はじめに、少し社会的な話題に触れておきます。
「国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)」がイギリスのグラスゴーで今月末から開催されます。それに対して10月24日に世界各地で若者たちが気候変動への緊急対策を訴えてデモ活動を行ったそうです。新型コロナウイルスの世界的な大流行以来、最大の抗議活動となったとのことです。スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさんはドイツの首都ベルリンで「大気中の二酸化炭素(CO2)濃度は、少なくとも300万年間でこれほど高かったことはない。どの政党も十分に行動していないことは明らかだ」と聴衆の前で語ったそうです。これは世界中の良識ある人たちの苛立ちを代弁していると思います。
このトゥンベリさんの活動に対して、2年前にロシアのプーチン大統領が「誰も彼女に世界の複雑さや多様性を教えなかったのだろう」と批判したことがありました。また同じ頃にアメリカのトランプ大統領は、トゥーンベリさんが米誌タイムの「今年の人」に選ばれたことについて「すごくばかげている。グレタは自分が抱えているアンガーマネジメント(怒りのコントロール)の問題に取り組んで、友人と一緒に古きよき映画を見に行くべきだ」、「落ち着けグレタ、落ち着け!」(Chill Greta, Chill!)などと揶揄したこともありました。こういう為政者の発言や発信を見ると、世界の大局を見ていないのはどちらだ?誰がこんな人たちを為政者に選んだのか?などと考えてしまいますが、これは対岸の火事ではありません。あろうことか、わが国の為政者の一人がこんなことを言って話題になっています。
「年平均気温が2度上がったおかげで、北海道のお米がおいしくなった。昔、北海道のお米は『厄介道米』と言われるほど売れない米だった。農家のおかげですか? 農協の力ですか? 違います。温度が上がったからです。」
これは地球温暖化現象も悪いばかりではない、という文脈で語られたそうですが、呆れて開いた口ふさがらない、とはこのことでしょう。最近では国連の持続可能な開発目標(SDGs)が形骸化している、という声も聞こえてきますが、それもそのはずです。老い先の短い為政者たちには現在の自分の立場が重要で、それを脅かすすべてのものが邪魔なのです。世界の人たちは、あるいは日本人は、こういう為政者たちにいつまで力を与え続けるのでしょうか?彼らが力を持っていることに対して、私たちにも責任があるのです。本当に何とかしたいものです。
さて、今回は友人が推薦してくれた本について書きます。
『美術は魂に語りかける』という本ですが、原題は<Art as Therapy>です。直訳すれば、「手術や投薬を伴わない心理療法・物理療法としての美術」というところでしょうか。日本のタイトルよりも、原題の方が内容を表しているように思いますが、まずは出版社による本の紹介を書き写しておきます。
美術館に行ってみたけれども、思ったほど感銘を受けなかった。そもそもアートとは何なのか、という疑問に正面から挑んだ本です
本書では、美術ガイドでも自己啓発本でもなく、人間が共通して直面する悩みの一部を、有名無名のアート作品から再考します。
さまざまな知識があるとアートを一層楽しめることは確かですが、著者は、アートを鑑賞物としてではなく、「実用的」なものとして考えてみようと呼びかけます。
アートとは、単なる高尚で神秘的なオブジェなのではなく、人間がよりよく生きていこうとするときに、悩みや悲しみに対峙するのを助け、希望や喜びを強めうるとして、具体的な七つの働きを説明しています。さらに愛、自然、お金、政治の4つの分野でアートがどのように作用するかについて独自の論を展開しています。
アートが今までにはない新しいものとして見えてくる、15カ国で翻訳されたベストセラー&ロングセラー、待望の日本語版。
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309256184/
この本の著者は、二人です。
アラン・ド・ボトン(Alain de Botton、1969 - )は、スイス・チューリッヒ生まれの哲学者、著述家です。イギリス・ロンドンに在住しているそうです。
