『目的への抵抗』は哲学者の國分功一郎さんが、2020年と2022年に行った講義の記録です。本のタイトルは「目的への抵抗」ですが、大きなテーマは「目的」と「自由」との関係です。この「目的」と「自由」について考察することは、私たちが生きていく上でとても重要なことのようです。それと同時に、現代美術を学ぶ上でも大切なことだと私は考えます。
それはどういうことでしょうか?
國分さんは、本のはじめに次のように書いています。
自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある。
(『目的への抵抗』「はじめに」國分功一郎)
ちょっとショッキングな書き出しです。なぜなら「目的」と「自由」が対立するものとして、明確に書かれているからです。私たちは、「目的」に向かって進歩することを良いことだと考えています。それと同時に「自由」を享受することも、大事なことだと思っています。いずれも大切なことですから、この二つの価値観が対立関係にあっては困るのです。しかし、「自由は目的に抵抗する」と最初に書かれているのですから、私たちは「自由」か「目的」か、いずれかの価値観を選ばなければならないようです。
それでは、國分さんはその二つの価値観について、どのように考えているのでしょうか?「(自由は)目的を超える」と書いていますから、國分さんが「自由」に重きを置いていることがわかります。それでは、私たちが抱いている「目的」を大切にする価値観はどうなるのでしょうか?
実は國分さんご自身も、私たちと同様の思いを持っていたそうです。そのことを國分さんは次のように書いています。
私たちは目的なる語なしでは何かを考えることができなくなっている。目的の概念なしでは仕事をすることもできないだろう。もしかしたら生活もできないかもしれない。目的はそれほどまでに深く私たちの心身に入り込んでいる。いや、これらの指摘すら意味不明の言葉として受け止められてしまうかもしれない。目的なるものをそれ自体として検討の対象に取り上げるという所作そのものが、それを耳にした人に、全く理解できない外国語を聞いた時のような反応を引き起こすのではなかろうか。
実際、私自身がそのような反応をしていた一人であった。だから、まだ覚えているのである、目的の概念そのものを批判的に検討するという目論見が人に引き起こしかねない感覚を。「覚えている」と書いたのは、もはや私がこの目論見に対してそのような反応をしなくなったからに他ならない。これは本書を作り上げていく過程で私自身にちょっとした変化が起こったことを意味している。つまり私はちょっとした経験をしたのであり、それによって同じ事柄ーすなわち目的の概念の批判的検討ーに対して異なった反応をするようになったのだ。
(『目的への抵抗』「はじめに」國分功一郎)
このように國分さんは書いています。
それでは、國分さんの考え方を変えるような「ちょっとした経験」というのは、どういうことだったのでしょうか?
実は私は、この経験をしたさなかの國分さんをテレビ番組で見ました。それはコロナウイルス感染の対策がもっとも厳しい時期のことでした。國分さんはそのときに、ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben、1942 - )さんというイタリアの哲学者が発した意見を取り上げて、あの時期にはおよそ私たちには受け入れられないような考え方について丁寧に説明したのでした。その時に私が書いたblogがありますので、よかったら次のリンクをご覧ください。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/d0651b5eada02d38a6718a84a376881e
このリンクを読んでいただければわかりますが、私は次のようなことを書きました。
ジョルジョ・アガンベンさんは、新型コロナウイルスで亡くなった方を見舞うこともできない感染症対策に対し、死者をこのように遇してよいのか、という疑問を投げかけました。その結果、彼は感染を心配する人たちからたいへんな抗議を受けたのです。しかしそれにも負けず(?)、アカンベンさんはさらに人間が「生存する」ことだけを目的としていていいのか、という重たい言葉を投げかけました。またアガンベンさんは「移動の自由はどの自由よりも重要だ」と言って、外出禁止にも異議を唱えたのだそうです。
実はこの頃、ドイツの首相メルケル(Angela Dorothea Merkel、1954 - )さんは、アガンベンさんとは対照的な立場で、テレビで演説をしました。旧東ドイツ出身で、移動の自由の重大さについて痛いほどわかっていた彼女ですが、それでも今回は移動の自由を制限しなければならない、と国民に訴えたのです。しかし、「それは最小限であるべきだ」と付け加えたところに、彼女の言葉の重たさが表れています。
これらの、立場の異なる二人の言葉の重みを國分さんは即座に感じ取って、コロナ禍の混乱した時期に、あえて結論の異なる意見を私たちに提示したのでした。とくに、アガンベンさんの過激にも見える言葉を取り上げること自体が、かなり勇気が必要なことだったと思います。しかし、人々の考えが極端な方向へと振れている時だからこそ、哲学者の冷静な言葉が必要だったのだと私は実感しています。
さて、この経験がなぜ「自由は目的に抵抗する」という今回の話題につながるのでしょうか?
