平らな深み、緩やかな時間

289.高山登 死去、『ディアスポラ紀行』徐京植から

現代美術家の高山登(1944 - 2023)さんが亡くなりました。次の朝日新聞の記事をお読みください。

 

『現代美術家・高山登さん死去 78歳 枕木をつかった「もの派」』

2023年1月10日 19時00分

1960年代末から70年代前半を中心とした美術動向「もの派」の一人とされる現代美術家の高山登(たかやま・のぼる)さんが8日、肺がんのため仙台市の病院で死去した。78歳だった。

「もの派」は、物質性やモノとモノとの関係に着目した潮流で、高山さんは主に近代の象徴でもある枕木を使った。大規模な空間的造形は、コールタールの臭いも持ち味に。宮城教育大、東京芸術大の教授を務めたこともあり、宮城県美術館や東京芸術大大学美術館で個展を開いた。

(朝日新聞 デジタル』編集委員・大西若人)

https://www.asahi.com/articles/ASR1B64C4R1BULZU00Z.html

 

もしも、あまり高山さんの作品をご覧になっていなかったら、例えば次のリンクをご覧ください。

http://www.art-index.net/art_exhibitions/2010/01/300.html

 

皆さんは高山登さんの作品を知っていますか?私ぐらいの年齢の方で現代美術に興味がある方なら知らない人はいないと思いますが、若い方で最近、現代美術に興味をもった方はご存知ないかもしれません。マスコミに積極的にアプローチして、自分を宣伝するようなことをしなかった方だと思いますので、美術に興味がないと、一般的には知られていない作家かもしれません。

しかし、高山さんの業績と作品のレベルを考えると、この訃報記事にしても、ジャーナリズムの取り上げ方があまりにもささやかです。78歳というご高齢ではありましたが、高山さんが亡くなったことで、またひとつ日本の美術は大切な人を失ったのだと思います。つい最近も、私は国立新美術館の李禹煥さんの展覧会、東京国立近代美術館の大竹伸朗さんの展覧会をこのblogでご紹介しましたが、同じように高山登さんの展覧会が大規模な展示として企画されてしかるべきだと思います。亡くなったあとになってしまいましたが、美術館関係者の方はぜひ開催にご尽力ください。

 

そして、ここでタイミングよく、高山登という作家について、あるいは作品について、私も何か書けるとよいのですが、まったくその準備をしていません。高山さんについて書くのならば、しっかりとした資料を閲覧したり、実物の作品が見られたりする状況で書きたいと思っていますが、おそらく、これから美術ジャーナリズムが大々的に高山さんの業績に関する記事を掲載することでしょう。

そこで今回は、一般的な美術評論とはちがった観点から、高山さんについて書かれた本を紹介しておきたいと思います。それは徐京植(ソ・キョンシク、1951 - )という作家、文学者が書いた『ディアスポラ紀行』(岩波新書)という著作です。まずは本の説明を書店の案内から読んでみましょう。

 

生まれ育った土地から追い立てられ、離散を余儀なくされた人々とその末裔たち、ディアスポラ。自らもその一人である在日朝鮮人の著者が、韓国やヨーロッパへの旅の中で出会った出来事や芸術作品に、暴力と離散の痕跡を読み取ってゆく。ディアスポラを生み出した20世紀とは何であったのかを深く思索する紀行エッセイ。

(『ディアスポラ紀行』書店紹介文より)

 

本のタイトルになっている「ディアスポラ」ですが、どういう意味なのでしょうか。インターネットの辞書検索で見てみましょう。

 

ディアスポラ(Diaspora)

〈離散〉を意味するギリシア語。バビロン捕囚後にユダヤ人が異邦人の土地へと離散したという聖書の記述に由来し、本来はイスラエルから他のさまざまな場所へと移り住んだユダヤ人とその子孫の共同体をさす。しかし〈元は同じ場所に住み一つの文化を形成していたがその後は各地へ移住した状態にある〉という意味で、ユダヤ人に限らず使われる。

(日本大百科全書(マイペディア)より 「ディアスポラ」の解説から抜粋)

 

