平らな深み、緩やかな時間

338.「世界の永続性と芸術作品」ハンナ・アレント

前回のblogで取り上げた哲学者の國分功一郎さんは、しばしばドイツ出身の政治哲学者、思想家であるハンナ・アレント(Hannah Arendt、1906 - 1975)さんについて、言及しています。

そこで私も彼女の主著である『人間の条件』を読んでみようと試みているのですが、この難解な大著になかなか歯が立ちません。しかし、この本の中には「世界の永続性と芸術作品」という章があります。その章の中で、アレントさんは芸術について正面から語っているのです。彼女のことはこの後も少しずつ学ぶとして、とりあえず今回はこの章について考察してみたいと思います。

アレントさんはていねいに、芸術について定義するところから、この章を書き始めています。

 

人間の工作物は、安定性がなければ、人間にとって信頼できる住家とはならない。そのような安定性を人間の工作物に与えている物の中には、厳密にいっていかなる有用性もなく、その上、それがただ一つのものであるために交換もされず、したがって貨幣のような公分母による平等化を拒んでいる多くの対象物がある。それらの対象物は、交換市場に入る場合でも、勝手に価格がつけられるだけである。いうまでもなくそれは芸術作品である。芸術作品にふさわしい扱いというのは、もちろん、それを「使用すること」ではない。それどころか、芸術作品は、世界の中でそれにふさわしい扱いというのは、もちろん、それを「使用すること」ではない。それどころか、芸術作品は、世界の中でそれにふさわしい場所を与えるために、普通の使用対象物の文脈全体から注意深く切り離しておかなければならない。

(『人間の条件』「世界の永続性と芸術作品」ハンナ・アレント著 志水速雄訳)

 

政治哲学者であるアレントさんは、芸術作品が社会的にどのようなものであるのか、というところから話を始めています。この点で、美学者や美術批評家の書く文章とは、だいぶ趣きが異なります。

アレントさんによれば、芸術作品は社会的に「いかなる有用性」もないものです。従って、その価格は人々の必要性から生じるのではなく、「勝手に」つけられるしかないのです。

ところが、近代より前に作られた芸術作品の多くは、宗教的な理由や神学的、呪術的な必要性があって作られたものです。それは日常での「有用性」はなくても、現在の芸術作品のあり方とは違ったものであったはずです。これらについては、どう考えたら良いのでしょうか?そのことについても、アレントさんは上記の文章よりも少し後の部分で、「芸術が宗教や呪術や神話から分離して、立派に存続してきた」こと、つまり宗教的な感情を超えて、それらの芸術作品が大切に存続してきたことに注目し、「ここでは問題にしない」ときっぱりと言っています。それらの宗教的な芸術も含めて、芸術作品は「普通の使用対象物の文脈全体から注意深く切り離しておかなければならない」存在なのだ、とアレントさんは書いています。

このようにアレントさんは、芸術作品がいかに特殊な「もの」であるのかを語った上で、さらにそれが私たちにとって特別な存在であることに注意を傾けます。

 

芸術作品は、そのすぐれた永続性のゆえに、すべての触知できる物の中で最も際立って世界的である。すなわち、その永続性は、自然過程の腐蝕効果を持ってしても、ほとんど侵されない。芸術作品は生きているものが使用するものではない。たとえば椅子の場合なら、椅子の目的は人がそれに腰をおろすとき実現される。しかし芸術作品の場合、それを使用すれば、それ自身に固有の目的を実現するどころか、それ自身をただ破壊するだけである。このように芸術作品の耐久性は、すべての物がとにかく存在するために必要とする耐久性よりも高度のものである。つまり、歳月を通して永続性を得ることができる。

(『人間の条件』「世界の永続性と芸術作品」ハンナ・アレント著 志水速雄訳)

 

この部分は、芸術を崇拝する美術関係者ならば、「芸術の価値は永遠だ!」と高らかに言ってしまいそうですが、アレントさんの芸術へのアプローチは飽くまでも具体的であり、冷静です。芸術作品とはいえ、物質的な「もの」として存在するのですから、永遠に存在することはあり得ません。しかしその耐久性は「歳月を通して永続性を得る」のだと言うのです。この厳密な言い回しの中に、アレントさんが芸術作品の価値を確かに見出している、ということを感じます。

 

さて、このような特殊な存在である芸術作品は、どのようにして作られたのでしょうか?

