平らな深み、緩やかな時間

191.『シベリア鎮魂歌ー香月泰男の世界』立花隆

前回の神奈川県立近代美術館での『生誕110年 香月泰男展』に関する記事に続き、今回も香月泰男(1911-74)のことを書きます。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/exhibition/2021-kazuki-yasuo
香月泰男が偉大な画家だから、というのではなく、一人の表現者があまりに大きな、そして理不尽な出来事に出会った時の事例として、注目すべきだと思うからです。
今回は今年の4月に亡くなった立花隆(1940 - 2021)が書いた『シベリア鎮魂歌』という香月に関するテキストを読んでみます。そして香月がどのような現実と直面し、それを表現したのかを考えてみたいと思います。

さて、私が香月泰男の作品をはじめて見たのは、たしか1975年の没後1年の国立近代美術館での大規模な回顧展だったと思います。中学3年生だった私は、そこでシベリア・シリーズについてはじめて知ったのでした。まだ本格的な絵の勉強を始めていませんでしたが、それでも私はその作品群が、普通の絵とは違うことを感じていました。一般的な絵が大切にしている色彩表現や画面構成が極端に単純化されていることが、私にも見て取れましたし、展覧会場に香月自身の言葉として「純粋絵画の見地からは邪道といえるかもしれない」が紹介されていて、その意味を何となく納得していたような覚えがあります。
その後も、香月泰男のシベリア・シリーズには興味を抱き続け、折があれば作品に触れてきたましたが、そのせいか2004年に立花隆が『シベリア鎮魂歌』を出版したとき、美術とはあまり縁のない批評家、ジャーナリストだと思っていた人が香月泰男について何を書いているのだろう、といぶかしく思いつつ図書館で本を借りて読んだ記憶があります。その先入観がいけなかったのか、立花が生前の香月と交流があったことに驚きつつも、内容をほとんど覚えていませんでした。
いや、もしかするとそれも記憶違いで、立花がこの本でも触れている香月のシベリア体験を追ったドキュメンタリー・テレビ番組を見ていたのかもしれません。そういう気もします。
こんなふうに、今から20年弱の過去のことすら記憶が曖昧なのですから、困ったものです。それなのに、中学生の時の香月の絵を見たことは覚えているのですから、やはり絵画の実物を見る経験は大切なものです。
そして呆れたことに、この本のことを覚えていないくらいですから読み直しても大した発見もないだろうと思っていたのに、これが実に興味深いのです。美術批評としてはそれほど面白いものではありませんが、立花の情報収集力というのはやはりすごいと感心しました。
ということなので、2004年の本の再読なのですが、私の文章がそれをはじめて読んだような体裁になっているのは、そういう理由です。ご了解ください。

まず、最初の発見です。香月の数少ない著書として『私のシベリア』(1970)という本がありますが、これはいま絶版になっているようで、古本でも高値がついています。しかし、その内容はこの『シベリア鎮魂歌』にそっくり入っています。それはなぜかと言えば、この文章は立花隆が書いたものだからです。
立花隆は、ジャーナリストとして駆け出しの頃にゴースト・ライターとして本を何冊か出したそうで、この『私のシベリア』はそのうちの二冊目だそうです。しかし力の入った文章なので、処女作と言ってもいいくらいの愛着のある本なのだと書いています。彼は若い頃に香月を取材し、毎日酒を酌み交わしながら話を聞き、おそらくはそれらを秩序だった文章としてまとめる気がなかった香月に変わって文章を起こしたのでしょう。だから、立花の香月への寄り添い方には特別なものがあるのだと思います。
香月は絵画に関する抽象的な問題についてもよく語ったそうで、その象徴的なところが次の部分です。

日本人にとって、いかなる油絵を描くことが可能であるか、というのがそのころから私の絵描きとしての生命を賭けて追求しつづけた命題である。
結局、一言でいってしまえば、私が発見したことは、日本の絵画の伝統の中でしか仕事をできないというごく単純なことだった。いい換えれば、油絵具で東洋画の持つ精神を追求していくことになろうか。
確かに東洋画には我々の血に共鳴する何かがある。いくら洋画に見慣れても、そこにはどこか違和感がただよってくるのを避けえないのとは逆に、つまらないと思う東洋画でも、どこか安らぎを感じさせるところがある。この二つを融合させたいというのが私の願いだった。
東洋画と西洋画のちがいの一つは、余白にあると思う。東洋画に独特の余白の存在は、カッチリ描き込まれた西洋画のバックとはちがって、なんとも融通無碍なものである。西洋画のバックには一つの解釈しかないが、東洋画の余白は見る人次第で、どうにでもなる。
このことは、東洋の精神と西洋の精神の相違点の際立った特徴の一つであると思う。思想に例をとれば、アリストテレスの哲学と禅問答のちがいのようなものだろうか。
(『シベリア鎮魂歌』「私のシベリア」立花隆)

