平らな深み、緩やかな時間

2.シャルダンとプルースト

「シャルダン展 静寂の巨匠」を見て、プルースト(Valentin-Louis-Georges-Eugène-Marcel Proust, 1871 - 1922 )とシャルダンについて書かれた本を思い出しました。
『プルースト・印象と隠喩』(ちくま学芸文庫)という本です。著者は保苅 瑞穂(1937 - )というフランス文学者です。何が書いてあったのか、記憶もあいまいだったので、ぱらぱらと見返してみることにしました。

この本は、プルーストの文章表現に関する本です。
『印象と隠喩』の「印象」というのは、プルーストがものをどう見たのか、ということをあらわしています。一般的な意味での「印象」ではなく、真実を求める気持ちが現実から引き出したもの、という深い意味をもっています。その「印象」が著者の内面で積み重なり、「記憶」となって豊かな比喩表現を生むのです。プルーストの『失われた時を求めて』が、写実主義や象徴主義といった時代の枠におさまらないのは、文章表現の源になっている「印象」が「過去と現在との感覚に共通する」「時間の圏外」にあるものだから、ということになるようです。
シャルダンはそこにどうかかわったのでしょうか。
シャルダンの絵画は、プルーストにものをどう見るのか、ということを示唆しました。プルーストは、こんなことを書いています。
「わたしはシャルダンとともに、偉大な画家の作品がわれわれにとってどういうものでありうるのかということを、その作品が画家にとってどういうものであったかをつぶさに見ることによって示したのである。作品というものはけっして特殊な資質の誇示などでなく、芸術家の生命のなかにあったもっとも内向的なものと、物のなかにあるもっとも深遠なものの表現なのである。だから作品はわれわれの生命にまっすぐに向かってくる。そしてわれわれの生命を揺り動かし、それをゆっくりと物のほうへ向かわせ、物の核心に近づけるのである。」
シャルダンが日常的な何気ないものを描いたこと、その描写が華美や細密さを目指したのではなく本質的なものに向かったこと、などがプルーストにこのような文章を書かせたのだと思います。たとえば、プルーストがシャルダンの『食器棚』を文章で転写したものを見てみましょう。その作品の見方がよくわかります。
「この食器棚―半分まくりあげられたテーブル掛けのまっすぐに垂れた襞にはじまって、放り出された抜き身のナイフに至るまで、すべてが、召使がてんてこ舞いをしたその名残りを留めている―そんな食器棚の上では、すべてが招かれた客の健啖ぶりを示している。まだ秋の果樹園のように華やかだが、早くも食べ荒らされた盛皿のなかの果物の頂きは、天使ケルビムのように薔薇色の、頬をふくらませた、そして神々のように微笑んでいる、近寄りがたい桃で、王冠のように飾られている。犬が見上げているが、桃までは届かない。そして本当に欲しそうにしているので、それがいっそうおいしく見える。目が桃を味わい、とろけそうに甘美な味が染みこんでいる、うぶ毛の生えた果皮の上から、その味をとらえようとする。」
実際の絵の中には、召使も招かれた客も天使も描かれていません。(犬は描かれています。)絵の中にいない存在を登場させながら、プルーストはモチーフが置かれた様子を表現しています。状況を説明するのではなく、細密に描写するのでもなく、本質的なものからイメージされることを、直接私たちの感覚にインプットしようとしているようです。
つぎに、この本のなかで幾度となくプルーストと比較されているゴンクール(Edmond de Goncourt、1822 - 1896 )の文章を見てみましょう。これは『食器棚』について書かれた文章ではありませんが、モチーフの様子がよく似ています。
「かれ(シャルダン)が心にくいばかりにうすくぼかすことのできるこのひっそりとした背景、洞窟の爽やかさが食器棚の影にわずかに溶けこんでいるこうした背景、いつもそこにかれの署名が見られるようになったくすんだ大理石の、苔むしたような色調のあの食卓―そんな食卓のひとつに、シャルダンは幾皿ものデザートをいっぱいに並べる―桃の毛羽立ったビロード、白葡萄の琥珀のような透明、西洋李の砂糖のような霧氷、いちごのしっとりとした真紅色、マスカットのみずみずしい粒、その青みがかった水気、オレンジの皮の皺といぼ、刺繍されたようなメロンの透しレース、古くなったりんごの痛んだ赤味、パンの瘤、栗のすべすべした表皮、そうしてはしばみの実に至るまでが、そこにある。それらのすべてが、あなたの目の前に、日の光のなかに、空気のなかに、まるで手が届きそうなところにある。」
精細に観察され、描写されている文章です。美術批評として、優れたものだと著者(保苅瑞穂)は書いています。だから、プルーストとゴンクールのどちらが優れているのか、ということではなく、その質の違いに注目するべきでしょう。
描写の具体性、精密さのちがいは一目瞭然ですが、文章全体から受ける印象にも目を向けてみましょう。ゴンクールの文章は、現在見ている絵がまさにそこにあって、「手が届きそうなところにある」と書いてある通りです。一方、プルーストの文章は、たとえば(画面上には)不在の召使が残した痕跡にふれるなど、過去と現在が交錯した印象があります。交錯した、というのはプルーストの書いた過去が現実にあった過去ではなく、見る者の内面からイメージされた過去だからそう感じるのです。
シャルダンは当時、高級とされた歴史画を描くことはありませんでした。卑近な静物画や風俗画を描いただけでしたが、プルーストはそこから過去と現在という時間性を感じ取っていた、というのは興味深いことです。ここで感受されている時間性というのは、画面のなかで説明されている時間ではなく、描かれた何気ないもの、その本質にせまった画家と作家が共有した内面的な時間なのだと思います。
そういえば『失われた時を求めて』のなかに、マドレーヌの味覚から過去が想起される、という有名な一節があります。なぜマドレーヌなのか、日本人にはわかりにくい不思議な一節ですが、味覚、嗅覚、触覚など、ふだんは即物的な感じしかしない感覚が、ふと何かを思い起こさせる、ということは確かにあります。その、直接イメージに訴えかけるような表現は、どこかでシャルダンの絵から時間性を感受する感性と共通するような気がします。

さて、この本ですが最初に書いたようにプルーストの文章表現に関する本です。
プルーストがゴンクールから受けたであろう影響とその反発について、とてもていねいに書いてあります。シャルダンの絵からはだんだん離れていってしまうので、途中からつい飛ばし読みになってしまい、それが残念な半面、ゴンクールの著作も読んでみたい気持ちになりました。

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