この『人間の条件』という書物は、人間の基本的な要素である「労働」、「仕事」、「活動」について論じたものですから、芸術作品が人間のどのような営みから生まれたのか、ということがアレントさんにとって重要な問題であったはずです。

彼女は次のように書いています。

 

芸術作品の場合、物化は単なる変形(トランスフォーメーション)以上のものである。それは変貌(トランスフィギュレーション)であり、真実の変身(メラモルフォシス)であって、そこでは、あたかも、火にすべてのものを灰にするよう命じる自然の進行過程が逆転し、塵でさえ燃えて炎となるかのようである。芸術作品は思考物(ソート・シング)である。しかしだからといって、それが物ではないことにはならない。思考過程それだけでは、本とか彫像とか作曲譜面のような触知できる物は生産されず、製作されない。それは、使用それだけでは、家や家具が生産されず、製作されないのと同じである。もちろん、文章を書き、イメージを描き、形象を創造し、メロディを作曲する物化は、それに先行する思考と結びついている。しかし、この思考を本当にリアリティとし、思考から物を製作するのは仕事人の技能であり、それは、人間の手という原始的な道具によって、芸術作品以外の耐久性ある人間の工作物を作るのと同じものである。

(『人間の条件』「世界の永続性と芸術作品」ハンナ・アレント著 志水速雄訳)

 

この文章において、アレントさんは芸術を創造するという人間の神秘的な営為を、見事に綴っています。ここには、これから芸術について文章を書こうとする者なら、何回でも引用したくなるような言葉が詰まっているのです。

例えば、ある彫刻家が一本の丸太から美しい彫刻作品を彫り出す場面を綴るなら、それは「単なる変形」ではなく、「変貌」であり、「真実の変身」である、と書いてみたいところです。それはまるで、燃え尽きた「灰」や「塵」が再び「炎」となって燃えあがるような営みなのだ、と書き添えるのも良いでしょう。

そして、それらの芸術作品という「もの」を作るのが、芸術家の見事な「手」なのだ、という基本的な事実を押さえているところも重要です。なぜなら、現代美術家や批評家は得てしてこのことを忘れがちだからです。彼らには、このアレントさんの文章を是非とも読んでいただきたいものです。

「この思考を本当にリアリティとし、思考から物を製作するのは仕事人の技能であり、それは、人間の手という原始的な道具によって、芸術作品以外の耐久性ある人間の工作物を作るのと同じものである。」

この文章は、何という重要な事実を語っていることでしょうか!

私たちはここで、私が少し前にこのblogで取り上げた『ポストアート論』のことを思い出してみるのも良いと思います。

 

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/6950d208bc2c250c957ce4f1da88f236

 

著者である美学者の室井尚(1955 - 2023)さんは、その『ポストアート論』の中で、芸術家が作品を制作することについて、次のような二つのメディア(媒体)として整理したのでした。

①メディアⅠ=出来事の一回性、表現主体との近さ、全身体的知覚。

②メディアⅡ=モノの唯一性、表現主体からの分離。視覚の特権性。

(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)

 この整理の中には、アレントさんのように芸術家の制作の営みを、「変形」と「変貌」という二つの概念によって見分ける緻密さはありません。それは芸術家の表現行為がたんに「表現主体からの分離」として語られているに過ぎないのです。そのような「モノ」となってしまった「芸術作品」は、視覚によって(特権的に)鑑賞されてしまうしかないのです。