この香月の「(東洋と西洋の)二つを融合させたいというのが私の願いだった」という思いが結実したのが、シベリア・シリーズだったとも言えます。あの独特の、西欧的な絵画構成によらない画面は、香月のたどり着いた結果であると見ることができるのです。私は『湿地』、『凍土』、『凍河<エニセイ>』などの漠とした絵画空間が、香月の表現様式にピッタリだと思っています。その画面の肌合いにも、リアリティーを感じます。
ところで、こういうふうにゴースト・ライターが有名人の自伝や文章を綴ることは、よくあることでしょう。しかし、香月の朴訥とした味わいの文章をのちに東大の先生になる立花隆がゴースト・ライターとして書いた、というのは面白い話です。それをなぜか私は忘れていました。その私の迂闊さをいちいちあげつらっていくとキリがないので、このあとは飛ばしていきます。

『シベリア鎮魂歌』では「私のシベリア」が最初の章として掲載されていますが、次の章として立花隆がNHKのドキュメンタリーに出演したときの話が掲載されています。「第二部 シベリア抑留の足跡を追って」がその文章です。実際に立花はシベリアに行って、香月の足跡を追体験するのですが、その前になぜ日本人の捕虜がシベリアに抑留されたのか、という経緯について軽く触れています。
前回も書きましたが、ソ連は戦争で労働力不足になり、どこの国の人間であれ、労働力を欲しかったということがあります。今回もそのことについてあとで書きますが、これはもっと根深くて大きな問題でした。
しかし、ここで立花が書いているのは、1945年のポツダム宣言の時のアメリカとソ連の政治的な駆け引きです。ソ連のスターリンは、日本の北海道や東北を領地として欲しがり、東京をベルリンのように東西で分割統治することを考えていました。しかしそれをアメリカにはねつけられ、それならば満州で得た捕虜をシベリアに送ってしまえ、という流れになったというのです。あまりに突然にそんなことが決まったので、捕虜を送る手立てがなくて、結構時間がかかったのだそうです。
そういうわけで、ふつうなら日本に送られるはずの人たちがシベリアに行くことになりました。行き先も告げられずに貨物列車に、あるいはトラックの荷台に乗せられて極寒の地を移動することがどんなに過酷なことであったのか、立花はドキュメンタリー番組の中で追体験してみます。防寒着もなく、トイレのない列車移動の辛さは、想像を絶するものです。
強制収容所での労働が、過酷なものであったことは言うまでもありません。
例えば、その日の屋外での労働を実施するのかどうか、という気象状況の境目は、気温マイナス35度だったそうです。-35℃を越えるとその日の作業がなくなる、という基準があったのです。仮に室内にいたとしても、トイレは屋外にありますから、体調が悪い時には排泄に行くこと自体が困難になってしまいます。排泄物はたちまち凍ってしまったそうです。収容所は掘立て小屋のようなところで、暖房は部屋の真ん中で火をたくだけなので、天井が煤だらけになっていたそうです。ベッドはただの板で、服を着たまま横になるのです。その中で、香月はどのように画家として過ごしたのでしょうか。

香月さんの場合は、その煤をこそぎ取って、それを水に溶いたものを墨のかわりに使って、それでスケッチをしたりしました。煤は良質のカーボンですからそういうことができるんです。あるいはさらに進んでは、ソ連の警備兵からちょっと機械油をもらって、それで煤をとくことで一種の油絵具みたいなものを作り、それで絵を描いたりしたわけです。
(『シベリア鎮魂歌』「第二部 シベリア抑留の足跡を追って」立花隆)

