平らな深み、緩やかな時間

193.『通勤電車でよむ詩集』(小池昌代編)と『ペインとペイント』さとう陽子

私は絵を描きながら文章も綴っているので、美術や絵画と言葉との関係について考えることがあります。とは言っても、私の場合はこうして散文的にダラダラとした文章を書いているので、ごく単純に、美術をどこまで言葉で語ることができるのか、という程度のことになってしまいます。
もしも絵画制作と文学的な創作とを同時にやっている方がいたら、それはどのような関係にあるのか、ということを考えるのはなかなか興味深いものです。しかし、例えば文学者がたしなみとして絵を描く、ということはよくありますが、その場合の絵画は文学を解読するときの参照となる程度のものであることが多いです。それでは、あまり面白くありません。
そういえば、ドイツにアーダルベルト・シュティフター(Adalbert Stifter, 1805 - 1868)という人がいて、この人は小説はもちろんのこと、絵画もなかなか本格的です。
https://images.app.goo.gl/WuPmonxZAZVfbSyk8
この画像はシュティフターの研究書の表紙になりますが、シュティフター自身の絵画だと思われます。著者名で磯崎康太郎という名前が見えますが、実は昔、一緒に仕事をしていたことがある方です。
磯崎さんは当時、若きドイツ文学の研究者でしたが、アルバイトで高校の講師もしていたのです。その高校ではなぜかドイツ語の選択授業があって、磯崎さんにきていただいていたのですが、希望する生徒が少なくなりそうな年がありました。そこで磯崎さんがドイツに旅行したときの報告会を兼ねてスライド上映会を開き、ドイツ語に興味のありそうな生徒たちにも声をかけたのです。前日にはデパ地下でバームクーヘンを買って、これがドイツのお菓子だ、などと生徒の気を引こうとしたことが懐かしく思い出されます。
その後、磯崎さんは大学の講師をしながらシュティフターの小説『書き込みのある樅の木』を翻訳したところまでは知っていましたが、こうして研究書が一冊の著書として出版されているのですね。いまや准教授としてご活躍のようですから、高校のダメ教師の私のことなど覚えていないでしょう。磯崎さんは実に真面目に、そして楽しく勉強をする方でしたので、こうして研究成果が認められて本になっているのを見るととてもうれしいです。そして着実に進歩して、はるか遠くまで到達した人を見ると、うらやましくもなりますね。
話がそれました。
文学と絵画と両方で大成した人といえば、日本にも与謝 蕪村(よさ ぶそん、享保元年(1716) - 天明3(1784))という人がいました。蕪村は俳句も絵も器が大きいのに、それを誇示しないで脱力気味に表現する人、というイメージですが、よく分からずにいい加減なことを書いてはいけません。ちょっとハードルが高くなりますが、蕪村についてはいずれ勉強してこのblogで書いてみたいです。
そして現在の話になりますが、先日このblogで展覧会を紹介したさとう陽子さんも、詩作と絵画制作との両方を手掛けている方です。今回はさとうさんの詩を読んでみたいのですが、私はとにかく詩を読むのが苦手です。冒頭に書いたようにきわめて散文的な人間なので、詩的なセンスというものがまるでないのです。そこで、少し予習をしてからさとうさんの詩について考えてみることにしましょう。

さて、それでは予習として『通勤電車でむ詩集』(小池昌代編 2009)をひもといてみましょう。
小池昌代は私とほぼ同年配の人ですが、私はまず彼女の小説に惹かれました。しかし彼女は詩人として世に出た人で、この詩集は彼女が会社勤めをしていたときに、通勤電車で詩を読んだ経験から編んだもののようです。詩のアンソロジーはいろいろありますし、旅をテーマにしたものもきっとたくさんあると思います。その中でも移動手段が「通勤電車」というのは珍しく、また私のような通常の勤め人からすると好ましいと思いました。肩のこらない短い批評が添えられているのも、詩心のない人間にはとてもありがたいです。
小池はこのちょっと変わった詩集について、こんなことを書いています。