それは「生きる」という人間にとって必然的であり、肯定的であるはずの「目的」が、「移動の自由」や「葬送の自由」を損なってしまうという結果を生んだからです。もちろん、感染症のさなかに人々が自由に移動して、どんどん感染を広げてもいいのか、と言えばそれはいけません。
しかし、どんなに危機的な状況にあっても、アガンベンさんが唱えたような「自由」を重んじる視点を持たないと、人類は「人間らしさ」を失い、別な意味で危険な状況に陥ることがあるのです。
そのことについての詳細は、このあとの講演に引き継がれていくことになります。
ここまでが、2020年に國分さんが行った講演の概要になります。
この講演の考察を、2022年の講演において、國分さんはさらにつきつめています。國分さんは、コロナ禍の影響が薄れて人々が浮足立っていく社会にあって、コロナ禍で考えたことを通常の社会にも通じるような、普遍的な問題として掘り下げていったのです。
そこでは「贅沢」と「目的」、あるいはそれに対応する「浪費」と「消費」という言葉がキーワードとして付け加えられていきます。
本来、贅沢をすることは豊かさを享受することであり、そのことに費用を使うことを「浪費」と言うのです。その一方で、私たちの生活に欠かせないものに費用を使うことを私たちは「目的」にかなったことであると判断し、それを「消費」と言ったのです。しかし、いつしか贅沢は悪いことであり、「浪費」は行き過ぎた「消費」である、というふうに受け取られるようになりました。そのときに私たちは、「贅沢」が含んでいた人間としての「豊かさの享受」という側面を忘れてしまい、今では「浪費」は、にべもなく否定されてしまう言葉となってしまいました。
しかし、それでいいのだろうか、と國分さんは問いかけます。
さて、こうして贅沢について考察を深めていくとだんだん見えてくるのが、贅沢と目的の関係です。贅沢の本質には、目的なるものからの逸脱があるのではないでしょうか。たとえば、食事をするのは栄養を取るためであり、栄養摂取が食事の目的であると考えることができます。確かに栄養摂取は食事にとっての欠かせない要素です。
しかし、食事と栄養摂取を等しいものと捉えることができるでしょうか。栄養摂取をしていれば、人間は確かに生存できるけれども、食事を生存という目的に還元することができるでしょうか。還元してよいでしょうか。我々が豊かさや充実感を感じるのは、目的をはみ出た部分によってです。確かに食に目的を設定するならばその目的は栄養摂取である。けれども、食がその目的しか追求しないようになったら、食における人間らしさは失われてしまうと言うべきではないでしょうか。
(『目的への抵抗』「第二部 不要不急と民主主義」國分功一郎)
上の例で言うと、「栄養を摂取」することだけを目的にした行為が「消費」であり、それに対して、その目的からはみ出た「贅沢な」食事をする行為が「浪費」にあたるのだと、國分さんは言っています。そして、「人間」を人間らしい存在にしているのは、実は後者の「浪費」の方なのです。
それなのに社会の現状は「人間らしさ」を削ぎ落とす方向へと進んでおり、その傾向はコロナ禍前から進行していた、と國分さんは考えています。
國分さんの次の文章を読んでみてください。
ここでコロナ危機下の現代社会についての僕の仮説を述べておきたいと思います。確かにコロナ危機下で社会は大きく変容したように見えます。しかし、不要不急と名指されたものを排除するのを厭わない社会の傾向ーこの傾向は四字熟語を使っていない多くの諸外国でも同様と思われますーは、実はそもそもコロナ以前から少しずつ進行していた社会の傾向ではないか。そしてより抽象的な言葉で言い換えるならば、その社会の傾向とはつまり、目的をはみ出るものを許さないという傾向ではないか。
そもそも、なぜ消費が浪費と混同されてしまうのでしょうか。それは消費社会が必死に「消費こそが贅沢をもたらすのだ」と消費者を説得し続けているからでしょう。だからこそ消費社会は、贅沢に気づき始めた人間には、「必要な目的を超えて何かを求めるなんておかしいでしょ」とまるで倫理を諭すかのようにささやいてくる。この二つの論理、すなわち、人々を記号的消費のうちに留めおこうとする論理と、必要や目的を超え出る浪費を行おうとする人間にその贅沢を戒める論理とが手を結んだところに現代社会があり、コロナ危機下、「不要不急」と名指されたものを排除するのを厭わない傾向が容易に支配的となれたのは、もともとこの二重の論理が支配的だったからではないでしょうか。それは比喩的に言えば、食事を栄養摂取に等しいものと捉える社会です。実際、食事を栄養摂取と等しく捉える人を前にしても、僕らはあまり驚かなくなっています。
(『目的への抵抗』「第二部 不要不急と民主主義」國分功一郎)
現代社会は、生命を維持することを主なる「目的」とするような社会になってしまいました。そして、私たちは「目的」にかなう「消費」だけを許容するように飼いならされてしまっているのです。
このように、社会から与えられた「目的」のみに固執した考え方を徹底させていった先には、何があるのでしょうか?