香月は亡くなった兵士の顔をスケッチして、遺族にいずれは渡そうと考えたり、煤で墓標に名前を書いたりしますが、それも没収されたり、削らされたりして残っていないそうです。
香月は強制労働として、森林の木を伐採したり、その木で薪を作ったりしましたが、その辛い経験の中でも木の切り株の断面に美しさを感じていたようです。のちに『伐』という作品を残しています。また、ノコギリの形状に面白さを感じたのか、『鋸』という作品も残しています。
そしてもちろん、辛い現実を表現した作品についても立花は書いています。

この『雪』(1963)という絵は、戦友の死を悼む通夜をしている間に、毛布の中の死者の霊が死体から抜けだして、日本に飛んで帰ってしまうという情景を描いています。空を飛ぶ霊が残された戦友たちにも見え、戦友たちは驚きの表情で、思わず両手をあげて見送るという光景です。下絵では、それが霊であることを示すために、毛布の中の死者の頭に光輪をつけたりしています。この絵を見ると、毛布が柩(ひつぎ)がわりという意味がよくわかるでしょう。『埋葬』(1948)でも『涅槃』(1960)でも描き足りていなかったのが、このような毛布が柩という現実(その中に衣服をはぎとられた遺体だけがある)だったわけです。『埋葬』も『涅槃』もそれなりの心の中の真実を伝えていたが、それだけはあのシベリアにおける死と埋葬の真実をまだ伝えきれていないという思いが、ようやく『雪』を描くことで、帰国後16年して描けたということです。
残った兵隊たちは、魂となって日本へ飛んでいく死者がむしろ羨ましかったと香月さんはおっしゃっています。だから、死んだ人を葬るときも、「あいつ、先に日本へ帰りやがって」とか、「楽になりやがって」とか、そういう言葉が兵隊たちから漏れたといいます。しかし、それはある意味ではほんとうに残された者たちの実感だったと思います。死ぬことは楽になることだったんです。それぐらい生きることは苦しかったのです。
(『シベリア鎮魂歌』「第二部 シベリア抑留の足跡を追って」立花隆)

このようにシベリア・シリーズは一度描ききったと思ったモチーフであっても、のちに本人も予測できない形で描き直されていったのです。
実はこの後の「第三部 <別稿>絵具箱に残された十二文字」の章で詳しく書かれていることなのですが、香月はやはりNHKが制作した『立花隆が語る香月泰男の世界』という番組のなかで、香月がシベリア滞在中に持っていた絵具箱に記した「葬、月、憩、薬、飛、風、雨、伐、道、鋸、陽、朝」の12の文字に沿ってシベリア・シリーズが制作された、という説があることを紹介しています。しかし、立花自身はそれに同意していません。私も、香月はそれほど計画的な画家ではないと思います。香月の表現様式は、そのシステムの中でなんでも表現できるという便利なものではなくて、むしろ表現に適した絵画空間が限定されていて、香月はその中でモチーフをどのようにして絵にしていくのか、ということに腐心したのだろうと思います。ですから、もしも香月の中で計画的に制作しようという意図があったとしても、それは実現しようとした段階で変更を余儀なくされたでしょう。実際に成り行きのように出来上がったものの方が、作品としてリアリティーがあったのだろうと思います。私が思うに、香月は決して器用な画家ではなかったし、それが彼の限界でもあったけれども、良い点でもあったと思います。
これが香月泰男という画家に対する私の評価ということになるでしょうか。

さて、最後になりますが、このシベリアの強制収容所というものが、ソ連という国家にとってどのようなものだったのか、考えておきましょう。香月泰男のいたのがセーヤの強制収容所というところなのですが、ここは強制収容所の中でもとくべつにひどいところだったようです。立花隆はそのことについて調べ上げて、次のように書いています。