このように、本来の場所から離れて生きる人たちのことを「ディアスポラ」というのです。この本では著者自身もそうである、在日朝鮮人のことが多く書かれています。また、第二次大戦中に迫害され、収容されたユダヤ人のことも重要なこととして書かれています。徐さんによれば、高山登さんも「ディアスポラ」にあたります。徐さんは2000年の光州ビエンナーレを訪れて、次に近くの美術館で「在日の人権」展を見に行った時に、高山さんの作品とはじめて出会ったのですが、その時のことを次のように書いています。

 

光州ビエンナーレの本会場を出ると、隣接する光州市立美術館では、「在日の人権」展が開かれていた。1945年以降の在日朝鮮人美術家の作品を韓国で初めて集中的に展覧する試みである。

その展覧会を見るため、石造りの長い階段を登って市立美術館の正面玄関に近づいていくと、広い前庭にたくさんの枕木を組み上げた大型の立体作品があった。結構が大きく、力感に富んでいる。作家名のパネルを見ると、「高山登」とあった。

つねづね、日本の現代アートにはパワーやエネルギーがひどく欠けていると感じ、そのことを不満にも思ってきた私だが、この作品からまったく異なる印象を受けた。結構が大きく、力強い。どこか懐かしくもある。反時代的と言ってもいい。

高山登は1960年代半ばから現在までおよそ四十年間、一貫して「枕木」を使った作品を制作し続けてきた。二十歳の夏、芸大生だった彼は、炭鉱労働組合の紹介状を手に北海道の炭鉱をめぐる旅に出た。以下、彼のエッセーから引用する(「高山登展」図録、リアスアーク美術館、2000年刊)。

 

ヘッドライトが照らし出す炭鉱夫の真っ黒な顔。巨大なマシンが鉱脈に噛み付くがごとく石炭を食し、さらに坑道の柱をつくってゆく、大手の海底炭鉱。(中略)そして運搬用の鉄道線路の下にひかれていた、「枕木」に視線はいった。この枕木は地下の世界から地上の世界にまで縦横にはりめぐらされているとのことに。この暗黒の世界、どす黒い枕木は、私を覚醒させるのに十分であった。近代化とは、国家とは、物質と人間の関係とは、アジアとは、民族とは、戦争とは、頭の中には、次々とかってに言葉が飛びまわり、私の血が騒ぎだしたのである。

 

光州市立美術館の前庭で高山登の作品に初めて出会ったとき、私はその名前からだけ速断して、彼を日本人作家だと思っていた。現代の日本にまだこんな作家が生き残っていたのだ、と感心した。彼が私と同じ朝鮮民族の系譜を継ぐものであるとは、夢にも思わなかったのだ。後になって分かったことだが、高山登の父は植民地朝鮮から日本に渡ってきた冶金技術者であったという。そのことは作家自身が自らの言葉で語っている(前掲図録所収「高山登が語る」)。

「枕木」という素材への独特のこだわりや「強制連行・強制労働」を連想させるその作風と、彼の民族的出自とを短絡的に結びつけることには問題があろう。だが、アートが人間のなす行為である以上、作品は作家の出自と無縁であると片付けるわけにもいかない。

私から見れば、高山登もまたコリアン・ディアスポラの一人である。しかし、彼の作品は、光州市立美術館で開催中だった「在日の人権」展の内部にではなく、その外部に展示されていた。それが、ひどく象徴的な情景であるように、私には思える。高山登は、日本美術史上に「もの派」の一人として位置づけられており、また、韓国からも「日本の作家」として扱われている。美術史や美術批評の言説もまた、「民族」や「国家」という観念上の枠組みを造ることに大いに手を貸しているのだ。そして、単純化されたそれらの枠組みに収まりにくい存在は、当人の意向とは無関係に無理やり定義づけられるか、あるいは切り捨てられるのである。

(『ディアスポラ紀行』「Ⅱ 暴力の記憶」徐京植)

 

少し長い引用ですが、これがこの本の中で高山さんについて書かれた部分の全文です。このような示唆に満ちた、そして引き締まった文章の本が、今は品切れで購入できないようです。なんということでしょう、とても残念です。