わたしもむかし、通勤電車で詩を読んだ。二十代、三十代のころのこと。会社に勤めながら詩を読み、書いていた。朝はひどい混みようだったから、本を読むということすら無理だったが、帰りは会社から解放され、一人に戻った時間のなかで、次から次へと詩集を読んだ。
詩の言葉は砂にしみ込む水のように、疲れたからだにしみ込んできた。思いがけない行につまずいては、涙がとまらなくなった経験が幾度もある。人目があるから恥ずかしかったが、詩の働きはポンプに等しく、感情を地下から汲み上げる。泣こうとして読むわけではないが、図らずも泣いた。我知らず泣いた。自分ひとりでなく、誰かと共に泣いているような感覚があった。
ほとんどの詩を、電車を待つプラットホームや乗車した電車のなかで読んできたような気がする。電車のなかは、わたしにとって、詩の教室のようなものだった。
(『通勤電車でよむ詩集』「次の駅まで はしがきにかえて」小池昌代)

私は残念ながら、詩を読んで泣いた経験がありません。しかし、通勤電車で貪るように本を読んだ経験ならありますので、少しは小池の気持ちがわかります。
とは言っても私の場合は、三十代から四十代のもっともつらい時期には読書だけでは気分がおさまらずに、プラットホームでワンカップの日本酒をあおるように飲んでいました。通勤途中の立ち飲み屋もよく利用しましたが、年配のご夫婦がやっていたお店だったので、ほどなく閉店してしまったのです。
小池のように、本に書かれた言葉が疲れたからだに染み込んでくれると良かったのですが、私の場合はそうはいかず、空腹の体にアルコールがしみ込んでいくだけでした。その反動というわけではありませんが、いまはお酒を飲みません。
つまらないことを書きましたが、社会人として経験を積んでいく時期には、皆さんもそれぞれいろいろなことがある、あるいはあったと思います。私は自分自身がこういうヨレヨレの人生を送ってきたので、そういう経験をした人を何となく信頼してしまいます。
この詩集には彼女自身の詩も一編入っていますが、そんなヨレヨレの気分も詩人の手にかかれば、このような味わいのある言葉になるのか、と感心してしまいます。


『記憶』小池昌代

オーバーをぬいで壁にかけた
十年以上前に錦糸町で買ったものだ

わたしよりもさらに孤独に
さらに疲れ果てて
袖口には毛玉
すそにはほころび

知らなかった
ひとは
こんなふうに孤独を
こんなふうに年月を
脱ぐことがあるのか


ひどい、急ぎ足で
駅に向かうこのオーバーを見たことがある
おかえり

それにしても
かなしみのおかしな形状を
オーバーはいつ記憶したのか
わたし自身が気づくより前に


<小池のコメント>
このオーバーとは長いつきあいだった。いよいよだめになって捨てるとき、古い自分を捨てるようにすっきりした。感傷なんか、まるでなかった。冬の朝晩は、これを着て通勤。電車のなかで、よく詩集を読んだ。
(『通勤電車でよむ詩集』「夜の電車」小池昌代編)

いかがですか?
詩もコメントも見事ですね。わたしも辛い時期のことを思い出すことはありますが、感傷にひたることはありませんし、あの時期に戻りたいとは微塵も思いません。そんな時期が人生に必要だったのかどうかもわかりません。よく、年寄りが若い人に辛い経験も必要だと説教することがありますが、そんな年寄りを信用してはいけません。古いオーバーがよれてきたら、早めに捨ててしまうに越したことはないのです。それでも何らかの「苦労」があなたに忍び寄ってきたら、その時は観念してそれを脱ぎ捨てる時が来るのを待つしかありません。そんな時期にプラットホームで電車を待つのならば、できればワンカップのお酒ではなくて、詩集を手にしている方が素敵だと思います。
この詩集には外国の詩も入っていて、私の好きな須賀敦子が訳したウンベルト・サバの詩も選ばれています。
そんな中で個人的に気になった詩を紹介します。