國分さんはここで、ドイツ出身の思想家、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906 - 1975)の言葉を紹介しています。
目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考え方を追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう。
(『人間の条件』アーレント著 志水速雄訳)
言うまでもなく、アーレントさんの脳裏には第二次世界大戦下のナチズムのことが浮かんでいたのです。ナチスの時代には、ナチスの行う虐殺が正当化され、それにともなってたくさんの人たちが殺されました。それはナチスが掲げた「目的」を遂行するために、全国民が協力してしまった結果なのです。
しかし、アーレントさんのこの言葉を、ナチズムに影響されすぎた極端な結論だ、という考え方もあるでしょう。目的のために「すべての手段が許され、正当化される」とアーレントさんは言うけれど、そんなことはあり得ない・・・、適切な手段を選ぶ善良な人々によって、その問題は乗り越えられるはずだ・・・、という考え方です。
しかし國分さんは、アーレントさんが言っているのはそういうことではない、と解説しています。
目的はしばしば手段を正当化してしまうことがあるのではない。目的という概念の本質は手段を正当化するところにある。アーレントはそう指摘しているわけです。
(『目的への抵抗』「第二部 不要不急と民主主義」國分功一郎)
そもそも「目的」という概念に、つまり目的を立ててそれを遂行するという考え方そのものに、いかなる手段も正当化してしまうという危険性があるのだ、とアーレントさんは言っているのです。
しかしそうはいっても、私たちはまったく無目的で生きていくことは出来ません。生きていく上では食べなければなりませんし、住むところも、着るものも必要です。それらを持っていなければ、私たちはまず衣食住を「目的」とせざるを得ないのです。
このような、アーレントさんの「目的」に関する考え方を理解するためには、私たちは彼女の「自由」に関する考え方を知る必要がある、と國分さんは書いています。そのアーレントさんの「自由」に対する考え方は、次のとおりです。
行為は、自由であろうとすれば、一方では動機づけから、しかも他方では予言可能な結果としての意図された目標から自由でなければならない。行為の一つ一つの局面において動機づけや目的が重要な要因でないというわけではない。それらは行為の個々の局面を規定する要因であるが、こうした要因を超越しうるかぎりでのみ行為は自由なのである。
(『過去と未来の間』「自由とはなにか」アーレント著 引田隆也ほか訳)
わかりにくいですね。アーレントさんは政治哲学者ですから、アーレントさんの考え方には政治的な側面があります。その点を噛み砕いて、國分さんは次のように解説しています。
アーレントが言っているのは、行為にとって目的が重要な要因であることは間違いないが、しかし行為は目的を超越する限りで自由なのだということです。ここには目的の概念を考える上での大いなるヒントが記されているように思います。アーレントは目的の概念を徹底して批判的に考察していました。しかし、だからといって目的を抹消せよということではない。目的が行為する上で重要な役割を果たすことは間違いないのです。
けれども、そうした要因に規定されたまま行為するに留まっていたとしたら、その行為は自由ではない。つまり、「こういう動機でやっています」とか「こういう目標を達成するためにやっています」としかいえない行為は自由ではない。
(『目的への抵抗』「第二部 不要不急と民主主義」國分功一郎)
これはすごく面白いですね。「目的」という概念は、私たちが行為を行うときに重要な概念ではあるけれども、その目的にかなうことだけを考えて行った行為には「自由」がありません。「目的」がありつつも、その「目的」をはみ出る行為、これを「贅沢」とも「浪費」とも言うわけですが、そのような行為のことを「自由」だと言うのです。
今回はなかなか芸術の分野にたどり着きませんが、アーレントさんは芸術の分野で言うと、この「自由」の概念は「パフォーマンス芸術」と親和性があると考えていたようです。「パフォーマンス芸術においては、完成はパフォーマンスそのものにあり、最終作品ーそれはこの作品がもたらした活動を超えて存続しそれから独立するようになるーにあるのではない」とアーレントさんは言ったのだそうです。
このblogを読んでいる方なら、「アーレントさん、そんなことないですよ」と言いたくなると思います。ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)さんの絵を見れば、セザンヌさんが鑑賞者の目の中で永遠のパフォーマンスを演じているのがわかるはずです。
それではここで、これまでの議論を美術に置き換えて考えてみましょう。
このblogで何回も書いているように、芸術は現実社会の問題を先んじて炙り出します。この「不要不急」、「目的」、「消費」に象徴されるような事例を考えるとき、私は即座にミニマル・アートの作品を思い出します。ミニマル・アートの作品こそ、「不要不急」のあらゆる要素、「贅沢」や「浪費」をすべて削ぎ落とした表現だと言えるでしょう。
https://www.artpedia.asia/minimal-art/
このblogでは、ミニマル・アートをモダニズム思想、モダニズム美術の文脈で語ることが多かったのですが、國分功一郎さんのように「消費社会」という文脈で読むのなら、まさに「消費こそが贅沢をもたらすのだ」と言う風潮と、ミニマル・アートの成立は、一致するものだと言えるでしょう。
そして、その後の美術の動向は、どうでしょうか?
