はじめに広報を少し。
3月23日から28日まで、京橋のギャラリー檜で個展を開催しました。コロナウィルスの影響で展覧会の期間中にオリンピックの延期が決まり、そのすぐあとに東京都の小池知事が週末の外出自粛を要請しました。
そのなかで人混みを避けながら見に来てくださった方、外出を控えられた方、画廊に来られない旨をあらかじめ連絡いただいた方、さまざまな方々がいらっしゃいましたが、皆さんがそれぞれの体調や立場、年齢、環境を考えた行動をとられたことを尊重し、また感謝している次第です。そして残念ながら展覧会をご覧になれなかった方から、作品写真をネット上で見られるようにしてはどうか、というご助言をいただきました。そこで不慣れではありますが、手作りのホームページを整備して今回と前回の個展の作品写真をアップし、それまで公開していたテキスト類も整備して、年代順に読むことができるようにしました。ということで、よかったら次のアドレスからご覧いただき、ご意見等いただければ幸いです。
(http://ishimura.html.xdomain.jp/)
それから、同時期にギャラリー檜の別室で個展を開催していた間々田佳さんのホームページもご紹介しておきます。若く、真摯な彫刻家であることが、ホームページをご覧になれば、すぐにわかることと思います。
(https://kei-mamada.jimdofree.com/)
さて、そんなことから画廊にいても空白の時間が結構あって、おかげで以前から読みたいと思っていた『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』という本を読み進めることができました。
その内容に入る前に、基礎的なことについて押さえておきましょう。「アルテ・ポーヴェラ(Arte Povera)」は1960年代後半に活動したイタリアの作家たちによる美術運動の名称です。日本語に訳すと「貧しい芸術」という意味になるそうです。著者の池野絢子(いけの あやこ,1981 - )は『ジョルジョ・モランディの手紙』の翻訳者の一人であり、いまは京都造形芸術大学で教鞭をとられているとのことです。(ちなみに、京都造形芸術大学は京都芸術大学と名前を変えたみたいですね。)
それでは本題に入りましょう。この『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』ですが、タイトルの通り、まじめで読み応えのある本です。そしてアルテ・ポーヴェラに限らず、美術運動というものはそもそも明確に捉えがたいもので、それを正確に記述することはたいへんに難しいことです。中には読み物として面白く紹介しようとするあまり、運動のシンボルとなるような中心人物や事件に焦点を当てたうえで、それを過大に評価してみたり、誇張してみたり、という本があります。しかしこの本はそのようなものではなくて、とらえどころのない美術運動をそのまま、ていねいに掬い取ろうとした本です。例えば「アルテ・ポーヴェラ」という言葉を最初に用いて、1967年から1971年にかけて一群の芸術家を組織したのは批評家のジェルマーノ・チェラント(Germano Celant,1940 - )という人ですが、この人物がこの本の主人公格なのかというと、そういうわけではありません。実際の運動においては、当然のことながら彼の言うとおりに物事が進んだり、進まなかったりするのですが、それがそのまま記述されています。そして最終的にはアルテ・ポーヴェラは解体していくのですが、そこには芸術家の制作実践と批評家の論理との齟齬、という問題がもちろんあるのですが、それ以外にもイタリアという国の政治状況、時代の趨勢、この運動が受け入れられていった土壌などが複雑にからまっています。それらを考察した結果が「戦後イタリアにおける芸術・生・政治」という副題となって表れているのです。ですから読み進めていってもどこかすっきりとしない、割り切れなさとわかりにくさが残ります。それは著者の説明が不明確なのではなくて、それこそが「アルテ・ポーヴェラ」という美術運動の客観的な姿なのです。
それでは先に少し触れましたが、「アルテ・ポーヴェラ」という美術運動は、いったいどのようにして始まったのでしょうか。