高山さんの作品を私がはじめて見たのは美大生の頃ですので、もう遥か昔のことになってしまいました。そして、その感動も忘れつつあります。というのも、つねに高山さんの作品は力強く、迫力に満ちているので、それがあたりまえになってしまっているのです。でも、はじめて見た時には、やはりここに書かれているように、その「結構の大きさ」に度肝を抜かれたはずです。そして高山さんの枕木の作品を見ると、私たちは視覚と嗅覚と、その両方からの刺激を受けて、その作品の世界に引きずり込まれてしまうのです。

実はそれが、北海道の炭鉱という地底の世界、文字通り世界の底辺から繋がっていた表現だということを、徐さんの文章は教えてくれます。高山さんの枕木は、「もの」でありながらただの「物質」ではないような質感があります。『地下動物園』という作品を見ると、それは地下世界の入り口の檻の一部なのか、それとも枕木自体が化石化した人柱のような生き物の痕跡なのか、いずれにしろ切り出された大きな角材という以上の、何か有機的な息吹を感じさせます。それが徐さんに「強制連行・強制労働」という、人間の暴力的な行為を連想させたのでしょう。

高山さんの「もの」との接し方は、大方の「もの派」の作家とは違っています。もっと剥き出しの自分が「もの」と出会ったような、例えば太古の人が畏怖を持って「もの」と接した時のような、そんな感じに近いのだと思います。しかし美術史や美術批評においては、そういう際立った個性は語りにくいものです。時代の流れを文脈的に捉える時に、整理がつかなくなってしまうからです。徐さんはそんな高山さんのことを「単純化されたそれらの枠組みに収まりにくい存在」と言ったのです。現代美術を専門に語る評論家よりも、的確な表現だと思います。

このような徐さんの見方は、美術を社会的な側面で見すぎているのでしょうか?徐さん自身も「彼の民族的出自とを短絡的に結びつけることには問題があろう」と自覚しています。しかし芸術家は、理屈ではなくて皮膚感覚で社会的な問題をヒリヒリと感じてしまうものです。現代の日本において、それほどの差別はないよ、と思っている方がいらっしゃるかもしれません。そういう方は、少し前に亡くなった元東京都知事の石原 慎太郎(1932 - 2022)さんの「三国人」発言を思い出してください。

 

石原は二〇〇〇年四月に陸上自衛隊練馬駐屯地で開催された「創隊記念式典」で、「三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返して」おり、自衛隊に「治安の維持も大きな目的の一つとして遂行していただきたい」と述べた。「三国人」という言葉は、敗戦直後の時期に、日本に住む朝鮮人や台湾人などを指す用語として流通したが、その中には侮蔑的な意識が込められていた。

(『東京新聞』2022年3月1日 中島岳志さんの解説より抜粋)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/162070

 

この発言について、徐さんは『在日朝鮮人ってどんなひと?』という中学生向けの本の中で次のように書いています。

 

この発言は「三国人」という言葉が差別的だという理由で、マスコミで問題になりました。「三国人」というのは、日本の敗戦直後に使われた、朝鮮人、台湾人を指す非常に差別的な言葉です。東京都知事というとても高い地位の公務員がその言葉を使ったというので批判を受けましたが、知事は謝罪や撤回はしませんでした。  

けれども、実は「三国人」という言葉だけが問題なのではありません。石原都知事の発言はもっと大きな問題を含んでいます。  

まず確かめておかなくてはならないことは、過去の災害のときに、外国人が大規模に日本の一般住民に害を与えた事実はない、ということです。むしろ、先に述べたとおり、在日朝鮮人が日本人によって虐殺されたのです。大災害が起こったら身の危険があると不安を感じるべきは日本人ではなく外国人の側なのであり、石原知事の話は逆なのです。

(『在日朝鮮人ってどんなひと?』徐京植)

 