そのうちの香月さんがいた収容所は第六支部のコムナール鉱山収容所というところのわけです。これが先ほどの話に出た、セーヤ収容所から山一つ越えたところにある鉱山です。
結局、香月さんがいたセーヤ収容所は、第六支部のさらに支所という扱いになります。第六支部コムナール収容所の捕虜のうち、250人だけ、支所に配属になっていた。そういう感じになるわけです。実数でいうと、第六支部に750人が配属になり、うち500人はコムナールに残り、250人がセーヤ収容所に行ったということです。
この第三十三収容所の第六支部というのは、実はたいへん大きな問題を抱えていました。そういうことがこの内務省の文書の中からいろいろと出てまいりました。これはそれらの文書を日本語に翻訳したものですが、細部を細かく読まなくても、順次説明を加えていきます。
「この収容所の日本人捕虜は本国へ送還し、収容所を閉鎖した。47年4月23日」
こうなっています。実際には、香月さんたちは、その前年の5月にセーヤからチェルノゴスクの収容所に移り、47年の4月中旬に、帰国のためのダモイ列車に乗っています。
<中略>
内務省の記録に戻ると、セーヤ収容所が存在したのは1年8ヶ月であったと。捕虜が到着したとき、その大多数は著しく着古した軍服を纏っており云々と、そういう状況の記述がこのあたりにあります。
「収容所の開設は極めて厳しい条件下で行われた」
すなわち、
「必要な物質的資源も食糧も輸送手段も、収容捕虜やスタッフに当てるべき住居用の敷地もなく、それにもまして経営、生産、経理、運営の分野に明るいスタッフがいなかった」
とこういうわけなんです。しかるべきスタッフの欠如が収容所の活動に非常に深刻な影を落としていたわけです。
それでこのへんのところに出てくる記述なんですが、
「本来、当直や当直守衛が必要とされていたのに、収容所には12名の将校と、15名の守衛がなんら専門知識もなく、配置されていたにすぎなかった」
「収容所の管理局を指揮する適格者は一人もいなかった」
(『シベリア鎮魂歌』「第二部 シベリア抑留の足跡を追って」立花隆)

つまり、収容された捕虜たちにとってたいへんな収容所であっただけでなく、運営する人たちにとってもメチャクチャな施設だったのです。あまりにひどい条件なので、所長に任命された人間が拒否して帰ってしまったとか、収容所の要職についたのが先に捕虜となったドイツ兵であったために仕事が投げやりであった、とか信じられないようなことが書いてあります。
スタッフ不足、食料不足、ずさんな運営に加えて厳しい気候と疫病が重なり、労働に値する捕虜がいなくなってしまったために閉鎖された収容所が出てきました。香月の収容所もそうなったようです。

この地域の収容所全体の収容者が5700人いて、その人たちの労働収入は一千十万ルーブルあったけれども、実支出が一千三百五十万ルーブルかかった。差し引き、損失が二百九十万ルーブル出たというんです。つまり赤字だったんです。あれだけの人々を奴隷労働者としてこき使った結果が赤字だったというんです。
つまり、収容所は採算割れとなっていた。それどころか赤字収容所には内務省から赤字を埋めるための補助金が出ていたんですが、その赤字の額は、補助金の金額を、大幅に上回るものだった。つまり日本兵のシベリア抑留は、収容所レベルで考えても赤字だし、国家レベルで考えても赤字だったということなんです。やればやるほど損をすることになってしまったわけです。収益状態が特別に極めて悪かったのは、第五、六、七支部である。これらの支部は気候条件から、また食糧事情から、多数の捕虜が病を得た。これらの収容所は将来赤字が改善される見込みもないので、維持に値しない。ということで閉鎖されることになったというわけです。
(『シベリア鎮魂歌』「第二部 シベリア抑留の足跡を追って」立花隆)

この赤字の原因には、配給物資の横流しをして儲けた幹部がいたとも書かれています。前回の『ねじ巻き鳥クロニクル』の「皮剥ぎボリス」のような奴でしょうか。それに付き従うゴマスリの日本兵もいたらしいのですが、それが間宮中尉のモデルになったのかもしれません。もっとも村上春樹は、その間宮中尉を正義を貫くための偽装だったというふうに描いています。詳しく知りたい方は、小説を読みましょう。
そしてこの収容所の問題は、実はもっと大きな国家的な問題で、ソ連は以前から資源豊かなシベリアを開拓したかったのですが、その過酷な仕事を引き受ける人間がいなくて困っていたのです。戦争前は、ちょっとした罪を犯した犯罪者、あるいは犯罪者とされた人たちをシベリアに送りました。そういえば、あのロシア文学の巨匠、ドフトエフスキー(Fyodor Mihaylovich Dostoevskiy,1821 - 1881)も思想犯としてシベリアに送られましたが、やはり強制労働に従事したのでしょうか。
それから戦争中は日本兵ばかりでなく、ドイツ兵、イタリア兵も抑留されましたし、独ソ戦でドイツの捕虜となって帰ってきたロシア兵も、裏切り者扱いをされてシベリアに送られたのだそうです。
有名な映画『ひまわり』は、対ソ連戦で行方不明になってしまったイタリア人の話ですが、こういう悲劇はたくさんあっただろう、と立花は言います。捕虜の死亡率や行方不明の割合は日本兵よりもドイツ兵、イタリア兵の方が多いのだそうです。
https://youtu.be/BvwSctFUJNY
さらに、ノーベル文学賞を取ったソルジェニーツィン(Alexandr Isaevich Solzhenitsyn、1918 - 2008)の『収容所群島』(1973)が、このソ連の社会的な問題をあばきます。