「貧しい芸術(アルテ・ポーヴェラ)」という呼び名が初めて世に現れるのは、1967年9月にジェノヴァのラ・ベルテスカ画廊で開かれた「アルテ・ポーヴェラ/イメージ―空間(Arte povera - Im-Spazio)」展においてのことであった。
(『アルテ・ポーヴェラ』「第一章 否定の力」池野絢子著)
意外なことに、「アルテ・ポーヴェラ」という呼称は、「イメージ-空間」という呼称で組織された作家の一群と対になって使われていたのです。このとき企画したのがチェラントですが、彼は「弱冠27歳の駆け出しの批評家」だったのです。それでは、その展覧会カタログに掲載されたマニフェストを見てみましょう。
映画、演劇、視覚芸術は反虚構的なものとして措定され、ただ現実と現在を記録しようとする。純粋な現前によってあらゆる概念的なスカラ学を打ち砕こうとする。あらゆる修辞的複雑さ、あらゆる意味論的確信を意図的に断念し、もはや現実の曖昧さではなくて、ただその一義性を証明し、記録しようとする。反省、模倣的表象、言語的慣習に見えるようなものすべてを取り除き、それらはある一つの芸術に到達する。グロトフスキーの演劇論の用語に関係づけて、それを「貧しい(ポーヴェラ)」と呼びたい。
(『アルテ・ポーヴェラ』「第一章 否定の力」池野絢子著)
ちなみにグロトフスキー(Jerzy Marian Grotowski, 1933 - 1999)はポーランドの演出家で、簡素な舞台で訓練された俳優の肉体を重視する「貧しい演劇」を提唱した人だそうです。しかしそれはそれとして、私はこのわかりにくい文章を読みながら、「貧しい」という言葉にはいろいろな意味が含まれているなぁ、ということに気がつきました。ここでチェラントが使っている「貧しい」という言葉は、言葉の意味の「一義性」ということを指し示しています。どういうことかといえば、例えばアルテ・ポーヴェラの代表的な作家、ヤニス・クネリス(Jannis Kounellis、1936 - 2017)の『火のマーガレット』(1967)という有名な作品があります。これはスチール製の巨大な花型の中心から炎が噴出している、というものですが、チェラント流に解釈すれば、この作品は「火」という簡素な素材を用いることで、「単なる炎」という「客観的な存在に焦点」を当てている、ということになります。もう少しわかりやすく言うと、『火のマーガレット』はどこからどう見ても「火」でしかないので、その作品を見るときに私たちは「火」という存在とまっすぐに向き合うしかない、ということなのです。これがなぜ「貧しい」のかといえば、例えば美しい花や女性が描かれているような絵と違って、そこにはほかの意味がなにもない・・・、この花は何の寓意だろう、とか、この女性は誰だろう、などというような解釈の余地が何もない・・・、つまり作品の背後に「豊かな」意味や解釈を含む余地のない作品だというのです。作品の指し示すものが簡素で疑いようがない、という意味で「貧しい」という言葉を使っているのです。これは同じクネリスの『馬』(1969)という作品にも当てはまります。この『馬』は、ローマのアッティコ画廊の特設会場(地下ガレージ)で生きた馬11頭を並べた作品です。アルテ・ポーヴェラの作品例として頻繁にその写真が使われていますので、皆さんもご覧になったことがあると思います。これも「馬」は「馬」であって、それ以外の何物でもありません。写真で見るとかっこいい作品だなぁ、と思いますが、実際には糞をたれたりオシッコをしたり、「馬のもつ生命感と不潔感の間の対照という不協和音に示された実在感」のある作品だった、ということですから、その存在感は圧倒的なものだったでしょう。この馬は何かのシンボルなのか、などと考える余裕がないほどに生きた馬がその匂いとともに目前に迫ってくる、ということなのだと思います。それをチェラントは「一義性」と言ったのです。
ところで、ここまで読んできて、あれっと思った方もおられるのではないでしょうか。「アルテ・ポーヴェラ」の「貧しい」という意味は、素材の貧しさ、例えば木や石炭や古着や金属片などの華美ではないもの、あるいは絵具やブロンズなどのいわゆる画材ではないものをむき出しのまま使っていること、という意味で「貧しい」のではないか、と考える人も多いのではないかと思います。むしろ、そちらの解釈の方が一般的でしょうか。また、さらに解釈を進めて「貧しさ」=「清貧」というイメージから、アルテ・ポーヴェラの素材や制作過程を重んじる作品の様態が、一般的な絵画や彫刻のような所有物として「消費」されることを拒んでいる、という倫理的な意味を見て取った批評家もいます。つまり、お金持ちが高額で取り引きするような作品ではない、ということです。これはイタリアというお国がら、キリスト教の中世の聖人、アッシジのフランチェスコの清貧の思想などからも連想されたもののようです。このように素材の貧しさ、あるいは商品とはならないストイックさ、という解釈の方が、「一義性」という意味よりはチェラント自身が例示したグロトフスキーの演劇論の用語に近いのではないか、という気がします。