ジョン・アームストロング(John Armstrong、 1966 - )はグラスゴー生まれの哲学者、美術史学者です。メルボルン大学に勤務しているそうです。
そして、2年前の2019年4月に画家の横尾忠則が、この本について朝日新聞に書評を書いていました。わざと活字をぶらせて印刷した文字のアート作品?とともに書評が掲載されていたことを思い出しました。興味のある方は、こちらをどうぞ。
https://book.asahi.com/article/12326549
そして書評の部分は次の通りです。
印刷インキが紙に定着するまでに何度も重ね刷りの工程を繰り返した結果、そこに予想を超えた不確定な抽象形態が現出する。それを「ヤレ」と呼ぶ。かつて若い頃印刷所で体験したその経験は私に初めて芸術魂を移植した瞬間として、今でも私の内部で創造の核となっている。
本書にはサイ・トゥオンブリーの、重ねたりひっかいたりした行為の結果、画面全体が黒く、まるでヤレのような効果を上げた作品が掲載されているが、非美術のヤレが彼の手によって美術に昇華された、そんな一連の作品をMoMAの個展で観た時の驚きこそ「美術は魂に語りかける」遭遇事件だったのである。
アートを前に胸が締め付けられたり、涙の流れる感覚を体験することがあるが、こうした感情が生理に及ぶ時、われわれはそこに知性の作用ではない何か別の計り知れない力のようなものが語りかけてくることに気づく。
本書の原題は〝Art as Therapy〟(セラピーとしてのアート)で、表題にある「魂」について語るというより、「アートは人を癒やす道具」として、一般的な美術論を超えて人間の精神と肉体を開示させる力の法則のようなものを、哲学の眼で日常生活の中にわれわれの魂を位置づけてくれる。セラピーが魂とイコールかどうかは私にはわからないが、アートがただ鑑賞の道具としてではなく、「実用」としてのアートに目覚めるならばアートの使命はとてつもなく、社会と人間を巻き込んだ人間生存必需品として考えれば、アートの存在は宇宙的な視野にまでその領域は拡張されていくような妄想が美術家としての私の中でわけもなくザワつくのである。
本書は多岐にわたって従来の美術書とはかなり内容を異にしながら、鑑賞者のアート観を根底から震動させるに違いない。
(朝日新聞書評 横尾忠則)
好意的な書評ですね。
横尾忠則は、この著者たちがアートを「実用」のものとして捉えていることに、これまでにない可能性を感じているようです。たしかに「アートのためのアート」という言葉がありますが、そこにはどこか自閉的な響きがあります。アートという村社会で自分勝手なアーティストと難しい論理を振り回す評論家だけが我が物顔でのし歩いているようなイメージと言えばよいでしょうか。
そこでアートを社会に役に立つもの、社会貢献のための道具とみなしたら、もっとアートが身近なものになるのではないか、と著者たちは言っているのだと思います。横尾はそこに、アートが広がっていく可能性を見出したのです。
私も、その主張の一部には同意します。アートがもっと人々にとって身近なものになり、それが例えば病気で苦しんでいる人の癒やしとして活用されたり、仕事で疲れた人に安らぎを与えたりすることができれば、素晴らしいことだと思います。
それはそれとして進めていただいてよいのですが、「道具としてのアート」という言葉には、私はちょっと違和感があります。例えば、少し前にこのblogでもとりあげた映画『ある画家の数奇な運命』の中で、旧東ドイツ社会でアートが社会貢献の道具として見なされたために、どれだけ窮屈な、あるいはナンセンスは発展をしてきたのか、ということを思い出してみましょう。そしてそれ以前のドイツでは、ナチスが社会に有害だと断定した芸術作品を「退廃芸術」と呼び、その作品の作者も含めて迫害したのです。
芸術は、一部の高級な趣味人のためのものではないのと同時に、社会的に有用であるだけのものでもありません。そのバランスを欠いて、どちらかの要素を強調しすぎると、藝術はいずれ破綻してしまうのだと思います。
おそらく、著者たちはそんなことを承知の上で、セラピーとしてのアートを強調して語っているのでしょう。いまはアートの「実用」化が大切なときだ、ということでしょう。しかし私は本書に対してある部分で同意しつつも、同意できない部分も多々あります。好意的書評が多い中で、私はあえて違和を感じるところを指摘してみたいと思います。
それでは、どこから手をつけましょうか?