そのことについて室井さんは次のように書いていました。 

だが、このメディアⅡにおいて、もっとも重要なのは、それが視覚の優位性において主体ー客体の二元論的構図を定着させ、すべてをその支配下に置くということではないだろうか。そこでの表現は主体から遠ざけられ、対象化されることによって、独立した領域を形づくることになる。そして、それはルネッサンスにおいて、均質な空間や時間の意識を生み出すことになるのだ。すなわち、そこでは自然が主体の全体的な身体感覚によるものではなく、外化され対象化された自然として(すなわち、メディアⅡとなった表現として)受容されるようになったのである。

(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)

今回ここまでアレントさんの文章を読み、アレントさんが「椅子」と「芸術作品」の違いについて触れ、芸術の中にだけ時間の「永続性」を見出したことを思い出すと、その芸術に対する理解度に差異を感じてしまいます。室井さんが定義した「メディアⅡ」の中に、そのような「永続性」は含まれているのだろうか、と訝しく思うのです。

確かに、芸術家の中にあった創造性(メディアⅠ)は、芸術作品(メディアⅡ)として物化されることによって、物質としてこの世界に存在することになります。室井さんに限らず、現代の美術評論家や美学者は、得てして芸術作品が物化することによって、芸術家の中にあった原初的な創造性が損なわれてしまったかのように解釈し、そのように語りがちです。

しかし、芸術作品の中で起こっていることは、そんなに単純なことでしょうか?

そのことに関する私の意見は以前にも書きましたが、ここではアレントさんの次の文章を読んで、考えていだきたいと思います。

 

私たちは、前に、思考を触知できる物にするのに欠くことのできないこの物化は、いつも代償を支払わされているといい、その代償とは生命そのものであると述べた。すなわち「生きた精神」が生き続けなければならないのは必ず「死んだ文字」の中においてである。そして「生きた精神」を死状態(デッドネス)から救い出すことができるのは、死んだ文字が、それを進んで甦らせようとする一つの生命とふたたび接触するときだけである。

(『人間の条件』「世界の永続性と芸術作品」ハンナ・アレント著 志水速雄訳)

 

芸術作品が物質である以上、それは他の「モノ」と同様に芸術家の創造の世界から離れて、いわば「死状態」にあるのですが、それが本物の芸術作品であれば、「一つの生命とふたたび接触するとき」に甦えるのです。アレントさんは、優れた文学作品を読んだ時に、文字が生き生きと甦えるように感じたのではないでしょうか。

この体験は、私がこれまでも何回も引用したことのあるフランスの現象学者、モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)さんの、次の文章を思い起こさせます。それは『眼と精神』という文章(講義)の中で、ある絵画作品を見たときの体験を綴ったものです。

 

セザンヌが描こうとしていた「世界の瞬間」、それはずっと以前に過ぎ去ったものではあるが、彼の画布(カンヴァス)はわれわれにこの瞬間を投げかけ続けている。そして彼のサント・ヴィクトワールの嶺は、世界のどこにでも現れ、繰り返し現れて来よう。エクスに聳える固い岩稜とは違ったふうに、だがそれに劣らず力強く。本質と実存・想像と実在・見えるものと見えないもの、絵画はそういったすべてのカテゴリーをかきまぜ、肉体をそなえた本質、作用因的類似性、無言の意味から成るその夢の世界を繰り拡げるのである。

(『眼と精神』モーリス・メルロ=ポンティ著 滝浦静雄・木田元訳)

 

後期印象派の画家、セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)さんが晩年に描いたサント・ヴィクトワール山の絵を見れば、誰にでもメルロ=ポンティさんの書いていることがどういうことなのか、すぐにわかるはずです。まるでセザンヌさんが目の前でその絵を仕上げた瞬間に出会ったような、あるいはセザンヌさんの目の中で立ち上がってくるサント・ヴィクトワール山を一緒に見ているような、そんな体験を彷彿とさせる文章です。

 