このように「貧しい」という言葉には、さまざまな解釈が入り込む余地があるのですが、実際に「アルテ・ポーヴェラ」運動のさなかに「貧しい」という言葉の解釈に関する論争が行われました。それは1968年にボローニャのデ・フォケラリ画廊で開催されたチェラントの企画による二回目のアルテ・ポーヴェラ展のときのことです。その展覧会をきっかけとして、デ・フォケラリ画廊の画廊報の誌上討論会としてチェラントのほか、美術史家や批評家、画家など当時の著名な知識人たちが13名も集まった討論会が実施されたのです。これはちょっと、日本の現代美術の状況では考えにくいケースですね。
ちなみに、このときの展覧会に出品されたのが、アリギエロ・エ・ボエッティの、湾曲したアルミニウムの薄板が重ねられ、その両端が石で押さえられた作品とか、ルチアーノ・ファブロの、壁に固定されたステンレスの棒の先に円が載せられ、その重みで全体がやや下方に垂れている作品などです。写真で見るかぎり、これらの作品は素材の様態、存在感をうまく生かした良質の作品のように見えます。それらが「貧しい」かどうかはともかくとして、純粋に素材と向き合おうとする作家の気持ちが読み取れますので、そのことを記憶にとどめておきましょう。
さて、このときの論争は多岐にわたるものだったようですが、その中でマルクス主義の批評家たちはアルテ・ポーヴェラを「芸術と生の一致」の契機として捉え、その運動をイデオロギー的な、革命的な行為として考察していきます。つまり、先ほどの「清貧」の考え方と関連するのですが、作品の商品価値を否定し、その考え方を徹底するためには作品を「もの」から離脱させ、作家の行為そのものへと還元していかなければならない、というふうになるのです。次の説明を読んでみてください。
ここで注意しておきたいのは、芸術における貧しさの探求が「清貧化」として定義され、それが身体の優位とパラレルに置かれていることである。ボニート・オリーヴァの言説にあって、アルテ・ポーヴェラの作品における「身振り」や「行為」の優位は、完全な意味上の変質を来している。つまりそこでは、行為=作用とは、作品自体のダイナミズムを担保するものではなく、むしろ商品へ転落する可能性のある作品の物質性を徐々に捨て去り、ついにそれを芸術から完全に排除するという政治的要請に突き詰められているのだ。オブジェとしての芸術作品は、創造された「もの」である限り、商品として資本主義のシステムのなかに組み込まれてしまう。したがって、その葛藤から逃れる術として芸術家たちが試みているのが、オブジェを捨て去り、行動へ向かうことなのだ、というわけである。
(『アルテ・ポーヴェラ』「第三章 実践のパラダイム」池野絢子著)
私は日ごろから商業主義によって芸術が汚染されていくことに危惧を覚える者ですが、さすがにこれは本末転倒のような気がします。先ほどの真摯に素材と向き合ってきた作家たちが、そのことさえ「清貧」のイデオロギーのために否定され、排除されなければならないとしたら、それは何のための創作行為なのか?と疑問に思ってしまいます。このとき「アルテ・ポーヴェラ」の「貧しい」とは、その作品の「一義性」という意味だと言っていたチェラントは、いったいどのように反応したのでしょうか。あろうことかチェラントは、この「清貧」のイデオロギーをさらに強調し、「アツィオーネ・ポーヴェラ(貧しい行動)」ということを提唱し始めたのです。「美的対象を生み出すことのできる方法を提唱することは、もはや問題ではない。身体と意識とを介して実現された新しい知覚の拡大に至る行動。問題なのは、そうした行動を介して公衆の感性に働きかけ、あるいは刺激することである。」というのです。つまり、このときのチェラントは「アルテ・ポーヴェラ」から「アツィオーネ・ポーヴェラ」へ、「芸術」という言葉が消えて「行動」という言葉へと移行せよ、というのが彼の主張だったようです。このとき「アルテ・ポーヴェラ」運動はどうなっていったのか、次の文章を読んでみてください。