ここで國分さんのような思想家に、消費社会の問題点を解消するような先例として気の利いた現代美術のカテゴリーをお示しできると良いのですが、残念ながらそのようなものはありません。私がこのblogで取り上げている個々の現代美術の作家は、ほぼすべて「ミニマリズム」によって失った美術表現の豊かさを取り返すような活動をしています。しかし一般の美術ジャーナリズムは彼らの活動を十分に取り上げていませんし、また現実に彼らの表現を「・・・・主義」といった、まとまったカテゴリーで括ることは不可能なのです。
しかし、そもそも芸術は「浪費」的なものです。セザンヌさんの芸術が、タイムリーに「消費」されずに、現在の私たちに豊かな果実を見せていることを考えてみれば、それはすぐにわかることです。ですから、芸術家はそもそも浪費家なのです。
そして、「浪費」的な表現を実践している芸術家本人よりも、むしろその作品を鑑賞する批評家や鑑賞者の方が、「モダニズム」でやせ細った芸術の概念を超えて作品から豊かさを見出し、語り合うことが必要であると私は考えます。
さて、最後に國分さんの2022年の講演の結論を書き写しておきましょう。
そしてそこから、芸術の問題について考えてみるのです。
目的のために手段や犠牲を正当化するという論理から離れることができる限りで、人間は自由である。人間の自由は、必要を超え出たり、目的からはみ出たりすることを求める。その意味で、人間の自由は広い意味での贅沢と不可分だと言ってよいかもしれません。そこに人間が人間らしく生きる喜びと楽しみがあるのだと思います。
(『目的への抵抗』「第二部 不要不急と民主主義」國分功一郎)
これはまさしく、芸術を作ること、鑑賞することそのものではないでしょうか。
一つの目的を設定して、そのことだけを的確に表現した作品は、語りやすく、タイムリーに評価しやすいものです。しかし、「そもそもそれは芸術なのか?」と私は疑ってしまいます。
そうではなくて、「目的」通りに制作が進まず、何だか言いようのない要素が作品に盛り込まれたものの方が、私は芸術作品らしいものだと思います。その作品を見る人は、作者の迷った足取りを感受しつつ、その上で制作上の「目的」をもしっかりと受け止めるのです。そんなふうに複雑でスリリングな出会いこそ、芸術の場で起こるべきことなのだと私は思います。その芸術家のよたよたした足取りを排除せず、それを「贅沢」なことだと受け止めて、豊かに「浪費」することが、コロナ禍のやせ細った社会にとって、もっとも必要なことなのだと私は確信しています。
さて、このように「目的」と「自由」について考えていくときに、人間にとって究極の自由とはなんだろうか、とつい考えてしまいます。
そのときに私が思い出したのが、若い頃に見た藤原新也さんの写真集『メメント・モリ』の1ページです。いま、その本が手元にないのですが、それはたしか野良犬が、ちぎれた人間の手を加えている写真だったと思います。そこに綴られていたコメントが、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というものでした。
今回調べてみたら、その写真を撮影したときのことを語った藤原新也さんの声が公開されていました。
藤原新也「新東京漂流」vol.134「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」
インド、ガンジス川に葬られた遺体が野良犬たちに食われている。藤原新也は自著『メメント・モリ』の有名な1枚の写真の、知られざる物語を語る。
https://spinear.com/original-podcasts/shin-tokyo-hyoryu/episodes/shintokyo-2022-10-10/
コロナ禍のなかで、アガンベンさんが死者を弔う「自由」を奪われていていいのか、と問いかけたことは先に示したとおりです。
その一方で、現在でも、そしてコロナ禍においても、インドのどこかでは川に人を葬るということをしているのでしょうか?ここまでの議論を考えると、それは最高の「自由」であり、「贅沢」な葬送であるのかもしれません。
若い頃に藤原さんの写真とコメントを読んで、いまひとつ実感がわかなかったのですが、現在の私にはその意味がよくわかります。「犬に食われるほど」の「自由」は、いまの日本にはありませんし、それは究極の自由であるとも言えるのです。
そして、もしも私が芸術表現に「犬に食われるほど」の奔放な「自由」を盛り込むことが出来たら、それはものすごく「贅沢」な作品になるのではないでしょうか?それは足元の常識や倫理観をひっくり返してしまうような「自由」を孕んだものなのです。
妥協せずに、そういう芸術を目指したいですね。