徐さんが何を言っているのかと言えば、例えば1932年の関東大震災の時に「朝鮮人が放火している」「井戸に毒を入れている」というデマが流れて、6000人以上と言われる朝鮮人、200人以上の中国人が虐殺されたのです。そして徐さんは2011年の東日本大震災の時に、外国人による窃盗やレイプ、朝鮮人による暴動などのデマが出回っている、という新聞記事を読み、在日の人たちのことが心配になったのだそうです。そんな根拠のないデマで外国人を差別したのはずっと昔のことだ、とは言えない現実があります。私たちが他人事として見過ごしてしまうような発言や新聞記事から、いまも肌で恐怖を感じる人たちが確実にいるのです。

こういうことに対して、理屈でその不当さを理解することも大切ですし、時にはその学びを芸術表現として発表することも必要なことでしょう。しかし、こういう恐怖を肌で感じる感性を持っている人の表現は、それらとはまた違っているのではないか、という気がします。高山さんの枕木は、具体的にそんな理屈を語りませんが、高山さんが感じていた現実との違和感、炭鉱で働く人たちとの親和性などは、徐さんが示唆しているように、もしかしたら高山さんの芸術家としての敏感な皮膚感覚が土台になっているのかもしれません。

 

さて、ここまで『ディアスポラ紀行』を読みながら、逝去された高山さんに関する記述について考察してきました。もしかしたら、私は徐さんの作品の見方に寄り添いすぎたのかもしれません。しかし繰り返しになりますが、徐さんは「彼の民族的出自とを短絡的に結びつけることには問題があろう」と書きつつ、また「単純化されたそれらの枠組みに収まりにくい存在」とも書く、冷静さを兼ね備えた文学者です。徐さんの言葉を踏まえつつ、この後、いろいろと書かれるであろう美術ジャーナリズムの高山さんの追悼記事にも注目してみたいと思います。そしてこれも繰り返しになりますが、高山さんの表現活動を実際の作品で確認できるような展覧会が数多く実施されることを願っています。

 

ところで、この『ディアスポラ紀行』には、李禹煥さんの名前も出てきます。それは文承根さんという作家との関わりについてですが、ちょっと紹介しておきます。

文さんは在日の作家ですが、1970年頃、藤野登という日本名で作家活動をしていたのです。そんなある日、雨でびしょ濡れになりながら、李さんのところへ韓国二世である自分の苦悩を相談に来たのだそうです。その時に李さんは「自分の名前一つ名乗れない者に、本物の作品など作れると思わない」という、過酷な言葉を投げつけます。李さんは自分の胸が張り裂けそうになりながらも、なぜかそのように厳しい態度を取ったのです。結局、文さんはその後、本名で活動し、二世の作家として活躍します。李さんの叱咤が功を奏した、ということになります。

しかし、徐さんはその美談に疑問を投げかけます。韓国の読書人の家系に育ち、在日の叔父を頼って日大の哲学科で学び、やがて「もの派」の代表的な作家となって世界的に活躍し、韓国美術界でもビッグネームとなった李さんに、本当に文さんの心情がわかったのだろうか、という疑問です。

 

李禹煥は朝鮮語を母語とし、「朝鮮文化」の素養も豊かな一世である。日本生まれで日本語を母語とし、「朝鮮文化」についての基礎的素養すらないばかりか、望みもしないままに「日本文化」を身に染みこませてしまったのが私や文承根のような在日朝鮮人二世である。

文承根の苦悩が日本社会によって強いられた故なき劣等感によるものであることは間違いないが、芸術家としての苦悩は、その水位にとどまるものではなかったであろう。それは「文化」を奪われたものが、奪われたというその地点から文化創造にたずさわるということにともなう、さらに深い苦悩だったのではないか。李禹煥はこのことを洞察していただろうか。

(『ディアスポラ紀行』「Ⅱ 暴力の記憶」徐京植)

 

こういう深い問いになると、私にはとても理解できません。簡単に「理解できる」と言ってはいけない問いだと思うのです。その一方で、だからといって、こういう問いがあることに、知らんぷりをしてはいけない、と思うのです。理解できない、ということも含めて抱え込まなくてはならない問題が、この世界には数多くあります。その割り切れない立場を共有することが、今の世界には必要なのではないか、と思います。

ちょっと話が逸れすぎました。高山さんについて、いつかちゃんとした文章を書いてみたいと思います。

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