例えば横尾が、書評の文中で取り上げたサイ・トゥオンブリー(Cy Twombly、1928 - 2011)について見てみましょう。具体的に本書の中でトゥオンブリーについて書かれた部分は次のとおりです。
サイ・トゥオンブリーの暗くて、引っ掻いたような何かを暗示するような作品は、自分でも気づかなかった面を映す鏡のようだ。といっても、映すのは目の届かない大臼歯などではなく、内なる経験だ。気分や気持ちの中には、きわめて複雑でつかみどころのないものがある。私たちはしばしばそうした感覚に襲われるものの、それを取り出したり観察することはできない。トゥオンブリーの作品は、そうした私たちの内面を映し出すためだけに作られた鏡のようで、もやもやとした気持ちに目を向けさせ、認識しやすいようにしてくれる。あることについて自分がどう考えているのか漠然としかわからない。そんな渇望と困惑が入り混じった心の一瞬を描いている。表面の明るく細い線は、黒板に書かれて消された言葉のようで、シミは星空にかかる雲を思わせる。それぞれが何なのかを見きわめる必要はない。私たちは今、何かがわかりかけてきた瞬間に立っている。理解できそうでまだできない一瞬に見える期待は、かなえられないことのほうが多く、私たちは考えることをやめ、別のことへと移っていく。愛が自分にとってどんな意味を持つのか、正義や成功とは何なのかわかりかねたまま。だからこそこの瞬間が重要なのだ。トゥオンブリーの作品を見る者は、きわめて重要なことに思いいたるだろう。「私の中で、何か大切なことに対する疑問が生まれたが、混乱してしまい、充分に認識されないまま、注意を払おうともしなかった。でもそんな私が、アートという鏡に映し出されている。さあ、しっかりと目を向けよう」と。
(『美術は魂に語りかける』ボトン、アームストロング著 タコスタ吉村花子訳)
ここで取り上げられているトゥオンブリーの作品は1955年の『パノラマ』という絵ですが、ネットで探しても画像がありません。暗い背景に白い線描という点では、次のような作品と共通しています。ただし線のタッチや描画されたもの形や大きさがだいぶ違う作品です。
https://images.app.goo.gl/gRcAWgKw8T5P4TyYA
しかし作品の詳細よりも、むしろ彼らの絵を見る姿勢に注目すべきでしょう。トゥオンブリーの作品は何を描いたのだかわからない作品ですが、そのことが「愛が自分にとってどんな意味を持つのか、正義や成功とは何なのかわかりかねたまま」の、自分のもやもやとした気持ちを映し出す鏡のようなものだ、と彼らは言うのです。そしてそのもやもやとした気持ちを表象したような絵が、私たちに「さあ、しっかりと目を向けよう」と語りかけてくるというのです。確かに、そういう前向きなものの見方があっても良いでしょう。私はトゥオンブリーの絵の素晴らしさをよく知っているので、トゥオンブリーの作品を見たこの本の著者たちが感動して、このような思いに駆られたことを理解できます。しかし、トゥオンブリーのようなわけのわからない絵がたくさんある中で、なぜトゥオンブリーが取り上げられているのか、なぜトゥオンブリーの作品がそのような力を持ちえたのか、ということについては十分に語られていないと思います。私はそこに物足りなさを感じます。
最初に引用した本の紹介にあるように、この本はアートが「実用的」であることを示そうとしている本です。例えば、このトゥオンブリーの例にあるように、アートは人の心のもやもやに目を向けさせて、それを前向きに乗り越えていく勇気を与えるものだ、というのですが、私はそのような見方を否定しないものの、なぜトゥオンブリーの作品にそのような力があるのか、が気になります。トゥオンブリー絵の中の「表面の明るく細い線」が、なぜ「黒板に書かれて消された言葉のようで、シミは星空にかかる雲を思わせる」のでしょうか。ただのシミが「星空にかかる雲」を思わせるには、それ相応の表現力が必要です。それを「それぞれが何なのかを見きわめる必要はない」と断定されるだけでは食い足りないのです。
私はそこで美術批評が力を発揮するのだと思います。なぜ、自分はトゥオンブリーの作品に感動するのか、なぜ他の画家ではなくてトゥオンブリーなのか、そして自分の感動の要因はいったい何なのかということについて、この『美術は魂に語りかける』では深く探究されることがありません。もしもこの本が、その宣伝文句にあるように美術との新しい出会いを促すものであるならば、その新たに美術ファンになった人たちにとって、次に読むべき本は美術批評であると私は思います。