システムに抗しようとする意識と、その態度を「貧しさ」と呼ぶことにおいて一貫しつつも、チェラントは、対象(オブジェ)から行動へと重点を移す。ここで言われる「行動(アツィオーネ)」とは、パフォーマティヴな芸術のありかたのみを指すのではない。それは、それによって公衆の感性を刺激し、生の知識を拡張させる行為であり、さらには学生、労働者、知識人といった異なる階級間の浸透を起こさせるという、ボンリフォーリが主張したような文化的かつ政治的行動でもあるのだ。
この論考でチェラントは、「ゲリラ戦のためのノート」における、あくまでレトリックとしての貧しさと豊かさの対立や、革命的身振りから一歩進んで、明白に芸術を通じて現実の世界を変革することを提唱している。もちろん、バリッリ、ファジョーロ・デッラルコ、あるいはアルカンジェリやグットゥーゾら、彼の批評に反対する、あるいはまったく別の立場を取る者も少なからず存在したことに留意すべきである。アルカンジェリを除き、彼らは主として、アルテ・ポーヴェラの諸作品の具体的特徴が、チェラントの議論に合致しない点を批判したのであった。だが、チェラントによる第一のマニフェストからこの討論会に至るまでの過程は、少なくともこの運動が、その誕生からしてある種のイデオロギーを内包せざるを得なかったこと、そしてその結果、徐々に現実の芸術作品の性格からは議論が離れていったことを端的に示している。当初作品の自己言及性の意味であったはずの「貧しさ」は、「貧しい行動」にあって、ほとんどそうした含意を持たない。この討論において、芸術家の行為や身振りは、芸術行為であると同時に、行動し世界に働きかけるためのある種の政治行為として認識されており、そしてそうした行動こそが一部の批評家たちによって強く要請されたのである。
(『アルテ・ポーヴェラ』「第三章 実践のパラダイム」池野絢子著)
このような政治的な傾向の激化によって、アルテ・ポーヴェラは「グループとしての自己矛盾を露呈することになる」のですが、この傾向の背景には、当時のイタリアの芸術界の状況があったようです。それは例えば、1964年のヴェネツィア・ビエンナーレにおいて、ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg, 1925 – 2008)が大賞を受賞したということとも関りがありました。ラウシェンバーグは私たちから見ればすでに巨匠ですし、ポップ・アートに分類されるとはいえ、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928 - 1987)やリキテンスタイン(Roy Lichtenstein, 1923 - 1997)に比べればオーソドックスな芸術家のように思えます。どちらかと言えばジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns, 1930 - )とともにネオダダの作家というイメージがありますが、この頃のイタリアではヴェネツィア・ビエンナーレが資本主義と結びついていると見る向きがあり、アメリカのポップ・アートの作家が大賞を受賞したことがその考え方に拍車をかけたようなのです。芸術の商業化に反対する政治的な傾向は、芸術と生との純粋な同一を求め、それを目的化する方向へと進んでいったのです。「アルテ・ポーヴェラ」運動は、まさにその時代に起こった芸術運動であったわけです。
その後、チェラントは『アルテ・ポーヴェラ+アツィオーニ・ポーヴェニ』展を企画し、芸術の行動化を模索します。しかし、それは一定の成果を上げたものの、「芸術家と批評家たちとのあいだにも実質的な亀裂が生まれていた」という結果ともなります。さらにその「亀裂」は、次のような皮肉な結果を生んでしまいます。
