書いています。そんなことが書かれた後の部分から、引用しておきます。

でも、じっくり読んでいけば、リアリズムかどうかは、そんなに大きな問題はないことが見えてくる。抽象語を排して、シンプルな、それこそ体にしっくり来るような言葉だけを選んで、作品世界を組み立てていく見事さは、やはりレベッカ・ブラウンならではだ。すでに触れたように、死んでいくエイズ患者たちとの交流の物語ともなれば、出来合いの紋切り型の感情が入り込んでしまう余地はたっぷりある。そういう罠にいっさいはまらず、起きたこと、感じたことを、一見何の技巧も凝らさず真正面から語るその語り口は本当に素晴らしい。
そのシンプルさは、すべて「~の贈り物」で統一された題名にも表れている。何が贈られるか、与えられるかは作品ごとに違うし、世話する側がされる側に何かを与える場合もあれば、その逆の場合もあるし、時にはどちらがどちらに(そもそも何を)与えているのかはっきり言葉にしにくいこともある。だがどんな場合でも、世話される側の死へといずれ行きつくほかない「負けいくさ」のなかで、語り手は確実に何か、「贈り物」と呼べるような肯定的なものを感じとっている。そしてそれを糧に、物語という贈り物を読者に贈ってくれている。それはさっき言ったような、手垢のついた「物語」とはまったく別のものである。
(『体の贈り物』「訳者あとがき」柴田元幸)

考えてみると、私も含めて創作活動をする人間は、自分の作ったものがいかに「手垢のついた」ものにならないようにするのか、で苦労します。現代芸術が次々と新しい「〇〇主義(イズム)」を掲げてきたのも、ピュアな感動を保つためだったはずです。それがいつしか、理屈ばかりが先行するようになってしまいました。そんななかで、レベッカ・ブラウンがごく自然な表現で現代美術が目指してきたものを実現し、それも素晴らしい成果をもたらしていることに感動します。私たちがジャンルにこだわらずにさまざまなものに触れていけば、きっとこういう素晴らしい出会いがもっとあるのだろう、と思います。
ちなみに、柴田元幸が「すべて『~の贈り物』で統一された題名」になっていることについて書いていますが、それは次のようなタイトルです。
『汗の贈り物』、『充足の贈り物』、『涙の贈り物』、『肌の贈り物』、『飢えの贈り物』、『動きの贈り物』、『死の贈り物』、『言葉の贈り物』、『姿の贈り物』、『希望の贈り物』、『悼みの贈り物』です。これらがどんな贈り物なのか、知りたくなったらぜひ読んでみてください。調べてみると、文庫で649円、古本なら100円以下で売っています。東京都以外なら、まだ図書館が動いています、ありがたいことです。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「ART」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事