余談になりますが、私はセザンヌさんの故郷であるエクス=アン=プロヴァンスに行ったことがありませんし、サント・ヴィクトワール山を見たこともありません。しかし、実際に行ったことがある人の話を聞くと、それはかなりセザンヌさんが描いた姿に似ているそうです。私はメルロ=ポンティさんが「エクスに聳える固い岩稜とは違ったふうに」とわざわざ断っているので、本物の風景はさぞかし貧相なのだろうと思っていましたし、そういうふうに言う人もいます。その一方で、実際の風景を見るとセザンヌさんが何を描こうとしたのか、よくわかるよ、という人もいます。そして私もセザンヌさんの構図に近いところから撮影された写真を目にすると、お、絵の通りだな、と思うことがあります。私はたぶん、死ぬまで本物のサント・ヴィクトワール山を見ることはないと思いますが、こういう体験談を見たり聞いたりしながら、あれやこれやと想像すると、それだけでも楽しいものです。

 

話が逸れました。

このように、政治学者であるアレントさんや、哲学者であるメルロ=ポンティさんが、これほどまでに芸術作品と触れ合った時の感触をみごとに文章化しているのですから、美術評論家や美学者と言われる人たちは、もう少し頑張らなくてはなりません。もちろん、彼らに劣らない文章を書いている人たちもいますが、そういう文章と出会う確率は大谷翔平さんのメジャー・リーグでの打率ほどではないように感じます。

芸術作品、特に美術作品が物質であることは間違いないのですが、それはただの「モノ」を超える存在であることを忘れてはいけません。そして、その芸術作品との豊かな出会いを言語化するのが、評論家や学者の仕事であるはずです。今回、学問の領域の違いはあれ、アレントさんの文章からそのことを、再度確認することができました。

アレントさんは、この章の最後で、人間の営みの中で芸術が果たす役割について次のように書いています。

 

「大きい行為を行い、大きい言葉を語っ」たところで、それは、いかなる痕跡も残さず、活動の瞬間と語られた言葉が過ぎ去った後にも存続するような産物は一切残さない。<労働する動物>が労働を和らげ、苦痛を取り除くために<工作人>の助けを必要とし、また死すべき人間が地上に住み家を樹立するのにも<工作人>の助けを必要とするとすれば、活動し語る人びとは、最高の能力をもつ<工作人>の助力、すなわち、芸術家、詩人、歴史編纂者、記念碑建設者、作家の助力を必要とする。なぜならそれらの助力なしには、彼らの活動力の産物、彼らが演じ、語る物語は、けっして生き残らないからである。世界が常にそうあるべきものであるためには、つまり人びとが地上で生きている間その住み家であるためには、人間の工作物は、活動と言論にふさわしい場所でなければならない。そして、この活動と言論というのは、生命の必要にとってまったく無用であるばかりか、世界と世界の中のすべての物が生産される製作の多様な活動力ともまったく異なる性格をもつ活動力なのである。私たちはここで、プラトンとプロタゴラスのどちらかを選択する必要もないし、万物の尺度が人間であるのか神であるのかを決定する必要もない。確かなことは、その尺度は、生物学的生命力と労働の強制的な必然でもありえないし、製作と使用の功利主義的な手段主義でもありえないということである。

(『人間の条件』「世界の永続性と芸術作品」ハンナ・アレント著 志水速雄訳)

 

人間が人間であるための条件について考察したこの『人間の条件』という大著を私が読みこなせていないことは冒頭に断った通りですが、しかし芸術を制作するという営みが「人間の条件」にとって欠かせないものである、ということは確かなようです。そしてアレントさんが芸術作品と人との出会いについて生き生きと描写したこと、人間の「手」仕事の尊さについて気づいていたこと、などをしっかりと憶えておくことにしましょう。

それにしても「人びとが地上で生きている間その住み家であるためには、人間の工作物は、活動と言論にふさわしい場所でなければならない」という難解な一節が気になりますね。現在の世界に、「人びとが地上で生きている間その住み家である」にふさわしい場所があるのでしょうか?芸術作品がその「ふさわしい場所」になり得るとするなら、そのような作品に触れられる場所が、ちゃんと備えられていると言えるでしょうか?

私は一生懸命、そういう場所をここで紹介し、あるいはそういう場所を確保することに、少しでも貢献したいと願っているのですが・・・。

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