ここにおいて重要なのは、チェラントが「貧しい芸術」にかわって「貧しい行動」を提唱したことが、逆説的にもアルテ・ポーヴェラに「オブジェ」の烙印を押すことになってしまったという事実である。かつて「ゲリラ戦のためのノート」において、アルテ・ポーヴェラとは、豊かな社会と豊かな芸術に抗する「態度」として、きわめて緩やかな規定に支えられていたはずであった。批評家のパラッツォーリが提起したのもまた、「事実」それ自体としての作用=行為であったことを思い出しておこう。ところが、ここに至ってアルテ・ポーヴェラは、たとえそれがプロセスや概念に支えられていようと、いまだ「もの」の段階に留まっているとの宣告を、はからずも下されてしまったわけである。このように、アマルフィの展覧会にみたアルテ・ポーヴェラ内部の分裂は、理論と実践のそれであったと同時に、「もの」と「行動」との決定的な乖離でもあったのだ。
(『アルテ・ポーヴェラ』「第三章 実践のパラダイム」池野絢子著)
ちょっと悲しい結末ですね。しかし、永遠に続く芸術運動はありません。それにここまで読んでみると、「アルテ・ポーヴェラ」運動が決して過去のものではなく、いまだに考えなくてはならないさまざまな要素を含んでいることが分かります。「理論」と「実践」、「もの」と「行動」、「清貧主義」と「商業主義」、というふうに並べてみると、解決を見出すのが難しい問題ばかりです。
さらに言えば、私がここで取り上げた問題は、この本の一部をなすにすぎません。
例えば「第四章 前衛以後の古典主義」では、アルテ・ポーヴェラの作家と古典美術との関係について書かれています。クネリスとジュリオ・パオリーニが古代彫刻の模造である石膏像をしばしば作品化することについて取り上げられていますが、二人ともそのアプローチは異なるものの、やはり西欧の古典が身近にあるイタリアという風土が背景にあることを感じます。そして、その先駆者としてデ・キリコ(Giorgio de Chirico, 1888 - 1978)が取り上げられていることも興味深いことです。デ・キリコは形而上絵画から古典主義へと回帰しますが、私はその古典的な絵画にも形而上絵画と同様にイタリア的な風土を感じます。
それから「第五章 更新されるアルテ・ポーヴェラ」では、この本の最後にアルテ・ポーヴェラ運動の中でも若手に位置するジュゼッペ・ペノーネ(Giuseppe Penone,1947 - )の活動について書かれています。私はペノーネの作品をさほど見た経験があるわけではありませんが、木という素材に対して独特の感性を持つ作家だと感じています。しかしここでは、ペノーネを「過去から現在、そして未来へと至る時間の流れ」を表現する作家として論じられています。その作品について具体的に論じている部分について詳しく触れませんが、生き物としての木の成長と無機物である石や金属との対比が面白く、そこに時間性が含まれているという解釈に興味が尽きません。その結論の部分を引用しておきましょう。
アルテ・ポーヴェラが1980年代以降、「結び目の芸術」として、また「インスタレーション・アート」として再解釈され、新たに再構築されていくのと並行して、かつて「貧しい芸術家」と呼ばれた芸術家たち自身も、過去と現在、あるいは未来とのあいだに対話を打ち立てるような作品を制作し続けている。ペノーネの《流形彫刻の庭園》は、60年代のアルテ・ポーヴェラの作品の多くが、制作行為の一回性に結びついた一時的な生を有したのとは異なって、むしろ未来の時間をも内包する、持続的な作品として企図されている。そして、そこではむしろ、芸術作品によって風景を再創造すること、すなわち、こう言ってよければ、場の生を更新することが目指されている。
(『アルテ・ポーヴェラ』「第五章 更新されるアルテ・ポーヴェラ」池野絢子著)
さて、このように美術運動としての「アルテ・ポーヴェラ」は1960年代の終わりから1970年代のはじめにかけて終息し、その後は個々の作家の活躍と、回顧的な展覧会が開かれてきたに過ぎません。しかし、その回顧的な展覧会においても、アルテ・ポーヴェラの作品がインスタレーション的な傾向を持つだけに、展覧会の場に新たな発見をもたらします。古い建築物の中に置かれた作品の写真を見てみると、その場に行ってみたい誘惑にかられますし、作品とその設置空間について新たな問題の提起を感じます。
そして考えてみると、いまの私たちにとっては、例えば日本において「アルテ・ポーヴェラ」の回顧展が企画されたとしても、それはかつての「アルテ・ポーヴェラ」とは別なものでしかない、という屈折がつきまとうはずで、それは過去の美術作品を見ることの困難さを示唆してもいるのです。この捉えどころのないもどかしさの一方で、回顧的な展示であっても必ずそこに何か新たな発見があるのだろう、という期待感も入り混じってきて、複雑な気持ちになります。この本の結びの文章は、そのような難しさを表明しています。