この著者たちが指摘していたように、美術批評を読むには多少の知識が必要です。また、批評を読むと頭でっかちの小難しい文章に出会うことが頻繁にあって、読むことが苦痛であることが多いのも事実です。とはいえ、美術について深く学ぶには理解することが必要な知識や理論があるのです。
この『美術は魂に語りかける』では、意図的に美術批評的な文章が避けられているように感じます。だからトゥオンブリーの場合のように物足りなさを感じてしまうことがありますし、また次のジャスパー・ジョーンズに関する文章のように不自然だと思われる記述も出てきます。
アートは習慣に対抗し、愛しいものや大切なものを見直してみようと呼びかける。そして、本当に価値があるものを正確に見分ける助けとなってくれるのだ。ビール缶に注意を払う人はほとんどいないだろう。俗っぽく実用的としか思われていないビール缶の新たな見方を提唱したのは、1960年代アメリカのアーティスト、ジャスパー・ジョーンズだ。彼はブロンズ製の缶を二つ鋳造し、バランタイン・エールと社名を入れて、小さな台の上に並べた。ギャラリーや写真で目にした者は、はっとせずにはいられない。普段は見過ごしている形やデザインをじっくり見つめ、楕円のエレガントなロゴや均整の取れた円筒を美しいと思う。重くて高価なブロンズは、缶の個性や独自性を際立たせ、まるで初めて缶を見る子どもか宇宙人になったような気を起こさせる。
さあ、周囲の世界を生き生きと注意深くとらえるレッスンの始まりだ。ビール缶鑑賞は、少しは日常を楽しくしてくれるかもしれないが、ほんの手始めだ。この感覚をもっと拡大して、アート以前の状態で目の前に存在するものや状況や心理に当てはめてみよう。ビール缶だけでなく、空、友人、部屋の形、子どもたちの喜ぶ姿、毎日通り過ぎる建物、夫や妻の表情を前にして、私たちはあまりにも無感動で決まりきった反応しかできない。もう充分見慣れているから注意も払わないが、アートは、いや違うと言わんばかりに、私たちが見逃したものを突きつけてくる。
(『美術は魂に語りかける』ボトン、アームストロング著 タコスタ吉村花子訳)
ここで話題になっている作品は『塗られたブロンズ』(1960)で、画像はこちらになります。
http://maczek.blog66.fc2.com/blog-entry-147.html
ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns, 1930 - )を美術批評的に紹介すれば、ロバート・ラウシェンバーグとともにアメリカにおけるネオダダやポップアートの先駆者として重要な役割を果たした作家です。ダーツの標的、アメリカ50州の地図、星条旗などの規制のイメージを利用した作品でよく知られています。このブロンズの缶も、地図や星条旗と同じような意図を持って作られていて、言わばそれらの作品の立体版、オブジェ形式のもの、ということができます。
この作品に関して、この著者たちが書いていることの中で気になるのは、「普段は見過ごしている形やデザインをじっくり見つめ、楕円のエレガントなロゴや均整の取れた円筒を美しいと思う」という一節です。皆さんはこのブロンズ像を見て、「普段は見過ごしている」缶のデザインの美しさを感じることができますか?私はこの作品をとりわけ美しいとは思いませんし、もしも缶の美しさを感受したいのなら、この缶を販売している会社のショー・ルームにでも行って、美しくディスプレイされた缶を鑑賞する方がましでしょう。ブロンズで鋳造された作品は、デザインとして本物の缶よりも美しいとは言えないと私は思います。たぶん、多くの方が私の意見に同調してくださることと思います。
それでは、なぜこのような作品をジョーンズは作ったのでしょうか?
それは缶ビールという日常的な商品のデザインを、ブロンズという重厚な美術作品の素材を使って表現することの、違和感を狙ったものだと思います。日常的なポップな商品と高尚な美術作品との間に引かれている目に見えない境界線を、ジョーンズはあえて侵食することで美術界に一撃を与えてやろう、というわけです。
だからこの作品は必要以上に美しく見える必要がないので、ジョーンズは自分の意図が伝えられる最大の効果を狙う一方で、最小限の手数で表現することを心がけたように私には見えます。
美術品は気高く美しく、日常的な商品は卑近で美的価値がない、という私たちの思い込みに再検討を迫る、という意味では、この著者の言っている「もう充分見慣れているから注意も払わないが、アートは、いや違うと言わんばかりに、私たちが見逃したものを突きつけてくる」という結論は当たっていると思います。しかしそれがブロンズ像の美しさゆえにそのような効果があるのだ、と言われると、それは違うでしょう、と言いたくなります。
それでは、なぜこのようなピント外れなことを、著者たちは言っているのでしょうか?
