私事でばたばたしていると、なかなかブログを書く時間がありません。少し前のものになりますが、ふたつの展覧会について書いてみたいと思います。
ひとつめは京橋のギャラリー檜で2月に開催されていた「dialogue-vol.Ⅲ さとう陽子×稲 憲一郎」という展覧会です。これはさとう陽子さんと稲憲一郎さんの二人による展覧会ですが、たんなる二人展ではなくて、二人の対話(dialogue)をパンフレットとして同時に配布するという試みです。「dialogue-vol.Ⅲ」とあるとおり、ギャラリー檜の高木久仁子さんと稲さんの企画シリーズ展、その3回目ということになります。ちなみに一回目は「高橋圀夫×稲憲一郎」、二回目は「北村周一×稲憲一郎」です。
ここまでのシリーズ展を見ると、現代美術の表現の中でも「絵画」という表現方法についての各作家の考察や問題意識、その取り組みがきわだって見えてきます。企画者であり、一方の対話者である稲(ここから敬称略)は、これまで立体作品、平面作品と表現形式を変えながらも「絵画」表現について深く考察してきました。(拙文http://www5b.biglobe.ne.jp/~a-center/p-ishimura/text/2000-3.pdf)もう一方の対話者である高橋、北村も、方法論こそ違っても、同様に深く絵画について考えてきた作家です。また、今回の対話者であるさとう陽子は、写真や詩による表現も並行して行ってきたユニークな作家ですが、やはり「絵画」について深く考えてきた作家だと思います。(2013年9月の本ブログを参照してみてください。)このように「絵画」表現に対する意識の高い作家たちの組み合わせであるからこそ、各作家の表現への取り組み方のちがいが、いっそう深い形で見えてくるのです。
そして今回の展覧会ですが、さとう陽子と稲の両者ともに、その表現の形式について、かなり幅の広い作家である、と言えるでしょう。さとう陽子は今回、絵画と同時に写真も展示していますし、また稲が平面作品と立体作品を並行して制作していることは、先ほど書いたようによく知られています。しかし、その一方で両者の表現方法には、明確な違いがあります。作品の表現スタイルや、ぱっと見たときの印象が異なるのは当たり前ですが、それ以上に見えてくるのが、稲が作品の表現方法をある程度、定めた形で連作的に制作するのに対し、さとう陽子は一枚、一枚を違った様式で描いている、という相違です。二人の作家は制作理念にあいまいなところがないだけに、その違いが明確に見えるのです。そのことについて、パンフレットに記載された二人の対談の中でも触れられています。さとう陽子は「自分の立ち位置はミュージシャンに近い」と言っています。これはどういうことでしょうか。私には、高度な演奏技術と作曲能力を身につけたミュージシャンが、自由自在に音楽のジャンルの垣根を越えて演奏するイメージが思い浮かびます。たとえばジャズピアニストのチック・コリアがクラシックの曲を演奏したり、クラシックのヨーヨー・マがタンゴを演奏したり、というようなことです。そのときどきの自分のやりたいことを、実感を持ったかたちで表現するには、それなりの技術や判断力を必要とします。さとうはそういう表現者を目指しているのかもしれません。「出来るだけ分かり易いメロディーで謳う。そういう事をやっていれば、何かが立ち上がるんじゃないかという、そんな感覚があって。」と彼女は言っています。ただし、それはただ感覚的に作品を描く事とは違っています。「感覚で作る限界ってあると思うんですね。」と、さとうは言っています。ひとつの展覧会でさまざまな絵や写真が並んでいても、それがまぎれもなく「さとう陽子」の作品として見えるだけの何かが、彼女の作品群にはあります。それが何なのか、もう少し時間をかけて考えてみたいところです。
今回の展覧会は、そんな二人の表現の幅広さを見せつつも、それが「絵画」表現を核にしてめぐっているように見えるところが、とても興味深いと思いました。稲はさとうの作品に対し、「制作がすべて予定調和的な作業ではないけれど、大きな構造や仕組みなんかはかなり理知的に作られている」と言っていますが、それはもちろん稲の作品の根底にあるものでもあります。そしてその「構造や仕組み」を考える上で、表現の場である「絵画」に対するそれぞれの洞察が含まれていることは、言うまでもないのです。
もうひとつの展覧会、3月に神宮前のトキ・アートスペースで開催された、「大友一世 展」についても書いておきます。こちらも、以前の本ブログ(2013年3月)の文章も参照していただけると幸いです。
その後、大友さんは積極的に活躍されていて、何回かの展覧会で作品を拝見する機会がありました。基本的に以前の作品の延長線上を着実に歩んでいる、という印象だったのですが、今回の展覧会でひとつ大きな展開をしたように思います。これまでの作品では、ところどころに絵画的な奥行きの深いものがあり、それが絵画を見るときの醍醐味のようなものを生むと同時に、旧套的な絵画表現に落ち着いてしまう、といううらみもあったと思います。私のつたない経験では、このような傾向は絵画を描くことの醍醐味、つまり快感と結びついているので、抜け出すのには相当の時間が必要なはずです。しかし、今回の展覧会では、その奥行きがより絵画の表面に近いところで展開していて、画面構成も以前より自由になっているように感じました。大友(ここから敬称略)に話を聞くと、今回の制作にあたって、絵の具の重ね方などの作品の方向性を文章で整理した、ということでした。具体的には、色彩が必要以上に濁る前に筆を置く、それと同時に画面構成が自分のくせに偏らないように、さまざまな方向から見ることを考えた、などということです。彼女の作品には、理屈っぽいかたさがなく、あくまで感覚的に描いているように見えるので、この話には驚きました。理知的に考えようとすると、それが作品から透けて見えてしまうことが、しばしばあります。それが作品をつまらなくしてしまうことも多いので、その失敗をひとつのステップとして受け入れるのか、あるいは逆戻りを指向するのか、などと作家としては悩ましいところですが、大友の今回の作品は、そんなことをとてもうまく乗り切っていると思いました。
現代美術の巨視的な観点からすれば、彼女の作品は抽象表現主義の絵画が駆け足で通り抜けてしまった絵画の問題を、現在に生きる作家として実感を持ってたどり直す、というふうに定義づけられるのかもしれません。つまり、新奇な作品ではないのです。しかしそこには、古い、とか、新しい、とかいうような刹那的な感覚ではとらえられない「絵画」の根本的な問題があると思います。物質的な平面上に、イリュージョンとしての空間を認知する人間の営みをどう考えて、表現するのか、という基本的なことです。そこを見つめようとする確固たる意志を、大友の作品から感じました。絵画というものを深く意識することで、その平面性を指向した今回の作品群は、これまでよりもより強く、明確に彼女の意志を伝えるものだったのではないか、と思いました。
今回は、「絵画」について深く考えさせられると同時に、目に楽しい二つの展覧会について書きました。こういう展覧会に出会うためには、日常に忙殺されてばかりいないで、街に出なくてはいけませんね。
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