アルテ・ポーヴェラとは何だったのか。この問いには、つねにジレンマがつきまとう。このジレンマは、第五章で論じたように、今日のわれわれが眼にするものと、過去にあった時とで、作品の経験自体が大きく変化しているという可能性に由来しているだろう。アルテ・ポーヴェラは同時代的にしか存在しない―とすれば、やはりそもそも、この芸術について論じることは不可能なのだろうか。だが、ナポリのドンナレジーナ聖堂で回顧展を見た批評家のマンジーニが、それらの作品を通じて「半分埃にまみれたような何かを発見し」た感覚、68年当時に感じられたに違いない感覚を得たことを思い出しておきたい。それは、たとえ過去の経験とはまったく違うものでしかありえないとしても、彼らの作品が持つ力なのではないだろうか。
(『アルテ・ポーヴェラ』「結論」池野絢子著)
この結びの文章には、ひとつの芸術運動を捉えて、それについて語ることの割り切れなさを感じます。しかしその一方で、「アルテ・ポーヴェラ」という芸術運動が厳然と記憶に残っている、という事実があります。そして、そのことには必ず理由があるはずで、この本を読む限りその理由は複合的で、さまざまな解釈が可能です。言い方を変えれば、そこにはまだまだこれからの美術にかかわるような可能性があるのだ、ということです。
最後に、この『アルテ・ポーヴェラ』という本の論点から外れてしまうかもしれませんが、ふたつだけ思ったことを書いておきます。ひとつは、チェラントがはじめに「アルテ・ポーヴェラ」を規定した時の「一義性」の問題です。例えばクネリスの作品が「火」という存在と向き合うための装置のようなものだとしたら、その先にどのような批評が開かれていくのか、興味があります。「火」が「火」でしかないような作品と対面した時に、人は何を語ることができるのか、それはとても深い課題で、ある意味で哲学的な問題でもあると思います。
もうひとつは、「アルテ・ポーヴェラ」と古典との結びつきについて、それがイタリア的な特質と関連している、と感じられて点についてです。美術の話から離れますが、私は昔、須賀敦子(1929 - 1998)の本を読んだときにイタリアの「カトリック左派運動」というものを初めて知りました。カトリックという信仰が左派のリベラルな思考と結びつくことは、なにもイタリアに限ったことではないようですが、須賀敦子という知的な女性がイタリアにおける「カトリック左派運動」に魅かれていったのには、何か理由があったのだろうと思います。彼女の魅力的な著書が、とりわけ『コルシア書店の仲間たち』という著書においてですが、その運動には何か引力のようなものがあったことを感じます。しかし、須賀のエッセイからは、その思想の理論的な核心部分を知ることはできません。イタリアでの日常を書き留めたエッセイですから、当たり前の話ですが・・・。それが今回、『アルテ・ポーヴェラ』を読んでいると、イタリアの知的な人たちの動き方というのは、こういう感じなのかな、とふと思いました。須賀の書いた物語のようなエッセイと、この『アルテ・ポーヴェラ』の学究的な論文は書物として相反するものですが、古い伝統とリベラルな思考とが渦巻くようなイタリアの独特の風土を共通して感じられて、その点でも面白かったです。年代的にはコルシカ書店が閉鎖するころにアルテ・ポーヴェラ運動が始まったので、少し前後する感じですね。そしてイタリアと言えば、まったくタイプは異なりますが、古典とリベラルが妙に混淆したモランディ(Giorgio Morandi, 1890 - 1964)という不思議な画家もいましたね。知的だけれども少し土臭い、そんな感じが共通している気がします。
最後の最後に、この『アルテ・ポーヴェラ』という本ですが、私たちが「アルテ・ポーヴェラ」という芸術運動について考えるときに、その原典となるような本であることは間違いありません。これ以上、この複雑な芸術運動について正確に記述することは、おそらく不可能だと思いますし、これからも繰り返し参照することになるでしょう。その学問的な力に感服です。
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