この人(ソルジェニーツィン)がノーベル賞を受賞した後にソ連から国外に出て書いた有名な本に『収容所群島』という本があります。これ(文庫本)で六冊になるような膨大な本なんですけれども、この中で詳細にソ連という国が、あの時代どれほど滅茶苦茶な収容所だらけの国になっていたかということを明らかにしています。ソルジェニーツィンは若いときにラーゲリに送られ、ずっと収容所暮らしをさせられたので、ソ連がこんなひどい収容所だらけの国家になってしまったのかを明らかにしようとして、膨大な資料を集めて、精魂込めてこの本を書いたわけです。この本ではじめて、日本人がなぜシベリア送りになって強制収容所に入れられたか、その背景事情が明らかにされたともいえます。
<中略>
この本を読んでいくと、ほんとうに唖然とするような話が、山のように出てきます。ほんとうにでっち上げた事件でも、何でもいいんです。とにかくそのへんの人を、片端からシベリアに送っちゃうんです。内務省の係官にはノルマがあるんですね。今月中に何人シベリアに送れというノルマがあるわけです。そのノルマを期限内に十分に果たせないということになると、とにかく交通違反であろうと何であろうと、あるいは何にも理由がなくてもいいから、とにかく捕まえてシベリアに送っちゃうということが行われたわけです。
(『シベリア鎮魂歌』「第二部 シベリア抑留の足跡を追って」立花隆)

立花隆自身がさすがにこれは大げさだろうと思っていたら、ソ連が崩壊した後にソルジェニーツィンの書いたことを裏付ける証拠が続々と出てきて、改めて驚いたそうです。ソルジェニーツィンは素晴らしい作家ですが、『収容所群島』はその裏付け資料が多くて、私の頭では整理がつかずに読めませんでした。彼の書いた『イワン・デニーソヴィチの一日』(1962)は、収容所の生活を綴った小説ですが、とても読みやすいです。
ちょっと香月泰男の話から逸れてしまったように思われるかもしれませんが、実はソルジェニーツィンの本が日本で出版されたときに、その本の装丁をしたのが香月なのです。なんとピッタリの人選でしょうか!

さて、芸術家、表現者はこのような巨大な課題に直面した時に、どのように振る舞えばよいのでしょうか。
香月がやって見せたように、一人の画家は絵を描くことしかできません。あるいはソルジェニーツィンが書いてみせたように、一人の作家は本を綴ることしかできません。しかし、こんなにも大きな世界の課題を彼らが背負っていたことに驚きを禁じえません。そして私たちから見れば、彼らの表現からそういう大きな課題に触れられるということも、芸術表現を味わうときの大切な喜びであると思うのです。
それにしても、巨大な国家機構の馬鹿馬鹿しい犯罪には呆れかえるばかりですが、これは他人事ではありません。私たちの国の長期政権も、私たちの目の届かないところで何をやっているのか・・・。
例えば私の職業から身近なことで言えば、もうすぐなくなる「教員免許更新制度」という悪法があります。これは日本の教育制度への不満を教員の能力不足のせいにし、合わせてその教員の多忙さに拍車をかけて苦しめてやろう、という一石二鳥の悪意が背後にあるのです。この一点だけをとっても、私は為政者を許すことができません。私たちが批判をしなければ、どんな国家であれ暴走するということを肝に銘じておきましょう。
最後に余計なことを書きましたが、肝心の展覧会の感想をまとめておきましょう。
決して器用な画家ではない香月泰男が、自ら背負った課題を正面から受け止めて取り組んだ作品群「シベリア・シリーズ」は、実に尊いものだと思います。そのことを忘れないためにも、このような大規模な展覧会が開催されていることは、喜ばしいことだと思います。
これからもこのような企画は、折に触れて繰り返し開催していただきたいものです。

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