『宇宙を隠す野良犬』村上昭夫

野良犬はなぜ生まれてきたのか
それが分かる時
宇宙の秘密が解けてくる

それはなぜ好かれないのか
その肌はなぜ悪臭に汚れていて
なぜみなに追われるのか

それはなぜ痩せているのか
消えそうにも痩せていながら
なぜなおも撲殺されようと
つけねらわれているのか

それはなぜ尻尾をたれるのか
人の姿を見さえすると
なぜおびえた痛ましい目を向けて
逃げ去ってゆくのか

そして野良犬は
これからも生まれるのだろうか
生まれて誰にも好かれはしないのに
何時も固い棒で追われるばかりで
かど立った石で打たれるばかりで
何時も暗くて際のない死に
おびえていなければならないのに
野良犬は
なんべんも生まれるのだろうか

それが分かってくる時
宇宙の秘密は解けるのだ
宇宙の端が一体なになのか
その先がどうなっているのか
一匹の地に飢えた野良犬が
雨に濡れながら逃亡を続ける野良犬が
それをしっかりと
隠しているのだ

<小池のコメント>
村上昭夫は『動物哀歌』において、様々な動物に、自らの生存をぶっつけるような詩を書いた。これは野良犬。読み終えたあと、臓腑をふるわせ、うーっと一声、うなってみたくなる。なりませんか?
(『通勤電車でよむ詩集』「朝の電車」小池昌代編)

これも余韻を残すような素敵なコメントですが、私なりにしつこく解釈すると、この野良犬は私だと思います。痩せっぽちで人から避けられ、臆病で常に怯えている、そしてなぜ生まれてきたのかがよくわからない、ということになると野良犬が私自身であることに疑いの余地がありません。私のような人間の存在を許容しているということが、もしかしたら宇宙の最大の謎なのかもしれない、と思うとそれが解けるということはすなわち宇宙の秘密を解き明かすことと同義なのです。
ちょっと辛めの詩が続きました。でも、この詩集は手軽に読めるのに深い詩がほとんどなのです。その中でも最後に少し肯定的な気分になれるものを引用します。


『駅へ行く道』山本沖子

駅へ行く道が私は大好きだ

春はアカシアの花がこぼれる

秋になると白い風が吹く

明るい夜に
私は毎夜この道を歩いてゆく

写生したい小さな女の子の家の二階から
気の狂った人が石を投げます

いく日も雪が降って
夜は方角が分からない
駅へ行く道は私の家から一本道

駅へ行く一本道が私は大好きだ

(小池のコメント)
この道をまっすぐ行けば、駅に行き当たると信じて歩く。生の終わりに死があるというように。遠目に見るとき、いつもの駅が、どこか聖性を帯びたものとして見えてくることはないか。そんなとき、駅へ至る道も、「参道」のように光だして。詩のなかの「私」はこんな明るい夜に、どこへ行くのか。行き先などないのだろう。それでも駅へ向かうのだ。


「アカシアの花」が咲いた綺麗な道だと思いきや、「気の狂った人が石を投げます」という一行で、それが何か不思議な道だと気がつきます。それを小池は「聖性を帯びた」というふうに解釈しています。ふつうなら石が飛んでくる道が「大好きだ」というのはありえないと思うのですが、その矛盾に人智を超えたものが含まれているということなのでしょう。それに「雪が降って、夜は方角が分からない」、つまりどこへ行くのか分からない道であっても、「私は大好きだ」という一言ですべてが肯定的な気持ちになります。

それではさとう陽子さんの「短詩集」『ペインとペイント』を読んでみましょう。
詩がとても短いし、小冊子での発表なのですべての詩を紹介しても大丈夫な分量ですが、それはまずいので少しセーブして書きます。興味のある方は、さとうさんと連絡をとってみてはいかがでしょうか。
まず目についた詩です。視覚的なイメージが美しい作品です。


『遊びのかたち A』


白粉(おしろい)花摘んで

庭と通路の境界に並べる

赤色、桃色、白色、

赤色、桃色、白色、

ずっと向こうまで


(『ペインとペイント』さとう陽子)


この詩集の中で、最もわかりやすい詩であるかもしれません。子どもが遊びで並べた花が、点々と向こうまで繋がって見えます。画家が軽妙にスケッチしたような、そんな情景が思い浮かびます。
ところが、次の作品になると、同じ視覚的なイメージを取り上げていても、気軽に受け止めるわけにはいきません。そんな緊張感のある詩です。