おそらく、著者たちは私が上で説明したような、ネオダダ、もしくはポップ・アートを美術批評的に語るときの常套的な理論を承知しているのでしょう。しかし、著者たちが意図しているのは美術批評という閉域を避けて、あえて一般的な人たちが作品を見たときに感受するであろう見方を提示したかったので、美術批評的な定説を避けたのです。しかし、私は彼らのような知識人ではないので、このジョーンズのブロンズ像を見たときの一般的な大衆の感想を想像できます。それは「何だ、このゴミみたいなものは?」というそっけない感想です。缶ビールは中身が飲めなければただのゴミですし、そもそもこのブロンズ像は本物の缶と比較しても美しくありません。だからゴミにしか見えないのです。
しかし、それでは話が終わってしまいます。教養の高い著者たちは、この作品が美術史上ですでに価値が高いものだと知っていますし、それがゴミみたいなものだ、という感想で終わってしまっては困るのです。そこで、「素人」の鑑賞者ならば、このブロンズ像を見て缶のデザインの素晴らしさを改めて感受することであろう、というようないささか無理のある理屈をひねり出したのです。
このような『美術は魂に語りかける』に見られる失敗は、一般向けの美術啓蒙書にもありがちなものです。その失敗の原因は、二つあると私は思います。
一つはこの著者たちが、一般的な美術鑑賞者、つまり素人である人たちの判断力をみくびっていることです。美術の知識のない人たちの審美眼では、このようなブロンズ像でも美しいと言われればそう感じることだろう、という上からの目線を感じますが、素人を舐めてはいけません。私たち生活者は、日々缶ビールのデザインをながめて、そこから中身の味を想像して貴重な対価を支払う、という切実な営みを繰り返しているのです。もちろん、そこにはビールを飲んだ味覚の経験や販売価格という、ビール購入者にとってより本質的な問題があります。また、メーカーのブランド価値などのさまざまな要素も入ってきますが、だからと言って缶のデザインを見ない人はいません。その素人の眼から見て、ブロンズの缶が美しい、なんてことはあり得ないと思います。
もう一つの原因は、美術批評的な言説に対する必要以上の警戒心です。
美術批評というものは、そもそも作品を見た人がその感動を他の人に伝えたい、という素朴な営みから始まっているはずです。その際に、口下手な作者の思いを代弁する、というような要素も入ってくることでしょう。ですから、美術批評は本来、美術作品の成立と同時に生まれた、美術にとって必要なものなのです。ところが、その感動を伝える営みが複雑に入り組んでしまい、より高度な理論で他の意見を圧することが目的のようになってしまい、一部の高尚な人々にしか必要のないものになってしまったのです。しかし、だからといってそれを避けて通れば良い、というものでもありません。とくにジョーンズのような作家は、美術批評的な観点から評価することが不可欠です。なぜなら、彼の作品の制作動機そのものが批評的なものだからです。それを除いてしまっては、ジョーンズの作品の価値がなくなってしまう、と言っても良いと思います。
さて、以上の事例を参考にして、最後にまとめてみましょう。
美術作品を「実用」という価値観から見直すこと、あるいは「セラピー」という観点から語ることは、とても有意義なことだと思います。しかし、すべての美術作品をそのように見なして語ることには無理があります。この『美術は魂に語りかける』という著書に引用された膨大な美術作品を見ると、あらゆる作品について著者たちの視点で語ることが有効である、と言いたげですが、そこに無理があると思います。
そして「実用」という価値観は、いまの世界にとって切実なものなのか、という疑問が私にはあります。私にはそれが、モダニズム思想の本質的な問題点の一つであるように感じるのです。すでに自然科学の分野では、ノーベル賞の受賞者たちが口を揃えて言うのが「実用」的な価値ばかりにとらわれていると、今後の発展はあり得ないという警告です。人間が本質的に感じる楽しさや好奇心こそ、見直されるべき時期に来ていると私は思います。例えば、病院の壁面に飾られた絵が疾病で苦しむ人の気持ちを癒すということがあっても良いし、一方でそういうふうに気持ちが弱っている人たちには見せられないような美術作品があっても良いと思うのです。
私もボトンとアームストロングが試みたように、もっと美術鑑賞の裾野を広げるべきだと考えていますし、美術作品は人間の魂に直接語りかけるものであってほしいと願うものです。しかし私の目指す方向は、美術制作にしろ、美術批評にしろ、それがはじまったときの原初的な姿を取り戻すことで、「実用」を目指すことではありません。だから、ちょっと辛口の文章になってしまいましたが、彼らのような試みも必要ですし、私もそれを参照しながら、私自身のささやかな営みを続けていきたい、と思っています。
次回は、私の苦手な分野である「詩」について、少しだけ描いてみたいと思っています。美術と多少離れても、読んでいただけると幸いです。
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