『視身体』


川面(かわも)すれすれに飛行する

あの水鳥の眼になれ


(『ペインとペイント』さとう陽子)


私もこれと似たようなことを想像することがあります。空を飛んでいる鳥の眼になったら世界はどう見えるのだろう、と思ったりするのです。しかし私は怖がりなので、きっとクラクラとめまいがするだろうなあ、と思います。それがこの詩では川面すれすれの飛行ですから、さらにスリルがあります。絵を見ても決然とした勇気を感じることがあるさとうさんらしいイメージだと思います。
うる憶えですけど、思想家で詩人の吉本 隆明(よしもと たかあき、1924 - 2012)が晩年の評論の中で、文学作品から映画、漫画に至るまで作中の視点がどこに設定されているのか、ということを論じていたことがありました。映画でいえばカメラのアングルがどこにあるのか、ということを考察しているのです。それが短く切り替わったり、思いがけない視点になったり、というようなことを論じるのです。文学作品においてはその分析がとても参考になりましたが、映画のアングル、漫画のコマ割りにまで話が及ぶと、そんなことぐらいとっくに感受しながら楽しんでいるよ、と言いたくなったことを覚えています。そんな評論家の苦心を、さとうさんは「あの水鳥の眼になれ」という一言で凌駕しているようで痛快です。


『無題』


世界の味は

傷のすっぱさ


(『ペインとペイント』さとう陽子)


とても言葉の少ない詩ですが、私たちが生きていることをとてもうまく言い当てているような気がします。それにさとうさんの絵を見るといつも感じることなのですが、この人は生まれながらの共通感覚の人だと思うのです。ここでもその感性が遺憾なく発揮されています。
この「共通感覚」という言葉ですが、私は中村雄二郎(1925―2017)という哲学者の『共通感覚論』からこの言葉を知りました。難しく説明すると「諸感覚(センス)に相わたって共通(コモン)で,しかもそれらを統合する根源的感覚(共通感覚)というとらえ方のなかでの,〈諸感覚の共通性〉の意味である」(『平凡社/世界大百科事典』)ということになります。少し噛み砕いて言うと、「視覚」とか「触覚」とか感覚を分断して考えるのではなくて、人間はそもそもそれらの感覚を曖昧なままに物事を感じ取っているのだから、そこに立ち戻って考えよう、ということです。
私たちはふだん、視覚が優先される情報社会に暮らしているので、世界を感じ取るのは真っ先に「視覚」によって、つまり見ることによってということになります。あるいは言葉や音という「聴覚」の情報も重要です。
でもさとうさんは「世界」を把握するのに「味」、つまり「味覚」を持ち出しているのです。そして「傷」という「触覚」もしくは「痛覚」をイメージさせる言葉を挿入して、その上で「すっぱさ」という味覚に戻るのです。感覚が相互に入れ替わり、さらにその垣根を飛び越えて言葉が形成されています。
そういう理屈っぽい話はおいておくとしても、「すっぱさ」という言葉がとてもいいですね。世界の味が「あまい」と言ってしまえば嘘っぽくなりますし、「からい」とか「にがい」ということなら誰でも言いそうです。それに、ちょっとお説教くさくもなりますね。「すっぱさ」というのが実にちょうど良い感じです。希望と絶望の割り合いが現実の世界のありようにそくして、うまくブレンドされている気がします。
次は視覚的な情景を描いた詩のようでありながら、よく読むとそうではないことに気がつく詩です。


『日曜の朝』


人気(ひとけ)ない公園は

眠る子どもたちの密度


(『ペインとペイント』さとう陽子)


日曜日の朝に人気のない公園を散歩したならば、大抵の人は「清々しい」とか「気持ちいい」とか言いたくなります。それなのに、そこにいない子どもたちのことを想像する人は、あまりいないと思います。ちょっと変わった視点ですね、ということになるのですが、今の私たちが読むとそうではないことに気がつきます。
それは、このところの新型コロナウィルスの感染防止の状況から、私たちが不在の街や公園の風景から、自宅で自粛している人たちの存在を意識するようになったからです。ふだん、人がいるところにいないということは、どこかでひっそりと自粛している人がいるのです。私たちは、その息遣いに敏感になりました。
この詩集が発行されたのが2013年ですから、10年近く前にさとうさんは不在の子どもたちの存在を感じ取っていたことになります。それも「密度」という今ではとてもリアルになった言葉を使っているのです。これまでならば、「人口密度」という統計上の言葉としてもっぱら「密度」という言葉を使ってきました。それがウイルス感染を抑止するための切実なキーワードになろうとは、誰が想像できたでしょうか。
「眠る子どもたち」の寝息のなかに「密度」を感じ取るという感性が、共通感覚をも超えた第六感のようなものとして、さとうさんに備わっていたのでしょうか。いずれにしても「眠る子どもたちの密度」という不在のもののイメージが、視覚的に見えるものの情景を超えて私たちに迫ってきます。
さて、さらに視覚を超えて、言葉が立ち上がってくる詩を見てみましょう。


『たましい』


ずたずただけれども

ぼろぼろではない


(『ペインとペイント』さとう陽子)


人が生きることに対して、楽観的ではいられないものの絶望もしていない、というさとうさんの真実に迫る言葉が並んでいます。「世界の味」と似た感触がある詩です。
それにしても、「ずたずた」と「ぼろぼろ」の違いとは、いったいなんでしょうか?
「ずたずた」には、いままさに「ずたずた」なっていく過程を見るような語感があります。例えば「ずたずたに引き裂く」というような具合です。
一方、「ぼろぼろ」にはすでに結果となってしまったものを見るような感じがあります。例えば「ぼろぼろに砕ける」と言った場合、すでに「ぼろぼろ」になっているものが目の前で砕けるというような感じです。「ぼろぼろの服」と言えば、ボロボロになってしまっている服が思い浮かびます。「ぼろぼろに引き裂く」とは言わないでしょう。
この詩のタイトルが「たましい」であることを考えると、人の魂は生きていく中で「ずたずた」にされてしまうけれども、まだ「ぼろぼろ」になってはいない、つまり結果はこれからだ、というふうに受け取れます。
人の心は、さまざまなことに翻弄されてしまいます。だからといって、人の心のすべてが駄目になってしまうわけではありません。さとうさんの言葉からは、それぞれの人が傷を抱えながらも、しっかりと立って歩いていくんだ、という意思を感じます。

さて、こんな下手な解釈をしてしまって、さとうさんの言葉の本来の力を損なっていないかどうか、心配になります。
そしてここで分かりかけてきたことは、私がはじめに問いかけたような、絵画表現者だから、とか文学表現者だから、などというわかりやすい特徴はなさそうだということです。さとう陽子さんは絵を描くときに言葉や文学性に頼ることはありませんし、詩の創作に視覚的なイメージを優先するということもありません。今回、ていねいに彼女の詩を読んでみると、そこには独り立ちした言葉がありました。
そして絵画と詩作の両方ともに言えることは、彼女が感覚の受容に垣根をつくらず、感覚相互の連携を自然に行なっているということです。さとうさんの表現には、全身で何かを受容し、全身で考えて何かを発するという特徴が見られます。詩に関して具体的に言えば、身体や感覚に関わる言葉が発せられる傾向が多く見られます。それは彼女の表現の身体性に関わることなのです。
そしてそれらの言葉から、詩作にありがちなわかりやすい感情の起伏を読み取ることはできません。また、崇高さや上品さというような、言葉をきれいに整えるような配慮も彼女の詩にはありません。だからさとうさんの言葉を頭で理解しようとしても、なかなかうまくいきません。読み手である私たちも、さとうさんの言葉を全身で受け止めて、感覚のすべてを動員して自分なりの好悪の振れ幅を見極めなくてはなりません。この点では、さとうさんの絵画も詩も、共通していると思います。

それにしても、さとうさんの短詩に対して、言葉を費やして説明しようとし過ぎました。小池昌代のような、簡潔で、かつ読者の想像力を掻き立てるようなコメントが理想です。
少しずつですが、頑張ります。

 
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